可憐なる舞姫
櫻霞は小如を背中におぶって打狗港の倉庫地帯を抜け、哨船頭街の広い通りに出た。そこで今度はまともな人力車を拾うと、二人で花園露天市へと向かった。
どうしてひとりで打狗になんか来てしまったのだろう。
家出なんて、しなければ良かった。
小如は走る人力車の中で、泣き腫らした顔を風にさらしながら、一刻も早く、美南の呉家に帰りたいと思っていた。
もはや花園露天市に行く気力など、とうに無くなっていた。
はじめての一人外出で、人身売買の餌食となりかけたのであるから当然であろう。
だが、行き連れの櫻霞が花園露天市に行くと言っている以上、小如はついていくしかなかった。
あのような恐怖を味わった直後で、櫻霞と別れて打狗の街中にひとり置き去りにされるなど、今の小如に耐えられるはずがなかった。そもそも帰りの汽車賃だって持っていないのだ。
それより小如が信じられないのは櫻霞だった。
あんな目に合いながら、まるで何事もなかったかのように花園露天市に行こうとしている。
そこまでして遊びに行きたいのだろうか。
おまけに櫻霞は人攫いに囲まれたとき、はじめ小如を見捨てようとした。
それでも結果的には救い出してもらったわけだが、今までさほど人に裏切られたことのない小如にとって、それは接したことのない衝撃的な出来事だった。
もっとも櫻霞にしてみれば、たまたま打狗駅で知り合っただけの小如をかばう義理など露ほどもなく、自分の身くらい自分で守れということなのかもしれないが、櫻霞は小如が思っていたよりも、はるかに酷薄で情のうすい少女のように見えた。
「着いた」
櫻霞の声に、小如は顔を上げた。
いつの間にか人力車は、道の両側に露店がひしめき合う大通りに入っていた。
通路は、美南の市街とは比べ物にならないほどの大勢の人出でにぎわっている。
(これが、花園露天市……?)
これほどまでに一箇所に人が集まっているところを、小如は目にしたことがなかった。
はじめは年に一度か何かの大きな祭りの日に当たったのかと勘違いしたが、人力車の車夫が、「今日は人出が少ないね」と言うのを聞いて、ますます驚いた。
ふと、辺りをただよう匂いに気づいて、左右の屋台に目をやった。丁度食べ物屋の集まる通りを通過しているところらしい。
ちまきや肉圓を売る伝統的な美麗島の屋台から、焼き鳥やそば、親子丼などを食べさせる日本式の屋台、大陸風の刀削麺や焼き餅の店まで、ありとあらゆる庶民の食べ物が集結しているようであった。
ちょうど昼時だったが、小如は先ほどの事件のせいか空腹を感じていなかった。
この露店市に来る目的のひとつにしていた冬瓜飴を売る屋台もいくつか彼女は見つけていたが、さほどの感動はわいてこず、早く家に帰りたいとばかり、ずっと思っていた。
食べ物の通りを抜けると、次は被服品の地域だった。
通行人の姿が、女ばかりになった。
色とりどりの服や靴を扱う雑貨商、金銀の髪飾りや指輪をずらりと並べた露店などが並んでいて、道は一気に華やかな雰囲気に変わった。
小如は通りの雰囲気ときらめきに圧倒され、涙と鼻水で汚れた顔を、思わず袖で隠した。
年端もいかぬ美麗服の少女と、セーラー服の学生がふたりで人力車に乗っているのはよく目立ち、通行人の視線を浴びているのに気づいたからである。
「そこの角を曲がって」
車夫が櫻霞の言う通りに、次の角を折れた。
すると巨大な廟が背後に建つ、広い前庭に出た。
ここにも大勢の人がたむろしている。
(たしか孔子廟……)
小如は廟の名前を思い出した。
もともと花園露天市とは、この孔子廟にお参りに来る参詣客をねらって、少しずつその周りに屋台が集まり出したのが起源である。
小如の花園露天市に来るもう一つの目的であった雑技団も、ちょうどこの広場で巡業をやっているのだと、学校の友達の美慧から聞いて知っていた。
よく見ると、広場にいる何百人という人だかりの視線はみな、ひとつの方向を向いていた。
その視線の向こうに目をやると、廟の前庭広場の真ん中に白墨で線が引かれ、空間が区切られている。
区切られた線の向こうでは、大道芸人らしき男がひとり、首輪につないだ猿を相手に、輪くぐりの芸をやっていた。
その脇では、幾人かの芸人風の衣装を来た人間が待機して様子を見守っている。
(雑技団だ……!)
