プライド高くてムカつく天才女子高生を中間考査で負かしてやった後に告白してみたら反応がひどい
(とりあえず会話しよう)
金枝もラフに挨拶を交わすと、尋ねた。
「なんかあった? 俺、笑われてるけど」
「ああ。実はね。君に関する噂が囁かれていた。それも君の登場で立ち消えたけれど」
「どういうの」
「金枝君、昨日離人症対策庁に連行されてなかった? 離人症を発症して捕まったんじゃないかー、って」
「ああ。疑われてたのは本当だよ。取り調べも受けた」
威子口空は、はっと息を飲む。
「でも俺、陰性だったから」
「そうなんだ。良かった」
威子口空はほっと胸を撫で下ろす素振りを見せた。金枝は内心、胡散臭いと思っていた。威子口だから俺の取り調べ結果も既に知っているんじゃないか。そんな気がした。
威子口空が言う。
「金枝君……最近調子良いでしょ? 勉強も運動も。急に。離人症で、何かやったんじゃないかー、って噂が――」
「これ」
金枝は自分の右上腕二頭筋をポンポンと叩いた。
「努力」
「あぁー」
「超能力とかじゃないぜ。三日後だっけ、中間考査。クラス一位を取るつもりだ」
金枝にも口を滑らせた自覚があった。クラス一位を取ることイコール、威子口空よりも上の成績を取ることじゃないか。言ってから気づいたが、今さら訂正するのも恰好がつかないので、金枝は黙っていた。
「えっ。金枝君が?」
その時、威子口空は若干驚いた顔をしたが、内心『おいおい大きくでたな』と半分では呆れていたし、それをあまり隠そうともしなかった。なにしろ、平汎高校の生徒なら誰もが呆れる、異様な発言を金枝はしたのだ。周りで雑談をしていた生徒まで思わず金枝を見やる。
「無理とは言い切れないだろ」
金枝は鞄を机の横にかけると、威子口空を見た。威子口空は楽しそうな表情を浮かべている。
「ふーん。つまり、宣戦布告だ?」
「え、いやそこまで本格的なものじゃ」
「よーし。その挑戦、受けて立とうじゃないか」
威子口空は服の袖をまくりあげると、ニコッとふざけて笑ってみせた。開け放たれた教室の外、雲一つない青色の空を背にして、きらりと白い歯を輝かせる威子口空。ここで写真を撮れば、そのまま有名女性雑誌の表紙に載せられそうだと金枝は思った。
じゃあね、と威子口空が去った後も、そのシーンは金枝の脳裏からしばらく離れなかった。
―面白い着眼点だ。
金枝はぎくりとした。脳内で他人の声が勝手に喋っている。
「ちょっと。誰ですか」
自分の脳に語り掛けると、ぴたりと独り言が止んだ。
――なんだ聞こえたのか。私の声が聞こえるということは、君は今、少しぼんやりしているということかもな。それとも……。
それは早朝の夢に出た目玉男ホルスの声と合致していた。
――威子口空は学年一位しか獲ったことがないのだ。まさか、学年トップの座を遥か格下に位置付けていた、冴えない、不細工な男子生徒へ明け渡すことになるとは、夢にも思うまい。
金枝は少し考えてから、ホルスの言いたいことを理解して頭を抱えた。
「無理」
金枝は誰にも聞こえない声で呟いた。
「それは、無理だ。俺の頭じゃ、毎日二十時間勉強したって無理。幼稚園からやり直しても無理」
――そう、金枝クンでは無理だ。
「じゃあホルスが試験解いてくれんの?」
――当然だ。
「じゃあ、じゃあ……いいや」
金枝は肩を竦め、ぐーっと背伸びをした。寄生生物が問題を解くなら、むしろ楽で大助かりだ。
それから試験までの一週間、金枝はいつもより勉強をさぼって漫画やゲームを楽しんだ。
「ここまで不安なのは初めてだ」
金枝は目の下に隈を作り、青ざめた顔で試験当日を迎えていた。
「だって勉強しなかった」
――安心しろ。
「本当にお前が全部解いてくれるんだよね? 別に威子口さんに勝たなくていいけど、せめて赤点三つは取らないで。二つ迄にしてくれ。マジで。嘘だったら、やばい」
――全く。私を信頼してないのなら、自分で勉強をしておいたら良かったのだ。
金枝はふわぁと欠伸をした。
「だってさ、寝不足気味で試験を迎えろっていうから。仕方なく俺は、ゲームや漫画を深夜までやってたんだ」
教室は、試験前のいつもの雰囲気になっている。緊張と、そして変な明るさ。例えば、『俺、全然勉強してねえー』というわざとらしい声。そういう声を訊く度、金枝は毎回『嘘をつけ』と心の中でつっこんでいた。そういうことを言う人間は大抵、勉強をしていた。そして、自分より試験の成績が良いので、金枝にとっては嫌味にしか聞こえなかった。金枝は物覚えが良い方ではなく、尚且つ、勉強時間も大したことがない。精々、試験十日前から机にかじりつく程度。とはいえ、授業は当たり前だがちゃんと聞き、分からない問題があったら放課後、かなり頻繁に先生を捕まえて尋ねている。それをしていても毎回赤点を取る馬鹿さ加減で、しかも今回は勉強していない。金枝はもう恐怖だった。
「なあ、聞いてるか。何で寝不足にしたんだっけ?」
――君がぼんやりしていないと、私が君の体を自由に操れないからだ。それに関しては迷惑をかけた。謝ろう。その割に、昨日は楽しそうにピコピコ、くだらんアールピージーゲームとやらに時間を消費していたようだがね。
金枝は知らん顔をして勉強用タブレットを開き、日本史の暗記を始める。
――こういうのを付け焼刃というのだな。
ホルスの感心したような声が響く。それが妙に頭に残った。金枝は溜息をつくと、タブレットを閉じる。
「もう、いいや。お前に全部任せた」
――もう、いいんだな?
