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世にも拙い子守唄

作者: 入谷慶

 ヨエル・バーリグレーンは、第一子誕生という奇跡の瞬間に、最愛の妻を失った。その喪失感は彼の心を引き裂き、彼の人生からすべての喜びを奪い去った。

 慣れない育児への苛立ちと、愛する人を失った哀しみが重なり、彼は絶望の淵に立たされた。息子を見るたびに、妻の面影を見出しては胸を痛めた。


(もう、何もかも捨ててしまいたい……)


 ヨエルは毎日心の中でそう繰り返した。

 そして、ある朝ついに、彼は息子を養子に出すことを決意した。

 

(エメリがいなくなって、僕の人生は壊れてしまった)

 

 絶望しながら家財の処分を始めたヨエルは、折しも一通の手紙を見つけ出す。

 それは妻・エメリからヨエルへ向けたものだった。


 "ヨエル、私がいなくなった後も、トビアスに愛を注いでね。

 

 私は、あなたの喜びがトビアスの人生と共にあり、あなたの人生がトビアスの喜びの糧となることを祈っています。

 

 あなたの怒りや悲しみも愛情へと昇華させてください。

 

 彼は私たちの愛の結晶であり、光です。

 

 私の心はいつまでもあなたとトビアスのそばにあります。どうか私と共に彼を守り、育ててください"


 エメリは、その実、自分が家族を残してこの世を去ることを予見していた。彼女は幼い頃から病弱で、自身の体が出産に耐えられないことを知っていたのだ。

 この手紙は、エメリが残した最後にして最大の愛だった。

 彼女は、ヨエルが自分を失って苦しむ姿を想像しながらも、夫が息子を愛し育てることを唯一の願いとしていた。

 彼女にとって、ヨエルと息子が互いに支え合い、愛を分かち合うことが何よりも大切だった。

 彼女は自分の死が、家族に絶望をもたらすのではなく、新たな愛と希望の始まりとなることを願っていたのだ。


 手紙を読み終えたヨエルの頬は涙に濡れ、彼の心は溢れんばかりの愛情で満ちていた。

 彼女の愛は、絶望感に苛まれていたヨエルの心に力を与え、人生を歩むための道標となった。




 エメリの願い通り、立派な青年へと成長したトビアスは、父・ヨエルが住む田舎の家で休暇を過ごしていた。

 年に数回の帰省は、父子にとって、心を通わせることのできる豊かな時間だった。


「父さん、僕が生まれた時、何を感じた?」

 トビアスは庭を眺めながら、ふと父に尋ねた。

 ヨエルの胸に一瞬、過去の傷が痛みをもたらすが、彼は努めて穏やかに答えた。

「トビアスが生まれた時、僕は世界一幸せだったが、それと同時にその幸せがどれだけ脆いかも知った。それでも君の存在は僕の生きる意味となった」


 トビアスは父の言葉に限りない愛を感じながらも、写真でしか知らない母を思い、悲哀の念を抱く。

「母さんの手紙、僕も読んだよ。あの手紙が父さんの支えなんだね」

 ヨエルはうなずき、息子の手を取り優しく握る。

「あの手紙は、僕にとって人生の灯台のようなものだ」

 トビアスは父の手を握り返して微笑んだ。

「僕、父さんの下手くそな子守唄が好きだった」

 ヨエルも目尻を下げて微笑む。

「父さん、あの子守唄を歌ってよ」

 息子の唐突な要求に、ヨエルは照れながらも、ゆっくりと歌い始める。


 「眠れ、我が子、美しい星空の下で

 母の愛は永遠に、君の心を守り

 父の愛は永遠に、君の夢を支える

 君の人生が、豊かで素晴らしいものとなりますように」


 ヨエルの歌は贔屓目に見ても酷いものだったが、その詩には彼の全てが込められていた。

 トビアスは目を閉じ、父の声に身を委ねる。二人は自分たちの間に、目には見えない絆を確かに感じていた。

 母がつないだ父子の絆は、強く、美しく育ったのだ。


「ありがとう、父さん。僕は二人の子供になれて本当によかった」

 トビアスはそう言って、ヨエルに抱きついた。

 ヨエルも息子を強く抱きしめ、心の中で妻に感謝した。


(エメリ、君のおかげで僕は愛を失わず、希望を捨てることなく生きることができる。本当にありがとう)


 二人はそうして、静かな午後を過ごした。

 拙い子守唄はこれからも、彼らの痛みを癒し、新たな未来への希望を灯し続けるだろう。

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― 新着の感想 ―
とても美しい小説ですね。 本当に偶然、手にとったのですが読めて嬉しかったです。
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