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教祖の娘と組んでどえらい女子高生を洗脳したらどえらいことになる

――エゾヒグマだな。若いオスで、二メートルはある。

 ホルスが冷静に黒い獣の情報を述べた。大きな巨体が頭を揺らしながら、車内の空気を嗅ぎ、そしてゆっくりと、運転手の死体に覆い被さる。程なくして、生々しい咀嚼音と、骨の砕ける世にも恐ろしい音がした。女子生徒の一人が恐怖のあまり嗚咽を漏らす。

ヒグマが運転手の死体を、運転席から引っ張り始めた。ヒグマの強い力にかかると、運転手の体はただの軽い人形のように、いとも簡単に引き摺られた。

 そのままヒグマは、死体をがっちり咥え暗闇の中へと消えていった。

「今の、見ただろ」

 絶句と失望に包まれる車内で、真っ先に声をあげたのは金枝だった。

「今すぐここを出て、国道を辿り、市内へ向かおう。アレが帰ってくる前に。さあ早く!」

 金枝は勢いよく歩き出すが、誰一人ついてこようとはしなかった。訳が分からず、金枝は振り返る。

「どうしたんだ、急ごう」

「具合の悪い生徒はどうするの? 置いてけって言うの?」

 熱心に看病をする女子生徒が、心外とばかりに立ち上がる。金枝は「ああ」と即答した。

「だって、どうしようもないだろう。それとも、救助が来るまでヒグマに襲われ続けるのか。前からヒグマ、後ろからゾンビ化した生徒に襲われたいのかよ。バカか」

 金枝は口を噤んだ。自分への支持率がぐんぐん下がっていくのを感じた。金枝はうんざりした。

「はあ、そっか。人の集団が追いつめられると、正しい理性より間違った感情を選ぶんだな」

――美糸、もうよせ。アプローチを間違えたな。

ホルスが厳しい口調で諭した。

――君には威子口空のようなカリスマ性はない。強引にならず、慎重に言葉を選ぶべきだった。

「小間口さん。俺らだけでも行こう」

「ええーっ?」

 金枝は大股で小間口の席まで行くと、戸惑う小間口の腕を引いて、バスの通路を歩いていく。やがて、血の痕と鉄と獣臭さが鼻につくバスの昇降口まで来たところで、金枝の足が止まった。

(本当にこれで良いのか)

金枝の目の前には暗闇が広がっている。目を凝らす限り羆の姿はない。が、外へ出て、バスが落下した急こう配を生身で上ろうとして、背後からヒグマに襲われない保証がどこにあるだろう。そうでなくとも、札幌の街へは歩いて一時間以上かかる。小間口と二人だけの時に、ゾンビの群れやヒグマと鉢合わせすれば、片方、あるいは両方とも命が危うい。

「やめた」金枝がさっぱり言った。

「そう、そうだよね。それがいいよ」小間口は引き攣った笑みを浮かべ安堵の息を吐いた。

 金枝は小間口の手を引くと、バスの真ん中へ引き返す。そして言った。

「バスの中に留まるなら、ヒグマと戦うしかない」

 そう言うと、ぐるりと車内を見やった。

「あのクマは運転手を食べて人の味を知った。次に戻ってきた時、俺達は食べ物として認識されるってことだ」

「戻ってくるとは限らないでしょ」と女子生徒。金枝は指の関節を鳴らしながら言う。

「じゃあ、ヒグマが戻ってこないと信じて、何の対策も取らないとするか」

「クマと戦う武器とか何もないぞ、このバス」

生徒の一人が指摘する。金枝は頷いた。

「そう。精々水筒ぐらい。そんなの、役に立たない。非力な修学旅行生が三十人いたって、一人一人死ぬだけだ。冗談じゃない。無抵抗に食われるのはごめんだ。そうだろ?」

 生徒らはばらばらに頷いた。

「俺が言いたいのは、こういう時の為に『力』を授かったんじゃないのか? なあ」

 金枝は瞬き一つせずに言った。金枝の言葉に大半の生徒はきょとんとしていたが、はっとする生徒や、表情を強張らせる生徒もいた。

「そ、それって離人症の能力を言ってる?」

 女子の一人が恐る恐る尋ねる。金枝は無言で頷くと呼びかけた。

「離人症は五人に一人。バスの中に生徒が三十人弱。最低でも、五人はいるんじゃないか。ヒグマと対抗できる能力を持った人がいるなら、名乗り出て欲しい。みんなの為に、頼む」