「いいよ」
それから数分が経過するが、金枝は金枝のままだった。
――少し眠気が足らんようだ。仕方ない、あれをやれ。
「まじかよ」
金枝は周りの目を気にしながら、自分で用意した小型の水筒を取り出した。水筒の中身は、冷蔵庫からくすねたワインだ。
――アルコールは君ら人間の意識を駄目にする。即ち、私の独壇場になるという訳だ。
金枝は息を止め、人生初のアルコールで喉を潤した。
――おいおい、そんな飲まなくても。
水筒を閉じ、鞄にしまった辺りで、ふっ、と何もかもがフェードアウトしていく。
金枝の意識は途切れた。
「もしもーし。大丈夫、ですか」
低く濁ったような、アニメ的な声と正反対の声質で金枝は起こされた。
「は?」
金枝は、はっとした。机から顔を上げると、一人の女子生徒と目が合った。女生徒は少し怯えた様子で金枝を見下ろしている。周りを見ると、教室で人の気配はなく、日は傾き西日が射しこんでいた。
「今、何時?」
涎をハンカチで拭き取りながら金枝が訊ねる。女子生徒は黙って体を捻り、教室の時計を指した。時刻は十六時を過ぎている。
「えっ、試験は。どうなった」
「終わった、けど」
「嘘だろ。やばい、ずっと寝てた……!」
焦りだす金枝の様子に女子生徒は怪訝な顔をした。
「あの、フツーに、解いてたよね? 金枝」
「……ああそっか。それは……良かったわ」
放心状態でいる金枝を置いて、女子生徒はクマから逃げるような体勢で教室を出ていった。
少し経ってから、金枝は「ひょえー」と疲弊した声を漏らした。
「びびった」
――今の女子生徒は小間口伊穂か。
金枝の脳の片隅で声が聴こえた。
「ホルス。試験やった?」
――今のは小間口伊穂だな。
「ああ、そうだよ。観返教会の。何か気になることでもあんのか」
鞄を指に引っ掛け、金枝は教室を出た。再びホルスの声がした。
――本来、あちらさんに私は憑くはずだったのだ。威子口空との体の相性が悪かった為、別の寄生先を探していたのだが、小間口伊穂はすこぶる好都合だった。
「へえー。好都合? どうして」
侘しい廊下を歩きながら尋ねる金枝。
――家だ。
ホルスが答えた。
――日本有数の新興宗教、観返教会。さすがに威子口の権力と比肩するレベルにはないがそれでも、多方面に影響力を持ち、勢いもある。そこの娘とあれば使い勝手は良い。体は肉付きが良く健康体そのものであったし、何より能力があった。
「能力? なんの」
金枝は少し馬鹿にした口調で言う。
「小間口さんに目立った才能なんか――」
――洗脳。
金枝は思わず足を止めた。頭の声が他所に漏れていないか一瞬気になったのだ。
「離人症なのか?」小声で呟くと、ホルスは肯定した。
――それも、強力だぞ。私もまやかし程度なら扱えるが、所詮はその場凌ぎに過ぎない。ほら、こないだ取り調べをした四角い顔の役人に、短期の常識改変を使っただろう。
「ああ」
――小間口伊穂のそれは、ヒトの人格を捻じ曲げられる。半永久的にだ。
「あー、そうか。小間口さんの能力で威子口さんを洗脳したら、疑似的に寄生したのと同じになるもんな。やっぱり、小間口さんに寄生すりゃ良かったんじゃ?」
――お前の体との相性を私は優先したのだ。持ってる人脈や権力がからっきしにもかかわらず。だから、君にはしっかり、私の期待に応えてもらわねば。
勝手に寄生しといて偉そうに。金枝は思った。
東京方面へ向かう空いた電車内。流れる町の風景を眺めながら、金枝はぽつんと訊いた。
「そういえばお前、誰が離人症か分かるんだっけ」
――私に限らず、お前だって分かる。左目で他人をよく注視してみろ。時々、雰囲気の違う人間が見つかる。
「ホントか?」
金枝は試しに車内を少し歩いた。ぐったりして貞子のように髪を垂らし俯く女。タブレットを弄る他校の短髪の男子生徒。生きているかも分からない目を瞑った老人。よくある電車内の景色。しかし、目の錯覚といわれればそれまでだが、白い靄のようなものが、十人いれば一人か二人、肩から頭にかけて見えるようになっていた。
「なんなんだ、ああいう白いの」
小声でホルスに尋ねる金枝。ホルスは、
――私の感覚を分かりやすく可視化したのだ。
と、答えた。