小如は彼らを目にした瞬間、落ち込んでいた心が少しだけ、溶けるような気がした。
櫻霞は、小如が雑技団を見たがっていたことを知っていたからか、それとも偶然用があったのかはわからないが、とにかく小如の目的の場所に櫻霞を連れてきてくれたのだった。
「降りるよ」
櫻霞の声に気づくと、人力車はいつの間にか広場の前で止まっていた。
勘定を済ませた櫻霞が先に車を飛び降り、「早く」と小如に促した。
と、小如が立ち上がるや否や、櫻霞に下から腕を引っ張られる。
「きゃっ」
短く叫んだのち、小如の身体は車から滑り落ち、櫻霞の胸に抱きとめられていた。そしてあれよという間に背中に抱え上げられる。
そのまま櫻霞は小如をおぶって、雑技団の観客の群れに突っ込んだ。
「櫻霞、一体どうする気? ねぇ、櫻霞!」
人ごみにもまれながら、小如は櫻霞にたずねる。
「変なこと聞かないでよ」
と櫻霞は答える。
「あなたがひとりにしないで、と言ったからここまで連れてきてるんじゃない」
ついに櫻霞は雑技団の観客を押しのけて、最前列にまで来てしまった。
すると、猿の芸をしている芸人も、脇で待機していた芸人たちも、一斉に櫻霞たちのほうを振り返った。
そして幾人かは「あっ」とこちらを指差す。
「恥ずかしいよ、櫻霞……! すごく目立っちゃってるよ」
小如の杞憂をよそに、櫻霞は小如を背中から下ろし、そのまま強引に最前列に座らせた。
そして自分はというと、おもむろに着ていた美麗服をその場で脱ぎだしたのである。
(なっ……何で!?)
小如も周りの観客も、突然客席ではじまった珍事に、いったい何事かと注目した。
すると、横で控えていた雑技団の司会らしき男が、観客の見ている前にも関わらず、いきなり櫻霞に向かって怒鳴った。
「遅いぞ櫻子! 今までどこで油を売ってた!」
「ごめんなさい、今すぐ始めるわ」
櫻霞は謝ると、脱ぎ終えた服を広場の中へ高く投げ捨てた。
はたして服の中から現れたのは、すらりと細身の筋肉に包まれたみごとな肢体である。
胸下の辺りで短く着られ、腹とへそがあらわになった薄桃色の上着。
下は短い腰布を巻いており、太ももまでがむき出しになっている。
女になりかけた少女のたおやかな曲線美が、青空のもと、観客の前に晒された。
櫻霞は、雑技団の衣装を美麗服の内側にまとっていたのである。
(い……櫻霞って、まさか!?)
小如が度肝を抜かれていると、先ほど櫻霞を怒鳴った雑技団の司会が、仕切り直すように大声で観客席に声を響かせた。
「えー、たいへん、たいへん長らくお待たせしました! いきなりの飛び入りになってしまいましたが、これからが本日の大一番! はるばる内地からやってきた、わが雑技団の可憐なる舞姫、櫻子の登場です!」
猿の大道芸人が、すばやく奥へと引っ込んだ。
それと入れ替わりに、櫻霞が観客席から、白線の向こうの舞台へと跳躍して飛び込んだ。
そのまま軽やかに側転し、後方宙返りを決めて、舞台の真ん中にぴたりと足をそろえて着地した。
観客が一気に湧いた。舞台はとたんに拍手喝采の渦に包まれた。
(嘘……!?)
と小如が思った通り、櫻霞はそれまでの無表情がまるで嘘のような、愛らしい笑顔をいっぱいに浮かべて、観客へと華やぎを振りまいた。




