人さらい
「あ……ありがとう、乗せてくれて」
走る人力車の揺れを背中に感じながら、小如は宋櫻霞と名乗った少女に礼を言った。打狗についたはいいが一銭の所持金もなく、花園露天市まで歩いて行くのはほぼ不可能とわかって心が折れかけた小如にとっては、櫻霞が人力車に乗せてくれたのは渡りに船だった。
「別に……ついでよ。ただ行く方向が一緒だっただけだし」
小如の隣に座っている櫻霞は表情を崩さずにつぶやくと、小如のほうを振り返ることもなく、ただ走り去る景色を眺めている。飄々としているがなかなかの世渡り上手のようで、女の子二人だったら体重も軽いから、と人力車の車夫にねばって交渉して、ついに料金を負けさせたのだった。
「嬢ちゃん。俺たちのことも、ちったぁねぎらってくれよ。一人ぶんの料金で二人乗せるなんて。これ以上ない出血大奉仕なんだぜ?」
人力車を引っ張る車夫が不満そうに言って振り返る。
「あ、ご、ごめんなさい!……本当にありがとうございます」
「ははは、冗談だよ、冗談」
櫻霞が交渉した車夫の二人組は、ひとりが人力車を引っ張って走り、ひとりがすぐ横を並走している。二人乗りの大型人力車だから、おそらく適当なところで交代するのだろう。
小如はひとりで電車に乗ったことが今日までなかったが、人力車も今日、人生ではじめて乗っているのだった。走る乗り物の爽快な風を感じながら、彼女は自分の冒険が順調にいっていることを無邪気に喜んでいた。
「ねぇ、櫻霞のうちはどこなの? あの中洲って駅の近く?」
小如は思い切って櫻霞にたずねてみた。櫻霞は人付き合いがあまり好きではなさそうだったが、人力車に乗せてくれたのだから、少し気持ちがほぐれてきたのかもしれないと思ったのだ。
「決まったうちは無いわ。美麗島じゅうをあちこち旅してるから」
意外な答えが返ってきて、小如は一気に興味をそそられた。
「えっ……旅? 何それ、どうして?」
「何って……食べていくためよ」
「食べていくって……学校は行ってないの? お父さんやお母さんは?」
「いないわ。だいぶ昔に死んだ」
「……ひとりで旅してるの?」
「ひとりの時も、あるわ」
「なんで纏足しなかったの?」
「……昔は、されてたのよ」
「まさか途中でほどいたの? よく周りの人が許してくれたね」
櫻霞はそこで黙り込んでしまった。
「あ……ご、ごめん、つい……」
小如は矢継ぎ早に質問ぜめにしてしまったことを反省した。
櫻霞はやがて振り返ると小如にたずねた。
「私もあなたに訊きたいことがある」
「な……何?」
「歳いくつ?」
「十三」
「数え歳で?」
「うん、そうよ。櫻霞は? 私と同じくらいだよね?」
「……そうね」
そこで話は途切れた。櫻霞がなぜ出し抜けに歳をたずねてきたのかわからなかったが、あまり余計な話をすると黙る性質の人物だということが、なんとなく小如にもわかってきた。
ならば余計なことは抜きにして、彼女と仲良くなるための一番肝心な本題を話すべきだった。
小如は通学カバンの中から「美南第二公学校 入学ノススメ」と書かれた学校案内のビラを取り出すと、櫻霞に差し出した。
「ねぇ櫻霞、今度さ、わたしの公学校に遊びに来ない?」
「公学校?」
「うん、美南にある美南第二公学校よ。いま女の子があんまり学校に来てなくってさ、ちょっぴりさみしいんだ。でも櫻霞が来てくれたら、きっとすごい人気者になるよ? 駅の月台をかるがる飛び越えたり、あんなにすごい速さで走ったりなんて、きっと運動自慢の男の子でもかなわないもの」
櫻霞は入学案内のビラを受け取った。
だがとくに返事はせずに、ただ景色を見ている。小如はもうひと押ししてみようと説得した。
「うちの学校ってね、申請すれば学区外通学もできるのよ。櫻霞は島中を旅してるっていうから、どのくらい美南や打狗にいるかわからないけど、期間限定でも来れるし、きっと楽しいよ。それに学校に行けば日本語を使わなきゃいけないから、あっという間に日本人と日本語で話せるようになるよ。私だって、実はこれでもペラペラなのよ」
「ねぇ、ちょっと道が違わない? あの道をまっすぐ行ったほうが速いでしょ」
櫻霞はようやく口を開いたが、小如ではなく人力車の車夫に話しかけていた。
人力車を引っ張っている車夫が振り返って答える。
「いや、あの道は今朝通ったときぬかるんでてね。間違っても女の子を泥で汚しちゃいけねぇってんで、迂回しただけさ」
人力車と並走している車夫も、合いの手を入れてくる。
「余計な心配しねぇで、俺達に任せときな。裏道はちゃんと知ってるからよぉ」
