新婦仔(シンプア)
「呉先生」
小如は候賢の手を握りながら、心持ち静かにあぜ道を歩いてくれている彼を見上げて呼んだ。
「今日は、あんまり学校に来てくれそうなおうちはなかったね」
「仕方ないよ、多天川さん。今の農村はどこも掻き入れ時だからね」
振り返って候賢は、小如の日本名を呼んだ。
劉小如は「多天川小桃」という日本式の名を持っている。公学校の中では、本名ではなく日本名を使っていた。
大日本帝国政府は美麗人に日本名への改姓を奨励し、改姓した者へのさまざまな優遇政策を取っているため、相当な数の美麗人が日本名で戸籍に登録しているか、あるいは正式に改姓しないまでも、通り名としての日本名を持っていた。
ちなみに呉候賢は、姓をそのまま日本式の発音にして呉賢太郎と名乗っていた。
「まぁ、今後も何度か通って、もう少し説得してみるさ」
候賢は、小如のやる気を削ぐまいと前向きなことを言って励ました。
この時代、美麗島の支配者である大日本帝国にとって、美麗人の就学率の向上は喫緊の命題であった。植民地開発の柱である「国民皆学」を実現するため、帝国政府は現在の小学校にあたる初等教育機関、「公学校」を島内中に設立した。
公学校はおもに、内地から渡ってきた日本人の子弟が通う第一公学校と、小如のような美麗人の子供が通う第二公学校に分かれている。
とくに第二公学校では、美麗人の子供をどうにかして学校へ通わせようという誘致活動が、島を挙げて取り組まれていた。
第二公学校の教諭は週末になると呉候賢のように、未就学児童のいる家々を精力的に周り、初等教育のいかに重要たるかを説き、あの手この手で入学を誘った。
今日、候賢が生徒である小如を連れて回っているのは、男子よりも数段、取り込みがむずかしい女子の気を引くための、候賢のアイデアである。
同じ年頃の女子が学校にいると分かれば、親も安心だろうし、娘にとっても通い続ける動機になりうるからだ。
この時代、美麗人の女子は無学が当然であり、親も女子への教育に理解がない。
子供を学校に通わせたくても金銭的余裕のない家庭がほとんどであり、もしある家庭に男子と女子があらば、まず男子を通学させることが優先された。
仮に女子を入学させることに成功したとしても、家業が忙しくなればその手伝いに回されて、すぐ学校に来なくなった。そのため、今日のように何件と家々を回っても、一人の女子生徒の獲得もできないことなどざらにあったのである。
「ああ、今日はさすがにくたびれたな」
候賢が大きく伸びをする。
「じゃあ、今日はもう終わりにする?」
小如の問いに、候賢は晴れやかな顔で答えた。
「ああ、もううちに帰ろう。ほら」
候賢は道端にしゃがむと、小如に背中を見せて両手を後ろに差し出した。
小如がその背中に抱きつくと、候賢は彼女をおぶったまま立ち上がり、再びあぜ道を歩き出した。
纏足のためにあまり長く歩けない小如は、遠出をするときはこのように候賢の背中を借りるのである。
亜熱帯である美麗島の午後の日差しはきつく、11月になっても気温は真夏と大して変わらなかった。
候賢の背中がしだいに熱を帯び、生あたたかい体温が立ちのぼってくるのを、小如は心地よい揺れとともに感じていた。
「……もう、"お兄ちゃん"でいい?」
小如は周囲に目を配りつつ、候賢の横顔をのぞいた。
あたり一面に田園の広がる農村は、遠くの田んぼに人影がぽつりぽつりと見えるだけだった。
候賢は優しい笑みをたたえたまま答える。
「家に帰るまでは先生と呼びなさい、多天川さん。誰が見ているかわからないよ」
「誰もいないし、見てないよぉ」
お兄ちゃんをお兄ちゃんって呼んで何が悪いの、と小如は心の中で毒づく。
とはいえ、この二人は実の兄妹ではない。
劉小如は、呉候賢の"新婦仔"である。
新婦仔とは、将来の結婚相手となる娘をまだ幼いうちに婿の家で買い取り、妙齢になるまで養育してから結婚させるという、美麗島独自の制度である。
つまり小如と候賢は将来、結婚を約束した関係にあった。
大体の場合は、産んだ子供をすべて育てる余裕のない家庭が、男子だけを家に残して女子を新婦仔として養子に出してしまうのが一般的である。
小如も例外なくそのような家庭に生まれたらしく、生後二か月で新婦仔として呉家に買い取られたのだと、養母から聞いて知っている。
候賢とはそれから十三年の間、まるで兄妹のようにして育った。この六歳年上の許嫁の、良いところも悪いところも知りすぎている。
だから小如は候賢と結婚するといっても、十六か十七になった頃にそうなるのかなぁ、という漠然とした想いがあるだけだ。
新婦仔という制度の厄介なところは、互いに異性としての魅力を感じにくくなることであった。
候賢は候賢で、どこまでも兄のような振る舞いしかこれまで小如に見せてはこなかったし、ことし師範学校を卒業して、小如の通う美南第二公学校の教員として着任しても、その態度は変わらなかった。
