浮気男に嫁がされそうになったので、花嫁を交換して逃亡します
いつも忙しい子爵家当主の父に、今日こそは直談判しないといけない。
エヴァリンはありったけの勇気をかき集めて、父親の執務室を訪れた。
「お父様! 婚約を白紙にしてください。
あんな浮気性の人と結婚しても幸せになれません」
半年後の卒業と同時に結婚式を挙げる予定で、どんどん準備が進められている。
ここで中止にしなければ、後戻りできなくなる。
父親は書類から顔も上げずに答えた。
「お前のためを思って縁を結んだのだぞ。将来、私に泣いて感謝することになるに違いない。
安心して嫁ぐ日を待っていればよいのだ」
「浮気は男の甲斐性だなんて、お祖父様たちの時代の話です。
家族に対して誠実じゃない人など、信用されません。
堂々と開き直る人が、反省したり、結婚して大人しくなったりするはずないわ」
父親の大きな執務机に、バンと手をついた。
無作法なことを敢えてやる。ここが人生の分かれ道なのだから、なりふり構っていられないと決意してきたのだ。
「それくらい飲み込むのが、女の甲斐性というものだ」
面倒くさそうに、書類をめくる手を止めない。
「お母様にも無理だったことを、娘の私にやらせようというの?
そうやって、お母様が病んでしまわれるのを、お母様のせいにしたのね。反省もせず……。
そんなの、見殺しにしたのと同じだわ!」
ようやく顔をあげたかと思えば、パチンと頬を叩かれた。ジーンと頬が痺れて、熱を持つ。
「あいつは……心が弱かったんだ。子どももいるのに、母親の自覚がない……」
青ざめた父親の顔をきっと睨みつける。
「……同類だから、庇うのね。
私が不幸になるのがわかっていて、結婚させるのね。
そうして嫉妬か性病で気が狂ったら、心が狭いからだと責め立てるんでしょう?」
「そんなことは言っていない」
どうして理解してくれないんだとばかりに、哀れな声を出す。
「あなたが言っているのは、そういうことよ!」
エヴァリンはぐいっと涙を拭って、部屋を出た。
自室に戻ると、侍女が心配して待っていた。
「お嬢様、その頬は……!」
「叩かれたわ。会話にならない」
「すぐに冷やすものをご用意します!」
侍女が飛び出していった。
ソファに座って、先ほどのやり取りを思い出す。
怒りでどうにかなってしまいそうだ。母親のことをあんなふうに侮辱するのも、信じられない。
鏡の前に立ち、歪んだ顔を直視する。
エヴァリン、冷静になるのよ。
感情的になってしまったのは、失敗だった。
だが、前回の陳情で、具体的な浮気の証拠と自分がどんなに蔑ろにされているか、資料を渡してある。それによって、我が家の評判も落ちてしまうという懸念も伝えた。
跡取りになる兄にも相談して、親戚づきあいをしたくない男だと言質を取った。
それでも、当主の父がうなずいてくれなければ、婚約解消はできない。
子どものわがままではないと、正々堂々と訴えたのに。
もう、駄目。
父親は頼りにならない。話し合いもせず、力で押さえ込もうとするなんて……。
私は、自分で将来をつかみ取らなければ!
一晩、真剣に考えた。
結婚を取りやめられない状況で、自分を守るためにはどうしたらいいだろうか。
真夜中に、突飛な案が浮かんだ。
我ながら、頭がどうかしている。
だが、協力者がいれば、可能ではないか?
