江戸時代の古文を現代風に通釈してみたww
<あらすじ>
男は小さな島で生まれ育ったが、些細なことで父親と喧嘩になり、逃げるように東京の大学に進学した。そこで知り合った貴族の娘と付き合い始めるが、周囲の反対にあい、二人は駆け落ちを決意する。
中島広足『うつせ貝』
無意味な夜が何日も続いた。男は不安になり屈辱的な気分で、女にメールを送信する。しかし行きたがいに、女のほうからメールが届く。
「ごめんね、今夜もお医者さんがダメって言うから会えない」
それでも男は待った。無意味と知りながらも、報われないと知りながらも、悩まずにはいられなかった。そして午後八時過ぎ、女はあわてた様子で男の居るホテルにやって来た。
『いつまでダメなんだ?それは仮病じゃないのか?現状維持で満足なのか?僕はなんて中途半端な男なんだろう?何もかもが中途半端で、優柔不断。でもそれは君のことでもあるんだ。もういっそこのまま独りで旅立って、あてつけに自殺してやるよ!』
という男が送ったメールに驚いて、あわてて病室を抜け出してきたらしい。そしてそのまま、男の前で気絶して何日も目を覚まさなかった。
女の横で、男は途方に暮れた。
「これが前々から聞いてた彼女の持病の発作ってやつなのか?一体全体、僕にどうしろっていうんだ。僕ごときには、どうしようも無いじゃないか。そうか、もしかしたら、こうやって彼女は僕を困らせて試しているのかもしれない。その可能性もゼロじゃない。」
とパニックになりながら、悲壮感の中、神頼みをして、女を抱き寄せて、お湯を飲ませたりと看病をする内に、女はかろうじて再び意識を取り戻した。
男は飛び上がって喜びたい衝動を抑えつつ、女と他愛も無い世間話に花を咲かせた。そしてそれは本当に、夢のように満ち足りた時間だった。
秋の夜更けはいつの間にかやってきて、駐車場も無いこの安いホテルの一室に、開けっ放しの窓から月光が差し込んでいる。その光がいつの間にか雲に隠されると、冷たい秋風に誘われるように、雨がしとしとと降り始めた。雨音にまぎれて、虫たちの声がする。
「べ、別に泣いてなんかいないんだからね。鳴いてるのは虫なんだからね。これは涙じゃなくて、ただの雨なんだからね!」
そんな男の冗談に女は笑った。朝が来て豪雨に変わり、屋根からしたたり落ちる水の量も尋常ではなく、彼らは外出もせず部屋に引きこもった。
『やっぱり彼女を医者に診せないとダメだよな』
そうは思っても、女を病院から連れ出したのは自分だ。
不気味で悪魔的な雷鳴が、男の不安をかきたてる。
『彼女はこのまま死ぬのだろうか?いや、ありえない。そんなの僕の知ってる現実じゃない。僕は冷静沈着だ。彼女の病気は見抜けなかったけれど、でも、あの状況でまだ彼女の仮病の可能性をすら考慮できたということが、やはり僕が冷静な証拠なんだ』
女の病気はもしかしたら伝染病なのではないか?という疑問がふとよぎった。なぜなら、女の病気について考えているとき、男自身の体も苦しくなってくるから。男は高鳴る胸の動悸をおさえながら、女に励ましの声をかけ続けた。しかし男の口から出てくるのは、テレビドラマでよく耳にする類の、軽薄でありがちな慰めの言葉だけだった。
雨の止んだある日、風がまだ強かったが、あまり同じホテルに滞在し続けるのも今更ながら「世間体」的にまずいと思い、顔を見られなくて済む夕暮れ時に出発した。ヤニくさいタクシーの中で、女はシクシクと泣き出した。男を追いかけて病室を出た、そこまではよかった。そこから先はもう、男にすべてをゆだねるしかないのだ。そう考えると途端にブルーになってきて、生まれ故郷の東京が恋しくなってきた。
女とは対照的に男の方は実に陽気で、長年の計画をやっと実行しているという過程がひたすら楽しく、高速自動車道の渋滞も、信号待ちの時間ですらも口惜しく、「もっと飛ばしてくれ」と運転手をせかすのであった。