小如はそのとき、車夫ふたりが顔を見合わせて、目配せしたかのような素振りを見た。
もともと彼らのような若い男に慣れていないせいもあり、その仕草がどこか少しだけ不安になった。
もっとも櫻霞が一緒にいるので、その不安はだいぶ和らげることができてはいた。
車はやがて人通りの多い通りを外れて、細い裏路地に入った。
道の両端を白い土塀が囲んでいる。潮の匂いがかすかにした。どうやら、海ぎわの倉庫地帯らしい。
打狗の駅から海は近い。打狗港が徒歩で行ける場所にあり、その周りには哨船頭街という街が形成されている。
さらにその先には旗後という埋立ての半島があり、美麗島の海運業の拠点となっていた。
薄暗い倉庫街の小路に、小石を蹴飛ばして走る人力車の車輪の音が、妙にかん高く響いて聞こえるのが小如には不気味だった。
『気をつけて。こいつら、ちょっと変だ』
櫻霞が突然、小如に向かってそう警告した。
小如は驚いたが、それは警告に対してではなく、櫻霞が流暢な日本語をしゃべったことだった。
『櫻霞、日本語話せるの?』
何か良くない雰囲気を察し、小如もとっさに日本語で答える。
車夫たちはどうやら美麗語しかわからないらしく、小如と櫻霞の会話に特段反応をしめしてはこない。
櫻霞はそのことを確認すると、小如の方に向き直った。
『こっちは打狗港だ。花園露天市とは方向が違う』
『どういうこと? なんでこの人達、違うところに?』
『面倒なことに巻き込まれたかもしれないってことよ。とにかく、いつでも自分で逃げられるようにしておいて。私はあなたの命まで責任は持てない』
『逃げるって……』
そんなことを言われても、この足ではまともに走ることもできない。
小如の小さな胸が、張り裂けそうな緊張と不安でいっぱいになる。
いったい何が起きようとしているのだろうか。
やがて人力車は、三方を倉庫が取り囲む袋小路に入って止まった。
そのまま車夫ふたりは逃げ道をふさぐように立ちはだかる。
「おい、降りな」
車夫のひとりが、小如と櫻霞に向かってどすの効いた声で言った。先ほどのお調子者の口調とはまったく違う態度だった。
櫻霞は座ったまま車夫を睨みつける。
「どういうつもり? まさか今さら、一人ぶんのお金じゃ足りないっていうんじゃないでしょうね」
「ごたくはいいから降りろって言ってんだ」
櫻霞はすっと立ち上がり、人力車を降りた。
『今はこいつらの言う通りにして』
と櫻霞は小如に降りるよう促す。
ところが小如は、恐怖で足がガタガタと震え、立ち上がることもできない。
「早くしろ、小娘!」
車夫に怒鳴りつけられ、ひっ、と小さく叫んで小如は立ち上がり、車から降りた。
だが足を地に着けたとき、バランスをくずしてしまい、もつれて倒れた。
「ちっ、起きろや、オラ」
車夫に腕を乱暴につかまれて、小如は起こされた。そのまま後ろに手をひねられ、逃げられないようにされてしまう。
「私たちをどうするつもり?」
「それは、これからお前らを買ってくださるご主人様が決めることだ」
車夫がそう言うなり、四人ほどの男たちが倉庫の扉を開けて出てきた。
みな一見、港湾地帯によくいる沖仲仕のような格好をしているが、よく見れば人相が気質ではないのがひと目見てわかる風貌だった。
男たちの一人が車夫に話しかける。
「何だ、誰かと思ったらお前らか」
「へへ、ご無沙汰しております。今日は二人ばかり品物を持ってきたんです」
「ほぉ、中々悪くないな。そっちのチビは十二、三歳ってところか」
「いい足してんじゃねぇか、そそるぜ。でもこっちは天然足か。売れるかなぁ」
「越南か泰の客なら大丈夫だろ。お前みたいな纏足好きの変態はいねぇからな」
男達が下卑た笑いを響かせた。小如は目に涙を浮かべており、ただ震えていることしかできない。
だが櫻霞はこんな状況下でも、男たちをにらむように見据えていた。
「お前たちはこれから、売られる」
首領格と見られる男が言った。
「普通の人生を送ることは、ここですっぱり諦めろ。お前らは二度と親のもとへ帰ることはないし、浮世暮らしをすることもできない。だが、ひとつだけ選ばせてやることはできる。一生、奴隷としてこき使われる道か、それが嫌なら、買い取られた客の慰みものになるか」
「なあ、大足女。お前はどっちがいい? 裸にひん剥いて、その生意気な目つきを泣き顔にしてやろうか」
男の一人が、にやにやしながら櫻霞に聞いた。
小如は櫻霞が今にも殴られるのではないかと思い、張り詰めた表情でその様子を見つめている。
だが櫻霞の答えは、小如の予想だにしないものだった。
「私は売れないわ。その子だけ持っていって」