第四章:交錯する記憶、解き放たれる真実
古びた蔵のひんやりとした空気の中で見つけた、つややかな木肌の日本人形。その小さな、しかし精緻な姿は、老婆の語る遠い日の記憶と重なり合い、私の魂の奥底に眠る前世の断片的な記憶を、まるで霧が晴れるように鮮明に映し出し始めた。夢の中で、涙に濡れた瞳で私を見つめていた着物姿の女性。遥か昔、荒波を乗り越え、この見知らぬ土地に辿り着いた異邦の民――日本人。その魂は、形見の人形に宿り、今もなお、この地で何かを訴え続けているのだ。そして、リナさんの失踪現場に残されていた、見慣れない、幾何学的な模様の靴跡。それは、紛れもなく現代日本の骨董品収集家のものと思われる、特徴的なパターンを示していた。
(一体、どういうことだ? なぜ、私の故郷の人間が、こんな辺境の山奥の村に……?)
信じがたい事態に、私の思考は煮詰まった鍋のように沸騰寸前だった。しかし、混乱の暗雲の中に、一条の細い光が射し込む。もし、その収集家が、この地にひっそりと眠る日本の「忘れられた品々」を、その異質な魅力に惹かれてやってきたのだとしたら? そして、その過程で、純粋で聡明なリナさんが、何か彼にとって都合の悪い真実に気づいてしまい、事件に巻き込まれてしまったのだとしたら?
「おばあさん……」
喉が渇いたように、私は老婆に再び向き直った。古木の年輪のような深い皺が刻まれた老婆の顔には、慈しむような眼差しが注がれている。その視線の先にある古びた人形は、どこか寂しげにも見えた。
「この人形について、もっと詳しく教えてもらえますか?」
私の声は、自分でもわかるほど微かに震えていた。老婆は、ゆっくりと、まるで遠い昔の物語を紡ぐように口を開いた。
「この人形はなぁ、遠い海を渡って来た人々が持ってきた物の中でも、ひときわ奇妙なものとされておった。『オニンギョウ』と、彼らの言葉で呼んでいたと聞く。美しい絹の着物を着せられ、まるで生きているかのような、それはそれは繊細な作りだったそうだ。その国から来た、それはそれは可愛らしい娘さんが、いつも肌身離さず大切にしていたらしいが……」
老婆は、そこで言葉を切ると、古井戸の底を覗き込むような、深く寂しげな表情で遠い目をし、ゆっくりと続けた。「やがて、その国の人々は、この村から一人残らずいなくなってしもうた。残されたこの人形には、娘さんの悲しい魂が宿っておると恐れられ、長い間、あの蔵の奥に、誰にも触れられぬよう、そっとしまわれておったんだ」
(娘……夢の中の、あの悲しげな女性は、この人形の持ち主の娘だったのか? そして、彼女はなぜ、見も知らぬ私に、リナさんを探してくれと、夢の中にまで現れたんだ?)