 生徒らは顔を見合わせた。小間口は申し訳なさそうな顔をした。

――美糸クン、お目当ての離人症はいるのか。

 金枝はじっと息を凝らし待った。しかし、無反応。溜息をついた。

(やはり、今すぐでも小間口さんと、札幌の街を目指すべきなのか)

 その時、「あ、あのう!」と大きな声を発する男子生徒がいた。黒眼鏡をかけた真面目そうな、ぼさぼさ髪の、細身のマッチ棒のような生徒が、緊張した面持ちで手を挙げている。

「君は?」

「な、名桐だ。い、今まで誰にも言ってなかったけども、僕は離人症だ」

 見た目によらず低い声で男子生徒が告白する。

「僕の能力は、やもするとヒグマを倒せる」

 おー、と感心したような生徒らの声。名桐と名乗った男子はゴホンと喉を整えて言う。

「僕は、何にでもなりきれる。全身を包むスーツだとか、着ぐるみさえ、あれば」

「わぁーお。凄そー……?」小間口がぽかーんとした顔で名桐を窺う。名桐が黒縁眼鏡をくいと直した。

「つまり、特撮ヒーローとかアメコミヒーローのスーツとマスクさえあれば、空だって飛べるし、列車も止められるし、目からビームだって出せるってことだ」

 それはすごい、すごいと歓声が挙がる。名桐は照れたように頭を掻くが、小間口が思いのまま質問をして、事態が一変した。

「じゃあ、何のスーツ持ってんの?」

「……へ?」

「だから。スーツがないと、変身できないんでしょ? 今、何のスーツがあるの?」

 名桐は頭を掻いた姿勢のまま石のように動かなくなる。金枝は天を仰いだ。生徒らが段々と理解し始め、歓迎ムードの空気は急激に冷めていった。

――まさかと思ったがこの男、何の用意もないのか。こいつは、使えないぞ。

 と、金枝に寄生した宇宙人は辛辣な言葉を吐いた。

「誰か持ってないかな?」

 名桐が汗を垂らしながら縋るような視線を送る。

「コスプレ的なものでいい。なんでもいいんだ、なんでも」

「ねえ、誰か持ってない?」

「ない」

「持ってる訳ないだろ」

 生徒らが口々に否定の言葉を吐いた。名桐はどんどん縮んでいった。

「ほ、他に誰かいない? 後生ですぅ」

 小間口が両手を組み、祈るように言った。返事のないバス車内。ただただ、うー、うーと体調不良の生徒らが唸る声。それは次第に大きくなる。

「ねえ、様子がおかしい」

 看病をしていた女子生徒が、おろおろしている。

「もうゾンビになりかけてるんだよ。なっちゃん、離れた方がいいよ」

生徒の一人に促され、看病熱心だった夏目もとうとう距離を取った。付近にいた生徒らは、いつでも逃げれるようにバス席を立っている。

ガタッ、と物音がした。金枝は後ろを振り返った。バスを歪めたエゾマツの傍に黒い巨体が聳えていた。

 金枝の口内が苦くなった。ヒグマの再来に小間口も気づき、金枝の肩をぎゅっと掴む。

「ウソ。やだよ、金枝。どうすんの? ねえっ」

「おい、ホルス!」

 人目も憚らず寄生した異星人の名前を金枝は叫んだ。

――そうだな……ヒグマに生きて食われる前に、お前の体から出る準備だけはしておこう。

「このヤロウ」

 金枝は周りの男子生徒と一緒に、大声でクマを威嚇した。が、ヒグマは平然として、ゆっくりと此方へ近づいてくる。

「なんでもいい、投げつけろ!」

「分かった!」

