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僕が、愛しい君に遺すたったひとつの魔法

作者: 風谷 華
掲載日:2026/10/21

僕はこの国の誇り高き王子で、カレンは僕のたったひとりの愛しい婚約者だった。

物心がついた時から、僕たちはいつも一緒だった。

僕の生まれた日は、カレンがこの世に生を受けた日とほんの数日しか違わないと聞かされていた。

だから僕らは同じ部屋で寝起きし、同じ庭を駆け回り、同じ空を見上げながら、双子のように、あるいは運命で結ばれた恋人同士のように寄り添って大きくなった。


この世界には魔法が満ちている。

小さな光の粒を宙に躍らせる初歩の術から、風の流れを読んで天候を言い当てる高度な術まで、カレンは指先からくるくると美しい奇跡を紡ぎ出すのが得意だった。

彼女が魔法の修練に疲れて絨毯の上にぺたりと座り込むと、僕はすかさず駆け寄り、その隣に座る。

華奢な彼女の肩に頭を預けた。


「シータは本当に甘えん坊なんだから。そんな調子で、いつか私を守る立派な王子様になれるのかしら」

カレンは柔らかく目を細め、僕の黒い髪を梳くように優しく撫でてくれた。

彼女の手のひらはいつも日だまりの匂いがして、胸の奥がきゅっと熱くなる。

その温もりを浴びるたび、僕は言葉にならない満ち足りた吐息を深く漏らした。


僕がもう少し大きくなったら、必ずこの手で彼女をあらゆる危険から守り、世界でいちばん誇らしい花嫁にするのだと、幼い心に何度も誓っていた。

カレンもまた、僕と一緒にいることを何よりも愛しいと感じてくれていた。



僕たちの穏やかな王国に、不届きな侵入者が足を踏み入れるようになったのは、十歳の頃だった。

隣の領主の跡取り息子であるルークという少年が、魔法の実践演習と称して、カレンの屋敷へ頻繁に出入りするようになったのだ。

陽光を反射する金色の髪を綺麗に切り揃え、いかにも上等な衣をまとったルークは、何かにつけてカレンの隣に立とうとした。


「カレン、今日は南庭のあずまやで風魔法の理論書を読まないか? 君が好きそうな、古い術式の写本を手に入れたんだ」


甘ったるい声音でカレンを誘い出すルークの姿を、僕は到底許すことができなかった。

二人が並んで歩き出そうとする刹那、僕はすかさずその間に割って入った。

ルークの足元に立ちはだかり、無言のまま冷徹な眼光で相手を射すくめる。

僕のカレンに気安く触れるな、と全身を硬く引き絞って威嚇した。


「うわっ……! なんだよシータ、また邪魔するのか! カレン、こいつ本当に僕にばかり当たりが強いんだけど」

「ふふ、ごめんなさいルーク。シータは私の王子様だから、私を守ろうとして警戒しているのよ」


カレンは困ったように眉を下げて笑いながら、僕の頭を撫でてくれた。

カレンに撫でられながら、僕はルークを見てフンっと笑ってやった。

カレンの甘い香りを感じられるこの特等席は、僕だけのものだ。

いくら背が高く、そこそこ見栄えのいい衣を身にまとっていようと、彼女の隣に立つ絶対的な権利は僕にこそある。

ルークが忌々しそうに唇を尖らせるのを見るたび、僕の胸は勝利の誇らしさで満たされた。


晴れた日の午後は、中庭の芝生に寝転ぶカレンのすぐ横を陣取った。

少しでもルークが距離を詰めようものなら、鋭い視線を浴びせてそれ以上の接近を許さかった。


雨の日に、カレンが机に向かって分厚い魔導書を広げていると、僕はその紙の真ん中にどっかりと居座ってやった。

「もう、シータったら勉強の邪魔ばっかりして」とカレンはため息をつきながらも、決して僕を追い払おうとはせず、困ったような愛おしそうな顔で僕の顎の下をくすぐるのだった。


