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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

甲殻アイデンティティ

一つ前に投稿した「海老と豆」のスピンオフ的な作品です。

 昨日の鍋の残りと米が入った椀を片手にYouTubeで競馬の予想動画を観ていたら、イヤホンをしていない右耳に玄関のチャイムの音が聞こえた。椀だけ卓袱台に置いてベッドの縁から腰を上げ、窓を開けて家の前を見下ろすと、新型ハイゼットカーゴの車体と脂ぎった禿頭が、雲を透かす僅かな光を反射している。

 スマホの電源を切ってイヤホンと一緒に布団の上に投げ、クローゼットから赤いジャケットを出して部屋着の上に着た。そしてドアを開けようとすると、真横のフックに掛けてあるデニムのキャップが目に入った。少し迷ったがそれを被り、部屋を出た。階段を下りたところで再びチャイムが鳴り、リビングを早足で突っ切って扉を開けたら、パジャマ姿の親父が廊下に立っていた。

「何してんだよ。叔父さん来てるよ」

 そう声を掛けると親父は、宙に固定していた視線を数秒かけて俺の顔に向け、ずっと半開きのままの口をゆっくりと動かした。

「あっ、昌彦か。これ、鳴ってんの」

「うん。俺が出るから、早く着替えな」

 それでもまだ突っ立ったままでいる父親の体を手で押しのけ、タイルの上にある庭用のサンダルを踏んで玄関の扉を開けた。チャイムへと腕を伸ばしかけていた叔父は、真一文字に結ばれていた口を咄嗟に弓なりに変形させて笑顔をつくり、その手をこちらに差し伸べながら言った。

「あけましておめでとう」

 俺は感情が顔に出ないようにしながら右手を出し、その厚ぼったい、じんわりと湿っている手にきつく握られるのにまかせた。

「あけましておめでとうございます。お元気そうでなによりです」

「まあね。キミも、相変わらずで何より。ね、本当に、相変わらずで」

 叔父はそう言いながら手を離し、ジャケットを着た俺の腕をパンパンと叩いた。ははは、と俺は声だけで笑いながら帽子のつばを左手で触って表情を隠す。迷ったけど、やっぱり被っておいて正解だった。栃木の名店で買ったという大福の入った紙袋を受け取り、叔父を客間へと案内した。

「父さん、母さん。ただいまですよ、っと」

 線香にライターで火を点けながら、少し節を付けたような調子で言う。仏壇の前で手を合わせる叔父の肥えた背中と、その向こうに並んだ二つの遺影の中の人物たちを見比べると、本当に血縁者なのかと疑念を抱かずにはいられない。しかし、もしそうでなかったとしても、別に大したことではないと俺は思う。大人になるまで二人に愛されて育てられてきたのならばそれで十分だ。

 ふう、と小さく息を吐きながらこちらに向き直った叔父に、俺は手で座布団を勧めた。

「お茶、用意するんで」

「いやいや、お構いなく。またすぐにあっちに戻って挨拶回りいかなくちゃなんないから。兄貴にちょっとだけ会いたいんだけど、あいつ起きてる?」

「えっと、起きてはいるんですけど。呼んできますね」

 俺は小走りで客間を出てリビングを覗いたがその姿は無く、隣にある寝室の扉を開けると、親父はパジャマのままテレビの前の床に座って正月特番を観ていた。

「なあ、叔父さん来てるって」

「ああ。そうかそうか」

 叔父が来るといつもこうだ、呆けたふりをして、会う時間を先へ先へと延ばそうとする。俺は親父を部屋から引っ張り出し、リビングの椅子の背もたれに掛けてあったジャンパーを着せ、客間へと送り出した。

「おお兄さん。元気そうだなあ」

「昌彦も。あけましておめでとう」

「あけましておめでとう。いや、それにしても物価高で嫌になっちゃうよなあ」

 去年の8月ぶりに兄と再会した弟は、祝いの言葉をすぐさまありきたりな世間話にスライドさせる。こいつらの両親、つまり俺の祖父母は、俺が生まれる前に死んでいる。だから、この二人が両親のもとでどんな関係にあったのかは推測するしかない。ただ、25年も前に嫁に浮気されて離婚し、長女は恋人と暮らすカナダから10年以上帰って来ておらず事実上の絶縁、再婚相手も見つからないまま、"変わり者"の息子と実家で二人暮らししている、という今のこの状態を弟に見せたくない気持ちくらいは容易に推し量れる。ましてや、叔父が地方で興した事業というのもどうやら上手くいっているようだし、余計に後ろめたさを感じているだろう。

