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第一話 落ちていく身体(前編)


 大学生の一花(イチカ)は、自室で鼻歌を歌いながら、胸元までのダークブラウンの髪を巻いていた。今夜は社会人の彼氏と、付き合って三年目の記念日ディナーに行く日だ。いつだったか雑誌を見ていて『行ってみたい』と一花が零したお店。夜景が綺麗でお洒落なフレンチのお店を彼氏が予約してくれていた。


「今日は特に大人っぽくしなきゃ」


 普段から社会人の彼氏に釣り合うよう、大人っぽいメイクや服装を心がけてきた。だけど今夜は特に気合いを入れないといけない。お店にはきっと、綺麗な大人の女性がいるに違いない。そんな彼女たちと比べて、自分が子どもっぽいなんて彼氏に思われたくない。


 あとはカラーリップの色を決めて、唇に乗せるだけだ。そう思ったとき、スマートフォンから着信の音が鳴った。


「ん?誰だろ?」


 ディスプレイに表示されるのは、『孝助(こうすけ)』という彼氏の名前。じわりと胸に広がった嫌な予感をそのままに、一花は電話に出た。


「――もしもし、」


「一花?急にごめん。今夜の出かける準備…もうしてる、よな?」


「……うん。でもまた途中だよ」


 本当はすごく楽しみにしていて、準備もほとんど終わっている。それでも途中だと答えたのは、孝助の声に一花の様子を窺うような雰囲気を感じたからだ。


「あの、さ。すごく言いにくいんだけど、仕事を終えようとしたら、急に上司に声かけられて、」


 ――どうしても残業しなきゃいけなくなった。ごめん。


 やっぱりか、と一花は思った。仕事ならしかたない。それでお給料をもらっているんだ。今夜のディナーだってお金がなければ行けない。不満なんて、言えるはずもない。


「一花?」


 黙り込んだ一花の名前を、孝助が呼ぶ。


「……そりゃ怒るよな、ごめん。この埋め合わせは絶対するから。本当にごめんな、一花」


「………、」


 『大丈夫。お仕事なら我慢できる。だから絶対あのフレンチのお店に連れて行ってね』。そう答えようと思った瞬間。


「――篠原(しのはら)くん、あなたの手伝いをするように言われたんだけど――あっ。電話中だったの、ごめんなさい」


 話し方で分かる『大人の女性』の声に、一花は息を呑んだ。


「ん?ああ、大丈夫。すぐ戻るから待ってて」


 電話の向こうの女性に答える孝助の口調はくだけている。孝助にだって異性の同僚の一人や二人くらいはいるだろう。今の言葉だって、仕事があるからすぐ戻ると言っただけだ。そう分かるのに。分かっているのに。


「一花?ごめん、俺もう行かなきゃ――」


「…もう、いいから」


「え?」


「もういいから!分かった!じゃあね!」


 一花は乱暴に電話を切った。こんなのは八つ当たりだと分かっている。どんなに見た目を綺麗にしても、それは自分の意地から来るもので、本当は少しも意味がない。


「バッカみたい…っ」


 鏡に映るいつもより大人っぽい自分の格好が急にバカらしく思えて、一花は吐き捨てた。ただ、記念日のディナーに行けなかった。たったそれだけのことのはずなのに。たったそれだけで、一花は今まで積み重ねてきた努力が全部無駄になってしまった気がした。


「もう、全部嫌だ…っ」


 一花は乱れた感情のまま、家を飛び出した。


***


 一花と孝助の出会いは、一花が小学生のときだった。引っ越した先の隣に孝助とその両親が住んでいて、最初に親同士が仲良くなった。


『君が一花ちゃん?俺、孝助。よろしくね』


 家族ぐるみで初めて一緒にバーベキューに行ったとき、一花は孝助に会った。一花は十歳、孝助は十七歳のときだった。


 七歳も年上なのだから当然なのかもしれないが、孝助は一花の周りにいる男子よりもずっと大人っぽくて、ずっとかっこよかった。中学生、高校生になっても、その思いは変わらなかった。


『俺は一花から見ればおっさんだから』


 高校生になった一花が必死にアピールしても、孝助はそう言ってはぐらかすばかりだった。歳の差を理由に相手にしてもらえないことが悔しかった。だから最後に思いっきり気持ちをぶつけた。


『私は孝助のことが好き…!大好き…!でも孝助も同じ気持ちじゃないなら、もう諦める…!もう、好きでいるのをやめる…!』


 ロマンティックさもなにもない、泣きじゃくりながらの最後の告白だった。叶うはずがないと分かっていても、自分の気持ちを昇華するために、どうしても伝えたかった。


『―――っ、』


 そのときの孝助の表情は、うれしいような、困ったような。受け止めたいような、逃げ出したいような、そんな複雑な顔をしていた。


『……バカだな、一花。せっかく気づかないふりしてたのに、』


『…え?』


 気づいたときには、一花は孝助に抱きしめられていた。


『俺、七つも年上だけど大丈夫?きっと一花のこと、もう離してやれないよ?』


『っ、離さないでよぉ…!』


『俺も一花のことが好きだ。――ずっと、好きだった。一花がまだいろんな他の男に出会う可能性があることが怖くて、言い出せなかった』


 付き合えたときは、生きてきた中で一番幸せな瞬間だった。友だちには、『社会人の彼氏なんてかっこいい』と言われたけど、『社会人だからかっこいいんじゃない。孝助だからかっこいいんだよ』なんてノロケたりもした。


 近場から遠出まで、孝助はいろんなデート先に連れていってくれた。デートに行けないときは、ほんの少しの時間でも会ってくれた。幸せだった。初恋の人が初めての彼氏になってくれて、浮かれていたんだと思う。


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