天然足、駆ける
九時三六分発、打狗ゆきの汽車に無事、小如は乗ることができた。
美慧からもらった自由乗車きっぷで乗れるのは自由席の三等列車のみらしく、はじめうっかり指定席の二等列車に座ったら追い出された。何とか三等の座席を確保することができた小如は、通学カバンからアルミの水筒を出して水を飲んだ。
家から美南駅まで三十分の道のりを歩いてきただけで、すでに背中は汗ばみ、纏足靴の中の足は、まだ痛みが治まらない。
打狗についたのち、花園露天市までどれほどの距離があるのかわからないが、再び歩ける確信もなかった。だが、この程度の疲れと痛みは、冒険に胸踊る高揚感に比べれば何ともなかった。
私は今、ひとりで汽車に乗り、打狗へ向かっているーー。
すでに汽車は美南の市街を抜け、のどかな田園地帯に入っていた。
空はどこまでも青く快晴であり、走る列車の窓から心地よい風が吹いてきた。亜熱帯の南国を走る列車の窓は、ほとんどすべてが開け放たれている。
小如はしばし車窓にもたれかかり、田園の稲穂が揺れる景色と、風を楽しんだ。
二十分ほど走ったころ、汽車は中洲という駅に到着した。
特に何もない田舎の駅のようだったが、乗ってくる人が多く、車内が混雑し始めた。
近くに美しい川や滝つぼがあり、近年、日本政府公認の景勝地と認められてから、来る人が増えたのだと、相席になった男が小如に教えてくれた。
美南からたった二駅のところなのに、小如はまったくそんなことを知らなかった。
またこのあたりはサトウキビの一大産地らしく、月台の中にキビ汁を売り歩く商人が入ってきて、さかんに声を張り上げていた。
すぐに出発時間になった。
蒸気機関が大きく水蒸気を噴出する音が先頭車から聞こえ、今まさに走り出そうとする時だった。
小如は、ちょうどそのとき改札をくぐったばかりの人影を月台の向こうに見た。
髪が肩まである。それに身長と肩幅の広さからすると、女のようである。
(女の子だ、私と同じくらいの)
と小如は思った。十三、四歳の少女の背格好は見慣れているから、遠目からでもすぐにわかる。
「ありゃあ、あの子乗り遅れちゃったね」
同じように窓の外を見ていた相席の男がつぶやいた。
少女は、出発しようとする列車に気づいたようだった。
彼女と汽車の距離はだいぶ遠い。ちょうど間に反対車線の線路と月台が立ちはだかっており、こちら側まで来るには、月台の端にある立橋を渡ってそれらを越えてこなければならない。
今からこの列車に乗り込むのは、まず不可能だった。
(ひとりだろうか?)
だとしたら、私と同じだ。
当事者の自分から見ても、この年頃の女の子が一人で汽車に乗ってくるのは珍しかったので、小如は、なんとなく気になって、電車に乗り遅れたその少女を眺めていた。
汽笛が鳴り、列車の車輪が重たい金属音をきしませて回りだした。
「あっ!」
小如は思わず声を上げた。
少女が突如、走り出した汽車に向けて垂直方向に駆け出したのである。
相席の男もそれに気づき、驚いて目を見張った。
「あの子、まさか乗る気かよ?」
そう言い終わるか否かのうちに、少女は月台の切っ先まで駆けきると、片足をふんばり、胸をのけ反らせて空へと飛び上がった。
ダイナミックな跳躍は、あざやかな弧をえがいて反対車線の線路をかるがると飛び越え、少女はこちら側の月台へと着地した。
"飛んだ!?"
小如は度肝を抜かれた。信じられない跳躍力である。
月台と月台の幅は八尺(約二メートル四〇センチ)以上はあるはずだった。
少女はそのまま走る軌道を修正し、今度は列車と水平に駆け始めた。
すでに列車はかなりのスピードをつけ始めている。
だが少女は諦めようとしなかった。むしろ手を大きく前後に振り、さらに足を大きく前に出して加速しようとしている。
その走りは今日の陸上で言う、ストライド走法に近いものだ。
すでに多くの乗客が少女の存在に気づき始め、車窓からその様子を見ていた。
口々に、がんばれ、行け、などと声援を送っているものもいる。
少女は列車と並行して走りながら距離を詰め、小如の乗る車窓に近づいてきた。
小如はそれを見て、なぜか言いようのない興奮が突き上げてきて、思わず少女の足に目をやった。
むろん、それは天然足だった。
おそらく二〇センチ以上、小如の二倍はあるだろう足裏で、着地の衝撃を受け止め、またばねのように地を蹴って全身を飛ばせていた。
日に灼けた腕や顔、しなやかに瑞々しく動く全身の筋肉。
その美しさに小如は目を奪われていた。
日本人の女をのぞき、女という女がみな纏足を施されているこの美麗島において、全力で飛んだり走ったりする女というものは、小如にとって、はじめて見る衝撃の光景であった。
将来の生活の安寧や男の庇護と引き換えに、美麗島の女が失ってしまった生命の躍動というものを、いま小如の横を駆ける少女は持っていた。
少女はわずかに速度を緩め、車両の出入口まで身体が来るように調整した。
すでに幾人かの野次馬が、少女を助けようとして出入口から手を差し伸ばしている。
少女は、やっ、と叫んで汽車に飛び乗り、差し出された手を掴むと、そのまま車内にもつれ込んだ。
とたんに列車のそこら中で喝采があがった。
少女が飛び乗ったのは、小如のいる車両の後方にある出入口だった。
やがて、すごいな君は、感動したよ、などと野次馬に褒めそやされながら、少女が車内に入ってきた。
車両の両端の乗客が口々に、さぁここに座れ、と少女を誘い、さぁこれを食え、と土鳳梨の切り身やら花生酥(ピーナツ飴)やらを次々に差し出した。
少女は肩で息をしながらも、特に表情を変えることなく、淡々と乗客に誘われたひと席に座った。
ただ全力で走っただけで、この天然足の少女は一気に車内の人気者になってしまっていた。
小如は、自分の席から少し離れたところに座って、乗客のにぎやかな接待を受けている少女のほうをじっと見ていた。
見るからに同じ年頃で、自分とはまるで違う彼女のことが気になった。
一体どこから来たのだろう?
中洲駅で乗ってきたのは、そこに住んでいるのか、それともただの観光だったのか。
学校には通っているのだろうか?
できることなら、近づいていって話してみたかった。
だが、今は車内が少女の活躍に沸き立っており、とても恥ずかしくてその中に割り込んでなどいけなかった。
(車内が落ち着いたら、話しかけに行こう)
と小如は思った。
もし同じ年齢で美麗人だったなら、彼女を公学校に誘いたかった。
縦貫鉄道沿いに住んでいるのなら、多少遠くたって汽車通学ができるし、彼女は天然足のうえにあの体力だから、どこまでだって歩いてこれるだろう。
それから小如は、車内が落ち着いてからも、ちらちらと天然足の少女の様子を伺ってばかりいた。
どうしても恥ずかしさが先に立ち、なかなか話しかけることができなかったのである。
そうこうしているうちに汽車は、岡山、橋子頭、楠梓、旧城、といった駅を次々と通過し、ついに十時四十五分、打狗についてしまった。