――例えるなら、本来無臭のガスに匂いを付けるようなものだよ。実際に白い何かが纏わりついている訳ではない。
「誰が、何の能力を持っているかまでは分からない?」
――分かるとも。美糸君が所望というなら、能力の詳細まで知れるようにしてやろう。
「やってくれよ。面白そうじゃん」
その日を境に金枝は、道行く人、レストランのウェイター、学校の生徒教師、誰がどういう離人症を患っているか、一目で知れるようになった。
試験期間が終わり、日曜を挟んで答案用紙が返ってきた。金枝がドキドキしたのは最初だけだった。
「よっしゃ」
一限目に返却された二つ折りの古文の答案用紙を開き、金枝は勝利を確信した。全回答に丸。自分が解いた記憶は無いのに、自分の見慣れた筆跡で埋め尽くされている。その出来栄えに惚れ惚れしていると、
「金枝がマンテン取ってる!」
後ろの男子生徒が素っ頓狂な声をあげ、少々の騒ぎになった。次の物理も、英語も満点なので、金枝はカンニングを疑われた。
「お前、離人症じゃね?」という声も挙がった。
「そんな訳ないだろ」金枝は反論する。
「こないだ俺は、離人対策庁で検査を受けてるんだ」
「じゃあ、その後に発症したんだ」
と、他の生徒にも詰め寄られるが金枝は動じなかった。
「そりゃ、テスト前に都合が良いですこと。んなこというなら、テストが終わったから離人症も完治か?」
第一、お前こそ離人症だろ。金枝は内心で毒づいた。金枝に突っかかってきた男子の上体から白い靄が漏れている。
「こらー。授業中だ」
古文の年寄り教師がハトでも追い払うように手を振り、金枝の周りの生徒を帰らせる。金枝はこっそり威子口を盗み見たが、威子口空は物思いに耽っている様子で騒ぎを気にする様子はなかった。
それから数日の内に全教科のテストが返却された。生徒らはすっかりテストから解放され、今度は来週に迫る北海道修学旅行に話題が移りゆく中、金枝は一人、職員室前の掲示板へ逸る気持ちを抑え、早足で向かった。
「中間考査の順位、発表されてるって」
廊下を歩く生徒の声。金枝は、自身が何位か知っていた。全九教科満点の七百点。学年一位は決定済みだ。それでも見に行くのは、威子口空の点数を知りたかったからだ。
ホルスの声が薄らと聞こえてくる。
――威子口空も一位では、意味がない。二位でなければ。
職員室前は既に十数人の生徒が集まり、人だかりが出来ている。金枝はほんの少しだけ背伸びをして掲示板に貼られた順位表を見つめた。
一位 金枝美糸 七〇〇点
二位 威子口空 六九七点
感無量の面持ちで金枝はそれを見つめ続けた。周りの会話が耳に入ってくる。
「まじかよ。あの威子口さんが負けてんじゃん」
「金枝って誰だ? うちの学校にそんな名前の天才いたか?」
「球技大会で役人に連行された奴だよ。はあ、頭良かったんだ」
金枝は己の顔がにやけそうになるのを堪えていると、ふっと、人だかりの前列に見慣れた黒髪の後頭部を見つけた。結うのに時間のかかりそうな、長髪をポニテにして、更に別の髪を細い三つ編みで結んだ長身の女生徒。すらりとした清楚な後ろ姿は気品に溢れていた。
威子口空が、おもむろに人だかりを抜けた。傍には北形雅が居て、心配そうに威子口を見つめている。
「威子口さん」
金枝は流れるように声をかけた。威子口空は立ち止まると、肩口から振り返る。
金枝はどきりとした。威子口空は口を小さく開け、放心したような表情を浮かべている。そんな顔、金枝は一度も見た事がなかった。
「ごめん。勝っちゃった」
金枝のかけた言葉は表面上こそピュアだったが、その裏には積年の恨みがこめられていた。何もかも優れている相手。自分を出汁にして学校生活に馴染んでいった計算高い同級生へ向けて、いつかいつか盛ってやろうと思っていた毒を、とうとう金枝は食らわせてやった。
横にいた北形は金枝の本心に気づき、俄かに殺気立った。金枝はぞっとしながらも威子口空がどんな反応をするのか、じっと待った。悔しさ、怒り、涙。そういったものを期待していたが、威子口空はそのどれでもなかった。
ただ、心ここにあらずという様子で、金枝を一瞥すると、そのまま廊下を歩いていく。あっけない結末だった。
