道を誤った利根
史実とは違う世界で違う概念が育ち、違う者たちが生きている。
でも真実はひとつ。気持ち悪い物は気持ち悪い。
愛や情熱の傾ける方向は人それぞれだ。他人から見て馬鹿に思える方向だとしても、本人は正しいと信じて進んでいる。例え破滅への道だとしてもだ。それは国家に対しても言える事だった。
ドレッドノート級輸送船の誕生は各国海軍の方向性を変えて、ド級輸送船、超ド級輸送船の建艦競争へと進んだ。各国は国庫を圧迫する状況に悲鳴をあげて海軍軍縮条約が締結された。
大日本帝国軍艦「利根」は、軍縮条約の軛から放たれた世代で最新の甲巡であった。新世代の艦として多くの期待を受け祝福されたが「利根」はそれに応える事は出来なかった。
昭和二一年、ビキニ環礁で「利根」は最後の時を迎えようとしていた。ここはかつて、日米艦隊の激突する決戦場と想定されていたマーシャル諸島の一角に当たる。
艦内に乗員の姿は無く、試験に使われる猿や豚が檻に入れられていた。
しかし無人であるはずの艦内に泣き声が聴こえる。「利根」の艦橋に膝を抱え俯く一人の少女が居た。
(こんなはずでは無かった、こんなはずでは!)
少女の叫びに応える者は居ない。
クロスロード作戦と名付けられた原爆実験の秒読みが始まっている。乗員の姿はなく動く事も出来ず、逃れる事は出来なかった。
時間が来た。
爆心地から放たれた熱線と爆風が「利根」を叩く。船体が軋み声にならない悲鳴をあげていた。「利根」は消える瞬間まで、後悔と愛した少年への想いに包まれていた。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……い……怖いよ……た……くん……)
死は誰にでも訪れる。「利根」の周りに先に沈んでいった船が集まっている。彼女を迎えに来たのだった。
『さあ、行きましょう』
行きたくない、逝きたくないと涙を流して首を振るが「利根」と言う存在が消えていく。
田中一郎は長崎県佐世保市の出身で、両親は祖父から引き継いだ田畑を売り払い市内で小さな本屋の営んでいる。海軍の街だけあって、店にはジェーン海軍年鑑なども揃えられていた。
軍港の街の住人として、幼い頃から太郎は海軍と馴染んできた。波を切り裂き航行する鋼鉄の海獣と海の男たちに憧れた。その結果、必然的に将来の夢は決まった。
日本を取り巻く国際情勢が悪化する中で、列強に虐げられる祖国を建て直す希望、平賀政権下で「支那事変」と呼ばれる中共との紛争が大陸で本格化していた。国を守りたいと言う愛国心、郷土愛から田中は海軍に水兵として入隊した。
「田中はどこに行きたいんだ?」
「やっぱり大砲が射ちたいですね」
成績も悪くない田中だが時代遅れな大砲屋な嗜好が玉に傷だった。
「本当に良いんだな?」
念をおされながらも意思は変わらず、教育が終わると辞令が出た。「利根乗組ヲ命ス」と言う事で、配属されたのは就役したばかりの最新巡洋艦。大砲に憧れを持つ田中は感激で万歳を叫んでしまった。同期の平賀はそんな田中に呆れを通り越して哀れみを感じた。
輸送艦こそ海軍の消長であり、田中は海軍の主流から外れた巡洋艦に配属される。冷飯ぐらいだ。
「なあ、今夜は飲みに行こう。俺達の奢りだ」
平賀の言葉に他の者も声をかけてくる。同期の者も田中の進退を気の毒に思いカンパした。
初めて「利根」に着任するその日、集合まで時間があり昼食を近くの定職屋で取った。アジの開きに味噌汁、銀シャリに漬物。次の休みまでに陸で食べる最後の食事だ。教育と言うものは怖ろしい物で、ゆっくり食べるつもりがいつもの様に早々と掻き込んでしまった。
