第一章:推しの死と、まさかのレベル1転生
雨上がりのアスファルトは、まるで研磨された黒曜石のように鈍く光を反射していた。時刻は深夜一時を回ったところ。コンビニ帰りの僕は、ビニール傘から滴る雨水が跳ねる音だけを友に、マンションのエントランスへと足を運んでいた。
僕の名前は、佐々木 悟。三十路を目前にした、どこにでもいるようなゲームとアニメをこよなく愛するオタク青年だ。特に、最近ドハマりしているのは、異世界召喚系のダークファンタジーアニメ『深淵の黒騎士』。その中でも、クールで圧倒的な力を持つ主人公の黒騎士・クロノス様は、まさに僕の生きる希望だった。
「ああ、クロノス様の最新フィギュア、予約開始日明日だったな……絶対ゲットしなきゃ」
そんなことを考えながら、マンションの階段を三階まで上がり、自室の鍵を取り出そうとした瞬間だった。
背後から、けたたましいエンジン音と、甲高いブレーキ音が同時に響いた。振り返る間もなく、強烈な衝撃が僕の全身を襲う。意識が途切れる寸前、目に映ったのはヘッドライトの光と、歪んだビニール傘の残骸だった。
(ああ、クロノス様……最終回、まだ見れてないのに……)
それが、現代日本における僕、佐々木悟の最後の記憶となった。
次に意識を取り戻した時、僕は見慣れない天井を見上げていた。木組みの梁がむき出しになった、古めかしい造りの部屋。肌に触れるのは、ゴワゴワとした粗末な麻のシーツ。鼻腔をくすぐるのは、土と草、そして微かに香る獣の匂い。
「……ここは、どこだ?」
起き上がろうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。特に、頭と背中が酷い。まるで、大型トラックにでも轢かれたような痛みだ(実際そうだったのだが)。
なんとか体を起こし、周囲を見回す。簡素な木製のベッド、使い込まれたらしい木の机と椅子、そして壁には煤けたランプが一つ。窓の外には、見慣れない植物が生い茂る荒野が広がっていた。
「……マジかよ」
状況を理解するのに、そう時間はかからなかった。ラノベやアニメで散々見てきた展開。これは、まさしく異世界転生というやつではないか?
「よりにもよって、この俺が……」
自嘲気味に呟きながら、僕は自分の体を確認した。特に変わったところはない。強いて言えば、心なしか視力が良くなったような気がする。
その時、部屋の隅に置かれた古びた鏡が目に留まった。よろよろと近づき、自分の姿を映してみる。
そこにいたのは、見慣れたはずの自分の顔ではなかった。
年齢は十代後半だろうか。以前の僕よりも幾分か若く、精悍な顔つきをしている。瞳の色は深い蒼色に変わり、黒かった髪は少し赤みがかった茶色になっている。
「誰だ、お前……?」
思わず鏡に手を触れる。そこに映る青年は、訝しげな表情でこちらを見返してきた。
混乱している僕の脳内に、突然、雑音のような声が響いた。
《システムメッセージ:魂の再構築が完了しました。レベル:1、ジョブ:なし。ユニークスキル『並列思考』を獲得しました》
「レベル? ジョブ? ユニークスキル?」
頭の中に流れ込んできた、まるでゲームのような用語に、僕はますます混乱した。しかし、オタクとしての血が騒ぐのも事実だった。
(並列思考……? 同時に複数のことを考えられるってことか? なんか、チートっぽいぞ!)
そんなことを考えていると、部屋の扉がギィ、と音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、粗末な皮の鎧を身につけ、腰に剣を佩いた、いかつい顔つきの男だった。顔には幾つもの傷跡が刻まれ、鋭い眼光が僕を射抜く。
「……気が付いたか、小僧」
男の声は、低く、野太い。明らかに、現代日本の住人ではない。
「あ、あの……あなたは?」
僕は警戒しながら問いかけた。
「俺はバルド。お前は、森の中で倒れていたところを保護したんだ。全く、こんなところで一体何をしていた?」
バルドと呼ばれた男の言葉に、僕は咄嗟に言葉に詰まった。まさか「トラックに轢かれて死んだら、ここにいました」などと説明しても、理解されるはずがない。
「えっと……記憶が、曖昧で……」
苦し紛れの言い訳に、バルドは訝しげな目を向けたが、それ以上は追求してこなかった。
「まあいい。しばらくここで体を休めろ。だが、いつまでも厄介を見るわけにはいかんぞ」
そう言い残して、バルドは部屋を出て行った。
一人残された部屋で、僕は改めて自分の置かれた状況を整理しようとした。異世界転生。レベル1。ジョブなし。ユニークスキル『並列思考』。そして、見知らぬ異世界の住人。
(まさか本当に、ラノベみたいな展開になるとは……)
呆然とする一方で、僕のオタク魂の奥底では、かすかな興奮が芽生え始めていた。異世界で、一体どんな冒険が待ち受けているのだろうか? 強くてニューゲーム、とはいかなかったけれど、レベル1から最強を目指すのも、それはそれで悪くないかもしれない。
しかし、この時の僕はまだ知らなかった。この異世界で手に入れた能力が、やがて故郷である現代日本で起こる、不可解な怪事件を解き明かすための唯一の武器となることを。そして、転生したこの世界だけでなく、元の世界にも、想像を絶する闇が潜んでいることを――。
僕の、現代と異世界を股にかけた、新感覚の探偵物語は、こうして幕を開けたのだった。
(第一章完)