 生徒らは手あたり次第、手元にあった物をヒグマのいる暗闇に向かって放った。ヒグマは鬱陶しそうな顔をして、物が当たらない昇降口まで後退していく。だが、物が飛んでくるのが止むと、また、のそのそと金枝らの方へ近寄ってきた。引っ込んでは、近づいて、引っ込んではまた近づくヒグマ。それを繰り返す毎に、ヒグマとの距離は縮まっていく。バスの最後座席からは、様子のおかしい生徒らの発する知性の感じない声が大きくなっていた。ヒグマとゾンビに挟まれ、生徒ら二十数名は恐怖のあまり、嵌め殺しの窓を叩き割ろうとし始めた。

 投げるものも無くなり、ヒグマは涎を垂らしながら距離を詰めてくる。金枝は死を強く意識した時、

「どいてっ」

誰かが、すっと金枝の前に出た。明るい茶髪の女子生徒だった。ヒグマの脇を通り抜けて逃げるつもりなのか。無茶だろ、と声をかけようとして、金枝は言葉を飲みこんだ。

女子生徒の体が泡立ち、ドロドロに溶けていく。芳しいカカオの香りが辺りに充満した。

「チョコレート人間……」

さっきまで女子生徒だったものは茶色い、人型の流動体となり、着ていたジャケット、ジーパン、ブラジャーにパンツまで、チョコレートの液体に流されて地面にドロリと落ちた。唖然としている金枝の前で、チョコレート人間の体から細長い針のような突起が何十本も生え始めた。対してヒグマは、目の前の人間が謎の変化をした為に毛を逆立てたが、甘ったるい匂いにつられて一歩、また一歩と前に出て、その正体を確かめようとした。

それは一瞬の出来事だった。液体のチョコレートがクマの体へ向かって、しゅっと吸い込まれた。いや、突き抜けた。ヒグマの巨体は光速のチョコレートに貫かれ、一瞬動きを止めた後、力なく伏せた。ヒグマの目には光が無く、事切れた後だった。

 チョコレートの滝の中から目玉が二つ飛び出し、ヒグマが死骸になっているのを確認している。そして、チョコレートは人型となり、そして泡を立てながら女性の裸体に変化した。

「おい、照らすな!」

 ライトを向けられた女子生徒が怒りの形相になる。怒られた生徒は慌ててライトを消した。女子生徒はだらんと垂れたヒグマの手を跨ぎ、床に落ちた衣服を拾い上げ、きびきびと身に着けていった。チョコレートの染みは一切ない。

「どうやって倒したんだ?」

 金枝の問いに女子生徒は腕組みをした。

「なんつーか。ウォーターカッター、みたいな? 殺したんだから文句ねーだろ」

「ゾンビもなんとか出来ないか?」

 最後列で白目を剥き、今にも起き上がりそうな生徒らを親指で差し、金枝が訊いた。チョコレートになれる女子生徒は三白眼の目を吊り上げ、不快な顔をした。

「嫌だね」

「どうして。人間だからか」金枝が食い下がる。

「違うよ。血液感染したくない」

「いいじゃんもう、金枝」小間口が急かすように言った。

「とにかくバスから降りよう」

「ちょっと待った」

 眼鏡をかけた七三分けの男子生徒が前に出てくる。

「穴だらけのクマの死体をここに残していくのは不味い。離人症状者の仕業とすぐにばれる」

「じゃあどうしろと。縄で縛って、皆で運ぶか?」

 金枝は皮肉を言いつつも、目の前の男が離人症であることに気づいていた。七三分けの男子生徒はしゃがみこみ、死んだヒグマの頭部を撫でつつ、目を瞑っている。

 むくり、と絶命したはずのヒグマが起き上がり、生徒らは悲鳴をあげた。しかし、ヒグマの目は白濁し、何も見えてはいなかった。ヒグマは声一つ出さずにバスを降り、森の中へと消えた。