ふっと視界が暗くなり、金枝は黄金色の光に包まれた。以前来た夢の中の部屋。目の前には英国紳士のような恰好をした目玉男がおり、杖の柄で金枝の胸を何度も突いた。
「美糸クン。今がチャンスだろう。何故追いかけて告白しない。告白しろ、今すぐだ」
「何で」金枝は訳が分からず訊いた。
「何で? それが目的だろう。天才を自負する女の取り柄を奪い、此方を意識させる。今、威子口空はお前を誰よりも意識している」
「だからって、告白はないだろ」金枝は食い下がった。
「だって、テストで負けた男に心を許すって、意味わかんねえよ。ここから、段々と距離を狭めていって……」
「じゃあ問うが、どれくらいで距離が縮まる?」
「えっ?」
ホルスは金枝にぐいと詰め寄る。
「一週間? 一か月? それで君は、威子口空の心を墜とせると?」
「それは分からない……」
ホルスは大きく溜息をつくと、両手を広げながら部屋を闊歩しだした。
「美糸クン。私も君の、奥手で、おそらく全然進まないであろう青春ラブコメを手伝ってやらんこともない。が、しかし此方にも都合がある。十日、二十日でモノに出来るならともかく、やれ修学旅行だ、文化祭だ、クリスマスだ、バレンタインだ。そんなイベントをこなしながら仲良くなる猶予はないのだ。第一に、試験で負けたショックなど威子口空には一時的なものだろうし、数日で立ち直る。試しに君のプランを聞かせてくれ。しっかり時間をかければ、彼女への告白の成功率は上がるのか? え。どうなんだ」
金枝は眉を八の字にして突っ立っていた。
「ふむ。精々、十パーセントも上がらないだろうな。だったら今、すぐに、威子口空へ告白しろ」
「でもな――」
「フラれたらフラれたで別の手は考えてある。告白は、必ず今日中に。彼女のショックが和らぐ前にな」
黄金色の空間が収縮していく。金枝の意識が現実に帰ってきた。少しのラグがあって、昼休みの生徒らの呑気な喧騒が耳に入る。廊下の角を曲がる威子口空の美しい後ろ髪が視界に入った。ホルスとの長いやり取りは、現実では数秒間の出来事らしかった。
「威子口さん!」
階段の踊り場で金枝は威子口を捕まえた。
「あれ。どうしたの。そんなに慌てて」
威子口空は普段の調子を取り戻している。隣りの北形を無視し、金枝は唾を飲み込でんから伝えた。
「この後さ、時間あるかな。ちょっと、話したいことが」
「あー、ごめんなさい。ちょっと、生徒会室に用があるんだ」
そして威子口空は「うーん」と唸ると、
「放課後でも良い?」と訊いてくる。渡りに舟だった。
「勿論」
約束を交わし、金枝は威子口と別れた。
――告白は。
と、ホルス。
「放課後だ」
しかし、金枝も冷静になってみると、問題を先延ばしにしただけな気がした。
それからいつもより長い昼休みと、五限目六限目を金枝は過ごした。金枝の脳裏には、退学した川保のことが浮かんでいた。
まさか、自分まで威子口空に告白するなど、夢にも思っていなかった。川保は酷いフラれ方をしたらしいが、自分はどうだろう。
金枝は憂鬱な気持ちになりかけたが、しかし案外なんとかなるのでは。と、ふわふわとした、妙に楽観的な気持ちもあった。
チャイムが鳴り、下校の時刻になった。金枝はそわそわしながら廊下へ出ると、威子口空が出てくるのを待った。少しして、女子と談笑する威子口空が姿を見せる。声をかけづらいなぁと思いながら、タイミングを窺う金枝だったが、威子口空は自然と友達から離れ、金枝の方へ歩いてきた。
「やあ」
気さくに威子口は笑うと、「おめでとう」と言った。
「え?」
「中間考査、学年一位。まさか本当にやるなんて。しかも七百点。完敗です。参りました」
「いやぁ」
あの威子口空に誉め殺しされた。金枝は照れてしまい、頬を掻いた。
「結構、頑張ったかな」
「うん。すごいよ。私、生まれて初めて人間にテストで負けたから」
威子口空からは、試験で負けたことへの僻みといった負の感情は微塵も感じられなかった。
金枝と威子口空は表向き、良い雰囲気で廊下を歩いた。お互いどこへ行くでもなく、テストのことや来週の修学旅行のことを話しながら、校内を巡った。
