第四十五話 教えて! クレア先生!
ピシッと敬礼したままのクレアを呆然と見つめる俺とヒメ。と、そんな俺らの視界になんだか少しだけ頬がこけた咲夜が二階から降りて来たのが見えた。お、おい、咲夜? どうしたよ、その顔?
「……あ……おにい……ちゃん……」
よたよたと、階段を落ちるんじゃないかって程の覚束ない足取りで降りていた咲夜が、俺の顔を見た瞬間に足を止める。と、徐々に咲夜の瞳に涙が溜まって――
「――――おにいちゃーーーーん!!!」
「どわっ! ちょ、咲夜!?」
階段から、飛び空中で前方宙返りを決めた後、その勢いのまま俺に飛びついて来た。って、おい!
「あぶねーよ! 何処の仔猿だ、お前は!」
「せめて『くノ一』とかって言ってくれないかな! 仔猿は酷いって、仔猿は! って、そんな事はどうでも良いんだよ! お兄ちゃん! お兄ちゃん、お兄ちゃん、おにいちゃーーーーーん!」
抗議の声は一瞬。瞳に溜めた涙を零しながら、咲夜が俺の腰の辺りにしがみついてえんえんと泣き出した。って、さ、咲夜?
「……どうしたよ、お前?」
何時でも何処でも元気がウリの咲夜らしからぬその態度に、俺は思わず眉根を寄せる。そんな俺の視線に、ゆっくりと咲夜が顔を上げて震える指を向けた。
「――く……クレアさんが……クレアさんがっ!」
まるで、怯えた様な視線で見上げて来る咲夜。その視線に、俺は首を傾げて。
「クレア? クレアがどうし――」
――瞬間、息の詰まる様な錯覚。
「――クレア」
自分でも驚く程、まるで自分の声じゃ無いような低い声が、俺の口から漏れる。
「……お前、俺の妹に……なにをした?」
隣で、ヒメが『ひぅ』と息を呑んだのが分かり……そして、自身の余りの愚かさに腸が煮えくり返る様な感覚を覚える。本当に、本当に。
「……なにをした、でありますか?」
「恍けるな! おい、クレア! お前……俺の妹に、『何を』した!」
――なに考えてんだ、俺は。
幾ら、クレアが血の吸えない――いや、それすらも嘘かも知れない、そんな『吸血鬼』と咲夜を家に残すなんて、なんて危険なことしてんだよ! 相手は魔族だぞ? しかもラインハルトやヒメとは違う……まだ、知り合って間もなく、何一つ詳細の分からない、純粋な『魔族』なんだぞ!
「……いえ、本官は何もしていないでありますよ? ただ……そうですね。少しばかり、サクヤさんに『ご指導』しただけであります」
そう言って、にっこりと微笑むクレアの口元から、伸びきった犬歯が見えた。同時、俺の頭が沸騰した様に熱を帯びる。
「指導だと? クレア、お前――」
「お掃除の仕方を」
「――………………」
…………は?
「……は?」
「その……人様の娘様を捕まえてこう云うのはどうかと思いますが、サクヤさんのお掃除の仕方は正直、お話にならないであります。まだ齢十五ですし、ある程度は許容させて頂きますが……幾らお若いとはいえ、アレでは綺麗になるものも綺麗にならないであります。ですので、僭越ながらお掃除の仕方をご指導したであります」
「……」
クレアの言葉を受け、俺はジトーっとした目を咲夜に向ける。その視線に、咲夜が『味方だ!』と言わんばかりのキラキラとした瞳を向けて来やがった……って、おい。
「酷いんだよ、クレアさん! 私、そんなにお掃除得意じゃないって言ってるのに、無理やり掃除させるんだよっ! 埃だって落ちて無かったのに! 『サクヤさん? 此処がまだ出来てないでありますよ?』ってイジメるんだよ!」
「中央部には確かに誇りは落ちてい無かったでありますが、角の方の汚れは取れていないでありますよ? 四角い部屋を丸く掃く、という言葉をご存じでありますか?」
「だからって窓の桟に指をツツツーって、今日びドラマでも見ないよ! 何処の小姑なのさ、クレアさん!」
「新年を迎える為の大掃除でありますし、どうせなら綺麗な部屋で迎えた方が良いでありますよ。本官はそのお手伝いをしているだけであります」
「それにしたって、流石にやりす――お、お兄ちゃん!? え? な、なんで! なんで私を引き離すのさ!」
……なんか馬鹿らしくなって来たからだよ。
「おい、クレア」
「はい?」
「その……さっきは悪かったな、怒鳴ったりして。お前は何も悪くない。悪いのはこのバカ妹だ。俺が許すから、済まんが徹底的に鍛えてやってくれねーか?」
俺の言葉に、クレアの眼がキラン! と光った。
「……宜しいのでありますか? 本官の『指導』は厳しいでありますよ?」
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!? なんで! なんでさ!」
咲夜から抗議の声が上がる。ええい、だまらっしゃい!