ルークがどれほど珍しい魔法具や異国の菓子をカレンに贈ろうとも、彼女がもっとも無防備で、もっともあたたかい笑顔を向ける相手は、いつだって僕だった。

この満ち足りた日々は、僕たちが大人になっても、白髪が生えるような遠い未来になっても、ずっと変わらず続いていくのだと信じて疑わなかった。




歯車が狂い始めたのは、僕たちが十五の誕生日を迎えた頃だった。


カレンはすらりと背が伸び、少女の面影を残しながらも息をのむほど美しい大人の女性へと変わっていった。

時折屋敷を訪れるルークもまた、少年から肩幅の広い逞しい青年へと成長し、カレンの隣に立つ姿がどこか自然に見えるようになっていた。


それなのに、僕の身体はどういうわけか、鉛を呑み込んだように日増しに重くなっていった。

以前なら軽々と駆け上がれた屋敷の高い螺旋階段や、飛び乗れたバルコニーの手すりが、ひどく遠く、高く見えた。


ある日の夕暮れ、庭でカレンとルークが魔法の稽古をしている最中、ルークがカレンの手を取ろうとしたのが見えた。

僕はいつものように二人を引き離そうと石塀の上から飛び降りた。

だが、着地の瞬間に足に力が入らず、もつれたまま無様に地面へと転がってしまった。


「……シータ!?」

悲鳴のような声を上げて、カレンが駆け寄ってきた。

立ち上がろうと足を踏ん張っても、腰が砕けて踏ん張りが利かない。

荒い息が喉を焼き、胸が激しく波打った。

ライバルであるルークの前でこんな惨めな姿を晒してしまったことが悔しくて、情けなくて仕方がなかったが、地面から起き上がることすらできなかった。


「カレン……その、シータは……」

立ち尽くすルークが、ひどく痛ましそうな瞳で僕を見つめながら、言葉を濁した。


その時の僕には、ルークが何を言おうとしているのか分からなかった。

僕とカレンは同い年だ。

十五歳といえば、人間ならこれから未来を切り拓く、人生の最も輝かしい季節のはずだった。


だが、そこからの転落はあまりにも急で、残酷だった。

あんなに好きだった食事を受け付けなくなり、身体は骨の感触が分かるほど急速に痩せ細っていった。

日当たりのいいカレンの部屋の絨毯から、ベッドの上まで歩いていくことすら、息が切れるほどの大仕事になっていく。


カレンは毎日、僕のそばから離れなかった。

泣き濡れた瞳で、ありったけの癒しの魔法を僕に注ぎ込んでくれた。


彼女の両手から柔らかな淡い緑の光が溢れ出し、温かな春風となって僕の身体を包み込む。

けれど、その奇跡の光をどれほど浴びても、僕の命の底に空いた深い穴から、力がさらさらと零れ落ちていくのを止められなかった。


「どうして……どうして効かないの? シータ、お願い、目を閉じないで。痛いの? 苦しいの……? 私の魔法じゃ、あなたを治せないの……?」


大粒の涙が、カレンの頬を伝って僕の乾いた額にぽたぽたと落ちた。


泣かないでくれ、僕のカレン。

僕は君の王子だ。

君を守るナイトだ。

君を悲しませる敵がいるなら、命を懸けて引き裂いてやりたいのに、君を悲しませているのは外の魔物でも呪いでもなく、僕自身の寿命だった。


静まり返った部屋の扉が開き、ルークが入ってきた。


彼は泣きじゃくるカレンの肩にそっと手を置き、絞り出すような低い声で言った。

「……カレン、もうやめるんだ。どれほど優れた治癒魔法を注いでも、寿命だけは巻き戻せない。シータは病気じゃない。……十六年だぞ。こいつは十分すぎるほどカレンと一緒に長く生きたんだ」


