この冬を越えたら
時戻り前、私は『無能な亡霊王女』として北ソルディア帝国に輿入れした。
和平協定という名目により皇室の懐に入ることを許されたのが、なんの力も持たない敵国の王女だと油断させるために。
そしてドルウェグは『外の人間に少しでも魔導の知恵が渡るのは耐えられん。その分お前は無能ゆえ特段心配も要らない。体でもなんでも使ってクラウド皇太子に取り入れ』と命じた。
そういった意味で、あの頃の私は適役だった。
だからこそ、地位と立場が前回よりも明白になった今の私は、どうすれば輿入れ候補として名を挙げられるだろうと考えていたのだが……。
「ドルウェグ兄様。私が適役とは、どういう意味でしょうか」
(今はもう、無能とも亡霊王女とも呼ばれなくなった。ということは、時戻り前とは違った意味で適役ということ?)
こういうとき、心底不本意だけれど王太子のお気に入りとして疑問を口にできる関係になったのは本当にありがたい。
通常ならばドルウェグが決定したことには問答無用で頷くしかない。
王女を駒として考えている彼にとって決まっている問題をいちいち一から丁寧に伝える行為そのものが無駄だと思っているからだ。
「お前にしては珍しい。俺の采配に不満があると?」
「……兄様の決定を疑ったことなど一度もありませんわ。ただ、せっかく兄様が適役だとおっしゃってくれているのです。その理由を知りたいと思うのは罪でしょうか」
「この数年で随分と口が上手くなったものだな」
それはもう返す言葉がない。
でも悪い気はしていないんでしょう?
見え透いたおべっかを馬鹿らしく思う反面、分かりやすく媚びを売る相手を滑稽で愉快だと思っていることも知っている。
だてにこの数年、王太子のお気に入りをやってきたわけじゃないわ。
「意地悪をおっしゃらないで。輿入れ前にドルウェグ兄様のお考えを胸に留めておきたいのです」
にこりと笑ってまっすぐ見つめれば、ドルウェグは少々肩を竦めて「まあ良い」と頷いた。
「元々お前には話すつもりでいた。ほかの王女では些か荷が重い……いや、そもそも成し遂げることも不可能に近いだろうからな」
「私に、なにをお求めでしょうか」
ドルウェグは一度口を閉ざすと、視線を斜めに動かした。
己の言動に狂いなどないという強欲な自信が常に感じられる瞳に、ほんの僅かに影が落ちる。
しかしそれも気のせいに思える一瞬で、ドルウェグはいつも通りの表情で再び口を動かした。
「俺が求めるものはただ一つ。王よりも先に、賢者ダスク王が遺した未知の魔法式を探し出せ」
影のあった瞳の奥でめらめらと燃え上がる意志のようなものに、私は言葉を躊躇った。
なによりもドルウェグの発言があまりにも予想外の内容だったので、いつも貼り付けるように心がけているしたたかな悪女(に見えているらしい)の表情が緩んでしまう。
(賢者ダスク王……このシュトラウス王国建国者にして、世界で最初に名を轟かせた創成の魔導師。その人が遺した、未知の魔法式?)
そんなものがあったなんて今まで聞いたことがない。
なぜだかザワザワと胸騒ぎを覚えながら、私は詳細をドルウェグに尋ねる。
「賢者ダスク王が遺したというのは、一体どのような未知の魔法式なのですか?」
「それは――」
この瞬間、ドルウェグの言葉がやけにゆっくりとして聞こえた。
頭が理解するのに時間をかけたせいなのか、それとも驚きのあまりうまく発言を呑み込めなかったからだろうか。
おそらく、両方だった。
「時戻りの魔法式。それは賢者ダスク王の生涯において、すべての叡智を結集させ生み出された幻の魔法式だ」
ドルウェグの言葉に、私の状況を指摘されたような気がして、心臓が大きく跳ね上がった。
「……時戻りの、魔法式?」
ドルウェグから幻の魔法式の存在を聞かされた私は、無意識に拳を握りしめていた。
(時戻りって、まさに私がなっている状況のことじゃない。それが、賢者ダスク王が作り出した魔法式で……)
まだ私の時戻りと、幻の魔法式を結びつけるのは早すぎる。しかし同じくらい無関係だと決めつけるだけの判断材料もなかった。
「どうかしたか」
「……っ、いえ」
私の動揺をドルウェグに悟られてはいけない。
どんな些細な感情の動きも彼は見逃さない。少しでも気がかりだと思われれば余計な詮索をされかねないから。
「時戻り、ということは、時間操作の類いの魔法ということでしょう? そのような未知の魔法式が存在するとは夢にも思っていなかったので少し考えておりました」
「無理もない。時戻りの魔法式は、シュトラウス王家にのみ言い伝えられる未知の魔法式……だが、実在するのは確かだ。俺はそれを必ず手に入れる」
並々ならぬ意志の強さにこちらが怖気付きそうになる。
時戻り前のドルウェグも同じようにその時戻りの魔法式を探し求めていたのだろうか。
「……つまり私が北ソルディア帝国に嫁ぐことで、時戻りの魔法式の発見に繋がるのですね?」
「ああ、その通り。お前といると無駄に口数を増やさなくていいのが楽だな」
機嫌よく微笑むドルウェグ。彼なりの褒め言葉なのだが、ちっとも嬉しくない。
「記録によると時戻りの魔法式は、賢者ダスク王がある魔石に封じたとされている。この大陸で魔石を有するのは北ソルディア帝国であり、どうやら皇室に深く関わるものらしい」
(皇室に深く関わる、魔石……もしかしてあれのこと?)
