君はだれだ?
ーー女の子にくちびるを奪われた。
ーーなんで? わからない。なんで?
遠くの線路から、汽笛の音が聞こえた。
小如は駅舎の長椅子に腰掛けたまま、どうすることもできずに櫻霞のくちづけを受けている。衝撃のあまり、背中に冷たいものが流れ落ちた。
いったい何秒くらいたったのか、櫻霞がそっと唇を離したとき、小如は幾人かの通行人が眉をひそめて通り過ぎるのに気づき、恥ずかしさで顔を上げられなくなった。
公学校の制服を着た十二、三歳の女子が公共の場で、しかも女同士で堂々接吻しているのは、さぞ理解しがたい光景だったに違いない。
小如はその場を動けず、何も話せず、何も考えられなかった。
とても櫻霞を直視できず、ただうつむいている小如の視界の端に、櫻霞の唇が見えていた。その口が何かを言おうと口を開いた瞬間、小如の心臓がばくんと跳ね上がった。
「ーーごめんなさい」
櫻霞は静かにそう言った。小如には彼女が謝る意味がわからなかった。当然、彼女は突然キスしたことを謝っているのだと思った。
「なんで?……なんで?」
小如はそれだけ言うのがやっとだった。
本当は、はじめから謝るつもりならどうしてそんなことをしたのかと訊きたかったのだが、頭の中が混乱して、まったく言葉にならないのだ。
だが次に櫻霞の口から出た言葉は、さらに小如を混乱させる予想もつかないものだった。
「吐き気はしない?」
「……え?」
「気分が悪くなったりとか、していない?」
「し、してない、してないよ! あ、でも何か、冬瓜飴の残りを飲み込んじゃったみたいで、それがちょっとつっかえたけど……」
「……それは、ちゃんと飲み込めた?」
「え? う……うん……」
的はずれな問いかけをしてくる櫻霞を小如は妙に思ったが、それよりもその場を取り繕うのに必死であった。
しかし、櫻霞が次に発した言葉に、小如はいよいよ追い込まれることになった。
「今日、私たちが出会ったのは、きっと運命だと思う」
「運命……!?」
「そうよ。あなたが今日、打狗に雑技団を観に来ようと思ったのも、私が今日、中洲の駅に川と景色を観に行ったのも、きっとそうだと思うの。だから私はあなたに……」
「ちょっと待って、ちょって待って櫻霞!」
小如は必死で、櫻霞がその先を言おうとするのを食い止めた。
櫻霞が、何か赦されない告白をしようとしているのだと思ったのである。
「私は、ある男の人の新婦仔なの。許嫁がいるのよ、だから櫻霞、こんなことは……良くないわ」
それを聞いた櫻霞は、かすかに悲しい顔を浮かべ、ぽつりとつぶやいた。
「そう……」
「そう、そうよ! だから、私達はずっと友達でいましょ!? 友達!」
だが櫻霞は、悲しげな顔をしたまま、首を横に振った。
「私達はもう、友達でいることはできないわ」
「どうしてもだめ?」
「だめよ。……だって、私はもうすぐいなくなるもの」
「いなくなる……?」
「あなたに、"丸薬"を受け継いだから。私は役目を終えるのよ」
「な、何を受け継いだって?」
小如は、櫻霞が何を言っているのかわからなくなってきた。
だが少なくとも、小如の考えていたこととは違うことを彼女は話しているようだ。
「小如、"丸薬"を飲んでも吐き出さなかったということは、あなたは選ばれた十三歳の女の子ってことよ」
「櫻霞……?」
「あなたは今日から名前も、学校も、許嫁も、何もかもを捨てなくてはならない。あなたの人生を狂わせることはしたくなかった。でも、私はもう限界なの。次の人に"丸薬"を受け継がなくてはならなかった」
櫻霞はそこですっくと立ち上がった。
「もう、行くわ……」
「ま……待って、一体何を言ってるの!?」
小如が立ち上がって後を追いかけようとすると、
「来ないで!」
強い口調で櫻霞は言った。
躊躇して立ち止まった小如に、櫻霞は少し寂しげな顔を向けたあと、こう言い残した。
「さようなら」
櫻霞は踵を返し、駅舎を出ていった。小如のほうを二度と振り返ることはなかった。
小如は、ぺたりと椅子に座り込んだ。そして、今まで起きた出来事の衝撃を、一気に吐き出そうとするかのように、大きなため息をついた。
ーーいったい、今日は何という日だったのか。
はじめて一人で打狗まで出てきただけでも大冒険だというのに、摩訶不思議な天然足の少女に出会い、ともに人攫いに襲われ、あげくの果てに、その女の子に唇を奪われた。
小如が椅子に座ったまま起こった出来事を反芻している間に、時間はまたたく間に過ぎていった。
日が暮れて、駅舎の中はしだいに薄暗くなり、やがて白熱電球が小如の座っている長椅子を灯した。
日が暮れてもまだ駅前の停車場にいる人力車と車夫が、小如にとってはやはり怖かったが、座っている長椅子は駅事務所のすぐそばにあったため、幾分か心細さをやわらげた。何かあればすぐに駆け込めば良い。
それから数時間の間、小如は養母か許嫁の呉候賢が来るのを待ちわびていた。
駅舎にかかっている時計が十九時を回り、さすがに待ち続けるのに疲労を感じた頃である。
ふたたび汽車の汽笛が聞こえ、およそ十両編成の列車が月台に到着するのが見えた。乗客が続々と降り立ち、改札に向かってくる。
(いた……!)
乗客の群れの中に小如は、候賢の姿を認めた。
駆け足で改札に向かってくるので、すぐにわかった。
心配してくれているのだという嬉しい気持ちと、彼を騙してまで外出してきてしまったという罪悪感が、小如の中でないまぜになっていた。
そんなだから、大声を出して彼に向かって手を振ったりするのはためらわれた。
候賢が改札を出たら、彼の元へ駆け寄ろうと考えて、小如は席を立った。
やがて候賢が改札を出てきた。
かなり切迫した様子で、あたりを見回している。
小如は、無言で候賢に手を振りながら近づいていった。
やがて候賢が手を振る小如に気づいたようで、ふたりの視線が合った。
「ごめんなさい、お兄ちゃん……」
小如はか細い声で呼びかけた。
だが候賢は小如からすぐに目をそらすと、また辺りを探すように駅構内をうろつき始めた。
もしかして今のは気づかなかったのか、と小如は思い、
「お兄ちゃん」
ともう一度近づきながら呼びかけた。
が、おそらく確実に聞こえている距離のはずなのに、候賢はそれを無視した。
小如はいぶかしみ、
「お兄ちゃん!」
と精一杯、大きな声を出した。
その時すでに小如は、候賢の目の前に立っていたのである。
候賢が振り返った。小如と再び目が合った。
ごめんね、お兄ちゃん。
小如がもう一度そう言おうとしたとき、候賢の口から思いもよらない言葉が出た。
「ーー君は、だれだ?」