 金枝達もバスを降りた。車内には、ふらつく人影しか残っていない。

「名前は?」

 クマを動かした生徒に訊ねる金枝だったが、「いやぁ」といってはぐらかされた。後ろからチョコレート人間の女子生徒が追い抜きざまに言う。

「何で言う必要があんだよ。あたしらにメリットがない」

――身元バレが恐いようだな。しかし、顔は覚えたぞ。

 ホルスが陽気な声をだす。

「ごめん、配慮が足りなかった。他意はないんだ。それにしても凄い能力だったな、二人とも」 

「死骸に試すのは初めてだよ」七三分けの男子が返す。

「今までは、石像とか人形しか動かしたことがなかった。死体の方が、簡単に動いてくれた」

「はーい、みんな。ちょっと聞いてよ」

 国道へ上がったところで、小間口の特徴の有るような無いような声質が暗闇に響いた。生徒らのお喋りが静かになる。

「離人症の生徒を守るために、口裏を合わせまぁす」

 小間口は、一枚のメモ用紙を取り出した。

「ここに、共通のストーリーを書いたから。ちょっと、全員足を止めて、読んで欲しいんだけど、いいでしょうか」

 小間口がメモ紙を金枝に渡す。そして、周りに聞こえない声で言った。

「読む『フリ』を」

金枝は無言で外灯の下に行くと、メモ紙の余白を流し見て、怪しまれないよう見計らい、別の生徒にメモ紙を渡した。

一通りメモが行き渡ったところで、生徒らは国道に沿って歩き始めた。

それから一時間半も歩くと、軍の交通規制を示す緑のランプが点灯しているのが見えた。

「助かった」と浮かれる者もいれば、軍人の携帯する銃身を目にして不安を抱く者もいた。

 平汎高校の生徒は、ぴたりと足を止めた。

「聞こえる?」「終末の音だ」

 金枝は顎を上げ、夜空を仰いだ。暗闇に低く響く、金属のパイプを風が通り抜けるような奇怪な音が轟いた。

「え、なになに?」

 小間口には何も聞こえないようで、きょとんとして周りの人の顔を見つめている。

――美糸クン。音よりも生徒の反応に注目してみろ。

「はい」

 金枝は仕方なく、生き延びてきた生徒の表情に目を凝らした。ほとんどの生徒は不安げに札幌の空を見つめているが、チョコレートに変身可能の気の強い女子生徒と、無生物を操作出来る七三分けの眼鏡の男子生徒は狐につままれたような顔をしてきょろきょろと周りを窺っている。役に立たないマッチ棒体型の生徒も同様だった。

――聞こえないのは離人症の生徒だけだ。興味深い。

「んなことどうでもいいよ。さあ、みんな行こうぜ!」

 金枝は手を叩き発破をかけた。立往生してしまったたくさんの乗用車やトラックの間を縫って、先へ進んでいくにつれ厳戒態勢のピリピリとした空気も高まっていった。グリーンランプに照らされた移動式の封鎖用ゲートの前まで来ると、「止まれ」と肩幅の広い軍人が歩いてくる。

「ここは今、国の命令で通行禁止だ」

「ああ、ですよね」

 金枝は手に息を吐くと、後ろを向いた。何も知らずにぞろぞろと歩いてくる生徒に手でバッテンを作り合図をしていると、

「君達。もしかして、平汎高校の生徒?」軍人が尋ねた。

「はい、そうですが」金枝が振り返る。

「生徒は、これで全員か」

「はい、一応」

 軍人は無言で、簡易テントの中で屯する仲間を手で呼びつける。背後にいた小間口が警戒するのを金枝は肌で感じ取った。

「君、大きいから高校生に見えないね」

 そう言うと軍人は、がしりと金枝の肩を掴んだ。

「ちょっと、来てもらえるか」

 グローブ越しの軍人の握力に金枝は顔をしかめた。軍人は肩口からレーザー銃を掛けていた。その銃口は常に、淡い水色の光をぽうっと吐いている。金枝はしかめ面のまま小さく頷いた。