金枝の些細な話題でも、威子口空は楽しそうに笑って聴いていた。威子口空は良い人なのではないか。次第に金枝は思い始めた。威子口空がクラスに溶け込むため自分を利用しているというのは全て自分の思い込みで、威子口空はやはり聖人君子なんじゃないか。女性に対して聖人君子という四字熟語が使えないなら、聖母マリアなんじゃないか。
んな訳あるかよ。金枝は自分のちょろさを鼻で笑った。
話が盛り上がり、円熟したところで威子口空は言った。
「そろそろ帰らないと。またね、金枝君」
金枝は少し焦った。せっかく良い雰囲気で水を差すのはどうなんだ。しかし。
「ちょっと待った。屋上に行かないか。まだ話してないことがあるんだ」
威子口空は一瞬、捉えどころのない曖昧な表情を浮かべたが、すぐに「いいよ」と承諾した。
平汎高校の屋上は屋上菜園のようになっている。プランターで育てられている大きな緑の葉っぱが強く存在を主張していた。
(そういえば、いつもなら近くにいる北形の姿がない)
金枝が不思議に思っていると、威子口空が言う。
「ここの植物、人類が火星開拓のお供に持っていった種の子孫なんだ。金枝君、知ってた?」
「全然」
威子口は人の膝丈まで伸びた葉を撫でた。
「宇宙の過酷な環境でも耐えられるよう改良しているから、干ばつや降雪も耐えられる。水も自然の恵みで十分」
「それくらい、今となっては珍しくないけどね」両手を頭の後ろに回しながら言う金枝。威子口空は構わず続けた。
「宇宙開拓が初めて成功した記念に幾つかの高校へ寄贈されたものだよ。その一つがここ」
「にしては、雑な扱いだな」
屋上の植物たちは手入れをされている様子はなく、野良のように自由に蔓を伸ばし、プランターから溢れている。威子口空は少し寂しげな目つきで植物を見回した。
「何もしなくても勝手に育っちゃうし。下手すると校長すら、コレが特別な寄贈品だなんて知らないでいるかも」
「何で威子口さんは知ってるんだ?」
「気になったから調べた」
淡々と答える威子口。
「まあ私の意見としては、この子らは幸せに思う」
「え、どうしてさ。人が管理してくれた方が、植物も綺麗になるだろ」
金枝が訊くと、威子口空はすらすらと答えた。
「何故って人間が管理したら、間引かれる。余所の綺麗な花も、苗の段階で貧弱な子を間引いた結果だから」
蔓を踏まないよう、落下防止柵伝いに二人は屋上を一周した。
「……で? 話っていうのは、一体何かな」
威子口空に正面から見つめられ、金枝は呼吸が止まりそうになった。
何だ、この感じ。
金枝には正体が分からなかった。とりあえず頭の中を整理し、この数時間で考えた半分作り話を披露することにした。
「俺……ってさ、昔からずっと、自分に自信がなかったんだ。勉強もスポーツも全然で、周りからも馬鹿にされてた。威子口さんには中学の頃から何度も助けられてきたよね」
威子口空は黙って聞いている。
「それで、自分で何とか、変えようと思って。威子口さんが驚くような男になろうと、高校になって頑張ってきた。だから――」
金枝の全身から熱と汗が噴き出した。まるで何かに追いつめられたような感覚がした。
はたと金枝は気づいた。威子口空の瞳の中に、自分がいない。威子口空は、何も見ていなかった。彼女はまるで、自分の番を待つ病院の待機室の病人のような眼をしている。明らかに告白を受けている少女ではない。
じゃあ今、自分は一体誰に告白をしているのだろう。
金枝は言葉を失くした。頭の中に展開していた、ずっと君に惹かれてました系の安易なシナリオは頭から吹き飛んで、金枝は空っぽになってしまった。
金枝が茫然としていると、威子口空がさらりと言った。
「トキソプラズマって、知ってる?」
「え……?」
「レウコクロリディウムは」
「し、知らない」
「そうか」
威子口空は後ろに手を回すと言った。
「どっちも寄生虫だ」
「……は?」
威子口空は口角を上げ笑っている。眼には情の欠片もない。深海のように真っ暗だった。しかしその暗闇の奥には今、金枝の姿があった。
「トキソプラズマはね」
威子口空は手をこ招いた。
「猫に寄生する。その為にまずはネズミに寄生する。それで愉快なのが、ネズミの脳を操るんだ。操られたネズミは、猫を怖がるどころかチョロチョロ、近づいてっちゃう。世の理のようにネズミは猫に食べられ、そしてめでたく、トキソプラズマは猫に寄生できるというわけ」