「うちの営業マンにも価格交渉のやりかたってのを直々に叩き込んでるところでさ。そっちはどう?」

「ああ、まあ、社長はよくしてくれてるよ」

 好きな女との離婚と、親孝行も果たせぬまま両親を喪ったことですっかり腑抜けになってしまった父親も、もし俺がもっとしっかりした人間になれば、例えば仕事で昇進するとか、結婚を前提に女と付き合うとか、そういう普通の人間らしい成功を収めれば、あるいは少なくともまともな人間になれば、ここまで弟に対して萎縮せずにも済むのだろうか。

 そうやって、親父にとっての息子の理想像を頭の中で組み立てているうちに、それはいつの間にか俺ではなく仲澤の姿になっていった。あいつはそういえば、正月に彼女の両親に挨拶をしに行かなければならないと居酒屋で愚痴を吐いていた。それは非常によくある、凡庸な悩みだったが、その凡庸さこそ俺から最も遠いものであることは、自分が一番よく知っている。俺はそういう変わり者の道を、自らの意志で選んできたのだ。

 父と叔父の会話から意識を逸らすと、小雨が窓を叩く音が聞こえてきた。確か、仲澤のことを初めて知ったのもこんな天気の日だった。だから、俺の記憶の中のあいつはいつも、髪が少し濡れている。



 その日は、部室棟の二階で放送部の奴らとTCGで遊んでいた。俺自身は帰宅部だったが、カードゲーム好きの男が多く所属するこの部室内に頻繁に出入りしており、たまに機会があれば校内放送を任されることすらあった。俺はアニメのキャラクターの名前を呼んでみたり、有り得ない用事で友人を校庭に呼び出したりとふざけていたが、先生に怒られりしたことは一度もなかった。それは、1970年前後に大学の学生運動に連動して高校生運動なるものをやっていたことで知られる比較的自由な校風の進学校だったからというのもあるだろうし、あと俺が校内で割と有名人だったことも理由の一つだろう。

 俺はその頃、カードをずっと持ち歩き、授業中以外は制服に合わないデニムのキャップを校内でも常に被り、休日には夏でも赤いジャケットを着て駅前をうろつき、たまたま遭遇した友人とカラオケに行って誰も知らないマニアックなアイドルの歌を歌う"変人"として学校中に知れ渡っていた。現在の俺のアイデンティティの原点はこの頃に既に出来上がっていたわけだが、こうした偏向は高校以前には無かったもので、幼少期にはどちらかというと女児が愛好するようなものを好む人間だった。戦隊ヒーローより魔法少女が好きだったちびっこの俺はしかし、子供ながらに体面を気にしてその嗜好を表に出さずにいたのだが、5歳のときに両親が離婚して母親の監視がなくなってからは、家の中で好きに振る舞える時間が増え、姉が小学校に行っている間に俺はこっそり部屋に忍び込んで『ちゃお』を読み、手作りの服を着たぬいぐるみで遊んでいた。だがある日、姉の部屋で漫画を読んでいる途中で眠りこけてしまって、目を覚ますとピンクのランドセルを背負った姉が、こちらを見下ろして顔を歪め、こう叫んだ。

「あんた、ヘン!」

 姉はそして、俺を文字通り部屋から蹴り出した。そのとき俺は初めて自分の「ヘン」な部分に対して客観的な判断を下され、その苛烈さに打ち震えると同時に、母親がいなくなったのも自分が「ヘン」だからなのではないか、という考えに囚われ始めた。それはまったくの勘違いで、母の浮気が原因だったことを中学生になってから知るのだが、そんな背景を知る由もなかった幼少期の俺は、"かわいい"ものへの拘りを捨てて"かっこいい"ものを意識的に身に着けるようになった。だが、元々そうしたセンスを持ち合わせていなかったために、その試行錯誤は小学生のときはまだ子供という免罪符によって許されていたものの、中学生になると"ダサい"男というレッテルを貼られることになった。進学校への合格が叶ったのも、異性からの承認が得られないために勉強に打ちこんだことに付随した結果に過ぎない。そして、個性を偏重するその校風の中で俺は、どうせなれないまともな人間を目指すのではなく、"変人"として自分をブランディングすることを考えついたのだ。