(もう少し味わいたかったな……)
「ご馳走様」
そう思いながら店を後にする。
連絡艇で「利根」に向かう集合の時間までまだ時間はあった。埠頭をぶらぶらと散歩する。潮風が心地良い。
沖合いの泊地には「利根」の他に姉妹艦の「筑摩」、主力艦である「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」と連合艦隊旗艦の「長門」の姿もあった。
「長門」は基準排水量三万九千一二〇トンの日本が堂々と誇る「給糧艦」だ。
海軍の任務。それは海上交通路の確保である。一見単純に思えるかもしれないが、外からの資源に頼らねばならない日本だからこそ、最重要の課題だった。
その為、海軍の主役は駆逐艦、海防艦であり、それらの運用を支える給油艦や給糧艦、工作艦が主力艦だった。
艦隊決戦にしか役に立たない戦艦や巡洋艦は維持費がかかり、平時には何の役にもならない。図体がでかいわりに油を食うだけの役立たずとまで言われている。
戦いにしか役に立たない船を揃えられるのは、アメリカの様な金持ちの国だけだ。これは日本だけの特殊事情ではなく世界的な事実で、アメリカでも無駄飯食らいの船を維持する事に批判が噴出していた。
田中はのんびり埠頭から洋上の艦隊を眺めて時間を潰していたが、ふいに人目につきにくい倉庫の一角から罵声が聞こえた。
「穀潰しの巡洋艦が偉そうにするんじゃないわよ」
若い女性の声だが物騒な声色だ。穏やかではない雰囲気を感じ取り倉庫を覗いてみた。
どこか華族か良家の子女だろう少女たちが一人の少女を輪になって苛めている。
「や、止めて下さい」
相手が男なら無視するか警官に通報するだけだが、足蹴にされているのが見目麗しい美少女と来れば止めないわけにはいかない。
「おい! 何をしているんだ」
田中は思わず駆け込んだ。
その言葉で少女たちが振り返る。
「私たちの姿が見えるの?」
不思議そうな表情で注目される。良く見れば皆容姿の可愛い少女ばかりだ。こんな出会いでなければお茶ぐらい誘っていたかもしれない。もちろん、そんな根性も時間的余裕も無いのだが。
「何を言っているんだ。当然だろ」
苛めの現場に踏み込まれて、はぐらかしている訳でも無い。妙な雰囲気だった。
「ふーん。そうなの」
面白そうに田中に視線を向ける少女たち。歓迎されない邪魔物と言うより好意的な視線だ。
(何だ、この空気は)
田中は今まで女性に注目された経験が無いため、気恥ずかしさを覚えてうつ向きそうになる。
「事情は知らないが苛めは止めてるんだ」
自分に負けそうになるのを内心で叱咤して、何とかそれだけを絞り出した。
すると少女たちの中央に位置する一際美しい少女が口を開いた。
「苛めじゃないわ。これは指導よ」
気の強そうな視線を浴びていると「あの子に罵られたら……」と何とも言えない感情になる。頭を振る田中の心を読んだかの様に少女たちはくすくすと笑い声を洩らす。
「この子は巡洋艦。そして私たちは主力艦。立場をわきまえるべきなのよ」
主力艦とは輸送船とそれを守る駆逐艦や海防艦を指し示し、駆潜艇や魚雷艇、哨戒艇などを含めて軍艦と類別されている。
ほとんど使い道のない戦艦、巡洋艦は軍艦ではなく特務艦艇とされていた。
「どう言う事だ?」
罵られる自分の想像から意識を戻し、真面目そうな表情を浮かべて問う。
「申し遅れましたわ。私は長門。貴方たちが言うペド神なのよ」
ペド神とは船の化身、精霊や船魂、船幽霊と称される事もあり、古来から船乗りたちに信仰されてきた存在だ。
(この子たちがペド神様だって?)