翌朝、学園で、婚約者の浮気相手メアリーに話しかけた。
いつもはあちらから嫌味を言ってきたり、「エヴァリン様に睨まれたわ、怖~い」と絡まれたり……自分から話しかけたことはない。
「な、なによ?」
怯えた顔をされて、こちらが驚いた。
なんだかおかしい気持ちが湧いてきた。口元が笑う形にならないよう、力を入れなくてはならなくなった。
誤魔化すように、軽く咳払いをする。
「んん。あなた、卒業するまでの恋人でいいのかしら?」
挑発されたと勘違いしたメアリーは、怒りを露わにした。
「あんたの手前、そう言っているだけよ。あたしたちは愛し合ってるんだから、離れられるわけないの。
あんたは邪魔者なのよ!」
廊下で、誰に聞かれるともわからない状況だ。エヴァリンは内心ひやひやしながら続けた。
「落ち着いてちょうだい。私も自分を愛してくれない男となんか、結婚したくないわ」
メアリーはきょとんとした顔をする。顎を引いて、慎重にこちらの真意を探ろうとした。
「……なにが言いたいの?」
「私たち、利害が一致していると思わない?」
エヴァリンはこれで本題に入れると、晴れやかな笑顔を見せた。
放課後に、裏庭の人気のないベンチで待ち合わせをした。
メアリーは、平民だが豪商の娘だ。
彼女にも婚約者がいる。彼女の父親の商会で支配人を務めている、年上の男性だ。
「あたし、卒業と同時に結婚させられて、外国の支店に行くのよ」
「ええ、聞いているわ。
卒業式までだから黙って見ていろと、彼に言われたもの」
なんてふざけた言い草だとそのときは腹が立った。思い出したら口調に怒りが混じってしまいそうだ。
そうならないよう、深呼吸をした。
「あたしたちは、引き裂かれる運命なんだわ」
メアリーはエヴァリンの心情に配慮することなく、悲劇に酔っている。
彼女を協力者にするか、利用して踏み台にするか迷っていたが、これなら踏み台でいいだろう。
「あなたの婚約者が協力してくれるなら……私がその人と外国に行けばいいと思わない?」
父は「アシュフォード子爵の娘がブレイク男爵家に嫁ぐ」という形だけがほしいのだ。
娘が幸せになれるかどうかなど、考慮する意味がないと言うのなら――。
外側だけ整えて「娘」が嫁ぎさえすれば、中身が別人だとしても構わないだろう。
それが、エヴァリンの辿り着いた答えだった。
「それって、あたしがヒューゴのお嫁さんになれるってこと?」
メアリーが両手を組み、庇護欲をそそる風情で呟いた。
「お互いに名前は交換することになるけれど、幸せになるにはそうするしかないと思うの」
エヴァリンはメアリーの目を見て、そう断言した。
次の休日に、エヴァリンはメアリーの友人として、家に招かれた。
そこにメアリーの婚約者が加わり、和やかにお茶会をする。
女友達の少ないメアリーに、子爵令嬢の友達ができたことを彼女の父は喜んだ。
毛嫌いしていた婚約者とも交流をするとは素晴らしい。子爵令嬢は自分の婚約者を取り戻すために、メアリーを諭してくれたのか。
素行の悪い娘を外国に出すしかないと、渋る妻を説得した。
娘の評判を知っていて、結婚したくないという部下を支配人に格上げし、海外の支店長を任せることで解決した。
ようやく娘も男爵令息と別れる決心をしたのだと、自分の苦労が報われたと――彼女の父親はその日、祝杯をあげた。
だが、そのお茶会の目的は、エヴァリンとメアリーの婚約者のお見合いだった。
メアリーの婚約者、チャールズ・ハミルトンは、少女たちの企みに言葉を失った。
なんと荒唐無稽な、お嬢さんたちのお遊びだろうと。
しかし、面白い。
もう、自分には思いついたり、実行したりできない大博打だ。
そして、メアリーよりも断然エヴァリンの方が魅力的だ。
父親を説得するために浮気の証拠を集めようとしたのが、いい。
何度か交渉して駄目だったという説明は筋道が立っていて、事実と推測を分けて考えられる点もいい。
泣き寝入りせず、抗おうとしている姿が、大変いじらしい。
生涯を共にするなら、物事を自分の利害だけで判断し感情的になるメアリーではなく、こういう女性がいい。
そう考えたチャールズは、少女たちの荒削りな計画を、どんどん実現可能なものに磨き上げていった。
結婚式の前夜、エヴァリンは緊張していた。
結婚式とその後の披露パーティーが終わったら、私は彼女と入れ替わる。
入浴と夜の準備についてくれる侍女を味方につけた。
メアリーが入浴している隙に、私は実家のメイドの服を着て外に出る。「お嬢様の嫁入りを手伝いに来た、エヴァリンお気に入りのメイド」という設定だ。やることがなくなったら、子爵家に戻るのは自然な流れである。
メアリーの婚約者は馬車で待機してくれる手はずになっている。そのまま港まで行けばいい。
彼は十歳以上も年上だけれど、その分余裕があって頼もしい。それになんとなく、エヴァリンには優しい気がする。
