キスは冬瓜飴の味
小如はただ、固唾を飲んで櫻霞の演舞を見ていた。
櫻霞は、その柔軟な体を余すところなく活かした曲芸体操をしてみせた。空中を自在に飛び跳ねながら、時に玉乗りをしたり、太鼓に合わせて蠱惑的に踊ってみせたりした。
そのはじめの演舞だけで小如は、すっかり櫻霞に魅せられてしまった。
演目はしだいに過激になり、櫻霞は幾重もの火のついた輪の中を、何度も前転や後転をしながらくぐり抜けたり、地上高く掲げられたはしごの上で逆立ちしたりして見せた。
櫻霞の演舞の間は、ほとんど司会が盛り上げるまでもなく、盛大な拍手が絶えず観客席の中から沸き起こっていた。
(すごい……すごい!!)
演舞が終わり、櫻霞がふたたび舞台の中央に戻って軽くお辞儀をしたとき、小如は先ほど人攫いに襲われたことなどすっかり頭から消え去って、惜しみない拍手を舞台上の舞姫へと送っていた。
雑技団の演目は櫻霞が大トリだったようで、司会役の男と幾人かの芸人が、しきりに観客に礼を言っては投げ銭をもらって回っていた。銭集めの役は、やがて小如のそばにもやってきた。
小如はその時になってはじめて、雑技団がただで芸を見せるわけはなく、これで彼らが生活しているのだと気づき、自分が一銭の金も出せないことを恥ずかしく思った。
やがて客の姿もまばらになった頃、芸用の衣装から元の美麗服に着替えた櫻霞が小如に近づいてきた。
櫻霞が演舞のあいだ、始終見せていた可愛らしい笑顔は消え去り、またあの感情のとぼしい顔にもどっていた。
「櫻霞、ありがとう」
小如は心から礼を言った。一度はとんでもない事件に巻き込まれかけたものの、偶然にも彼女が雑技団の主役だったおかげで、この小旅行の目的をひとつ叶えることが出来たのだ。
「……だけどごめん、お金払えなくて……食べていくために美麗島中を旅してるって、雑技団のことだったのね……」
櫻霞はそれには答えずに、端的に用件だけを言った。
「これからどうする? ひとりで露天市を見てまわる?」
「櫻霞は?」
「私は夕方にまた演舞がある」
「そう……そうだよね」
「もし帰るなら雑技団の馬車があるから、それで打狗駅まで送ってあげるけど」
小如は、少し落胆しながらうなずいた。
「面倒かけて、ごめんね……」
櫻霞は馬を取りに廟の奥へ行った。
この櫻霞という少女と友達のような関係になることを、小如はこの時点でほぼ諦めていた。
彼女とは、生活基盤や、ものの価値観や考え方、何もかもが自分とは違うような気がした。
小如の人生経験では理解できないような謎が、櫻霞には多すぎるのだった。
なぜ、雑技団で全島を回りながら暮らすようになったんだろう?
どうして公学校に通っていないのに、あんなに上手な日本語を話せるんだろう?
あの人攫いをやっつけた物凄い拳法を、一体どうして身につけたんだろう?
私には宋櫻霞と名乗ったのに、なぜ雑技団では櫻子という日本名で呼ばれているのだろう? 彼女は美麗人なの? それとも日本人?
考えれば考えるほどもやもやしてくるので、小如は馬車が引っ張られてくるまでの間、廟の前広場に集まっている露店を見てまわった。
その中に、今回の旅の二つめの目的である、冬瓜飴を売っている屋台があった。
冬瓜飴とは、冬瓜の切り身を琥珀色のうすい飴で覆ったもので、美麗島が日本統治時代に入ってから市井で編み出された、比較的あたらしい菓子である。
小如は屋台に近づいた。竹筒に刺さった幾本もの冬瓜飴は、さもおいしそうに小如の目に映ったが、むろん買う金などは持っていない。
だが屋台では試食用の小さな飴を配っており、小如は運良くそれを二本もらうことが出来た。
(やった……!)