子供の冗談と信じられない気持ちがある一方で、相反してなぜだが納得してしまう説得力も感じられた。特に、連合艦隊旗艦だと名乗る少女は風格が他の少女たちと異なっていた。
「ちんちくりんの小娘が色目を使うから、海軍の風紀が乱れるの。だから指導していた所なの」
ペド神が見える者は少ない。
過去の目撃例は、幼児性愛の素質がある者に顕著な例がある。
本人は認めたがらないが、田中にも幼児性愛の潜在的素質があったと言える。
「色目? ちょっと何の事か分からないが、巡洋艦も海軍の一員だ。許してやっては貰えないか?」
物怖じせず意見をはっきりと言う田中の姿勢は好意的に受け止められた。海兵団を出たばかりの三等水兵と言っても軍人の端くれ。堂々とした物が求められる。
「良いわ、貴方に免じて今日の所は。今後、分をわきまえて大人しくしている事ね」
ペド神にとっては自分の存在を認識してくれる異性の存在は孤独を癒してくれる貴重な存在だ。その為、依存してしまう。
恋を覚えればペド神も変わる。愛する者を守ろうと努力するからだ。
海軍ではペド神の特性を理解し、ペド神に愛された者を「神様分隊」に配属する。
神様分隊での勤務はペド神のご機嫌取りとなる。
ある時、水雷艇で事件が起こった。少年水兵に惚れてるペド神が彼の移動を認めず自沈した。この事件は第四艦隊事件として海軍上層部を戦慄させた。
ペド神は有益だが嫉妬や激情に駆られると導火線のついた火薬庫になってしまう。今回の騒動もペド神が見える男を巡っての痴話喧嘩だった。
去っていく少女たちを見送った後、田中は倒れていた少女に声をかける。
「立てるか」
「うん」
手を貸そうかと思ったが彼女の誇りを傷付ける気がした。
この後「利根」を連れて集合場所に現れた田中は新米水兵ながらも神様分隊に配属されてしまった。
輪形陣を形成し航行する第一機動部隊。高速輸送船四隻、防空戦艦二隻、甲巡二隻、航洋海防艦多数からなる艦隊で、指揮官の名前から南雲機動部隊と呼ばれる。
第二次世界大戦まで大型輸送船を揃えて島や拠点を制圧する輸送船決戦思想の大艦輸送主義が世界の主流だったが、高速輸送船と戦車の登場による戦車主兵主義が登場した。高速輸送船で戦車を上陸させる機動部隊の破壊力は大きく、開戦初頭のハワイ奇襲では上陸した戦車三〇〇輌がオアフ島を蹂躙し米太平洋艦隊を行動不能に貶めた。
そして昭和一七年、南雲機動部隊の一員として各地を転戦した「利根」はミッドウェー島を目指し航行していた。
「気持ち良い」
「そうか」
田中は目視による水上警戒の見張りをしていた。神様分隊は文字通りペド神の為に存在する為、「利根」と接触する機会が与えられている。隣に現れた「利根」が潮風に髪をなびかせながら話しかける。
「田中君、作戦の行方でも考えているの?」
「何でそう思ったんだ?」
指摘が鋭いと田中は心臓の鼓動を躍動させた。
「田中君は不細工な顔が似合ってるんだから、深刻そうな顔してもダメよ」
出会った頃と「利根」の容姿は変わっていない。永遠の少女のままだ。
「そうか。ありがとう」
「え?」
「緊張感をほぐそうと心配してくれたんだろう」
照れ臭そうに「利根」は笑顔を返してきた。穏やかな空気が二人の間に流れる。
この時「利根」は艦隊の目として索敵を受け持っていた。輸送船は攻撃を受ければ脆い。敵を見付ける事は絶対の任務だ。
(もし日本が負ければ私は自由になれるかもしれない……)
田中に出会ってから「利根」の心を暗い感情が占めていた。鋼鉄の船には無い温かな触れあい。それは何にも換えがたい。
「利根」は孤独だった。
自由主義のアメリカでは戦艦も輸送船も平等に扱ってもらえると聞いていた。
日本が負ければ苛められる事もない。
だから「利根」は前夜に妹「筑摩」を二日酔いにさせていた。
「今度の作戦も我が機動部隊の楽勝よ」と言う姉に誘われた「筑摩」は珍しく深酒をしてしまった。姉妹揃って射出器の調子が悪く、索敵機の発艦が遅れた。
この事で敵艦隊を見落としてしまった。
