第九話∶記憶の断片、異形の影
悟の胸の内には、いくつもの感情が渦巻いていた。目の前の信じがたい光景。異世界の姫と、彼女を守る異形の戦士。そして、自分をこの場所へと導いた、不思議なペンダント。夢の中で見た光景が、現実と交錯し、まるで自分が物語の中に放り込まれたような、奇妙な浮遊感に襲われていた。(一体、これはどういうことだ? あの夢は、ただの夢じゃなかったのか? そして、この女性が、本当にあのペンダントの持ち主なのか……?)
タケオの顔には、深い皺が刻まれていた。長年、この島で生きてきた彼の目は、警戒の色を濃くしていた。(まさか、こんなことが起こるとはな……。あの祠は、昔から不気味な場所だったが……。異国の人間だと? それも、姫だと……?)彼の心には、島に伝わる古い言い伝えが蘇っていた。忘れられた土地には、時折、異界からの漂流者が現れる、と。それは、単なる迷信ではなかったのか。
「姫様……」イサクの声は、心配と焦燥の色を滲ませていた。(どうか、思い出してください、姫様。このわたくしの声が、あなたの心の奥底に、少しでも届けば……)彼の忠誠心は、揺るぎないものだった。故郷を離れ、遥か遠いこの島まで姫を追ってきた彼の胸には、姫を守り抜くという強い決意が宿っていた。しかし、目の前の姫の茫然とした表情を見るにつけ、焦りが募っていくのを感じていた。
「思い出せない……何もかも……まるで、霧の中にいるみたいで……」ルナと呼ばれた姫の声は、弱々しく、まるで壊れやすい硝子細工のようだった。(私は……一体、誰なの? ここはどこ? なぜ、こんな場所に……? あの温かい光、優しい桜の舞う場所は……もう、思い出せない……)失われた記憶の断片が、彼女の心を苛んでいた。頭の中には、ぼんやりとした映像が浮かぶものの、それが何だったのか、どうしても掴むことができない。
その時、再び響いた異質な鳥の鳴き声は、単なる自然の音ではなかった。それは、何かを探し求めるような、切羽詰まった叫びのように聞こえた。(追っ手……!)イサクの表情は、一層険しくなった。(まさか、こんなにも早く……! どうやって、この島の存在を知ったのだ?)
悟の心臓は、激しく鼓動していた。(追っ手だと? 一体、この姫は何から逃げているんだ? そして、あの鳥の鳴き声は……まるで、何かを知らせているようだ……)彼の探求心は、危険な状況に置かれてもなお、静かに燃え上がっていた。この異世界の謎を、少しでも解き明かしたいという衝動に駆られていた。
祠の外の気配は、明らかに増していた。足音の数が増え、獣のような唸り声が混じることで、それが人間以外の存在も含まれていることを悟らせた。(人間だけじゃない……? 一体、何が迫ってきているんだ?)タケオは、鉈を握る手に力を込めた。(何が来ようと、この島にいる間は、おいらが守る。見知らぬ姫御であろうと、それは変わらん)彼の目は、覚悟を決めた男の強い光を宿していた。
「まずい!」イサクは、姫の細い腕を掴み、自分の背後に庇った。(姫様を、何としても守らねば! 故郷へ、必ずお連れ帰りするのだ!)彼の身体は、微かに震えていたが、それは恐怖からではなく、迫り来る脅威に対する警戒心からだった。
ルナは、イサクに促されるまま、彼の背後に身を寄せた。しかし、その小さな身体は、恐怖で強張り、まるで石のように動けなかった。(怖い……何が来るの? あの黒い影……あの冷たい光……)彼女の心は、得体の知れない恐怖に支配されていた。
「悟さん、タケオさん、あなたたちも、ここに!」イサクの言葉には、敵意と、そして、わずかながらも、共にこの危機を乗り越えようとする意図が感じられた。(異国の者とはいえ、今は共に戦うしかない。姫様を守るためには……)
悟とタケオは、一瞬、顔を見合わせた。敵意を向けられながらも、共に戦うことを求められている。この状況の異常さを改めて感じながらも、二人は頷き、イサクと姫の近くに身を寄せた。(今は、協力するしかない。この状況を理解するためにも……)
次の瞬間、祠の入り口を覆った影たちは、予想を遥かに超える異形だった。人間のような姿をしているものの、その動きはぎこちなく、関節が不自然に曲がっていた。彼らの目は、理性的な光を失い、飢えた獣のようにギラギラと光っていた。手にした奇妙な形状の武器からは、禍々しいオーラが漂っていた。(これが……追っ手なのか? まるで、生ける屍のようだ……)悟は、その異様な姿に、言葉を失った。タケオも、眉を深く顰め、鉈をしっかりと握り直した。(こりゃ、ただの人間じゃねえな……)
「姫様を守れ!」イサクの叫びは、決死の覚悟を示していた。彼は、襲い来る異形たちの中に飛び込み、手にした短剣を閃かせた。その剣術は、まさに神業だった。研ぎ澄まされた動きで、一体、また一体と、異形たちを斬り倒していく。しかし、その数は減ることを知らず、次々と襲い掛かってくる。(なんと速い動きだ! そして、この数は……!)悟は、イサクの驚異的な戦闘能力に目を見張った。
タケオも、遅れじとばかりに鉈を振るった。山で鍛え上げた力強い一撃は、異形たちの動きを鈍らせ、時には、その異様な身体を両断する。彼の経験と勘は、この異質な戦いにおいても、確かな武器となっていた。(気味が悪い連中だが、動きは単純だ! 一匹ずつ、確実に仕留めていく!)