ソルディア皇室には代々受け継がれる三種のレガリアがある。
王冠・王笏・宝珠のそれぞれに希少な魔石がいくつもはめ込まれており、ソルディアの象徴にして国宝だ。
(レガリアに賢者ダスク王が魔法式を……でも、時戻り前はクラウド様も、ほかの人たちの誰も知らない様子だった)
……本当に?
『――――』
そのとき、頭の奥に微かな痛みが走った。
同時に人の声にも似た耳鳴りが聞こえ、そっとこめかみを押さえる。
「先ほどから何か様子が変だな。まさかお前が、非力なソルディア相手に怖気付いているわけではないだろうな」
眉を寄せるドルウェグに、私はすぐさま笑みを浮かべた。
「……ふふ、私に恐れることがあるとすれば、それはソルディアに対してではありません。シュトラウスを離れることでドルウェグ兄様に愛想を尽かされてしまわないかが少し心配の種なだけです」
見え透いたおべっか。意識しなくてもつらつらと口を動かせてしまう。
そのたびに、ああ、もうあの頃の私はいないのだと思い知らされる。
「はは、その調子でソルディアの皇太子もうまく丸め込むといい。お前の働きを期待しているぞ、レティシャ」
「はい、ドルウェグ兄様。ご期待に添えるよう心を尽くして嫁いで参ります」
立ち上がり、ふわりとスカートの裾を摘んで礼をとる。
こうして私の北ソルディア帝国への輿入れが決まったのだった。
その日の夜はなかなか眠れなかった。
ずっと走ったあとのように心臓がとくとくと動いていて、何度も寝返りを繰り返した。
「…………クラウド様」
「グルル?」
私の小さなつぶやき声に反応したスティがこちらを見てくる。
「スティ、やっとよ。やっとまたクラウド様のそばに、ソルディアに行けるの」
「グルルルル……」
スティは瞳をしぱしぱとさせ、首をこてんと動かした。
「え、わからないの? クラウド様よ、いつもあなたにだけ話しているでしょ。ほらこの――特製ぬいぐるみの人!」
そう言って私は枕元から両手で抱えられる大きさのぬいぐるみを取り出した。
緻密な細工で作られた手作りのぬいぐるみ……言わずもがなモデルはクラウド様だ。
「……グルル」
「わ、わかってる、わかってるわ! 勝手にクラウド様の姿を模して作るだなんて、私ったらとんでもない拗らせ女よね!?」
じと、といういたたまれない視線をスティから向けられ、私は寝台の上でバタバタとのたうち回る。
本人の許可なくこんなものを制作してしまうなんて、誰かに知られたらきっと思いきり引かれてしまう。
「でもでも、ぎゅっと抱きしめると勇気が湧いてくるというか、大丈夫だって強くなれるの。もちろん誰にも見られないようにいつも装飾箱に入れて施錠しているし、知っているのはスティだけ……」
「グルッ」
「ああ、スティ! またクラウド様の頭を!」
不機嫌そうに尻尾をパタパタと揺らしたスティは、私の手にあるクラウド様ぬいぐるみの頭を噛む。もちろん甘噛みで加減はしてくれているけれど。
スティからクラウド様ぬいぐるみを離し、枕の横に置く。
膝を抱え、片方の手でスティの体を撫でながら、ぬいぐるみをじっと見つめた。
「……明日から、忙しくなるわね」
輿入れまでの数ヶ月、これまで以上に忙しくなるだろう。
私に割り振られていた職務をほかの王女たちに振り分け、同時に鉱山などの所有地の管理についても話し合わなければならない。
時戻り前の情報を利用し、うまくシュトラウス王家の利益に繋がるよう努めてきたけれど、他国に嫁ぐとなると所有権は王家に返還される。
私を疎んでいた王女たち……主に年長組の面々からすると、この好機を逃さないでしょうね。
王室魔導院の引き継ぎや、リアムの枯黒病について……そのほかにもやっておかなければならないことが山ほどある。
ドルウェグが探し求めている時戻りの魔法式の件も、一筋縄ではいかなそうだ。私の時が戻ったことと関係があるのか、それについても詳しく調べないと。
しかしこればかりはソルディアに行ってからでないと深くは突き止められそうにない。
「でも、ひとまず……ソルディアに行くことができそうでよかった」
まだ、ソルディアの未来を変えるための下準備を進めている段階だ。決して安心はできない。
けれど、つい嬉しさから笑みが込み上げてしまう。
だって、無事にこの冬を越えたら。
「……また、あなたに会える」
シュトラウスの悪女と嫌われ、たとえあなたの記憶に私がいなくても。
この気持ちはずっと変わらない。