(これで私は田中君と一緒に居られる)
「利根」は勝ちすぎた日本がこの戦で負ける事で、戦争は終わると信じてた。
戦争が終われば愛する者とずっと傍に居られると。
だが二人の穏やかな時間は長く続かなかった。
南雲忠一はGF司令部から「南雲艦隊は損害に構わず前進続行し、MIを攻略せよ」と督戦をされていた。長年、病院船を指揮して来た南雲にとって輸送船の指揮は畑違いだが、敢闘精神に不足は無かった。
(そんなに俺が信頼できないなら小沢でも山口でもつければ良かったんだ)
年功序列の人事とは言えGF長官の意見も反映される。気に入らなければ艦隊司令官の人事を拒否する事も出来た。後になってから督戦してくるGF司令部に南雲が不満を抱くのもしかたなかった。
南雲の思考を断ち切り、見張り員の「敵機直上、急降下」と言う報告に空気が凍った。ミッドウェーから来襲した敵攻撃隊だ。
いくら最強の輸送船と言っても、航空攻撃に対して輸送船は無力だ。アメリカ沿岸警備隊が誇る戦闘フリゲート「ヨークタウン」「ワスプ」「サラトガ」からの砲撃が護衛艦艇を釘付けにしており、満足な対空砲火を打ち上げられなかった。爆弾が命中した瞬間、閃光が広が誘爆が起きた。
擦れ違い様にフリゲートが砲撃を浴びせて来た。1万トンクラスの大型フリゲート艦だった。
「あれはミネアポリスですな」と言う言葉は南雲の耳を素通りしていた。
第二機動部隊に戦力を分散させたのは行幸だったかもしれない。角田覚治中将の機動部隊がここにいれば被害が増大していただけだ。
本来なら機動部隊の外縁を固める「利根」だったが、旗艦不調を訴え船足が遅れていた。
「どうしたんだ?」
「生理不順よ」
そう答える「利根」に対して少年はペド神の生態も詳しくない為、何も言えなかった。背中を擦る少年の温もりを感じながらも「利根」の表情は晴れなかった。
「大変だよ、お姉ちゃん!」
一瞬で空気を変えて乱入して来たのは「利根」に似た容姿の少女だ。
「筑摩。どうしたの、そんなに慌てて」
「利根」の妹である「筑摩」だ。「利根」と違いまだ自分を見てくれる相手に出逢っていない。
「赤城さんたちが沈められたそうだよ」
輸送艦「赤城」は八八艦隊計画で産み出された高速輸送艦だ。改長門型の「加賀」と共に戦隊を組んでいた。
「筑摩」の言葉で田中は呻く様に呟いた。
「赤城がやられたと言うことは、他の三隻も……」
観艦式を見に行った時、遠目ではあるが田中も見たことがある。それだけの関係でも海軍の仲間に違いない。同期も乗っていた船が沈められたことに衝撃を受ける。
(我が艦隊は無敵だったんじゃないのか?)
それは勝ち戦の慢心とも言える。
田中だけではない。日本帝国海軍全体が、相手を軽んじ虎の子の高速輸送船四隻を失った。
相手は猛将で名高いキンケード提督のフリゲート艦隊だった。米国のフリゲート艦隊は水上戦闘を専門とした艦隊で、上陸させる事を目的とした各国海軍の艦隊とは質が違う。建造当時、無用の長物と笑われていた50センチ4連装主砲は猛威を振るった。大型水上戦闘艦を揃える程の戦力を持たない日本海軍に対抗する術は無かった。
(これからどうなるんだ?)
呆然とする田中の手に「利根」はそっと手を重ねた。
南雲機動部隊は洒落にならない壊滅的打撃を受け戦略的撤退を余儀無くされた。
決定的な敗北である。
ミッドウェーの敗北は転換期となった。ソロモン海、マリアナ沖、フィリピン沖で多くの艦艇が失われていった。連合艦隊の象徴であったあの「長門」も沖縄逆上陸作戦に参加中、ミッチャー中将の高速戦艦部隊のタコ殴りにあって沈没。
大日本帝国は失敗を積み重ね敗北した。
(これもミッドウェーで負けたから? 私が索敵機を遅らせたから?)
田中は呉空襲の時に負傷し「利根」を降りた。
「また会おう」
そう言って別れたが、大破着底していた「利根」は連合軍に接収され田中と会う事は無かった。
かくして道を誤った「利根」に幸せは訪れなかったのである。
ざまあ?