ルークの手を振り払おうともせず、カレンは僕の身体を胸に抱きしめ、子供のように声を上げて泣き崩れた。


その時、僕の霞む頭の奥で、すべての輪郭がようやくはっきりした。


そうか。

ルークは最初から、僕からカレンを奪おうとする敵などではなかったのだ。

僕がいなくなった後のこの先の世界で、カレンの手を取り、共に歩み、彼女を守ってくれる人間だったのだ。

僕がどれほど望んでも手に入れられない、カレンに寄り添える時間を持った人間だった。


僕は人間じゃなかった。

僕は猫だった。

猫の僕では、カレンと共にずっと添い遂げることはできない。

愛しい君をおいて逝ってしまうことが、こんなにも辛いなんて知らなかった。

僕の手でずっと君を守り続けられないなんて。

どうして、僕は猫に生まれてしまったんだろう。



十六度目の春を迎える前の、静まり返った冬の終わりの朝だった。

僕の視界はほとんど白く濁り、冷えた空気を吸い込むことすら難しくなっていた。


柔らかな毛布の上で横たわる僕の耳元に、震えるカレンの声がした。

彼女の手が、昔と同じように優しく、ゆっくりと僕の頭を撫でていた。


「シータ、私のシータ。……十六年間、ずっと私のそばにいてくれてありがとう」


ああ、もう身体が動かない。

カレンの頬を濡らす涙を拭ってあげることも、立ち上がって彼女の足元に身体をすり寄せることもできない。


けれど、僕は最後の力を振り絞って、喉の奥を小さく震わせた。

ゴロゴロと、微かな低い振動を、彼女の震える手のひらへと返す。


カレン、僕は知っているよ。

僕がいなくなっても、君の人生はずっと長く続いていく。

君はこれからもっとたくさんの魔法を覚え、もっと広い世界を知り、ルークのような誰かと本当の恋をして、美しい大人の女性になっていく。


けれど、君とって短いものかもしれないこの十六年は、僕の一生のすべてだったんだ。

僕の四つの小さな足で、君の後を追って駆け抜けた日々。

君が僕を呼ぶ声に反応して、ぴんと立てていた三角の耳も。

君の頬にそっと触れていた白い髭も。

君の膝の上で丸くなり、日だまりの匂いを嗅ぎながら眠った、あの穏やかな昼下がりの温もりも。

僕のこの一生が終わっても、ずっとずっと、カレンを愛しているよ。


ねえ、カレン。

魔法に満ちたこの世界ではね、猫だって魔法が使えるんだよ。

知らなかったでしょう?

一生にたった一度だけ、たったひとつの奇跡を紡ぐことができる。

それはどんな強力な呪文よりも純粋で、命のすべてを灯火にして灯す、僕たちだけの秘密の術なんだ。

それを今、君のために使うよ。


僕の胸の奥に残る最後の熱が、淡くあたたかい光の粒になって零れ落ちる。

君がこれまで僕にくれたたくさんの日だまりを、全部あつめて編み直したような、金色の柔らかな光。

それはカレンの両手を包み込み、涙で濡れた瞳を優しく照らして、彼女の胸の奥へとすうっと溶けていった。


――君がどんな時も、幸せに穏やかにいられますように。

僕が君のそばにいられないこれからの長い時間も、君の心が凍えてしまわないように。

世界中のあたたかな愛で、君がずっと包まれていますように。

どんなに辛いことがあっても、僕の愛でカレンを守れますように。


僕の命をかけた最初で最後の魔法は、カレンの胸の中で、ぽかぽかと小さく息づいていく。


僕はカレンの王子様としてずっと一緒にはいられなかったけれど、カレンだけの王子様として生きられた僕の猫生は、世界のどんな王様よりも誇らしくて、温かくて、幸福だった。


カレン、僕の愛しい姫君。

僕のこの十六年の一生、そのすべてよりも、僕は君を愛しているよ。

だからどうかもう泣かないで。

僕のいなくなったあとも、前を向いて笑って。

世界でいちばん、幸せになってね。


僕は彼女の温かい手のひらに、そっと冷たくなりゆく小さなピンクの鼻先を埋めて、静かに、満ち足りた思いで瞳を閉じた。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。

子供の頃ずっと一緒だった白猫のことを考えながら、この小説を作りました。

その猫にとって子供の私は、親友だし家族だし、守ってやらないと危なっかしいやつ認定されていたような気がします。

辛い時も嬉しい時も、いつも一緒にいてくれました。

大人になって猫を飼っても、子供の時のような関係ではなく、その猫との思い出は特別なものになっています。


この小説を読んだあなたの一日が、今日も穏やかで幸せでありますように。


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