ヒューゴと結婚するなんて身震いするほど嫌だけれど、チャールズとなら……そこまで考えて、エヴァリンは真っ赤になり、枕を抱えてベッドの上を転げまわった。
そして翌日、予定どおり結婚式が行われた。
誓いのキスでエヴァリンは顔をしかめていたが、大人たちは恥ずかしいのだろうといいように解釈した。
ついに、初夜の時間。灯を消し雰囲気を盛り上げる香が焚かれる中で、新郎新婦は結ばれた……。
その頃のエヴァリンはランプを灯した馬車で、かなり強引な逃避行中。ガタゴト揺れる馬車の中で、舌を噛まないよう歯を食いしばっていた。
翌朝、甘い雰囲気が漂うはずのベッドルームに、困惑の声があがる。
「な、なぜお前がここにいる?」
「今日からあたしをエヴァリンと呼んで。彼女と入れ替わったの」
メアリーが新妻の初々しさを演じながら微笑んだ。
彼女の予定では、ここでヒューゴが感激して抱きついてくるはずなのだが……。
「ふざけるな! お前は平民だろうが」
「平民のメアリーは、今頃もう船の上よ。
あたし、学園でも優秀だったでしょ。頑張って貴族のマナーも学びますわ」
予想どおりの展開にならないことに、メアリーは戸惑った。
彼は、本当に愛しているのはメアリーだけだと言い、エヴァリンと結婚するなんて地獄だと言っていたのだから。
「冗談じゃない。付け焼き刃で恥をかくのはお前だけじゃなく、俺もなんだぞ。
エヴァリンは経営を学んでいるから、俺は楽ができると思ったのに」
ヒューゴは苛立ちをメアリーにぶつけた。
「私も簿記はできます」
「暗記が得意なだけじゃないか! 商会と領地の経営を一緒にするな。
エヴァリンの親だって黙っていないだろう」
「お手紙を預かっています。私を『娘だと思うように』と書いてくださったそうです。
『娘』の肩書きがあれば中身は問わないはずと、おっしゃっていました」
メアリーは必死に説明した。エヴァリンお墨付きの計画なのだ。
「そ、そんな……。お前みたいに他の男とも寝ているお古なんか、ごめんだ」
ヒューゴは聞き捨てならないことを呟いた。
「何を……あなただって、そのうちの一人じゃない」
「結婚は、まっさらな女としたかったんだよ。俺だけの女と」
「ばっかじゃないの。自分勝手なことばっかり言ってんじゃないわよ」
あまりにも身勝手な男。こんな男だとは思わなかった。
何人か付き合った中で、一番いい男を選んだつもりだったのに……。
メアリーはすでに後悔し始めていた。
その日の午後。三つの家が、新婚夫婦のいる男爵家に集まることになった。
エヴァリンのアシュフォード子爵家、ヒューゴのブレイク男爵家、そしてメアリーの実家カーター家。
エヴァリンがメアリーに託した手紙がブレイク男爵に手渡され、回し読みされたあと、テーブルの上に置かれた。
「なるほど。エヴァリン嬢は、もう戻る気はないと」
カーター氏が、娘のメアリーをジロリと睨めつけた。メアリーは気まずそうに顔を背ける。
「そんな。あなたの家の従業員が共犯なのに、なにを他人事のように――」
アシュフォード子爵が咎めるように言った。
ヒューゴとメアリーはこの場にいて、いないのはエヴァリンだけだ。娘に家出されたようなものなので、心配しているような顔つきだ。
「その従業員ですが、支店長への昇進を断り退職届を置いていきました。
今いる支店長を外して後釜に据える予定だったので、まあ問題は生じないのですが。
それに、娘から縁を切られた子爵こそ、こんな事態の元凶なのではないですか」
カーター氏は、きっちり反撃する。
「それを言うなら、浮気した男とあんたの娘のせいだろう」
「この一文『父はアシュフォード子爵家の娘がブレイク男爵家に嫁ぐという外側が整っていればいいのです。中身の、娘の幸せなど一顧だにしないので、中身が入れ替わっても気にしないでしょう』って、すごいですね。
どうです。家だけが大切で、娘などどうでもいいのだろうと突きつけられたわけですが?」
カーターは意地悪く、子爵の顔を見た。
「そんな、そんなはずは……。ちゃんと娘として愛している」
「そうですか。残念ながら、まったく伝わっていないようですね」
「私の部下のチャールズは、将来息子の片腕にしようと育てた男です。だから娘と結婚させようとしたわけですが――」
カーターは、もう娘の顔を見ようとはしなかった。
「彼が本気で逃げたら、私も本気にならなければ捕まえられません。
つまり、片手間でなく商会を畳む覚悟をすれば、見つかる可能性があるという話です。
だが、他の従業員もまだ学生の息子もいるし、そこまでする気にはなりませんね」
「どうしてだ。捜して、私の娘エヴァリンを連れ戻してくれ」
子爵は泣きそうな声で懇願した。
「失ってからその価値がわかったとでも言うおつもりですか?
