零れ落ちた涙
そのまま幾度かリヴァルトと会話を交わし、今、現在・・・ロゼリアは城の中庭の中心に泰然と佇む巨木の根元に腰をおろし、煩く鳴り響く心臓の音を鎮めようと躍起になっていた。こんなにばくばくと煩く響いていては、すぐ傍に居る存在に気付かれてしまうのではと、不安で仕方がなかった。
目の前に、普段より幾分質素な朝食が並んでいる。
朝食に用意されたのは、切ったパンにいろんな具材を挟んだもので、元々はロゼリア一人で食べるつもりだったのだが、リヴァルトも一緒に食べるとのことで、慌てて厨房の料理人が余分に拵えたものだった。外で食べる事を考慮してか、手軽に食べれるものだ。
ロゼリアは気持ちを静めるため、緊張で上手く開く事の出来なくなっている唇を開くと、手に取った朝食を口へと運んだ。シャキシャキッとした野菜の歯ごたえと、濃厚なチーズの味が口一杯に広がる。
リヴァルトはそんなロゼリアをぼんやりと眺め、自身も目の前に用意された朝食に手を伸ばした。
「・・・上手いな」
一口食べると、空腹だったの胃が騒ぎ出して、どんどん食が進んだ。二人の間に会話は殆んどなく、木の葉が風に揺れる音と、鳥の羽ばたき、またその囀りだけが耳に聞こえ、時々城や周りを見張る兵士達の声が聞こえてくる他は特に何も無かった。
リヴァルトは朝食を全て平らげ、ほっと息をつくと、途端に先程まで引いていた眠気の波が再び押し寄せて来るのを感じた。石鹸のような清潔な香りが風に流されてくる。それが余計に眠りを呼んでしまい、リヴァルトはそっと瞼を閉じた。
「・・・陛下?」
ロゼリアが漸く朝食を済ませたのは、リヴァルトが全て食べ終わってから暫くたってからだった。会話もないままにただ黙々と食べていたが、その沈黙は苦痛ではなく、むしろ心地のいいもので、心が落ち着いた。
しかし、あまりに静かなので、ふと隣を見ると、リヴァルトは木に背中を預けてうつらうつらとしていた。未だ現実と夢の境にいるのか、船を漕いでは眠そうに薄く瞼を開けている。
相当眠いのだろう。満腹になった事で、眠気が押し寄せているのかもしれない。
船を漕ぐリヴァルトを微笑ましそうに眺めていたロゼリアだったが、不意にその体が大きく傾いだ為に、慌ててリヴァルトの体を腕で受け止めた。
「陛下?大丈夫ですか?」
そっと尋ねたものの、相手からは返事が帰ってこない。代わりと言うかのように微かな寝息が聞こえて、ロゼリアは苦笑を浮かべた。どうやら本格的な眠りに落ちたらしい。
ロゼリアはそのままリヴァルトの体を支えていたのだが、いかんせん腕が痺れてきだした。起こして木にもたれ掛らせようかとも思ったのだが、折角の眠りの妨げになると思い直し、悩んだ末、彼の頭を自身の腿の上に置く事にした。
起こさないように細心の注意を払いリヴァルトの体を横たわらせると、彼の眉間に皺が寄ったため、慌てて手を離した。もぞもぞと体を動かして、寝やすい体制に体を持っていくと、リヴァルトはロゼリアを枕にしたまま、すーすーと寝息を発て始める。
「・・・」
暫く眠るリヴァルトの姿を眺めていたロゼリアだったが、ふと顔を上げると離れていた侍女とあたりを警備している兵達が興味深そうな視線を送ってきていることに気付き、顔を真っ赤にして俯かせた。火照る頬に手をやると、冷えた指先がちょうどいい熱さましになる。
・・・ちょっと早まったかしら。
何とも言えない感情が胸の奥底から込み上げて来る。羞恥心にも似たそれに、体中がむずむずしてきたロゼリアは、寝息を発てるリヴァルトを意識の外に追いやろうと空を仰いだ。そこに広がるのは突き抜けるような青色の空。白く棚引く雲が、風に攫われてゆっくりと左に流されてゆく。
清々しい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、瞼を閉じると、微かな風の唸りと、土の香りに交じって賑やかな笑い声が響いてくる。
けれど、それに意識が持っていかれたのはほんの一瞬。彼と同じように目を瞑っても、一向に意識が薄れることはない。その先に居るのは、彼だけ。
いつだって、目を背けたいのに背けることが出来ない。知らず、その姿を探してしまう。視界に映ればそれだけで鼓動が熱く高鳴り、胸を締め付ける。
いっその事全てを忘れてしまえたらどんなに楽かしれず・・・けれどそれを思うと酷く苦しくて仕方がない。
ーー恋心って、本当に厄介ね。
脳裏で、言葉が弾けた。
いつ、どこで、誰が言ったのか・・・思い出せないが、不意に浮かび上がったその言葉の意味が、今なら分かる気がする。
確かにこれは大変だ。
厄介、と言い切った誰か。その人も、こんな気持ちで居たのかもしれない。
いつだって焦がれる。
その存在に。
悲しくても、苦しくても、手を伸ばさずにはいられず、けれども、指先が触れそうになる瞬間に、恐怖から伸ばしていた手を引っ込める。
そうして、変わらない事に安堵し、変わらない事に涙する。
矛盾する気持ち。
分かっているのに、止められない。ーーそう、止めることは出来ない。
本当に厄介な恋心。
耽っていた思考を引き上げて、ロゼリアは瞼を開くと何気無く視線を下に下げる。すると、虚無を抱えた青紫色の瞳とかち合って、鼓動が跳ね上がるのを感じた。ぼんやりと何も映していないように見えて、けれどリヴァルトのその瞳は確かにロゼリアの姿を捉えている。
思わず跳ねた心臓を誤魔化すように微笑んでみれば、ロゼリアの頬にすっと手を添えて、リヴァルトが何事かを呟いた。
寝ぼけているのか、起きているのか・・・。
「起きました?陛下」
ロゼリアは分からなくて、リヴァルトを呼ぶ。しかし、彼はどこか苦しそうに眉根を寄せると、
「・・・またか」
ロゼリアを見つめたまま、心をどこか夢の世界に置いてきているのか、ぼんやりと呟く。リヴァルトが何を言っているのか分からず、ロゼリアの顔に戸惑った表情が浮かんだ。
・・・また?何が?
