第二話 落ちていく身体(後編)
『今の人、けっこうタイプだったかも!』
『やだ、何言ってるのー』
デートの待ち合わせに向かう途中、すれ違った大人の女性たちの会話が聞こえた。振り返った彼女たちの視線の先には、孝助。心がざわついた。
『孝助!』
彼女たちに見せつけるように、孝助の名前を呼んで、腕を組んだ。そのときふと、ショーウィンドウに映った自分たちを見て愕然とした。
(――なんて、子どもっぽいの……)
その姿は、仲のよい兄妹に見えた。彼氏彼女には、到底見えなかった。
(今まで、こんな姿で一緒にいたなんて…っ)
急に孝助の隣にいることが恥ずかしくなった。全然釣り合っていないように思えて。先ほどの女性たちにも『大したことない』と笑われたような気がして。
『……私、子供っぽいよね…』
『うん?どうした、急に』
『孝助に全然釣り合ってない…』
『………』
歩いていた孝助が急に立ち止まり、一花の頬を両手でぎゅっと押した。
『ひょ、なにふるほ!』
『ふはっ。かわいいな、一花は』
孝助が屈託なく笑う。それだけで胸がときめく。
『一花はかわいいよ。俺の方がただのおっさんに見られてないか気にしてるんだからな。でも、誰がなんというと俺たちは彼氏と彼女なんだ。周りなんて気にしなくていいんだよ』
『――うん、そうだよね…』
頷きながらも、その日から一花は大人っぽい自分にこだわるようになった。少しでも孝助に相応しくなれるように。少しでの歳の差が縮んで見えるように。
***
家を飛び出した一花が辿り着いたのは、幅の広い川にかかった橋の上だった。家から走り続けて、喉が焼け付きそうなくらい乱れた息が苦しい。
――孝助と付き合い続ける限り、一生歳の差を気にし続けるのだろうか?
そう考えた瞬間、ドクンと心臓が大きく脈打って、気分が悪くなってきた。
(勝手に歳の差に不安になって、勝手に悲しんでる…。孝助は気にするなって言ってくれたのに…)
今日のことだった我慢しようと思っていたのに、結局孝助に八つ当たりしてしまった。そんなことをするのが一番子どもっぽいと分かっているのに。
外を歩けば大人の女性ばかりが気になって、買い物に行けば大人っぽい服ばかりに目が行って、そんな風に焦っている自分に気づかないふりをして。
(……なんだか、少し、疲れちゃったな…)
それでも孝助と別れるなんて嫌だ。でも別れたくなるくらい心が乱れるときがあって。
一花は今、三年分の負の感情に押し潰されそうになっていた。
(――ここから飛び降りたら、楽になるのかな…?)
川を見下ろしていたら、ふとそう思った。川幅こそ広いものの、深さはない。落ちれば奇跡が起こらない限り、助かる見込みは薄いだろう。
飛び降りれば苦しい思いから解放される。何より孝助は罪の意識を背負って、一生自分のことを忘れないはずだ。
一度そう思えばそれが最善の選択肢のように思えて、気づけば一花はふらりと手すりの向こう側に身を乗り出していた。
ぐらり、視界が揺れて、その高さに心が怯みそうになる。この身体を支えている手を離せば、一気に真っ逆さまだ。怖いのは落ちる瞬間まで。落ちてしまえば何かを考える間もなく全てが終わる。
「――っ、」
ごくりと息を呑めば、唯一の支えの両手が小さく震えていることに気づいた。
(本当に落ちれば楽になれるの?落ちてしまえば最後、もう二度孝助に会えないんだよ?)
じわりと一花の視界が滲む。
孝助に会いたくないわけじゃない。ただ苦しいのが嫌なんだ。ただ、安心したいだけなんだ。自分は孝助の隣にいてもいいと、自信を持って言えるようになりたいだけなんだ。
「っ、やっぱり無理…!孝助に会いたいよ…!」
家に戻って、仕事が終わったら連絡がほしいとメッセージを送ろう。そして乱暴に電話を切ったことを謝ろう。それから記念日デートのやり直しの計画を立てて、もう一度二人でおめでとうって言い合おう。
そう思い直して、手すりの向こう側に乗り出していた身体を戻そうとしたときだった。
「――え?」
戻ろうとして手すりにかけた爪先が滑った。その衝撃で、乗り出していた身体が大きく後ろへと傾いた。反射的に身体を支えようとして力を入れたはずの両手は何も掴んでいなくて――。
一花の意識は、そこで真っ黒に染まった。




