母なる星にさようなら
「はぁー……」
威子口空の周囲には、南国チックな一階フロアに場違いの淀んだ空気が漂っていた。ソファの肘置きに頬杖をついて、今日何度目か分からない深い溜息をつき、壁に直接描かれたヤシの木の絵を物憂げに見つめ、何もない時間を過ごす。それが丸一日続いた。
「なあ、ソラ」
一月二日の朝。とうとう金枝は我慢ならなくなった。
「ちょっとヴシャペトレにボコられたくらいで辛気臭ぇよ。こっちまで気分が下がる」
ソラは微かに目を丸くしたが、それだけだった。その時、ソラの携帯端末が鳴った。上の空のソラの代わりに金枝は端末を手に取った。
「もしもし金枝です。はい。はい……。そうですか、分かりました。よろしく頼みます」
金枝は通話を切ると、再びソラを見た。
「国防長官から。地上の水ピラミッドが崩壊した。プライーターの掃討を行うから、ここへ救助が来るのはその後になるって。ヴシャペトレの艦隊だが、もう火星まで侵攻して多くの死傷者が出てる」
ソラは、くるりと背中を向けて言う。
「あぁ。肩が凝ったなー」
金枝は何も言わずソラの肩を揉んでやった。細いのに石のように固い両肩に悪戦苦闘しつつも、手を緩めずにマッサージしていると、ぽつりとソラが言う。
「人類が滅べば、私の責任になるのか」
「……ああ、そうだろ。だって、威子口が裏で社会を牛耳ってんじゃねえか」
金枝の無遠慮な言葉にソラは悲しそうにした。
「そんな悪の組織みたいに言わなくても」
一拍、間があってから「まあ、そうだ」とソラは肯定した。
「地球の外へ人類を引っ張ったのは威子口だ。こうしてヴシャペトレに目をつけられる要因を作った」
ソラは金枝の手から逃れるように立ち上がると、小さく肩を回した。
「やはり、威子口が最後まで人類を導かなければ。その責務がある。たとえ、どんな手段を使っても人類を存続させる」
「勝算は無いのか? 人類皆で力を合わせれば、数の上では圧勝だろ?」
「うん……」ソラは二の腕を擦りながら言う。
「先日、海斗叔父様と宙の羊飼いの生き残りとで話し合ったが、見通しは暗いな。幾ら団結したところで所詮はただの悪足掻きにしか――」
「上等じゃないの、悪足掻き」
あっけらかんと金枝は言う。
「ゲリラ戦法でも何でもいいから、これから人類は宇宙中を逃げて、戦ってを繰り返せばいいじゃないかよ」
ソラは呆気に取られたように一瞬固まったが、すぐに破顔した。
「それはホルスの入れ知恵か?」
「俺の意見だけど」
「良いことを言うじゃない」
ソラは手を叩いた。清らかな音がした。
「そう、一致団結して逃げ回る。しかも嫌がらせもする。粘っている内に彼等も厭戦ムードに変わって手を引く可能性もゼロじゃない」
「だろ? 人の足は逃げる為についてんだ」
ソラは手を差し出した。
「ありがとう金枝君。君のおかげで踏ん切りがついた」
「踏ん切りって、まさか降参するつもりだったのか?」
ソラは笑ってはぐらかしながら金枝の手を握りしめると、すぐに離した。
「といっても、前向きだろうが後ろ向きだろうが救助が来なければ私達は死ぬんだ。火星から地球までヴシャペトレなら普通の航行で八時間もかからない」
「空間縫合に必要なエネルギー充填を待つより通常の航法の方が速いのか」
ソラは軽く頷いた。
二人はなるべく地下一階に身を置いて、少しでも出入口の傍にいるようにした。無慈悲な光線による死が刻一刻と迫っていることを肌で感じながら、お互い口には出さず、長いようで短い空白の時間を二人は静かに過ごした。
一月二日、二十三時十六分。地下シェルターの扉がこじ開けられ、金枝とソラは六日ぶり外の空気を吸った。サイレントの隊員に誘導され、水でふやけた階段を上ると、目と鼻の先でプライーターの屍がぶよぶよと浜辺に打ち捨てられたように転がっていた。
水の腐った匂いに二人は顔をしかめながら、雨水と海水の引いたカフェの中を通り抜ける。
霧は晴れていた。半分に欠けた黄色い月は東京の天辺で素っ気なく光り輝いている。ああ、一区切りついたんだ。と、金枝は思えた。
政府の用意したヘリに乗って、新羽田宇宙港の滑走路に二人は降りた。
「ソラ様。長距離星間航行船の用意は既に出来ております、こちらへ」
サイレントの隊員の護衛を伴い、滑走路を二人は歩いた。
「初めてだぜ、宇宙へ行くの。ソラは?」
「私は幼少の頃に月の遊園地へ十七回連れて行ってもらった。けど、記憶はさっぱり」
「もったいねえな」
辺りにはカラフルな床のネオンパネルに照らされ太陽系の外へも出られそうにない中小型の宇宙船がぽつぽつと停泊しているのが窺えた。五分ほど歩いたところでサイレントの隊員達が止まった。隊員の一人がドライバー工具に似た機器を空中で回す動作をやると、ステルス機能が解除され紅白色の巨大な船舶、ラムネ瓶に似た形状の宇宙船『ネスト号』が無の空間から出現する。
「最新の旅客船ね。AI反乱のリスクは?」
「その可能性は排除済みであります。安心して船の旅をご堪能下さい」
隊員の回答にソラの顔が少し和らいだ。
――地球ともお別れだな。なあ、美糸クン。
ホルスに指摘されると、金枝は名残惜しそうに滑走路を靴で踏み叩いた。