 柔らかな朝の陽射しに金枝は目を覚ます。リモコンを押すと、カーテンが自動で開き、一人では贅沢すぎるホテルの一室に光が満ちた。五つ星のホテルだけあって、修学旅行で昨日まで泊まっていたそれとは格が違った。金枝は冷蔵庫からブドウジュースを取り、テレビを点ける。丁度、ニュースが始まったところだった。

「昨夜から未明にかけて発生した札幌のゾンビ汚染ですが、つい今しがた、政府から収束したとの発表がありました。この件で千葉からの修学旅行生を含む四十九名の死者が出たとのことです。現在発生地区は消毒作業が行われており――」

 木に追突したバスが青い火で焼かれているシーンが映った。傍にはブルーシートがかけられていた。

「もっと泊まりたかったな……」ワイングラスのブドウジュースを口に含みながら、金枝は独り言を呟いた。

 着替えを済ませ、ラウンジへ向かう。一階の黄金色のホールを通過すると、既に美味しそうな匂いが香った。

「おはようございます」

 ホテルの綺麗な受付に挨拶され、金枝はかくりと頭を下げた。昨晩とは全く違う世界だ。

「おはよう、金枝」

 ラウンジで小間口と一緒になり、金枝は自然と笑顔になった。

「何がおかしいの?」

「何もかも上手くいったから」

「人が死んでるんだよ」

 小間口が呆気に取られた顔で金枝を見つめる。「ごめん」と金枝は謝った。

「まあ……でも確かに、隔離の名目でイシグチグループ系列の超高級ホテルにタダで泊まれたし。さっすが、威子口って感じ」

 金枝は、熱いラザニアの入ったミニカップと、焼きたての目玉焼きが美しく載った白皿、そして見るからに旨いミニ海鮮丼をトレーに載せ、ついでにヨーグルトも取り、誰もいない丸テーブルの真っ白なテーブルクロスの上へトレーを滑り込ませた。小間口が朝食を載せたトレーを持ってうろついていたので、金枝は臆することなく同席に誘った。

「小間口さん、昨日のメモ紙。あれ、何て書いてあったんだ?」

「記憶を書き換える文言」

 けろりと小間口が言う。

「話してなかったけど、私の能力は文字を通して発揮する奴だから」

「じゃあ、朝食後に書いといてくれ」

 金枝はラウンジの入り口に佇む威子口空を見ながら言った。ラウンジのあちらこちらから拍手が巻き起こると、ソラは淑やかに会釈した。

「みんな現金だねえ。昨日悪口言ってたクセに」と小間口。金枝は念を押した。

「ねえ、小間口さん。実行は早ければ早い程良いんだよ。昨日の感染検査で、もしも離人症の検査も同時に行われていたら、俺達捕まってたんだぜ。来月からは、事ある毎に離人症のチェックが為される。法律改正が施行される前に俺達の出来ることをすべきだ」

「そう言うけどさー、金枝くん。ソラちゃんを洗脳したところでどうしようもなくない? だって、威子口のご当主様が主導してる奴じゃん」

 そう言いながら小間口は、桜色の鮭をほかほかの白米と共に頬張った。関東の鮭の味とは違うマグロのような旨みが小間口の口内に広がる。

「……つーか、金枝? こないだの球技大会で検査受けたんだよね、何で捕まらなかったの」

「さあ。偽陰性だったのかも」メイプルシロップをかけたヨーグルトの中へスプーンを潜り込ませながら、金枝はすっとぼけた。

「とにかくさ、威子口空さえ言いなりにしてしまえば、そっから取っ掛かりで当主を洗脳することだって難しくない。いいか、なる早だ、なる早」

 それから少し会話が途切れた。

「何て洗脳すればいい?」人目を気にしながら小間口が訊いた。といってもラウンジは広く周囲のテーブルには誰もいない。威子口空も顔を見せただけで、金枝らと会話もせずに姿を消している。