夜中を過ぎた頃、約束の渚に到着した。男は事前に手配しておいた船に女を乗せて出発した。かつて仲間たちと一緒にこの船に揺られたときの、あのあわただしさ。それに比べて今というこの瞬間はなんと有意義なのだろうかと、男の心は浮かれた。
海辺を離れて沖に出る。荒々しい潮風、立ちはだかる高波は、経験のない女を動揺させた。女は慌てふためき、着物を頭からかぶって、小さくなってブルブルと震えた。
『もうすぐ生まれ育った島に着く頃だ。村のみんなは私と彼女を歓迎してくれるだろう。そうさ、あそこは楽園なんだ。あそこには自由がある。父も許してくれるに違いない』
朝日が登り始め、船は入り江のほとりをゆっくりと進んでいた。渚の断崖絶壁に松の木がたっている。断崖と松という奇妙な組み合わせ、そしてその枝々にからまっている蔓の様子がなんとも風流だった。
「あれを見てよ。種さえあればあんな断崖絶壁にも松は生えるんだね。『アスファルトに咲く花のように』なんて歌が昔流行ったっけ、『ナンバー1よりオンリー1』とはまさにこのことだね」
と男が言うと、女も恐る恐る頭を持ち上げた。朝日が照りつける船内の小汚い内装、寝癖がもつれて乱れきった女の髪形、それを掻きやりながら恥ずかしそうに照れている女の仕草。それら滑稽なすべてが、彼女の気品を備えた爽やかな目元を引き立てるために役立っていることの不思議。もしかしたら男が愛したのは女ではなく、彼女の目元だったのかもしれない。
「ここまで来ればもう安心さ。後はのんびりと、のどかな旅を楽しもうじゃないか」
それは男の本心から出た言葉だったが、「後ろから追っ手が来るかもしれない」という何かしらの強迫観念、被害妄想が一方で男の胸をしめつけていた。
休憩のため、船はとある浦に寄せられた。
「さ、どうぞ。朝ごはんを召し上がれ。ずっと波に揺られて大変だったでしょう」
そう言って水夫は彼らにまかない弁当を差し出したが、二人とも弁当に一瞥もくれないでうつむいている。腹が減っていないわけではない。汚いホテルの部屋、汚いタクシー、汚い船旅、汚い水夫、汚いまかない弁当、それらの卑しいもの全てにうんざりしていたのだ。今の二人にもっとも必要なものは「優雅」だった。
「おや、船酔いですかね?それなら砂浜を歩くとすぐに醒めますよ」
水夫は不服そうな顔つきで、なかばやっかい払いをするように、二人を船から降ろした。
実際に砂浜を散歩するとだんだん気持ちも落ち着いてくる。二人は人気のない松の木陰に腰掛けて、ここ数日間の冒険について、それ以前の月日が二人を隔てた悲劇的な毎日について振り返った。もちろんお互いに不満がないわけではない。しかしそれをあえて口に出すことは恐ろしかった。二人が求めていたのは優雅だったのだ。男は恐ろしさをごまかすように、砂浜に落ちていた貝殻を拾い上げた。
「この貝殻みたいに、僕らは大都会という荒波に揉まれて、この楽園に流されてきたんだね。でも本当によかった。この貝殻と同じで、僕らも何一つ欠けることなく無事に流れ着けたんだ。これは奇跡のような幸運だと思う。貝の中にあった真珠はどこかへいってしまったけれど、貝殻自体も十分に美しいし、それだけでも価値があるものだと、そう思わないかい?」
女はすぐには返事をせず、しばらく黙り込み、「楽園なんて…」とつぶやいた。
「楽園なんて、ないのよ。理想郷なんて、ないのよ。私は別に、真珠に価値のある大都会が素晴らしいと言っているわけじゃないの。昔は貝殻をお金の代わりに取引していた時代だってあったわけだし、私が言いたいのはそうじゃないの。どっちの方が美しいのかとか、どっちの方に価値があるのかとか、そんな物差し自体が人の勝手な都合にすぎないってことなの。いつの時代も、あるのは物差しだけで、楽園なんて、どこにもないのよ------」
そういって女は、生まれ故郷の方角の海をじっと見つめていた。