ただ、教え子が自分の新婦仔であることを大っぴらにするわけにはいかず、以来そのあたりの線引きを少し意識しているようではあった。
「お兄ちゃん、あしたも勧誘に行く?」
「あしたは日曜日だよ、小如」
呼び方を改めない小如に、候賢は早くも諦めたように言った。
「あっ、そっか、忘れてた! じゃあ、お兄ちゃんもお休みだね」
小如はとぼけた。じつは明日が日曜であることなど忘れてはいないのだ。それは次のひと言を言うための布石だった。
「せっかくのお休みだったらさ、あしたさ……どこかに出かけない?」
言いながら小如はつばを飲んだ。これもまた、どこに出かけたいかはすでに決まっているのだった。
「どこに?」と候賢が訊き返してくれるのが、小如の待ちかまえている理想の流れだった。
だが候賢は小如の期待通りには答えなかった。
「出かける?」
そう言って、少し怪訝そうに眉を寄せた候賢の顔を見て、小如は軽い落胆を覚えた。この先はきっと芳しくない答えが待っているであろう顔だった。
「まず……母さんに頼んでみないとな」
「母さんはダメっていうに決まってるよ」
小如はすかさず噛み付いた。養母は特に新婦仔である小如を大事に育ててきたが、大事にするあまり過保護なきらいがあった。小如は養母の厳命で、学校以外の場所への寄り道や外出をいっさい禁止されていた。
友達と遊ぶこともめったに許されなかった。そのせいで学校のない日曜日は、さして広くもない家の中で、本を呼んだり勉強したりして過ごすより仕用がなかった。
もともとこの時代の美麗人の女はすべからく纏足されているため、外出する機会はそもそも少なかったが、それに輪をかけての養母の過保護である。
おかげで小如は生まれてこのかた、美南市から一歩も外に出たことがない。自分の家と公学校への通学路以外の世界をほとんど知らなかった。
候賢にくっついて学校への誘致活動をしているのも、実は小如がそうさせてくれと頼みこんだからであり、むろん女の子の友達を増やしたいという気持ちもあったが、一方でせめて少しでも遠くに出かけたいという思いがそれ以上にあったのである。
「だからさ、お兄ちゃんからお母さんにお願いしてほしいの。お兄ちゃんも一緒に行くんだったらきっと母さんも許してくれるでしょ」
「一体、どこに行きたいんだい」
ようやく候賢はそう訊いた。いつもの彼の優しい笑みが少し陰っていることに、小如は少しの怯えを感じながら答えた。
「花園露天市」
それを訊いた途端、候賢の顔から笑みは完全に消えた。
「花園露天市って、打狗のか?」
小如はこくりとうなずく。祈るような気持ちで声を絞り出した。
「前からずっと行きたいと思ってたの。お願い、お兄ちゃんからお母さんに頼んで!」
「あんなのは……子供の行くところじゃないぞ」
「うそ! 学校で美慧も佳媛もみんな花園露天市に行ったって言ってたよ。みんな家族と一緒に行って、お遊戯したり、冬瓜飴食べたりして、すごく楽しかったって。私も行きたいの。露天市や打狗がどんなところか知りたいの。お兄ちゃんと一緒だけじゃだめなんだったら、お母さんも一緒に行けばいいよ。お願い、お兄ちゃんから頼んで!」
候賢は困ったような口調で小如をたしなめた。
「小如。よそはよそ。うちはうちだ」
「それずるいよ。お兄ちゃん」
「ずるい?」
「だってお兄ちゃんは公学校のときも中学のときも、毎日友達と遊びに出かけてたじゃない! 汽車に乗って打狗まで行ってたこともあったよ? お兄ちゃんはどこに出かけても、ちょっと夜遅めに帰ってきてもお母さん、何も言わなかった。何でお兄ちゃんはよくて、私は遊びに出かけちゃダメなの? なんで日曜日も家の中でおとなしくしてなくちゃいけないの?」
「小如、それは、母さんが小如のことを大事に思っているから……」
「それ、もう聞き飽きた! 下ろして!」
「え?」
「いいから下ろして!」
仕方がなく候賢は道端にしゃがんだ。小如はその背から降りると、ぷいとそっぽを向いて早足で歩き出した。とはいえ纏足であるから、今にもよろけて転びそうな、あぶなげな歩きである。
「小如、待ちなさい」
と候賢が後から追いかけたとき、
「あっ」
と小如が叫んだ。あぜ道の大きな石ころを、小さな足で踏んで、バランスを崩したのである。
とっさに候賢は手を伸ばし、小如の腕を掴んで引っ張り上げ、その両腕に小さな身体を抱きかかえる。
「危ない危ない」
小如は候賢の腕の中で、慣れた手つきで元の体勢に戻された。
怒りと情けなさ、少しばかりの気まずさと、恥ずかしさのあまり、小如の目頭は熱くなった。
熱を持った涙がひと筋、頬を伝うのを感じたが、泣き声は決してあげまいと、歯を食いしばった。
「泣かないで。小如」
「泣いてない」
それから家に帰るまでの十五分の道のりを、小如は候賢と目を合わせずにそっぽを向いたまま歩き続けた。刈り時を迎えた蓬莱米の稲穂が、南国の生暖かい風に揺れていた。