踊り子と殺人鬼
雑技団の公演が、まる一日休演となった。
理由は朝から大雨が降ったからである。雑技団は孔子廟の前庭広場、つまり露天で芸を披露しているため、雨が降れば公演はできない。
もっとも美麗島はにわか雨が多いため、通常は雨が止むことを見越して待機し、止んだ後に公演をする。しかしこの日に限っては、しばらく休みを取っていない、という苦情が団員の間から口々に出たため、団長が渋々押し切られるような形で休演を発表したのだった。
発表されたのは丁度みなで朝餉を取っているときであり、その途端に団員たちは両手を挙げて喝采した。みな口々に、汽車で岡山駅にある温泉に行こうだとか、旗後町に行って刺身を食べようなどと話して盛り上がった。
小如は女団員達から湊町での洋服や雑貨の買物に誘われたが、断った。
このとき彼女の頭を支配していたのは、ただ一つの考えである。
(美南に戻らなくちゃ……!)
いまや元の面影をあとかたも残さずに櫻霞という別人に変身させられてしまった小如だが、それでもどうにかして、自分の養家である呉家に、自分の存命を知らせたいという思いがあった。
今ごろ許嫁の呉候賢や養母は、突如行方不明になってしまった大事な新婦仔の無事を願い、心を痛めているか、必死になってその行方を探しているに違いないからだ。
昨夜方法をいろいろ考えたが、手紙を渡す、という方法が最良であるように思えた。
直接会って無事を伝えることはできない。打狗駅で候賢から逃げたときのように、小如の行方を何かしら知っていると思われて、警察を呼ばれる危険があるからだ。
しかし手紙もまた、馬鹿正直に郵便を使ったのでは、消印から打狗近辺で出したのがわかってしまい、足取りを追われてしまうかもしれない。
そこで、美南に直接戻って、呉家か学校に手紙を置いてくるのなら良いのではないかと小如は考えていた。
まさか変身させられたことを書くわけにはいくまいが、とにかく幾度も念を押して無事であることを伝えれば、多少は養母や候賢の心が楽になるのではと思ったのだ。
小如は早速、美南行きの汽車に乗るために孔子廟を離れて打狗駅に向かった。
行く途中、花園露天市で鉛筆と封筒と粗末な紙、それらを入れるカバンを買い求めた。汽車の中で、養母と呉候賢への手紙を書くつもりだった。
小如が昨夜、雑技団で支給された日当は五十銭。文房具を買う金に加えて、美南までの汽車賃を含めても十分余裕があった。
カバンを肩にかけると、小如は雨の中、走り出した。打狗駅までの二十分ほどの道のりを駆けていこうというのである。
風を切って駆けることは、奇妙な快感を小如にもたらした。
つい昨日まで彼女は三十分と歩き続けられない纏足の少女であり、このように移動することなど、一生かなわないことだった。
別人に変身した代償と引き換えに得た、驚異的な身体能力と、足の自由。自分の足でどこへでも行ける、喜び。
しかしそれは今の小如にとっては、もし変身が解かれて元通りの生活に戻れるのなら、たとえ纏足でもかまわない、と思うほどの、小さな喜びに過ぎなかった。
打狗駅に着いたあと、汽車賃を払って月台に入り、汽車を待っていると、周りを待って行き交う人々がチラチラと、小如のことを見ている。一体なんだろうと思っていると、
(あっ、しまった……!)
重大な失態に気づいた。
水色の短いへそ出しの上着と、短い腰布を巻いただけの舞台衣装で来てしまったのである。
そもそも小如は昨日の朝からずっとこの衣装で過ごしていた。
なぜかというと、唯一の持ち服であったセーラー服を燃やしてしまい、たんに着替える服がなかったからだった。
新しい服を買うには持ち金が足りなかった。この時代、安い既製服は流通しておらず、服は布から買って仕立てるものである。
美麗島は常夏の島だから、そんな露出の高い恰好でも風邪を引くことはないし、生活する場所も雑技団の天幕周辺だけだったため、衣装で過ごしていても別に良かったのだが、駅までくれば話はべつである。
(ちょっと恥ずかしいけど……仕方ないや……)
きのう一日で観客の視線に晒されることに慣れた小如は存外に図太く割り切って、黒煙を吐きながらやってきた、美南方面ゆきの蒸気機関車に乗りこんだ。
汽車はすぐに発車した。
小如は三等列車に腰掛け、鉛筆と紙を取り出して、早速、候賢と養母に無事を知らせる文章を書き始めた。
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小如の座席から、後方に数列離れた座席に、長い外套を羽織った若い男がふたり、座っている。
一人は中背の、まだ顔に幼さを残した青年、もうひとりは肩や腕が異様に盛り上がった大柄の、目つきの鋭い男である。
車窓の風が吹き込むたび、彼らの外套のすき間から、軍服がちらちらと見える。
通路をはさんで隣の席には、老夫婦がひと組座っていた。
この夫婦は軍人を大切にするというこの国の精神に則り、駅で買ったお茶と土芒果の切り身を取り出して、軍人たちにそれを勧めた。
「軍人さん達、ひとつどうかね」
「いや、俺達はこれで結構」
軍人ふたりが、外套の中から右手を出した。手袋をした彼らのその手には、ラムネ瓶が握られている。
そして二人はおもむろに左手でラムネの玊を中に落とすと、がぶがぶと飲み始めた。
「飲みっぷりいいねぇ」
老夫婦の夫がそう言って褒めたが、ふと彼は、この軍人達の身体から奇妙な物音がすることに気がついた。
腕や肩を動かすたびに何か、歯車を回すような音と、シューシューと瓦斯が漏れるような音がするのだ。
やがて老夫婦の夫は、彼の軍服の裾口から見える手首が、生身の人間のそれではないことに気づいた。
ーー義手?ーー
軍人の正体は、元帝国海軍の蒸気機動兵、一式明智大樹と、二式須藤亥斗である。
須藤はラムネを飲み干すと、空になった瓶を汽車の車窓から放り投げた。
そしてやおら耳に手を当てると、ぶつぶつと何かをつぶやき出した。
須藤の体から、かすかに内蔵モールスの受信音が聞こえる。
「"組織"からか?」
大樹がラムネをちびちびと飲みながらたずねた。
「ああ。俺は美南で汽車を降りる」
と須藤が返す。
「降りた後、"組織"の手先と落ち合って現状を話す。お前はあのガキを引き続き追え」
「どう言い訳する気だ? まだ『丸薬』を手に入れてねぇことをよ」
「あそこのガキの事を話すさ」
須藤はそう言って、座席の背もたれの向こうに見える小如の姿を、鋭い目で見やった。
「少なくともあのガキは『丸薬』の何かに関わっている」
須藤は返答の電信を体の中で打ちながら、小如の着ている踊り子の衣装や、日焼けした腕や足が、ちらちらと座席の影から出入りするのを舐めるように見回した。
「おい、あんまりじろじろ見てんじゃねぇ。気づかれるぞ」
大樹がたしなめたが、須藤はやめない。
(なぶり殺してやりたくなるメスガキだな)
須藤は舌なめずりをした。
かつて軍隊内で十数名の同僚を射殺したという大量殺人鬼の本能を、小如は図らずも刺激しつつあった。