「そうだなぁ……」

金枝は静かに深呼吸をした。手っ取り早く、『俺の言うことには絶対服従の女にしてくれよ』というのが本音だったが、それでは小間口が難色を示すのは必至だった。

「色々と融通が利くようにしたいから『俺と小間口さんの二人の言葉には必ず従う』とか、どうだ」

「ふーん……」

 小間口はちょっと迷った顔をしたが、「それでいいか」と許可をした。

「あっ、変なことしないでよ。悪用厳禁」

「変なことって?」

「性的なこと」

「しないよ」

「怪しい」

 小間口に疑いの目を向けられ、金枝は言い返す。

「だったら『性的な指示には従わなくてもいい』と付け加えてくれよ」

「熱くなるところが余計に怪しい」

 小間口にからかわれていることに気づき、金枝はそれ以上何も言わずワサビとイクラのたっぷり載ったミニ海鮮丼を口に掻き入れた。ワサビ特有のツーンとした刺激が金枝の鼻から脳味噌へ突き抜ける。

――わっ、何だこの痛みは。こんなものを食べて人間は喜んでいるのか、危篤だ。

 ホルスはしばらくの間ブツブツとワサビに文句を言っていた。


 朝食を堪能した金枝と小間口は二人で歩いていた。ホテル内に流れる落ち着いたクラシック音楽が、五つ星ホテルの上質な雰囲気を更に高めている。

「いないね、威子口さん」小間口がギフトショップを覗きながら言う。白いチョコレート菓子や冷蔵ホタテ等のお土産コーナーに人が近づいても、安いスーパーのAIとは違って値引きやセールがコマーシャルされることもなく、しっとりとしたムードは保たれていた。

「ねー金枝。どうせ明日学校で会えるんだし、今日じゃなくても――」

「いた」

 金枝の視線の先、ガラスを隔ててホテル外に広がるトロピカルな庭園。その中に設置された、カーテンの付いた六角形の西洋風あずまやの白いソファにもたれかかり、威子口空はうたた寝をしていた。

 二人は庭園に出た。寒冷地仕様に改良された赤いハイビスカスや白のプルメリアの花々が色鮮やかに咲き乱れ、それらの発する淡い芳香が二人の鼻腔をくすぐる。

「威子口さん」

 威子口空は膝元に読みかけの文庫本を置いて、気持ちよさそうに目を瞑っている。靴と靴下はソファの手前に綺麗に揃えられ、素足だった。無防備な色白の太ももは若々しく、見るからにすべすべしていて金枝には眩しかった。

もう一度名を呼ばれ、威子口空は薄目を開けた。

「ああ……金枝君。君が無事で、安心したよ」

 そう言ってソラはうーんと背伸びをした。膝上の文庫本がするりとソファと太ももの間に挟まる。

「私もいるよ?」小間口が身体を揺すり、笑顔を作る。

「ああ、ごめん。気づけなくて」ソラは髪を撫でつけた。

「そうだ威子口さん。昨日のゾンビ汚染の件で見て欲しいものがあるんだ」

「ん、何かな」

 小間口は上着の胸ポケットから、折り畳まれた洗脳の文言の書かれた紙を取り出し、威子口空に手渡した。

「えーと……これは?」ソラは少し困ったように笑った。金枝は作り笑いを浮かべた。

「いいから、読んでみてよ」

 威子口空は嫌がることなくメモ紙に目を落とす。

一秒、二秒、三秒。五秒経ち、十秒が経った。

「……勝った」そう呟く金枝の拳は小さく震えていた。

「威子口さん? どうかな」

小間口に訊かれても威子口空はただ静かに洗脳文章を見つめている。

「小間口さん。もういいか?」

「うん。かかってると思う」

金枝はごくりと唾を飲みこむと言った。

「威子口空、命令だ。これ以降、金枝美糸と小間口伊穂に対するいかなる攻撃的な行為を禁じる。むしろ保護しろ。そして、これからは俺と小間口伊穂の命令には絶対服従するんだ」