威子口空は『面白いだろ』とばかりに話を紡いでいく。
「レウコクロリディウム。北海道にもいるこの寄生虫、最終宿主は猫じゃなく鳥。最終宿主に寄生する為、中間宿主のカタツムリに寄生するんだが、これもユニークな話なんだ。本来のカタツムリは暗い場所を好むのにレウコに寄生された個体は葉っぱの上だとか、目立つ場所に移動する。そしてレウコは、カタツムリの触覚に入り込んで芋虫のようにグニグニ、運動する。これが閲覧注意の気味が悪い動きだけれど、上空の鳥はそれを、芋虫が這う動きと誤解するらしく、カタツムリは捕食されてしまう。鳥の体内に侵入したレウコは中で卵を産み、鳥がした糞には寄生虫の卵が混ざり、その糞をカタツムリが食べ、また寄生が始まる。なんてよく出来たシステムだろうね」
威子口空は楽しそうに左手を腰に当てると、右手で金枝を指差し言った。
「まるで金枝美糸みたい」
「はっ……?」
ぐらりと金枝の視界が渦巻き、歪んでいく。
「……なんで」
「だって、似てるし」威子口空は機敏に身を翻し金枝から少し距離を取ると、静かに振り返り、再度口を開いた。
「私に変なこと言ってきてさ。もしかして中間宿主が君で、最終宿主は私なのか」
「ちょっと待てよ。さっきから訊いてれば、俺が寄生されてる、みたいな。何のことだか。俺はただ――」
金枝は言葉が出てこなかった。威子口空は小さく首を傾げると、軽く腕を組み、今度は金枝をじっと見つめた。普段の笑顔とかけ離れた、威子口の者にしか出せない眼差し。また金枝の全身は熱を帯び、発汗が始まる。
ああ、そうか。金枝は悟った。全て彼女に見透かされている。何から何まで全て。
金枝は自分の心が蝕まれていくような感覚に陥った。そも自分は何のために生きているんだろう。自分の気持ちは何処にあるのか。大体、威子口空と自分は釣り合わない。対等でない。話してはいけない。金枝は、自分が恐ろしくちっぽけな存在に思えてどうしようもなかった。
威子口空は腕時計に視線を落とすと、淡々と言った。
「ああ、そろそろ行かなきゃ。金枝君、もういいよね」
「あ……うん」
「それじゃあ、さよなら」
威子口空は肩を竦めると、綺麗な所作でその場を去っていく。後に残された金枝は屋上で独りになった。
――美糸! しっかりしろ!
金枝は、気づくと落下防止の金網に手をかけて、かなり高いところまでよじ登っていた。
――何をしてる、一体。
ホルスの驚いた声。
「いや、何か。絶望しちゃって」
金枝はそう言うしかなかった。
――とりあえず、降りろ。死なれたら迷惑だ。
金枝は言われた通り、屋上に足を着いた。口惜しそうに、ひゅるぅと一陣の風が吹いていく。
――意味もなく死ぬな。
金枝は自分の両手を開いた。大きな手は赤白く染まり、金網が食い込んだ跡がくっきりと刻まれている。
それから数分もすると、一体なんで自分が死のうとしていたのか、金枝には分からなくなった。それに比例して、威子口空に対し底知れぬ恐怖と怒りが湧いてくる。
――威子口空にやられたのだ。
ホルスが冷めた声で言う。
「何されたんだ俺」
――知るかそんなの。
ホルスは一度は投げ槍に答えたが、改めて推察を話し始めた。
――威子口家というのは、かなり長い期間、世界を牛耳ってきた。庶民の誰しも、物心ついた時から威子口の支配下で育っている。例えば、威子口家を無意識に畏れるような回路が脳内に形成されていて、それが強く作用した可能性はある。
「サブリミナル効果のような? 普段の生活に威子口家が仕込んでいる?」
ホルスはそれには答えなかった。金枝は「けっ」と毒づき罵った。
「とにかく、分かったわ。確信したよ、やっぱり威子口空は悪なんだ。屑なんだよ、ガチで。俺の直感は正しかったんだ。俺を、寄生された、生きる価値のないような眼つきで見てきて」
威子口への憎しみに囚われかけた時、金枝ははっとした。
「そういえば寄生されてるって、何でばれてんの。ホルス?」
――消去法ではないか。
「どういう消去で」
ホルスは静かに考えを伝えた。