 俺のアイデンティティはわかりやすい記号の集積として作り出された。赤いジャケットは戦隊ヒーローのレッドを、キャップのデニム生地は当時BSでよく放送していた西部劇の男達が履いていたジーンズを意識している。マニアックなアイドルを愛好するのは、恋愛対象として好きというのもあるが、恐らく幼少期の憧れだった魔法少女のイメージを無意識のうちに重ねているような気がした。複数のルーツが混交した歪さを抱えながらも、俺のこの戦略は見事に成功し、同世代の男とのほとんど唯一のコミュニケーションツールであったトレーディングカードを携えて校内を闊歩すれば、柴又を歩く寅さんのごとく色んな奴らに声をかけられた。相変わらず異性からの承認は得られなかったが、概ね満足していた。

 そして高一の冬、俺はいつも通り放送部の部室に入り浸って遊んでいた。良いカードが引けて勝ち筋が見えたそのとき、外に面している方の扉からノックの音が聞こえてきた。俺は部員ではないから当然それに応答する義務はなく、手札にある強いモンスターを特殊召喚すべくカードを墓地から除外していた。相手はその動きを見て、勝負から一旦退避するかのごとく「はーい」と白々しい声で返事をしながら立ち上がって向こうへ歩いていき、ドアを開けた。するとそこには見慣れない男子生徒が立っていて、小雨で少し濡れた髪をかき上げながら部室を覗き込んだ。

「高山先輩いる?」

「あー、セブン行ってるわ。10分くらいで帰ってくると思うけど」

 そう、と少し落胆した表情を浮かべて、再び部室の中を眺め渡す。視線はカードが拡げられたテーブルに移り、さらにその手前でカードを持って座っている俺の視線とぶつかった。次の瞬間、奴の顔は俺に対する軽蔑で歪んだ。その一瞬の表情に、幼少期のトラウマが俺の中に鮮烈に蘇り、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 明日また出直す、と言って奴は立ち去った。ドアを閉め、テーブルに戻ってきた部員にすぐ尋ねた。

「今の誰」

「B組の仲澤。知らないの、生徒会役員じゃん」

 その勝負はつまらないプレイングミスで負け、それを俺は初めて知る仲澤という男のせいにした。帰り道でも、風呂の中でも、布団の中でも、あの軽蔑の表情が脳裏に浮かんでは俺を苦しめる。日をまたいでも続くその苦しみを忘れようとして、校内ですれ違う度に目を逸らしたが、そんな努力をすればするほどかえって苦痛は増幅した。しかも、仲澤という男は俺に無いもの、俺が諦めたものの全てを持っているようにも見えた。生まれもっての社会への適応力、「自分である」ことに対する根拠の無い自信、異性との交遊関係。あいつを前にすると、俺が十年以上かけてようやく編み出したもの、自分自身の内面にある忌まわしい部分と和解して、他人と交友関係を結ぶためのツールにするための方法論も、脆く崩れ去るような気がした。

 二年の始業式の日、昇降口の前に掲示されたD組のクラス名簿に俺と仲澤の名前があるのを発見したときは絶望的な気分になりかけたが、カードバトルばかりしていて戦闘脳になっていた俺は、自分の思考をこう切り替えた。俺があいつの生き方を否定するか、あいつに俺の生き方が否定されるか。互いのアイデンティティを賭けて、俺はあいつと戦うしかないのだ、と。

 式が終わった後、俺は元々の友人を何人か味方として連れ、奴に話しかけた、

「お前と俺、放送部の部室で会ったことあるの、覚えてる?」

 すると仲澤は俺の顔をじっと見つめた後、首を傾げ、こう答えた。

「全然覚えてない」

 その言葉は、俺の長い葛藤に呆気ない幕切れをもたらした。この男は、他人に全く関心を持たない人間なのだ。そう確信を得た俺は、あの日の自分の惨めな姿が相手の脳内から消えていることに安心すると同時に、何故だか少し失意もおぼえていた。更に会話を続けていくうちに、意外とこの男はそこまで恐るるに足る人間ではない、ということもわかってきた。

 そこで俺は戦略を変えた。この男を、常に自分の近くに置いておくのだ。そうすることによって、"変人"としてのアイデンティティを保ったままで、自分には無い部分を補うことができる。そうして俺は、仲澤とつるむようになった。

