僕がどれだけ君を愛しているか、君は知らない(原作:布瑠部)
世界では、無数のものが無限に踊っている。
草と木。花と鳥。光と風。そして男と女。
暦が七月に変わったばかりの朝のことだ。食卓のカレンダーに何気なく視線を向けた僕は、そこに不思議なメモを見つけた。
日付は七月四日。
妻の字で『独立記念日』と書いてある。
僕は呆けたようになって、思わず呟いた。
「何だこれ? 独立記念日?」
真っ先に思い浮かんだのは、どこの国のだ? という他愛無い疑問だった。
パソコンがある居間に移り、ネットで「七月四日」と検索する。
そこでアメリカの独立記念日ということが判明した。
その瞬間……何か懐かしい記憶に手招きされた気がしたが、特に気に留めなかった。直ぐに次の疑問がやってきかたらだ。
『彼女が意味もなく、アメリカの独立記念日をカレンダーに記すだろうか?』
僕はその問いに対し、即座に「否」と答えた。
ならこれは彼女の、ひいては僕たちに関する記念日に違いない。
――記念日? 何のだ? アメリカの独立記念日と関係しているのか?
すると僕の世界は、無重力空間に投げ出されたかのようにぐるりと揺れた。
マズい。心当たりが全くなかった。
全然、これっぽっちも。
妻は世の多くの女性がそうであるように、記念日が好きだ。
僕は世の多くの男性がそうであるように、記念日が覚えられない。
僕は気を落ち着けようとキッチンに移り、儀式のように淡々と紅茶をいれる作業に没頭した。幸いにして僕の起床は早く、妻のそれは遅い。
紅茶が蒸し終わる二分三十秒の間。
僕は食卓の椅子に座り、世界の存亡がその肩に懸っている科学者のように極めて冷静に、しかし刻々と迫る最悪の事態に苛まれながら、頭を高速回転させていた。
何か約束していただろうか?
――覚えていない。
では何かの記念日か?
――思いだせない。
「言葉は所詮、記号よ。いくらその記号をこねくり回しても、自分が感じている想いとか意志を、そっくりそのまま他人に伝えることなんて出来ないわ」
二年目の結婚記念日を忘れた僕に、妻は昔そう言った。
「つまりは……感じているアナタの『確かさ』とやらも、物にして伝えなければ『不確か』なままに終わってしまうという訳。お分かり?」
当時の僕はそれから二週間余り、針のむしろに座らされた気分をたっぷり味わった。彼女にどんな言葉をかけても「ふ~ん」とか、「あっそ」としか返してくれなくなった。
結局、彼女の機嫌を直す為に高価なプレゼントと高級レストランへの招待という、バカ高い代償を払わされることになった。
――ピピッピピッ!
意識の奥深くへと潜っていた僕は、キッチンタイマーのアラームで現実に返る。急いで蒸し終わった紅茶をポットに移す。
「今日のレディーグレイ……ちょっと苦い」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してたら……蒸し時間をミスっちゃって」
低血圧な彼女を起こす為に、紅茶をいれるのは僕の朝の日課となっていた。そんな僕に、彼女は紅茶を一口啜るなりそう苦言を呈した。
だけどその後、
「でも目が覚めるから、朝は苦いくらいで丁度いいかも」
と、僕にだけしか向けることのない柔らかい表情を見せた。
妻の性格を一言で現すなら「男前」だ。
プロポーズも彼女の方からした。というかされた。
なかなか結婚を切り出さない僕に、
「ねぇ、毎朝私に紅茶をいれてくれない?」
と軽く言ってのけた。
「結婚するなら私はアナタ以外にないし、アナタだって私以外にないでしょ」
僕と彼女は小学校の頃からの付き合いで、お互いのことをよく知っている。それこそ変な話だけど、僕は彼女の生理が始まった日すら……。
小学校六年生の給食の時間。
彼女は机にうつ伏せになり、何かにじっと耐えるようにしていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
声をかけると彼女は、
「うるさい! ほっといて!」
と怒鳴るように言った。
僕は怖気づきながらも、彼女の分の給食を机に運んだ。すると彼女は、幼いながらも鋭い視線で僕を射抜き。
「ほっといてって言ったでしょ!」
と、泣きそうな声で叫んだ。
教室の皆が、どうしたんだろうと僕たちを見る。
「ほっとけないよ」
僕は言った。
「キエちゃんのこと、ほっとけない!」
その後、僕たちは保健室に向かった。途中、彼女は珍しくめそめそ泣いていた。
「あぁ、あの時初めての生理だったの」
「え……?」
そのことを知らされたのは、それから十数年後。僕たちが付き合い始めて間もない頃だ。余りに男前な告白に、思わず絶句したのを覚えている。
「ね、ねぇ……」
「ん? な~に?」
僕は紅茶を美味しそうに啜る彼女に、思い切って尋ねてみようかと思った。カレンダーに記された『独立記念日』の意味を。
でもいい淀む僕を前に、
「本当、美味しい」
「え?」