多大な犠牲を払って見つけたところで、エヴァリン嬢が戻ってくる保証はないのですよ。
学園を卒業し、成人してしまったのです。本人の意向は無視できません」
「つまり、ハミルトン氏の案に従うのが、一番いいということか」
ブレイク男爵は、置き手紙の中から男性の筆跡の紙を手に取った。
「平和的解決を望むなら、そうですね」
カーターが商談をしているような温度で返事をする。
「あんただって、『娘』を失うことになるぞ」
子爵は恨みがましい目で、カーターを見た。
「まあ、ここまで親の言うことを聞かない娘なので、切り捨てるほかないでしょう。
『メアリーは結婚して外国に行き、生涯戻ることはない』というシナリオに乗りますよ。
断腸の思いですが、醜聞を撒き散らし、親の顔に泥を塗ることしかできない不良物件ですからね」
まったく「断腸の思い」には見えない冷たさだ。
メアリーは、恐る恐るブレイク男爵に声をかけて、手紙を見せてもらった。メアリーが預かった手紙だが、封がしてあったので中身は知らなかった。
手紙の前半の花嫁を交換するところは、知っている。
だが、後半の世間に知られないための対策なんて、聞いていない。
新婚夫婦は領地に押し込め、一切の社交を禁じる。友人との手紙のやり取りも禁止。ブレイク男爵家は跡取りを長男のヒューゴから次男に替えればいい。
――そんなことが書いてある。
「そんな、嘘でしょ……」
メアリーは口を押さえて、真っ青になった。
ヒューゴはメアリーから手紙を奪うようにして、目を通す。
「なんだこれは。女たちが浅はかな企みをしたせいで、どうして俺が廃嫡されるんだ」
「浅はかなのはあんたでしょ。エヴァリンの行動力を見抜けずに、浮気した馬鹿は」
「なんだと?」
若者たちの喧嘩など、今はどうでもいいと聞き流されている。
「あなたのところの従業員が手を貸さなければ、子どもたちのお遊びで済んだでしょうに」
ブレイク男爵は、恨みがましくカーターを責めた。
「奴の妹が貴族に弄ばれて自殺している。
婚約破棄をするからと言われ、それを信じて身を委ねてしまった。婚約者の女性の怒りが収まらず、浮気した女が憎いとハミルトン家は潰され、一家離散した。そのあと、うちの商会に流れてきたんだ。
当時のチャールズはまだ若く、知恵も金もなかった。
だが、今は違う。
妹の代わりに不実な男から守りたい。そう決めたら、全力で守り切る男だ」
カーターが苦笑いした。
口には出さないが、家族に自死された者同士なら、互いの傷を癒やすことができるかもしれない。
「では、エヴァリンは幸せになれるんだな」
アシュフォード子爵は、ようやく親らしい台詞を口にした。
「……さてね。親に愛されなかったという心の傷がどれくらい深いかは、人によるだろう」
カーターは肩をすくめた。
子爵は「娘の幸せを願っていただけなのに」と肩を落とし、誰にも届かない弁明をこぼした。
仕事を優先して、家庭を犠牲にしてきた男が三人。
この場に妻を呼ぶことすらしない――それが彼らの時代では「常識」だった。
寄り集まったところで、いい知恵が出てくることもなく、チャールズ・ハミルトンの提案通りにことが進んでいく。
「仕方ないので、この若い二人は領地に送ります。二度と王都に出なければ、『正しく結婚した』と思われるでしょう」
男爵が疲れた声で、この会談を終わらせたいと投げやりに言った。
それで辻褄を合わせるしかないと、大人たちは判断した。
「そのためには、監視をしっかりとしてくださいね」
カーターが念を押すと、男爵は平民に命令されたようで不愉快だという顔をした。
「――もちろん、当然ですよ」
「兄上が手紙を出せないように、右手を潰した方がいいんじゃないかな」
応接セットとは少し離れたところから、突然、少年の声がした。
ヒューゴが廃嫡となり、跡継ぎとなった弟だ。
「エヴァリン様はそこの二人が悪評を流したせいで友人が作れなかったけれど、兄上は広く浅く交友関係が広いですから」
子爵が「なんで相談してくれなかったんだ」と頭を抱える。
ヒューゴは「そうだ。俺には親友がたくさんいるんだ。こんな計画、バラしてやる」と喚く。
メアリーは「友人がいないからこそ、成り代わっても大丈夫よ」と懸命にアピールする。
そして、互いに相手の発言の揚げ足取りをしだした。「よく考えろ」と相手を見下して、否定する。
すっかり仲がこじれた新婚夫婦を、気遣う人間などここにはいない。
二人とも罵り合うだけで、逃亡する様子はない。雰囲気に流されて生きてきた二人には、自ら考えて実行する気概もないのだ。
その様子を、弟は冷めた目で眺めていた。
兄が浮気する度に、エヴァリンの顔が暗くなっていった。
義弟になる者として申し訳なく思っていたけれど――。
彼女が自力で未来を掴み取ったのなら、祝福を送るだけだ。
「幸せになってね」
そう独り言ち、そっと微笑んだ。
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2026年1月18日
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