第二章:二つの世界の残滓と、消えた村娘
バルドの粗末な丸太小屋での療養生活は、外界から隔絶された静寂に包まれていた。粗末な食事と、時折のバルドの無骨な手当て。言葉はまだ完全に理解できるわけではないが、ジェスチャーと繰り返される単語から、この世界が「エルトリア大陸」と呼ばれ、僕は稀に異世界から迷い込む「魂の彷徨い人」らしいと理解した。頭の中に時折現れる、レベル1、ジョブなし、ユニークスキル『並列思考』という文字列は、まるでゲームのステータス画面のようで、現実感が薄い。
(並列思考、試運転……)
意識を深く集中させる。すると、脳内に複数の仮想ウィンドウが展開されるような奇妙な感覚に襲われた。一つはバルドが話す言葉の解析、もう一つは周囲の微かな音や匂いの情報処理、そして別のウィンドウでは、失われた佐々木悟としての記憶が映像として再生される。それらが互いに干渉することなく、同時に進行している。これは、単なる記憶力の向上などという単純なものではない。まるで、複数のCPUが並列処理を行っているようだ。
夜になると、決まって奇妙な夢を見た。見慣れた日本の風景。騒がしいスクランブル交差点、コンビニエンスストアの蛍光灯、そして友人との他愛ない会話。夢の中の僕は、確かに佐々木悟そのものだった。しかし、幸福な夢の終わりには必ず、黒いインクを滲ませたような不吉な靄が現れ、意識を現実のエルトリア大陸へと引き戻すのだ。
(あの黒い靄はなんだ? 単なる悪夢じゃない。何か意味があるような気がする……)
ある日、バルドはいつになく疲れた表情で狩りから戻り、腰の革袋から小さな金属製のプレートを取り出した。「街道の脇で見つけた。お前さんのものかもしれん」。
それは、手のひらに収まるほどの小さな、くすんだ銀色のプレートだった。表面には複雑な幾何学模様のような紋様が刻まれている。見慣れない文字だろうか、最初はそう思った。しかし、裏返した瞬間、僕は息を呑んだ。微かに、しかし確かに、日本語の文字が刻まれていたのだ。「……サ……キ……」。掠れてはいるが、間違いなく僕の名字の一部だった。
プレートを見た瞬間、堰を切ったように鮮烈な記憶が蘇った。事故に遭う直前、コンビニエンスストアで買ったエナジードリンクの袋。そこに貼られていたバーコードの一部が、このプレートの裏面に刻まれた文字と酷似していたのだ。
(これは……まさか、俺がいた世界との繋がりを示す証拠なのか?)
バルドの小屋で静養する傍ら、僕はエルトリア大陸の言語を懸命に学んだ。並列思考は、新しい単語や文法を驚異的な速さで記憶するのに役立った。簡単な魔法の基礎も教わった。指先から微かな光を灯す程度のものだが、異世界の力を実感するには十分だった。そして、バルドからこの地の歴史、文化、そして各地で起こる事件について、片言の言葉とジェスチャーを交えながら教えを受けた。盗賊の襲撃、凶暴な魔物の出現、貴族間の陰謀……この世界にも、現代日本とは異なる形ではあるが、様々な謎と悪意が存在することを知った。並列思考を駆使することで、僕はこれらの情報をまるでパズルのピースのように組み合わせ、事件の構造や動機を দ্রুতに理解することができた。
(この能力があれば、こっちの世界でも、前世で憧れていた探偵みたいなことができるかもしれないな……)
そんなことを考えていたある夜、バルドはいつになく深刻な面持ちで、焚火の炎を見つめながら語り始めた。「近くの小さな村、ルナ村で、奇妙な失踪事件が起きたらしい」。
バルドの太い指が、粗末な地図の小さな点を指し示す。「村長の娘、リーナという娘が、昨日の夕暮れ時から忽然と姿を消したそうだ。村人たちは皆、古の森に棲む悪霊の祟りだと怯えているが……どうも腑に落ちん」。
その話を聞いた瞬間、僕の胸に言いようのない既視感が押し寄せた。「悪霊の祟りによる失踪」――それは、前世で僕が熱中していたオカルトミステリーの、まさに王道とも言える導入だった。しかし、現実の世界で、そんな非科学的なことが起こりうるのだろうか? だとしたら、この異世界では……?