悟は、二人の戦いを固唾を呑んで見守っていた。自分にできることはないか? しかし、迂闊に近づけば、逆に二人の邪魔になる可能性もある。今は、状況を冷静に分析し、隙を見て行動するしかない。(あの異形たちは、一体何なんだ? そして、あの仮面の男は……?)
その時、悟の視線は、再び祠の奥の小さな空間に引き寄せられた。蠢く黒い影は、ゆっくりと、しかし確実に、その姿を現し始めていた。それは、想像を絶する異様な存在だった。全身を覆う黒い装束は、まるで闇そのもの。顔を覆う奇妙な仮面は、無機質でありながら、底知れない恐怖を煽る。その姿は、まさに悪夢の具現化だった。(あれが……本当の敵なのか? あの禍々しい気配は、この男から発せられている……!)
仮面の男は、静かに、しかし、周囲の空気を支配するような強い威圧感を放ちながら、悟たちを見つめていた。仮面の奥に潜む瞳は、獲物を定める蛇のように冷酷で、ゾッとするほどの憎悪を宿していた。(この男は……ただ者ではない。イサクやタケオとは、明らかに違う……!)
「貴様らが、姫様を匿っているのか……」仮面の男の声は、嗄れて低く、まるで地の底から響いてくるようだった。その言葉には、抑えきれない怒りと、ねじれたような執念が込められていた。(よくも……よくもわが姫を……必ず、その罪を償わせてくれる!)
イサクは、一体の異形を斬り伏せ、血飛沫を浴びながら、仮面の男を睨みつけた。(貴様のような輩が、姫様に何の恨みがあるというのだ! 決して、姫様を貴様らの好きにはさせん!)彼の目は、怒りの炎を燃やしていた。
「我らは、姫様の罪を裁く者……」仮面の男は、ゆっくりと手を上げた。その手に握られた黒い杖の先から、どろりとした黒い光が放たれた。それは、単なる光ではなく、意思を持つかのような、おぞましいエネルギーの塊だった。(あれは……一体、何だ? ただの光じゃない……!)悟は、本能的な危機感を覚えた。
「危険だ!」悟の叫びは、遅すぎた。
黒い光は、一直線にイサクとタケオに向かって放たれた。二人は、驚異的な反射神経で身をかわしたが、光が地面に触れた瞬間、ジュッという音と共に、黒い焦げ跡が広がり、立ち込める煙からは、異臭が漂っていた。(触れたものが、跡形もなく消し炭になる……!)悟は、その破壊力に戦慄した。
(やはり、ただの人間ではない……!)悟は、確信した。この仮面の男たちは、自分たちの住む世界とは異なる法則を持つ、異世界の存在なのだ。そして、彼らが追う姫は、その世界において、重要な鍵を握る人物なのだろう。
「姫様、早くここから!」イサクは、なおも襲い来る異形たちを斬り払いながら、ルナの手を掴み、祠の奥へと引っ張ろうとした。(このままでは、皆殺しにされる! なんとかして、ここから逃げなければ!)
しかし、ルナの足は、まるで地面に縫い付けられたように、一歩も動かなかった。その瞳には、先ほどの恐怖に加え、深い絶望の色が宿っていた。(もう、どこへも行けない……また、あの黒い影が……)
その時、悟の目に、自分の胸元で微かに光を放つペンダントが映った。夢の中で見た、不思議な光。このペンダントが、導くように自分をこの島へ連れてきた。そして、目の前にいる姫と、自分を結びつけた唯一の繋がり。(このペンダントに、何か力があるのか……? この状況を打開する、何か手がかりが……?)
悟は、意を決して、ペンダントを強く握りしめた。すると、その光は、徐々に強さを増していった。それは、微弱ながらも、確かに、闇を払う希望の光のように見えた。
その光を見た瞬間、ルナの固まった表情に、かすかな変化が現れた。恐怖で凍りついていた瞳の奥に、一瞬、戸惑いのような光が宿った。(この光は……どこかで……?)
「あなたは……」ルナは、悟を見つめ、震える声で呟いた。「そのペンダント……」
その言葉を聞いた仮面の男は、まるで雷に打たれたかのように、動きを止めた。その仮面の奥の瞳が、驚愕の色に染まったのが、悟にも感じられた。(まさか……! なぜ、お前がそれを……!)
仮面の男の動揺を見て、悟は、このペンダントが、単なる装飾品ではない、特別な意味を持つことを確信した。(やはり、このペンダントが鍵だ! この男も、何かを知っている……!)
「これは、あなたが持っていたものです」悟は、ルナにペンダントを見せた。「このペンダントが、私たちをここに導いてくれたのです」
ルナは、ゆっくりと手を伸ばし、まるで大切な宝物に触れるかのように、ペンダントにそっと触れた。その瞬間、彼女の身体が、目に見えて震え始めた。そして、その美しい瞳から、一筋、また一筋と、熱い涙が溢れ出た。(ああ……この温かさ……懐かしい……)
「思い出した……少しだけ……」ルナの声は、掠れていたが、確かに、そこに確かな感情が宿っていた。「私は……ルナ……桜の国の……姫……」
その言葉は、長きに渡る沈黙を破り、この異世界の謎を解き明かす、ほんの始まりの合図だった。ルナと呼ばれた姫の、失われた記憶の断片が蘇り始めた今、悟たちは、彼女を追う異形たちの正体、そして、この異世界の真実へと、一歩近づいたのかもしれない。しかし、その先に待ち受けるものが、希望の光なのか、それとも、更なる絶望の闇なのか、まだ誰にも知る由はなかった。古びた木箱から始まった、奇妙な物語は、予想もしない深みへと、悟たちを誘い込もうとしていた。
(第九話完)