小さな島で・むかし、まだ願いがかなったころ・知識の断片を・心の隙間に埋め込みました。
幼い頃の記憶がよみがえるとしたのなら、頭のどこかを落としたようなつめたい喪失感が埋まるものと想像していた。待ち望んだ瞬間が来ると、俺の頭は記憶を奪取できた背徳的な喜びに満たされた。だが背徳は長く続かないもので、すぐに喜びは冷めた。予想していたのでは、もしかしたら懐かしさで胸がいっぱいになるのではないかとも期待していたが、思い出すのは黒光りする蠅どもにたかられた両親らしき男女の顔である。その虫どもの下には、彼らの顔が無いのかもしれない。何故男女か分かるかと言うと、首から下は虫にたかられているが概ね無事で、膨らんだ乳房や太い腕や足で性差が一目瞭然だからだ。
両親二人の死に様を見て、子供の俺は何を思ったのか。もしかしたら何も思わなかったのかもしれない。ただぐるぐると頭を巡っていたのは、空腹だ。耐え難い飢餓だ。たった一滴の唾すら、外に吐き出すのも惜しい状況だ。体は栄養を求めているのに、何も口に出来ない矛盾によって、脳の中の思考という一枚岩がどんどんと削れていって正常さを失っている。残ったかけらに、良心や良識というものは何も無かった。ただ生きるために必死で、生きたいという言葉だけ頭を巡っているようだ。子供の俺は、その耐えがたさによって、目の前のりょうしんの腕に噛みついた。肉を噛みちぎろうとするが、弱い子供の歯では出来ず、口の中に吸った肌の塩みを感じるだけで精一杯だ。両親にたかっている蠅が、敵だとみなした俺の喉奥にごつんと当たった。わずかな苦みにおえっと吐き出して、唾液まみれの特攻兵が足や羽をぶるぶる震わせているのに、力一杯俺は拳でつぶした。
まったく旨そうじゃない真っ黒だ。この真っ黒を口にしても、きっと俺は何も満たされることはない。そうじゃない。俺が食べたいのはそうじゃない。泣く力も残っていなくて、俺はただふらふらと歩き出した。頭のてっぺんに糸がついていて、その糸に操られているようになって、魂が半分抜け出したような心持ちだった。それなのに前へ前へと足は勝手に歩き出していて、視界はなんだかぐわんぐわんと回っていて、何も見えていない。それでも足は前へ前へ。きっと天国があるのなら、俺はそこに向かっている。飛んできて目に当たる小虫も、もう払いのける気力がなくて肌の上を這い回っているのが見えた。今の俺なら、即座に嫌悪して振り払っているだろう。だが当時の、未就学児の飢餓状態の俺には気力がない。口を開けばそこから羽虫が入ってくるのを知っている。だから口をかろうじて結んで、歩いている。俺は歩いている。
はっと今の俺は目を覚ました。高校卒業の年齢にて、卒業後は就職すると育ての親の祖父母に伝えたが、二人は首を横に振った。大学に行けという。育ての祖父母の息子、つまり俺の父も大学を卒業した。だからおまえも行くという方針のようだ。田舎の土地を売ってお金に換えたのを俺は知っていたから、就職するつもりだったのだが、祖父の意志はかたく大学進学しか許さなかった。恵まれている。俺はきっと恵まれている。だから大学には行くけれど、その前に俺は自分の子供のころの記憶を取り戻したかった。ある時期の子供の頃の記憶が、俺にはない。それをインターネットの掲示板で相談したところ、フラッシュバックで幾つか思い出した事がある。掲示板の住民と呼ばれる匿名の相手には嘘つき呼ばわりされたが、俺にとっては本当の出来事だから仕方ない。
ああ夢でそれを見たんだ。夢は無意識の集合体で、意味を成さないと聞いたことがあるけれど、俺はその夢の姿を借りて過去をかいま見た。あの出来事が夢ではないと確信しているのは、俺しか分からない感覚だけれど、からだにしっくりと来て頭から離れずにそのまま取り込まれていく感じがするからだ。だからこれは、俺の過去だ。
ベッドから上半身を起こすと、壁掛けの時計を見て少年は時刻を確認する。深夜3時である。学生の身であるも、起き上がってには学業の準備をするには早すぎた。アナログの壁掛け時計である。祖母が小学生の時にこの部屋に持ってきたものをずっと使っている。こういう時計の方が、時間経過が分かっていいらしいわと、祖父に嬉しそうに話していたのを少年はふすま越しに聞いていた。和室の装いの家だが、少年の部屋は洋式でドアがあってベッドがある。父親が暮らしていた部屋なのかと聞きたかったが、今日まで少年はその機会を失っていた。俺はもう一度横になってみた。もしかしたら、もう一度眠れば夢によって過去を取り返せるのかもしれないという淡い期待だ。甘い目論見かもしれないが、少年は真剣である。だが真剣になればなるほど、眠気というのは遠ざかるものなので、俺は少しがっかりした。若いからこそこんこんと眠りには落ちるのは早かれど、一度覚醒してしまうとその頭はさえ渡るのは彼が若いからである。彼がそれほど眠りに固執しない体質だからよけいに頭は冴え、あきらめて俺は起きあがった。