――フーピーの存在が知られていて、更に『フーピーが人類を次の宿主として狙い定めている』という情報を握られているのであれば、別に不可能な推測でもない。美糸君が離人症でないことは、離人対策庁の役人が知っていた。役人が知り得る情報は威子口の人間なら容易に知れる。君の最近の活躍が離人症の恩恵でないなら、君の純粋な努力の賜物か、もしくは我々フーピーのような寄生星人による助力になる。君の努力如きで学年一位が取れる訳がないのだから、即ちフーピーによる介入が原因と気づかれたのだろう。
「フーピーは有名なのか? 宇宙では」
――ふむ。そうだな、ある程度名は知れている。
「じゃあお前のせいじゃないか。俺は悪くない、お前が!」
金枝は罵るように言うと、「あー!」と悶々とした声をあげ金網を拳で叩いた。
「寄生されてるってばれた! しかも、よりによって威子口空に。やばいやばいやばい。威子口の者が指を鳴らすだけで、俺ら庶民なんか消されるんだ! 人体実験の被検体にされたり、裏の世界で見世物にされたり!」
――その場合、残念だが被害者は美糸クンだけだ。私は君の体を惜しみつつ別の体に寄生することになる。
「ふざけんなッ」
金枝が歯を噛み締めていると、ホルスが宥めるように言った。
――フラれるどころか、寄生を気づかれたのは想定外だったが、こんなこともあろうと別の手を考えてある。
「……どんな」
金枝が半信半疑でホルスに耳を傾ける。
ホルスは言った。
――同じクラスの小間口伊穂と懇意になる。そして、小間口をけしかけ、威子口空を洗脳させる。
「は? なんでそれが。いや、なるほどそうか。新興宗教の教祖の娘を丸め込み、威子口さんを洗脳して従わせればいいんだ。小間口さんは洗脳の離人症だったんだ」
――そういうことだな。
「いいよ、分かった。それでいこう」
ヤケクソな口調で金枝は賛同した。
ひゅるり。今度は強い風が吹いた。それに続いて、細長い金属のパイプの中を風がすり抜け奏でられるような、不思議な音が上空に鳴り響いた。何時の頃からか世界各地で聴こえるようになった終末の音だった。
「何の音か、分かるか?」
――私には聴こえない。
遠くの方でホルスの返答があった。金枝は静かに首を回し、暮れかけの灰空を見上げてはみたものの、音の正体はついぞ知り得なかった。
自宅で就寝した金枝は、夢の中で目を覚ました。
黄金色のホルスの部屋に誘われ、適度に弾力のある朱色のソファに腰を下ろす。ホルスは部屋を暗くすると、スクリーンをステッキで叩いた。
「それではこれより小間口伊穂懐柔作戦会議を始める」
軍曹風にホルスが言う。
「異議ありません、サー」
金枝は調子を合わせた。威子口空への告白はかなり抵抗があったが、小間口に対しては悪い印象は持っていなかった。実家が怪しげな新興宗教という以外は。
ホルスがごほんと咳払いをし、やがて話し始めた。
「小間口伊穂の父親が観返教会の教祖、小間口兆庵なのは有名な話だ。四半世紀前から着々と信者を増やしていた観返教会は、昨今の、世間における終末論、終末世相にかこつけ新規の信者を大量に獲得し一大宗教まで成長した。公安はマークを強め、威子口家も問題視している」
「なんだ。威子口家と敵対してるなら都合が良いじゃないか。小間口さんをけしかけるのに」
金枝があっけらかんと言うが、ホルスは「まあ聞け」と声量を大きくした。
「観返教会自体はそうだが、小間口伊穂は少し変わっているようなのだ」
ホルスがスクリーンを叩くと、小間口伊穂の身長や体重など、様々な情報が表示されていった。小間口は垂れ目で、威子口と違いチャラさのある、今時の女子高生という見た目をしている。宗教教祖の娘というのは、外見だけでは分からない。
「伊穂は小間口兆庵と現在の配偶者である愛澄との間に出来た一人娘で、父親の溺愛を存分に受けて育っている。しかし伊穂本人は幼少期から観返教会を馬鹿にする言動を繰り返し、彼女のお守り役の信者達を困らせた。兆庵は当初、伊穂を自分の後継者として育てると信者向けのメディア等で過去に何度か発言していたが、伊穂から強い反発に遭い、現在は白紙になっているようだ」
「へえ……」
金枝にも、心当たりがあった。