 理屈としてはこれで完璧なはずだった。だが、あいつの生き方そのものに対する憧憬が、嫉妬が、いつでも心の底にあって、その感情は複数人でいるときにはさほど表に出なかったが、二人きりになるとつい攻撃的な口調になってしまうことがしばしばあった。そんなとき仲澤は少し呆れたような顔をして、それが礼儀であるかのように一言か二言だけ言い返してみせるが、最終的には必ず折れて、こちらの言い分に納得してみせた。勝った。と、俺はしばしの満足感を得るのだが、あいつと別れてしばらく経ってから自分の幼稚さに気づき、人間性の勝負では負けたのだと情けなくなった。そうなるのを分かっていても、くだらないプライドがいつも芽を出し棘を生やし、俺は仲澤を相手に、無意味な勝利と致命的な敗北を何度も繰り返した。

 だが、一度だけあいつが俺に対して強く言い返してきたことがあった。向かい合った机で弁当を食いながら、確か友達が多いとか少ないとか、そんなどうでもいい話をしていたのだったと思う。

「お前は、俺以外の友達が全然いないからな」

 冷凍のエビクリームコロッケを頬張りながら俺は、例のごとく実りの無いマウントを取っていた。

「お前が頻繁に呼び出すからだろ」

 仲澤は、いつもの呆れたような口調で言い、シュウマイをゆっくりと口へと運んだ。

「違ぇよ。お前は元々ぼっちなんだよ」

 そう言ってあいつの肩に手を置くと、振動でシュウマイの上に載っていたグリーンピースが落ち、床に転がっていった。その行き先を目で追おうとしたら、仲澤の肩の上に伸ばしていた俺の右手を、別の手がそっと握った。

「本当に一人ぼっちなのはお前じゃないのか」

 この瞬間は、手の甲におぼえる感触も、耳に聞こえる言葉の意味も、ひどく非現実的なものに感じられた。一体、何が起きたのかわからずあいつの目を見ると、その黒目の中に、見たことのない攻撃性が滲んでいた。その眼光の鋭さは、俺の脆弱なメンタリティを抉り出してしまいそうで、咄嗟に目を逸らすと、自分の伸ばした手の上に仲澤の手が重なっているのに気づき、慌てて振り払った。俺は、何も言い返すことができず、落ちたグリーンピースを探すふりをして席を立ち、床にしゃがみ込んだ。太腿の動脈から伝わる振動で全身が震えていた。

 人とは違う、ということをアイデンティティとして生きる人間が抱える内面の孤独。それを見透かされた、というか俺も気づいていなかったそれを、このとき初めて仲澤に発見されたような気がした。赤いジャケットとデニムキャップは、現実によってアイデンティティを脅かされることがないよう身を守るための頑丈な殻だ。これらの固い防御壁は、他人を自分に寄せ付けないばかりか、自分が他人に近づくことも不可能にする。真意は知らないが仲澤の一言は、俺にそのことを思い知らせた。

 あいつが高校時代に俺に対してまともに言い返したのはそのときが最後だった。しかし、それ以外にも仲澤は、他人に対する妙な洞察力を言葉に滲ませるときがあった。こいつは他人に関心が無いのではなく、他人への関心を敢えて持たないようにしている。何が理由でそうなったかは知らないが、とにかくそういう人間なのだ。仲澤に対して抱く印象は、そのように変わった。が、あいつとの関係自体はこれ以降も何も変わらず、俺は相変わらず不毛な攻撃を仕掛けては、後々になって自己嫌悪に陥ったりしていた。

 高校二年の冬、仲澤に彼女ができた。その頃から、俺が人工的に生み出したアイデンティティは自分自身に馴染んできていた。その安定感はもしかすると、あいつが俺の代わりに異性との恋愛関係をやっている、という感覚によってもたらされたものかもしれない。仲澤の存在はいよいよ俺の中に内面化し始めていた。それに伴い、現実の仲澤の言動や行動に対する嫉妬心から動揺することもなくなった。あいつはあいつで、俺は俺だ。そしてあいつはあいつのまま、俺の中にいる。だから、もう大丈夫。

 高校を卒業して仲澤と会わなくなっても、俺は内心で「理想的な凡人」としての仲澤をケースの中に閉じ込め、「理想的な変人」としての俺のケースの隣に置いた。この二つは決して交わることなく、それぞれの生態系の中で永遠に生き続けるだろう。そんな確信を抱きつつ俺は、高校のときから着続けている赤いジャケットを羽織って外に出るのだった。