二つの世界の記憶が、私の頭の中で激しい渦を巻いている。前世で見た、桜舞う中で佇む着物姿の少女のアニメーション。友人と熱中したゲームに登場した、どこかこの人形に似た意匠のアイテム。深夜、何気なくネットサーフィンをしていた時に、ふと目に留まった古びた人形の写真……それらの中に、この人形と酷似した意匠のものがなかったか、焦燥感に駆られながら、必死に記憶の糸を辿る。しかし、具体的な手がかりは、なかなか見つからない。ただ、胸の奥に、鉛のような重い不安が、じわじわと広がっていく。
「村長さん……」
私は、憔悴しきった村長の、深く窪んだ目を見つめた。彼の顔には、疲労の色が濃く滲み出ており、娘を失った悲しみが痛いほど伝わってくる。
「リナさんの部屋に残されていたものはありますか? 何か、彼女が大切にしていたもの、あるいは、私たちが見慣れないような、奇妙なものなど……」
私の問いかけに、村長は、藁にも縋るような、かすかな希望を託すような目で私を見つめ、力なく、しかし真剣な面持ちで頷いた。「ああ、悟さん。もし、リナの手がかりになるものがあるなら……どんな些細なことでも構わない。教えてください」
村長に案内され、リナさんの質素な部屋に入る。西日が差し込む小さな部屋は、きちんと整理整頓されており、彼女の几帳面な性格が偲ばれる。机の上には、年頃の少女らしい、可愛らしい小物がいくつかと、使い込まれた絵筆やスケッチブックが置かれている。窓際には、摘まれた野花が、静かに時を止めていた。その中で、私の目を捉えたのは、机の隅に置かれた、小さな、木の箱だった。
「これは……?」
私がその小箱を手に取ると、村長は、絞り出すような声で言った。「リナが、いつも大切にしていたものです。中には、彼女にとっての宝物が入っていると……」
ゆっくりと、息を詰めるようにして小箱の蓋を開けると、中には、いくつかの磨かれた小石や、押し花になったドライフラワーと共に、一枚の古びた金属の板が入っていた。それは、私が森の中で、あの異様な気配を感じた場所で拾った装飾品に刻まれていた紋様と、信じられないほど酷似した紋様が刻まれていたのだ。
「この紋様は……!」
驚愕のあまり、思わず声を上げた私に、腕組みをしたまま静かに様子を見ていたバルトさんが、低い、警戒の色を帯びた声で言った。「悟さん、この紋様は、あの森で見つけた装飾品にも刻まれていたものと同じだ。一体、これは何を意味するのだ?」
さらに小箱の中を注意深く見ると、金属の板の下に、丁寧に折り畳まれた一枚の、黄ばんだ紙片が見つかった。その紙片を、指先が震えるのを抑えながら恐る恐る広げてみると、そこには、歪んだ、まるで震える手で書かれたような文字で、見慣れない言葉が綴られていた。しかし、その筆跡は、昨日私が夢の中で見た、あの悲しげな女性が、何かを書き残そうとしていた、あの痛々しいほど震える筆跡と、確かに酷似していた。そして、その紙片の隅には、辛うじて判読できる程度の、小さな落書きのようなものが描かれていた。それは、歪んだ三日月と、その内側に寄り添うように描かれた、赤い小さな丸を組み合わせた、あのペンダントの意匠そのものだった。
「これは……夢の女性が……?」
確信に近い、いや、もはや確信と言ってもいいだろう。その強烈な予感が、私の胸を稲妻のように駆け巡る。リナさんは、この金属の板と、そこに刻まれた紋様、そしてあのペンダントについて何かを知り、それを誰にも見られないよう、この大切な小箱に保管していたのではないか? そして、その秘密を知ってしまったことが、彼女の突然の失踪と深く関わっているのではないか?
その時、私の並列思考は、リナさんの部屋に漂う、微かな、しかし確かに存在する、どこか嗅ぎ慣れたような匂いを捉えた。それは、森の中で嗅いだ、微量の血液の鉄錆びた匂いとは明らかに異なる。もっと科学的で、人工的な匂い……前世の記憶の引き出しを一つ一つ開けていく中で、それは、ある特定の溶剤の匂いとして認識された。古くなった油絵の具を薄めたり、繊細な骨董品の汚れを落としたりする際に使われる、揮発性の液体。
(なぜ、リナさんの部屋に、そんな匂いが……? まさか、あの骨董品収集家が、この部屋に……?)
