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バカにつける薬

作者: ホーリー

 研究室の戸を開けると、変な刺激臭に出迎えられた。軽くめまいがした。

「よう天才博士。同期の飲み会欠席してまで何やってたんだ?」

 部屋の奥の椅子に声をかけると、それが回転してこちらを向く。

 青白い肌と、眼鏡の奥に光る小さなひとみ。いかにも神経の細そうな小男がそこにいた。

 医学部でおれのライバルだった頭ヨシオだ。――おれが成績で勝ったことは一度もなかったが。卒業後、おれは臨床内科にいったが、こいつは研究の道に進んだ。

 彼はにこりともせずに言う。

「酒が研究の役に立つかよ。今日きみを呼んだのは、ぼくの研究の成果を披露するためだ」

「何? あれが完成したのか……!」

「ああ、『バカボンのパパの息子の名前何だっけ症候群』の治療薬……」

「別名『バカにつける薬』!」

「変な名前をつけるな」

 バカボンのパパの息子の名前何だっけ症候群――脳機能全般を低下させる恐ろしい症状だ。

 全世界的に広がる「バカ」を撲滅する。それがヨシオの、学部生の頃からの夢だった。

「すげーなお前! まさか本当にやっちまうとは、さすがおれのライバル」

「もうライバルではないよ。臨床と研究室で何を競うんだ」素っ気なく言いながら、ヨシオは整頓された机の上の、小さなびんを持ち上げてみせる。「――これがその治療薬だ。飲んでもつけても効果はあるが……」

 水銀かと思った。

 びんの中には、にぶく光る銀色の液体がしずんでいる。

「……なんか、体に悪そうな色してるな。どういう性質の薬なんだ?」

「大してめずらしいものじゃないんだ。あえて特徴を言えば、非常に強い毒性がある。だが間違いなく効く」

「おい。仮にバカが治ったとしても、それじゃ使いものにならないだろう」

「まあ細かいことはいいじゃないか、だってバカが治るんだぞ?」

「……マ、マッド博士」

「変なあだ名をつけるな」

 ヨシオはおれを軽くにらんだ。

「とにかく、無毒化が終わるまで患者には使えないってことだな」

「いいや。ぼくは今から人体実験を行おうと思う」

「え?」

「きみを呼んだのもそのためだよ」

 おれは目をむいた。

 やつはうつむいた。

 口元が暗くほほえんだ。

「イヤアアアア」

「安心したまえ。飲むのはぼくだ。きみはただ見届けてくれればいい」

「お前が? ……お前バカじゃないじゃん天才じゃん、効果ないじゃん」

 おれはだんだん怖くなってきた。

「おいおい、おまえ目がヤバいよ? マッド博士、死ぬよ、飲んだら死ぬよ」

「『毒も過ぎれば薬』というだろう。この毒がなければ意味がないんだ」

「『薬も過ぎれば毒』だよ――とにかくダメだ、そんな危険なことをさせるわけには」

 おれが一歩踏み出したとき、

「近寄るな!」

 いきなりヨシオは大声を出した。彼がこんな声を出すのを、おれははじめて聞いた。

「……たのむから邪魔をしないでくれ」

 彼がこんな声を出すのも、はじめて聞いた。

 まぶたが細かく震えていた。こいつは今にも泣きそうになっているのだった。

「何考えてんだよおい、マッド博士、おいおい」

「長年研究をしてきて、ぼくがたどり着いた結論はひとつ」

 苦く薄笑いして、彼は言う。

「――バカは死ななきゃ治らないんだ」

 おれが駆け寄ろうとした瞬間、彼はびんをすばやくあおった。

「バカ! 何やってるんだよこのバカ!」

 白衣の肩をつかむと、それはじっとりと汗ばんで、病気のマウスのように熱かった。

 ヨシオはおれを見上げる。青い顔で、熱に浮かされたような目で。すぐに全身が震え始めた。

「治せないんだよどうしても。何をやっても治らないんだ。どうしてもどうしてもだめだったんだ。研究バカに生きている意味なんてない」

 早口に言い終わるやいなや、その目がぐるりと反転する。

 全身を激しく痙攣させ、彼は意識を失ってしまったのである。


 それから四日後のこと。看護師に引っ張られていくと、ヨシオが起きていた。

 彼は感情のない目でおれを見て、

「どうして生きてるんだ……」

「おれはな、おまえみたいなやつを引きもどすために医者をやってるんだ。死んでも花実は咲かんぞ」

 彼は瞑想するように目を閉じた。

「この先何年生きたって、ぼくは花実を咲かせられないんだよ。それをさとったから薬を飲んだんだ」

 おれには言葉がない。

 内心、責められたらどうしようかとびくびくしていたのだ。

 小さな沈黙の後、ヨシオは言葉を続ける。

「ただ、きみに助けられるとは思わなかった。あれを飲んで助かるなんて思わなかったよ」

「おれを試したのか?」

「違う。いや、そうだったかもしれない。とにかく、きみが臨床に行ってしまってくやしかったのは確かだ」

「……とりあえずお前は生きてるじゃないか。俺たちはまだライバルで、今回の勝負は俺の勝ちだよ」

 ヨシオの口元がほころんだ。

 ほんの一瞬だけだったが、確かに笑った――ように見えた。

 もしかしたらそれは「口元をゆがめた」という方が正しいのかもしれない。おれをバカにしたり、自分をバカにしたりしていたのかもしれない。

 けれどおれは、涙が出そうになった。

「教えてやろうか? 勝利の秘訣」

 無理に気丈に明るく言って、ベッドのかたわらを目で指す。

「完治とまでは言わないが、バカを一時的に抑える薬があるんだな」

 サイドボードの上に、見舞いの品が置かれている。ひと束の花、ありきたりなフルーツの盛り合わせ……いかにも無難な品物のとなりに、「大吟醸」の筆文字も荒々しい大びん。

「きのう、同期の連中がぞろぞろきて置いていったんだ。まったく、見舞いに酒ってさ……でもな、案外これも役に立つんだぜ。自分がバカだということも忘れてしまう飲み薬だ。別名きちがい水」

 ヨシオは静かに首を振る。やわらかな拒絶を受け取って、おれは思う。おれは誓う。

 ――この勝負、絶対に負けない。

「バカも過ぎれば紙一重、もう少しバカを続けようぜ。とりあえず、快気祝いまでこの薬は毒だけどな」

非常にどうでもいい話ですが、頭ヨシオの名前は最初「スマート=グッドヘッド」でした。日本酒が出てきたので「こいつら何人だ」と思って頭ヨシオにしました。

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