 卒業から六年ほど経った頃、路上で仲澤と偶然再会した。蕎麦屋で昼飯を食べながら少し話をしただけで、あいつの中にかつてあった鋭さはもうほとんど失われているのがわかった。新しくできた彼女との惚気話も真剣に聞くに値するものではなく、理想的な凡人としての道のりを順調に歩んでいるようだった。俺が相変わらず高校時代と同じ格好をして、同じ嗜好を持っていることに対し、奴はかつて放送部の部室で見せたあの軽蔑の目を向けてきたが、俺はもう自分が幼稚だと思われることを恐れていなかった。何故なら俺は変人だからだ。そんな自負をもって、俺は高校の時と同じように、プレミアの付いたカードを見せびらかすことによって、俺の生き方自体を見せびらせてみせた。別れ際に連絡先を交換し、その後も夜に居酒屋で何度か一緒に飲んだが、それは各々が自分のアイデンティティを確認するための儀式のようだった。俺が趣味の話をして、あいつは生活の話をする。互いに相手の話には興味が無いが、その無関心こそが自分の生き方に対する確信を深めるために必要だった。

 しかしある時、仕事や恋愛があいつにとって新鮮味を失っていくのと連動するかのように、あいつの目に俺に対する憧れが滲んできているのに気がついた。つまり、俺が学生時代にあいつに向けていた羨望の眼差しが、その関係が、ここにきて遂に逆転し始めたのだ。だが、そのことによって互いのアイデンティティが揺らいだりはしない。何故ならそれは結局、凡人が変人に対して抱きがちな的外れな羨望に過ぎなかったからだ。お前は悩みがなさそうでいいよな、というナイーブな人間解釈、それとよく似ている。あのとき、手を握りながら内面を抉り出そうとしてきたあの鋭い眼差しは、もう俺には向けられない。

 俺は、二十年以上かけてようやく揺るぎないアイデンティティと精神的勝利を手に入れた。それなのに、何だか無性に虚しかった。というか、寂しかった。



「じゃあまた来年、じゃないか、お盆のときに」

 茶も飲まずに長々と話だけして、叔父は帰っていった。線香は燃え尽きて灰になり、時計の針はとっくに12を回っている。疲弊した様子の親父が客間を出るのを見届けてから俺は自分の部屋に戻った。ジャケットと帽子を脱いで卓袱台の前に座り、冷え切ったきりたんぽの欠片を箸で摘まみつつ動画の続きを観ようとしたが、俺も何だかひどく疲れていて、そのまま突っ伏して寝てしまった。

 目が覚めると、室内はすっかり暗くなっていた。昼からずっと眠り通しで風呂に入る気力もなく、このままベッドに入ってしまおうかと思いつつ立ち上がったそのとき、スマホの着信音が鳴り出した。電話なんて滅多にかかってくるものでもないのに、職場から何か緊急の用事で電話してきたのかと思って画面を見ると、仲澤の名前が表示されていた。寝惚け眼にその文字が、夢のように映った。現実感もないまま、俺は通話ボタンを押した。

「もしもし」

 そう言ったが、スピーカーからはノイズしか聴こえてこない。それが電波の音なのか物音なのか呼吸なのかもわからず、俺はスマホを耳に当てたまま暗闇の中でしばらくじっとしていた。

「あー……お前、ワインって好き?」

 やっと声が聞こえてきたが、喋り方も声色も何か変だった。本当にあいつなのだろうか、と俺はスマホの画面をもう一度確認したが、映し出されているのはやはり仲澤の名前だ。多分酔っているのだろうが、こんな酷い酔い方をしているあいつを俺は知らない。電波の向こうで、あいつがどんな顔をしているのか想像もつかない。

 ワインはそれほど好きではない。少なくとも自分で買って飲むことはまずない。特に最近は、というかここ五年ほど口にした記憶が無い。ビール以外の酒はもう、口に合わなくなっている。

「まあ、それなりに」

 そう答えて、溜まっていない唾を飲み込んだ。こいつは今日、彼女の両親に挨拶をしに行っていたはずだった。初めてこいつが俺に電話をかけてきたこと、その仲澤が今までにないくらい酔っ払っていること、今が元日の夜であること。これらの事柄から然るべき一つの結論を導き出そうとするが、上手く思考がまとまらない。

 仲澤は言った。

「今日中に消費したいワインがあるんだけど、うちに飲みに来ねえ?」

 画面の光が、脈打つ手首の青い血管を照らしている。仄暗い予感に導かれ、俺は息を吸った。

この作品は別サイトにて2023年1月12日に投稿したものです。

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