言葉の意味を考えようとも、彼が一体何に対してまた、と言ったのかが分からない。首を傾げたら、頬に添えられたリヴァルト自身の手に意識を持って行かれそうになり、ロゼリアは慌てて名前を呼ぶ。
「陛下」
寝ぼけているのだ。そう思いもう一度ロゼリアが微笑を浮かべると、不意にリヴァルトの手が頬から離れた。ついで、唇に彼の指先を感じて、それに気づいたロゼリアの顔が真っ赤に染まっていく。
何度も唇をなぞるリヴァルトの指先のせいで、ロゼリアは話そうにも話せないでいた。早鐘を打つ心臓の音が、相手に聞こえているのでは・・・と思うと、余計に鼓動が速まってしまう。どうやら、寝ぼけて本格的に誰かと間違われている。その視線は確かにロゼリアを映してはいても、その姿を通して、別の誰かを見ているようだ。
どうしようかとおろおろとしているロゼリアに、リヴァルトがぼんやりとした瞳で見つめながら、掠れた声を漏らす。
「・・・・る」
しかし、あまりに小さい声で、ところどころ掠れていたため、聞き取れなかった。彼の瞳に映っている自分の姿がどこか頼りなげに見えて、ロゼリアはそっと唇を開いた。
「陛下」
微笑みに、返された言葉は簡潔だった。
「愛して、いるんだ」
一際高く、ロゼリアの鼓動が跳ねる。
リヴァルトは青紫色の瞳にロゼリアを映したまま、ぼんやりと譫言の様に再び繰り返す。近くにいるのに、彼はどこか遠くを見ているように感じた。
『愛している』
呟きを理解した瞬間、その言葉はロゼリアの心を深く抉る。顔を凍りつかせたロゼリアの唇から、静かにリヴァルトの手が離されて地面に落ちた。そのまま何事もなかったかのように再び寝入ったリヴァルト。その横顔を見つめながら、抉られた心を庇うようにギュッと胸元の服を握りしめて、ロゼリアはゆっくりとより深く顔を俯かせた。その細い肩は小刻みに震えている。
『愛しているんだ』
・・・その、言葉は。
寝入ったリヴァルトの顔を黙って見つめているロゼリアの顔が、みっともなく歪んだ。嫁いできて初めて、ロゼリアは泣きだす寸前の顔をリヴァルトに向けていた。
『愛している』
何度も何度も脳裏で再生される彼の声に、急速にロゼリアの視界が滲んでいく。ロゼリアは静かに微笑んだ。
・・・彼の、その言葉だけは、聞きたくなかった。
微笑んでいるのに、心は泣いている。涙を堪えるために笑おうとして、失敗した。不必要である筈の自分。それなのに変わらず彼は優しい。けれど、それゆえに、誰よりも残酷だと、気づいているだろうか。
乾いた笑い声が、かすれ気味に唇から零れていく。
『愛している』
その言葉は、決して、ロゼリアには与えられる事のない言葉だ。どんなにリヴァルトを想っても、彼からは決して与えられることのない言葉の筈だった。
そして、それは事実だ。今の呟きは、自分に対して言ったものでは無い。夢と現実が交錯する狭間で、ロゼリアを通して誰かを見ていた彼は、その相手に向けて、想いを述べたのだろう。
・・・その相手が誰か何て、考えるべくも無いじゃないの。
泣きたくなかった。今まで散々我慢して、堪えてきたのに。それなのに今回は堪えることが出来ない。離れた場所に待機している侍女達に泣いている様を見られることだけは避けたくて、容易に顔も上げられない。しかし、そうすると視線の先にいるのはこんな惨めな気持ちにさせてくれた張本人で・・・。
悪気は無い。寝ぼけていただけだ。傷付けるつもりなんか無かっただろう。
そう言い聞かせても、徐々に視界は涙で濡れていく。
「・・・は、馬鹿みたい」
笑いながら囁くように呟いたロゼリアの瞳から、瞬きと共に透明の滴が零れ落ちた。