ばらばらだった点が、ゆっくりと、しかし確実に一本の線で結びつき始める。日本の骨董品。夢の中の、日本人らしき悲しい女性。リナさんの小箱に入っていた紋様の金属の板と、あのペンダントの落書き。そして、この部屋に残された、微かな溶剤の匂い。
「村長さん……」
私は、村長に改めて向き直り、彼の目を見据えた。
「リナさんの知り合いに、最近、何か変わった訪問者はいませんでしたか? 例えば、私たちが見慣れない服装をした人間や、聞き慣れない言葉で話す人間など……」
私の問いかけに、村長は重そうに顎を撫でながら、深い皺の刻まれた額に手を当て、記憶の糸を手繰り寄せるように目を閉じた。「 怪しげな人物?……そういえば、数日前に、確かにそんな格好をした男が村にやってきたという話を聞いたことがあります。東の方の言葉を話していて、何か古いものを熱心に探しているようだったと……」
「その男は、何か特別な物について尋ねていませんでしたか? 例えば、日本の古いもの、とか……」
村長の言葉に、それまで静かに私たちのやり取りを見守っていた老婆が、低い、しかし確信を持った声で口を挟んだ。「旅人……もしかしたら、彼は、『忘れられた日本の品々』を探しておったのかもしれん……あの娘さんが大切にしていたという、美しい人形のように……」
全てが、まるでパズルの最後のピースがはまるように、音を立てて繋がった。現代日本から来た骨董品収集家。彼は、この地にひっそりと眠る日本の古い品々、特に、夢の女性が大切にしていた人形と、それに関連する何かを探し求めて、遥々この山奥の村までやってきたのだ。そして、純粋で好奇心旺盛なリナさんは、偶然、彼が探しているものを知ってしまい、あるいは、彼と直接接触してしまったために、この恐ろしい事件に巻き込まれてしまったのだ。森に残された微かな血痕は、その際に起こった、避けられない争いの跡だろう。そして、あの見慣れない幾何学模様の靴跡は、間違いなく、その収集家のものに違いない。
「村長さん、バルトさん、おばあさん」
私は、三人の顔を一人ずつ見つめながら、重い、しかし決意を秘めた声で言った。「リナさんは、古代の悪霊に連れ去られたのではありません。彼女は、私の故郷の世界から来た人間に、連れ去られたのです!」
三人の顔には、再び深い不信の色が浮かんだ。長年信じてきた伝承と、突如現れた異邦人の突飛な主張。無理もない反応だった。しかし、私の瞳に宿る、これまでとは明らかに異なる、冷たい光と、揺るぎない確信に満ちた声は、彼らに無視できない、何か特別な真実を訴えかけていた。
「その男は、恐らく、あの蔵に封印されていた『忘れられた日本の品々』、特に、あの人形を手に入れようとしているのでしょう。リナさんは、そのことを知ってしまったために、危険な目に遭ったのです。今すぐ、その男を捜し出し、リナさんを救い出さなければなりません!」
私は、そう言い放つと、頭の中でごちゃごちゃになっていた思考を整理し、取るべき行動を瞬時に組み立て始めた。まず、村人たちに、あの怪しい男の目撃情報を集めること。そして、森に残された足跡を追跡し、その男の隠れ場所を突き止めること。時間はない。リナさんの身に、今この瞬間も危険が迫っているかもしれないのだ。
「バルトさん、あなたは村の若い衆を率いて、すぐに森の捜索を再開してください。あの特徴的な靴跡を見つけたら、どんな些細なことでも構いません、すぐに私に知らせてください。村長さん、おばあさん、村人たちに、あの怪しい男の情報を集めてもらえますか? 彼の服装、言葉遣い、行動……どんな小さなことでも、重要な手がかりになる可能性があります」
私のキリリとした指示に、最初は戸惑いを隠せない様子だった三人も、私の尋常ではない真剣さと、言葉の端々に滲む切迫した感情を察し、ゆっくりと、しかし確かな決意を込めて頷き始めた。リナさんを救い出す。そして、この異世界で初めて遭遇した、故郷の影を追い詰める。それが、今、私に課せられた、何よりも優先すべき使命だった。二つの世界を結ぶ、歪んだ、しかし確かに存在する糸を辿り、私は、深く静かに潜む真実へと、一歩ずつ近づいていく。
(第四章完)