小如は無邪気に喜び、一本を口に含んだ。
ぱりっとした薄飴の感触と、冬瓜の心地よい歯ごたえが響く。
甘薯のような香りと甘みが口いっぱいに広がり、小如はたった一口の冬瓜飴に、幸せを噛み締めた。
ほどなく櫻霞が、馬車を廟の入口まで連れて戻ってきた。小如は、馬車の御者と櫻霞にもう一度礼をいってから、車内に乗りこんだ。
「櫻霞、はいこれ」
小如は座席に座るなり、櫻霞にもう一本の冬瓜飴を差し出した。櫻霞は無言でそれを見つめていたが、受け取って飴を口に含んだ。
ぱりぱりと飴を砕く音が馬車の車内に聞こえたが、すぐに静かになった。
打狗駅に着くまでの十数分の間、ふたりはほとんど何も話さず、車内に馬蹄の音だけが聞こえてきた。
「いま十三歳だったよね?」
不意に櫻霞が小如に尋ねた。
「え? うん、そうだけど……どうして?」
なぜ突然、念押しするように歳を訊いてくるのか小如にはよくわからなかったが、櫻霞は、何でもない、とかぶりを振って、また黙ってしまった。
ほどなく馬車が打狗駅に着いた。
小如はこの段になって、自分の外出計画がいよいよ煮詰まったことを悟った。駅に来たはいいが、小如は汽車賃がなく、そのままでは美南に帰ることができないのである。
そこで小如はいよいよ観念し、駅の事務所で電話を借りることにした。
小如の養家である呉家に電話はないが、近所の地主が家に電話線をひいているため、たまに緊急の用があるときに電話を借りていた。
養母か、あるいは許嫁の呉候賢へ素直に事情を話し、打狗まで汽車で迎えに来てもらうように伝言するのだ。
小如は櫻霞と一緒に駅事務所へ行き、電話を借りた。そして電話口に出た地主の細君に、手短に依頼して電話を切った。
すでに日が傾いて夕方になりつつある。
小如は駅舎の中にある長椅子に座って、気長に迎えを待つことにした。
このぶんだと早くとも、迎えに来てもらえるのは日没後になるだろう。
嫁入り前の新婦仔が、そんな夜まで一人で外出することなど、ありえない出来事だ。相応の覚悟をして出てきたものの、きっとこれまでにないほど厳しく叱られるだろうことを、小如は想像して気が重くなった。
「迎えは来そう?」
櫻霞が小如の隣に腰をおろして話しかけてきた。
彼女は夕方にも雑技団の演舞があるというから、打狗駅で小如を馬車から下ろしたら、さっさと帰ってしまうかと思いきや、珍しく今度は付き合ってくれている。
「うん、大丈夫。しばらくは外出禁止になると思うけど」
「そう……でもそれだけで済むならまだいいね」
「でも今日はすごかったなぁ。たった一日で、一年分の良いこと悪いことをいっぺんに経験したみたい……」
いろいろな出来事が起きすぎて、小如は驚き疲れていた。
もう今日はこれ以上、自分の理解の範疇を超える出来事が起きないことを祈った。
「小如」
ふいに櫻霞がそう呼んだ。
小如は、櫻霞にはじめて自分の名前を呼ばれたことに気がつき、はっとして振り向いた。
そのとき、櫻霞の顔は目の前にあり、何かやわらかいものが唇に当たっていた。
櫻霞は、小如の両頬をそっと手で支えて、くちづけをしていた。
ほんのりと甘い冬瓜飴の味がした。
何か小さな固いものが櫻霞の口から押し出され、小如の喉の奥へと流れていった。
小如は、飴の舐め残しを飲み込んだのだと思った。
(何で? どうして?)
そして、またもや小如の頭の中は、わけがわからなくなった。