「どこ行く?」
「ちょっとぶらぶら歩いてくる」
「変な人がいるかもしれないよ・・・」
「大丈夫、俺ばあちゃん達を守れるし」
頻尿で起きてしまうというばあちゃんが、トイレに行くついでで玄関で靴ひもを結ぶ俺に話しかける。愛用の毛糸のストールを肩に掛けて、同世代よりもおしゃれに見える祖母は自慢だった。
「気をつけてねぇ」
寝起きだろうからかすれた声に老いを感じるが、いつものことだからと若い俺は受け流す。ある程度の年齢の成人であればその変化に寂しさを感じるものだが、俺はまだその年齢ではない。俺は目は冴えているのに体が少し重いので、体を動かしてその矛盾をほぐそうとしてランニングに出た。中学時代に運動部の主将を勤めていたことだけあり、その体は引き締まっている。高校では特段運動部には入らなかったが、自主的にランニングやら筋トレやらは行っている。お気に入りの音楽を耳に流しながら、汗をかいて朝日の昇る方へ。
朝日の昇る方へと走っていって、そろそろ折り返そうかと思った少年の頭に、朝の澄み渡った空気が入り込んだようなつめたさがした。
「え」
思わず立ち止まった。そこは自宅よりほど遠いところの馴染みのないコンビニの前である。住宅地であるので、塀や家屋で朝日はもう見えていない。代わりに深夜の仕事を終えただろう人々や、きびきびと働くコンビニ店員の姿がガラスの向こうに見えた。入る気の無かったコンビニである。お金さえ持っていれば、食料のみならず生活用品までも手に入る場所だ。便利で思い通りになる場所だ。思い通り?そういえば、昔の俺も駄々をこねたら叶ったような気がする。だがその願いを叶えたのは、両親や祖父母ではない。祖父母も俺に甘くはないので、少年が愛用する音楽プレイヤーやイヤホン、スマホ代も自分のアルバイト代から捻出していた。祖父母は甘やかしたとすれば、両親が健在だった時だろうか。両親が叶えてくれたという思い出がない。蠅のたかる両親の顔。それしか頭をちらつかなくなって、両親じゃない、両親じゃないと見えない蠅を頭を振り回す。
コンビニ店員は、少年の姿をガラス越しに横目でうかがい、若いのにクスリでもやってるのかと顔をしかめた。ここらも治安が悪くなったものだ、と地域の評価をした。だがコンビニ店員は地方から移住してきたので、数ヶ月しか暮らしていないのでそこまで地域に詳しくはない。だが思わずそう思ってしまったのだ。面倒ごとに巻き込まれやすいのがコンビニだからである。時給上がらないかなあ、来ないでほしいなあと願うばかりだ。
両親じゃなければ、もしかして。自分が不時着した島で生き延びられた原因ではないか? 両親がその島にて死んだ事は、記憶の中でも明らかだ。だが少年を生き延びさせたのは、彼に誰かが食料を恵んだのか? 不時着した人間が、そこまで少年に気を払って生き延びさせてくれたとは考えづらい。それならば今も覚えているはずだ。そこまでの大恩を忘れてしまうとは考えづらい。それならば、掲示板で書かれていた食人族、人に危害を加える部族の情けだろうか。なんだか自分は、子供の頃の少年は、その部族に取り囲まれながらもみじんも恐怖を感じていないようだ。ただ喉が渇いただの、甘いものが食べたいだの泣き叫んで見せると、彼らがにたにたと笑いながら目当てのものを持ってきてくれたような気がする。極度の飢餓状態であっても、少年に不思議と身体的な欠陥があらわれなかったのは幸運や生命力だけで片付けるわけにはいかない。誰かが俺の、願いを叶えてくれたのではないか? 少年の命の恩人でもあるが、彼らはもしかしたら両親を殺した部族である可能性もある。それとも両親は自然死だろうか? いや、虫がたかる顔には間違いなく顔が無かったのを、今なお動画として頭に残る記憶から分かる。両親の顔をえぐったのは誰なのか?
少年はその場でうずくまった。深夜帰りの人々は、買い物を終えると怪訝な目を向けるが早朝は人間の本性が出ると知っているようで、誰も声を掛けない。件のコンビニ店員だけがずっと嫌な目を向けている。その心理は少年と店員がガラスを一枚隔てているからだ。対岸の火事のような感覚である、薄いガラス越しの人間がどうなってしまおうが興味を持たない残酷な立場なのである。少年は、頭を地面に向けているのにどくどくと血が上ってくるのを感じる。心臓のポンプ機能が正常で健やかであるしるしであるが、今はその若さを俺は憎んでいる。血が流れ込んでしまうと、ずきずきとした痛みがしたので、俺は急に頭が大丈夫かが不安になって立ち上がった。めまいもしない。
「ああ」
願いをかなえてくれる場所へと少年は入った。強めの空調が、彼の脇の下を通り抜ける。コンビニ店員は貼り付いた笑みをして、いらっしゃいませとだけ言った。俺の頭はどうやら無事のようだった。
原点:一行作家