「バルドさん、そのルナ村の失踪事件について、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
僕は、初めてこの異世界の出来事に、探偵としての強い興味を抱いた。同時に、胸の奥には、夢や奇妙な金属プレートが示す、故郷との微かな繋がりに対する、これまで以上に強い希望が灯り始めていた。
(もしかしたら、この異世界の事件の真相を解き明かすことこそが、俺が元の世界に戻るための、隠された手がかりなのかもしれない……)
その夜、僕はこれまでで最も鮮明な夢を見た。黒い靄は以前よりも薄れ、その奥には日本の夜景が、まるで遠い記憶の断片のように揺らめいていた。そして、微かに、しかし確かに、聞き慣れたはずなのに、今は遠い異国の言葉のように感じられる声が、僕の耳元で囁いた。「……さが……して……、わたしの……むす……め……」
その声は、夢の中で見たことのない、悲痛な女性の声だった。それは誰の声なのか? そして、夢の中の「娘」とは一体誰を指すのか? 異世界の失踪事件と、故郷の夢。二つの世界が、僕の中で奇妙な共鳴を始め、これまで感じたことのない強い予感を呼び起こしていた。
(この二つの出来事は、決して無関係じゃない……きっと、何かが繋がっているんだ)
僕は、バルドにルナ村へ連れて行ってほしいと頼んだ。レベル1の無力な魂の彷徨い人に、一体何ができるというのか。バルドは訝しんだが、僕の異様なまでの真剣な眼差しに、何かを感じ取ったのか、渋々ながらも了承してくれた。
ルナ村へ向かうまでの道中、僕は並列思考をフル稼働させ、バルドから聞いた事件の情報を整理した。失踪した村長の娘リーナは十六歳。明るく活発な少女で、村人に恨みを買うようなことはなかったという。最後に目撃されたのは、夕暮れ時に村の外れの森へ一人で入っていく姿。それ以来、誰にも目撃されていない。村人たちは、森に棲む古の悪霊「影喰らい」の仕業だと恐れ、誰も森に入ろうとしない。
(悪霊、か……前世のオカルト知識が役に立つ時が来たのかもしれないな。もっとも、科学的に考えれば、魔物や精霊の類いは存在しないはずだが……この世界ではどうなんだ?)
エルトリア大陸の常識と、佐々木悟としての知識。二つの異なる世界の思考が、僕の頭の中でせめぎ合う。しかし、並列思考は、それらの情報を客観的に分析し、矛盾点や不自然な点を洗い出すのに役立った。
ルナ村に近づくにつれ、村全体に漂う重苦しい雰囲気が肌で感じられた。家々の窓は閉じられ、人々の表情は一様に不安げだ。村長の家を訪ねると、憔悴しきった様子の村長が出迎えてくれた。目は赤く腫れ上がり、見るからに憔悴している。
「どうか、娘を……リーナを助けてください!」
村長の悲痛な叫びが、僕の胸に突き刺さった。僕はまだレベル1の、何の力もない異邦人だ。しかし、あの夢の声と、胸に湧き上がる奇妙な確信が、僕を突き動かしていた。
「村長さん、私に、リーナさんの失踪について詳しく聞かせてください。最後にリーナさんを見たのは誰ですか? その時、何か変わった様子はありませんでしたか? 森には、何か危険な場所や言い伝えはありますか?」
僕の言葉はまだ辿々しいが、並列思考によって整理された質問は、核心を突いていた。村長は、藁にも縋る思いで、一つ一つ丁寧に答えてくれた。最後にリーナを見たのは近所の少年で、特に変わった様子はなかったという。森には、子供の頃から「影喰らい」と呼ばれる悪霊の伝説があり、夕暮れ以降は決して立ち入ってはいけないと言い伝えられているらしい。
しかし、僕の並列思考は、村長の言葉の端々にある矛盾や、村人たちの語る悪霊の伝説の曖昧さに気づいていた。まるで、何かを恐れるあまり、思考停止に陥っているかのように。
(悪霊の仕業、か……あまりにも安易な結論だ。本当に悪霊が存在するなら、もっと具体的な目撃例や証拠があるはずだ。それに、夢の声の悲痛さは、単なる祟りという言葉では説明できない)
僕は、バルドに村の外れの森へ案内してくれるよう頼んだ。村人たちは皆、正気を疑うような目で僕を見たが、バルドは無言で頷いた。
夕暮れ迫る森は、じめじめとして薄暗く、確かに不気味な雰囲気を漂わせていた。しかし、僕の目は、地面に残された微かな足跡や、折れた枝、そして何よりも、空気中に漂う微細な「違和感」を捉えていた。それは、悪霊の存在を示すような超自然的なものではなく、もっと現実的で、人間的な痕跡だった。
(リーナさんは、本当に一人で森に入ったのか? 足跡の大きさからすると、そうかもしれない。だが、この微かに残る、引きずられたような跡はなんだ? そして、この場所だけ、妙に強い鉄の匂いがする……?)
並列思考は、視覚、聴覚、嗅覚、そして過去の記憶を繋ぎ合わせ、一つの可能性を導き出し始めていた。悪霊の祟りなどではない。これは、人間が起こした事件だ。そして、その背後には、僕の故郷の夢と、あの金属プレートが示す繋がりが、微かに、しかし確かに存在しているような気がしてならなかった。
森の奥深くへ進むにつれて、地面にはっきりと、小さな足跡と、それとは異なる、やや大きな靴跡が並んでいるのが見つかった。そして、その靴跡の近くには、小さな銀色の装飾品が落ちていた。それは、プレートに刻まれた紋様と、どこか似ている気がした。
(この紋様……どこかで見たことがあるような……まさか、夢の中の日本の風景の中に……?)
二つの世界が、今、僕の中で奇妙に交錯し始めた。異世界の失踪事件。故郷の夢の声。そして、二つの世界を繋ぐかのような、微かな痕跡。レベル1の異世界探偵の、最初の事件が、静かに幕を開けようとしていた。
(第二章完)