「そもそもお前は掃除、洗濯、料理、何一つ出来ねーじゃねーか。丁度良い機会だし、クレアに教えて貰えとけってば」
「そ、掃除が出来なくても困らないよ! そもそも、アソコまで綺麗にする必要なんて無くない! 見た目が綺麗だったらそれで問題なくない!? ねえ、問題ないよね、ヒメさん!」
「へ? わ、私?」
「ヒメを巻き込むな。現在進行形で掃除が出来なくて困ってるじゃねーか。つうかな? 彼にも女子中学生が掃除も料理も洗濯も出来ねーってどうよ? 彼氏が出来た時に、手料理の一つぐらいは振る舞ってやりてーと思わねーのかよ?」
「そ、そんな事は彼氏が出来た時に考えるもん! もしかしたら、外食大好きな彼氏かも知れないじゃん!」
「それ基準に彼氏を選んだら相当狭い範囲にしかならないだろうが。ともかく! これは兄貴命令だ! クレアに鍛えて貰え!」
俺の言葉に、咲夜が絶望にその顔を染める。そんな顔をしてもダメなもんはダメだぞ?
「ともかく――」
「お邪魔しますわ、マリアさん、サクヤさん!」
「――と、良い所に来たな、奏」
俺の言葉を止める様に、玄関のドアが開く。そちらに視線を染めると、きょとんとした顔のまま玄関で立ち竦む奏が視界に入った。
「おい、クレア」
「何でありましょうか?」
「ついでだから、コイツも鍛えてやってくれ。咲夜と同レベルに何も出来ねーから」
「来た早々、何か酷い事を言われている気がしますが!? と、いいますか……え? き、鍛える? えっと……な、なにをでしょうか?」
抗議の声を上げながらも、頭に疑問符を浮かべる奏。その顔にゆっくりと笑みかけ、俺は言葉を続けた。
「お前、大掃除手伝え。ついでに掃除の仕方も教えて貰っとけ」
「は、はい? そ、掃除の仕方って……え? えええ?」
「お前だって咲夜と同レベルで家事全く『駄目』だろ? 確かにお前の家は家政婦さんもいるし、結婚相手も家柄の宜しい人と結婚するんだろうから家事なんて必要ねーんだろうけどな?」
「け、結婚? いえ、私は――!」
「でもな? ソレにしたって出来ないよりは出来た方が良い事の方が多いんだよ。だから、お前もクレアに掃除の仕方、教えて貰え」
「で、ですから――」
と、俺の言葉に反論しかけ、奏がその言葉を止める。
「……そ、その……」
なんだか頬を赤く染めて、もじもじと両手の人差し指をくっつけたり離したりし出す奏。なんだ? トイレか?
「ち、違います! そうではなく……そうではなく、その、マリアさんは……お掃除できる女の子は……す、好きですか?」
「……は?」
お掃除できる女の子? そりゃお前。
「好きに決まってる――」
「やります! 私、物凄く頑張りますっ!」
「――だろって、うお! 喰い気味で来たな!」
腕まくりをし、鼻から『むふー』と言わんばかりに鼻息を出す奏。なんだよ、急に?
「……まあ、やる気があるのは良い事だ。んじゃ奏、まずは――」
「こんにちは~。咲夜、マリア、今日からよろ――な、なにコレ! なんで大本家、こんなに綺麗なの!?」
「――……昭和のコントか、お前は」
奏同様、玄関を開けて驚いている麻衣に溜息を吐き、俺は新たな『生徒』に対してにこやかな笑みを浮かべた。