「ソラちゃん。離人症状者全体の境遇を改善して。マジのお願い」

金枝は威圧的に、小間口は真剣な面持ちで威子口空に頼みこんだ。

ソラは目を伏せ、すらりとした両脚を折り、自分の膝を胸元へ手繰り寄せた。そして、目元に指を押し当てる。

ぽろっと、何かが零れ落ちた。それは、コンタクトレンズだった。しかも中央が黒く塗り潰されている。もう片方の目も同様に、ソラは奇妙なコンタクトレンズを外した。金枝は訳が分からずその光景を見つめた。

「金枝美糸。小間口伊穂」

威子口空は二人の名前を呼び捨てる。白い歯が覗いた。ソラはゆっくりと唇を滑らせた。

「残念。筒抜けなんだよ」

「え……?」

小間口は驚きのあまりぽかんと口を開け、金枝は無意識に小間口の方を見やったが、何の前触れもなく金枝の視界がぶれた。金枝の体は強い力で地面に叩きつけられた。小間口が悲鳴をあげる。

「動いたら殺す」煉瓦の床に押し付けられた金枝の耳元で北形雅が低音を発した。北形がステルス機能を解くと、同じくステルス機能を解除した特殊部隊の隊員らが電気銃を向け、金枝らを取り囲んだ。

「どういうことだよ、威子口さん。俺達はちょっと、からかっただけで――」

「君のことは屋上の一件以来、ずっと盗聴してたんだ」

ソラは涼しい顔で告げた。金枝の顔が青ざめる。ソラはコンタクトを手の平で転がした。

「このコンタクトは、視界を遮断する為のものだ。まあ、細かい話は後にしよう。今は二人とも、大人しく寝ていてくれ」

 二人は両手を拘束され、頭に黒い袋を被せられた。真っ暗になる視界。自分の荒い呼吸しか聞こえない世界。視覚と聴覚を奪われ、触覚しか手がかりのなくなった金枝と小間口は、首筋に冷たい金属のハンコを押し当てられた感触があった。刹那、チクリと点の痛みを感じ、やがてズーンと鈍い痛みが全身に広がる。二人の意識は遠心力で振り回されたようにぐるぐると渦を描き、それからはもう何も考えられなくなった。

 脚をだらしなく放り出し、床に伸びたクラスメイトをソラはソファから一瞥すると、隊員らに告げた。

「彼らの処理の仕方だが、私に任せてくれないか」

「構いません。我々は、深入りしません」

 隊長がくぐもった声で答える。ソラは愉悦の笑みを浮かべた。

「賢明だ。では、彼らを私のプライベートジェット機まで運んでくれ。それと、君らの部署に伝えておこう。ボーナスをしっかり弾んでおけと」

 隊長は頭を下げると、隊員に対し、例のスーツケースを持ってくるよう指示した。人が入る大きさのスーツケースが二つ、ホテルのカウンター裏に予め用意されていた。

「お嬢様、学校側へは適当な都合をつけておきます」

 北形が手の土を払いながら言った。北形だけは何の特殊スーツも着けずに姿を消していたので、隊員達は金枝らの体をスーツケースに仕舞いながらも、奇異の目で北形を盗み見ているが、北形は説明する気もなかった。

「お嬢様。小間口伊穂の家族に対しては、どう説明しましょうか。金枝家は一般家庭ですが、小間口家はおそらく信者を使って娘の安否を探ってくるかと」

「そちらには私から話す」

 ソラはおもむろに足を組んだ。

「自分の愛娘が離人症であるという検査結果も伝えてやる。本来は施設送りだが、彼女のことは解放する」

「観返教に、貸しを作ると?」

「ふふ、そうだな……」

ソラは機嫌が良かった。人差し指と中指で北形を傍に寄せる。

「北形、耳を」

 腰を屈める北形。耳元でソラがささやいた。

「彼らは邪魔で、鬱陶しい。娘を交換条件に、リアース計画から手を引かせようと思う」

 北形は息が止まりそうになりながら、姿勢を正して一歩、ソラから身を引いた。『リアース計画』という言葉を北形が聞いたのは人生で二度目だった。ソラはほんの少し冷ややかな眼差しを北形に向けていた。北形の首筋から、つうと汗が垂れた。目の前にいる誰よりも知っている筈の人物が北形は空恐ろしくなった。


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