或る梅雨の日の昼下がり。教室で小間口が、女友達とだらだら喋っている時に訊いていた。輪の中の女子から、小間口兆庵の自叙伝の内容について軽い調子で尋ねられると、「ああ、あれ? 全部インチキ。大ウソつきのでたらめ。というか、書いてない。ゴーストライターだし」と馬鹿にするので、周りが反応に困るという一幕に金枝は遭遇していた。当時、教室で弁当の骨付き唐揚げを頬張っていた金枝だったが、妙にそれが印象に残っている。
「別に、小間口さんと恋仲になる必要はないんだろ?」と金枝。夢の中だが、ソファを軽く押してみると『ぽふっ』という感触がするので、面白いから何度も押した。
ホルスは強い口調で言う。
「今は、威子口空を手中に収めるのが先決である。寄生に気づいた威子口空を早めに処理しなければなるまい」
二人で話し合った結果、小間口が離人症であることを上手く利用しようという結論に至った。
金枝が喉を整える。
「まとめると、俺は『他人が離人症かどうか分かるし、尚且つ能力も分かる離人症状者』という設定で小間口さんに近づく、と」
ホルスは肯定代わりにステッキを一回転させる。
「来月からは離人症の取り締まりがより一層厳しくなるようだ。小間口伊穂に限らず、離人症状を持つ者は不安に違いあるまい。我々は社会の被害者ぶって小間口伊穂に取り入る。同族意識を芽生えさせればこちらのもの。社会への不安不満を威子口空に向けさせろ」
「質問。小間口さんの洗脳能力はどんな感じで使われるんだ? 目が合うだけで操れるとか、命令口調の言葉遣いで人を従わせるとか」
「そこまでは私も分からん。人を見る目にも限界があるのだ」
ホルスは自身の目玉を指差しながら言った。
「ともかく、小間口は強力な洗脳能力を扱える。味方にしない手はない。が、お前自身が洗脳されないよう気をつけたまえ。こっちから洗脳を仕掛けるのもリスクが高く、なるべく控えたいところだ」
「はいよ」
翌日の早朝。学生のまばらな職員室前に金枝はいた。来週に控える修学旅行を前に、金枝とホルスはある細工を施そうとしていた。北海道では男子班と女子班でペアになり自由行動するのだが、金枝たちは自分の班のペア相手を小間口伊穂のいる班にすり替えようとしていた。というのも、金枝には小間口伊穂と離人症の秘密を共有する理由が弱い。いきなり『自分も離人症でさぁ』と告白しても不自然に思われる可能性があった。なので、離人症の秘密を共有する以前に小間口とは二言三言会話をする程度の知り合いにはなっておいた方が後々スムーズに事が運ぶと二人は考えたのだった。
ガラガラと昔ながらのドアを開けた。
「失礼します。戸端先生。少しお話したいことが」
担任教師を呼びつけると、金枝は頭の隅でホルスの存在を確かめた。準備はいいな、と心の中で語り掛ける。
――いいぞ。相手の目を見ながらゆっくりと話せ。
「どうしたの、金枝君」
やや下膨れの戸端翔子と目を合わせ、金枝は口を開いく。
「修学旅行の二日目、三日目の自由行動の班なんですけど。男子女子で一緒に北海道を敢行する奴。俺は、男子のC班でしょう?」
「ええ」戸端が不思議そうに頷いた。
金枝は小さく咳払いするともったいぶった口調で言った。
「男子C班は、小間口さんのいる女子A班と一緒に行動ですよ。先生、早い内に訂正しないと」
「……あら。何で知ってるの?」
「ええ?」
金枝は訳が分からず聞き返す。戸端に洗脳が効いた様子がない。
「金枝君たちC班はA班と自由行動してもらうことになったのよ。知ってたんでしょ?」
「いいえ。いつ、決まったんですか?」
「昨日、かな」
「どうして?」
「それは、学校側にも色々と都合があるの」
戸端は小さく首を振ると、詮索されるのを嫌がってさっさと職員室に引っ込んでしまった。
――女子A班は小間口伊穂の他に誰がいる?
ホルスが静かに訊ねてきた。金枝は少し考えてからぽつりと答えた。
「北形と、威子口空」
金枝の左手は無意識に右肩を擦った。
「嫌だな。アイツの仕業だ、多分」
朝のホームルームが始まると、教師の戸端翔子は班の組み分けが変更になったことをクラスに伝えた。
「えーっ」クラスのマイナスな反応。何人か不満の声をあげる男子女子もいた。が、威子口空が「私は、楽しみだな」と静かに声を発すると、途端に「いいじゃん別に」と肯定のムードで教室が染まった。金枝は波にたなびく海藻のようになって、今の流れには逆らわず、水筒の冷えた水で喉を潤すのみだった。