「アナタのいれる紅茶は……世界で一番美味しいわ」
と言われ、品のいい整った顔で微笑まれると、僕は「ありがとう」と言うだけで何も尋ねることが出来なかった。
結局、どれだけ考えても何も思いだせない僕は、その『独立記念日』まであと数日あることだし、その内何か思い出すだろうと無理矢理自己納得し、楽観的に構えることにした。
しかし――。
「マズイ……これは、本格的にマズイぞ」
七月三日。運命の日(?)を目前に控えても、何も思い出せなかった僕は腹をくくってtiffanyの店に赴くことにした。
「あの、バイザヤードのブレスレット頂けますか? プ、プラチナの」
「はい、ギフト用でございますね?」
それは以前から彼女が欲しがっていた、ワンポイントのダイヤモンドがついた華奢なブレスレット。シルバーとプラチナでは倍も値が違うのだが、彼女の不信を買うよりいいかと覚悟を決めて購入した。
これで彼女が何か言いだしても、
「も、勿論覚えていたよ」
とプレゼントを渡し、にこやかに対応することが出来る。
そして迎えた7月4日。
だけど、当日になっても妻は何も言わなかった。
初めは僕を試しているのかとも思ったが、彼女の性格を考えるとそれも考えにくい。日中考えあぐねた僕は、夕食時に思い切って尋ねてみた。
「あの……今日って、何の日だっけ」
「え? 今日?」
彼女は心にどんな企みも秘めていない人特有の、きょとんとした顔で僕を見た。
「うん……七月四日って」
「七月四日。あぁ、独立記念日ね。アメリカの」
あまりにもあっさり答えるので、僕は面食らったようになった。
そして観念して切り出した。
「その独立記念日って……何か僕たちの記念と関係してたっけ?」
「え? 私たちの記念と? ん~~、関係してると言えば関係してるし、関係してないと言えば、全然関係してないわ。なんで?」
そこで僕は、ここ数日の僕の心の動きについて説明した。彼女は初め驚いた表情を覗かせたが、しだいに喜色が顔いっぱいに広がり、やがてコロコロと笑いだした。
「いや、笑い事じゃないよ。真剣だったんだよ」
「それでわざわざtiffanyでプレゼントまで買って来たと? そういう訳ね?」
僕が恥ずかしげに頷くと、彼女はやっぱり可笑しそうに笑った。
「『いななくロックでナンシー叫んだ、アメリカ独立』って憶えてない?」
そして嬉しそうに弾んだ声で僕に尋ねた。
「へ? 何それ?」
思いもよらぬ言葉が彼女から紡がれたことに、僕はしばらく現実を見失った。
しかし、どこかで聞き覚えがあり……。
「あ! それって」
「アナタが中学生の頃に作った語呂よ。ほら、アナタそう言うの作るの得意だったじゃない」
記憶が意識の底から、ふわりと浮かびあがってきた。
千七百七十六年。七月四日。
いななくロックで、ナンシー叫んだ、アメリカ独立。
確かに僕は昔、そんな語呂を作ったことがある。
「私、年号を覚えるの苦手だったじゃない? そんな私に、アナタは下らない語呂を次々に考えてくれて――ふふっ、七月の予定をカレンダーに書いてた時、急にそのことを思い出してね。気づいたら、書き込んじゃってたの」
僕はその一言を前に憑き物が取れたような、一気に疲労が圧し掛かって来るような、訳の分からない気持ちになった。非難を込めた目で妻を見る。
「な、何よその目は!? 勝手に勘違いしたアナタが悪いんでしょ?」
僕はぐうの音も出ないで、「まぁ、それはそうだけど」と答えた。
「まったく。いい大人がビビちゃって、あ~情けない。それでプレゼントまで用意するなんて……もう、本当バカね。ねぇ、せっかくだからそのプレゼント頂戴。いいでしょ?」
僕は渋々と言った体で、プレゼントを自分の部屋から持ってきた。彼女はテーブルに両肘を立て、真ん中で組み合わせた指の上に顎を置いて僕を待っていた。
「おかえりなさい♪」
弾んだ声の彼女に、僕は青と緑が綺麗に混ざり合ったtiffanyカラーの箱を差し出す。彼女は嬉しそうにリボンを解き、ブレスレットに目を輝かせると、
「着けて」
と、右腕を差し出した。
僕がそれに応じていると、
「ねぇ……七月四日。私たちの記念日にしようか」
冗談みたいなことを言う。
「勘弁してよ」
僕は苦笑いを浮かべて言った。
「別にいいじゃない。夫婦にはいくら記念日があっても。あっ! それともアナタ、ひょっとして私のこと――」
「あのね、君。ひとこと言わせてもらうけど……」
世界では今日も、無数のものが無限に踊っている。
男と女。言葉と言葉。そして……想いと想い。
僕は彼女の言葉を遮ると、こう言った。
言葉の持つ意味そのままに、ルビは心の中にしまって。
「僕がどれだけ君を愛しているか、君は知らない」と。
■原作「バラ色の脳細胞 (著:布瑠部)」
僕がどれだけ君を愛しているか、君は知らない
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