隊員らに促され船舶へ乗り込もうという時、「もし、すみません」と声をかけてくる集団があった。困り果てた顔をしたハーフ顔の中年男と、少し離れて若い女性が数人、そして二十人ほどの幼稚園児くらいの子供が後ろに控えている。
「何だ」隊員はレーザー銃に触れながら訊き返す。
「民間の避難ボランティアをしている者です。エンジントラブルで離陸が出来ず、子供らを輸送できません。どうか其方様の船に、子供達だけでも乗せてやってくれませんか。見た所、大きな船ですし。何卒」
ハーフの男は深く頭を下げた。場の空気から、自分らが宙ぶらりん状態なのは子供にも分かるようで、幼い顔は暗く落ち込み、何人かはグズグズと泣いている。
「駄目だよ駄目。これは政府高官用の船で一般人は乗れない規約になっている」
隊員が突っ撥ねる。
「そこを、どうにか」
「法律で決まっていることだ。別の船を探してくれ」
「乗せてあげよう」
ソラの声が闇夜の滑走路に凛と響いた。
「し、しかし」
「こんな状況だ、法律も何もないだろう。とりあえず展望室に案内してやれ」
「ああ、ありがとうございます」
ボランティアはぺこぺこと頭を下げながら、急ぎ子供達を船に追い込んでいく。ソラと金枝は、遠巻きでその様子を眺めていた。
「らしくねーな」
金枝は左横のソラを見ずに言う。
「ん、何が?」
「だって、もしアイツ等がテロリストだったら終わるぜ」
「……ああ、そうだ。一応、船には危険物スキャナーもついているから。乗り込めているなら多分、大丈夫」
歯切れの悪いソラが気がかりだったが、金枝はそれ以上の追及はせず、自身の頭をボリボリと掻いた。
金枝とソラが乗り込んで十分間のウォームアップがあった。機体がしっかりと温まると、浮遊感と微かな駆動音を伴い、ネスト号は地球を離れて、澄み渡った闇夜に向かって上昇を始めた。
するりと船が大気圏を抜けたところで、乗員らはセーフティベルトを外し船内を自由に歩き始めた。
「やったー、俺達助かったんだな」
角ばった通路を歩きながら、ほくほくとした笑みを零す金枝。ソラは真面目な顔をして傍に付き従う隊員に訊いた。
「ヴシャペトレの現在位置を教えて」
「はっ。奴らが地球に到達するまで、まだ……四十分以上の猶予があります」
「それは良かった」
「それと、ソラ様。貴女に会いたいという人が」
「誰ですか?」
丁度その時、個室のドアが横にスライドし、見慣れた人が姿を現す。
「わあ、北形!」
「ご無沙汰しております、お嬢様」
北形はぺこりとお辞儀をする。旧式の車椅子に乗っていたが、顔色は見違えて良くなっていた。
「メンテナンスは終わったの?」
「いいえ、まだです」
北形は右腕を持ち上げた。
「ちゃんとしたパーツはこれだけで、残りは一般人型機械仕様の間に合わせです。どうせ別のに取り換えるので、適合運動も軽度ですから、お嬢様。海斗様と合流するまでは、なるべくリスクの無い行動を心掛けて下さい」
「心配性は相変わらずだな」
ソラは小さく笑うと、「空間共有室はどこかしら」と尋ねた。
「それなら私が」と、北形が案内を申し出る。車椅子の肘置きの先にある漆色の球を片手でホイールし、船内を静かに進んでいく。
空間共有室の入り口の緑のパネルが空室を示している。三人が室内へ入ると、自動で部屋にロックが掛かった。何もない大部屋の中央に置かれた、細いスタンドの先には凸凹とした球体。鈍いシルバーの輝きを帯びた空間共有装置が独りで立っている。
「海斗様と連絡ですか? でしたら私が――」
ソラは右掌で北形を制すると、整った足取りで空間共有装置に歩み寄る。懐から透き通った長方形の平たいカードを抜き取ると、空間共有装置の球の下部、挿入口に押し当てた。装置はカードをするりと飲みこむと、小気味良い機械音をあげながら稼働を始める。程なくして、立ち眩みのような症状が連続で金枝らを襲った後、視界が白み、今度は暗くなった。
既に三人は別の空間にいた。映画館のような暗い室内。光源は、中央にある空間共有装置の光と、窓の外から漏れ届く赤と緑の鮮やかな光。
「お嬢様、ここは……?」
北形が辺りを見回す。この用途不明の部屋には扉らしきものはなく、空間共有装置でしか来れない場所になっていた。金枝はおもむろに窓の方へと近づき、赤と緑の光の出所を覗いた。
金枝達のいる部屋はボックス席のようになっており、階下には劇場かコンサートホールのような円形の空間がよく見渡せた。だが、そこで繰り広げられているのは芝居でも演奏でもない。光る液体を湛えた巨大な水槽が隣り合わせで二槽、稠密とした灰色の機械群により管理されている。立方体のそれらは深紅の液体、メロンソーダのような鮮明な青い液体が満ち満ちて、時折、外部と繋がる太いポンプからボコ、ボコと気泡が吐き出されては、水槽を満たすクリアな液体を掻き回した。
得体の知れない、大がかりな実験の途中のような壮大な光景。金枝は無意識に目の前の大きな硝子窓に手を触れたが、ぞっとするような冷えを感じ、慌てて手を離した。
「ここは地球の地下深く」
ソラは玲瓏な声を発した。
「光る水槽には、旧遺物の技術を用いて生成した反物質水溶液が貯水されている。赤と緑、二つの水が混ざり合えば、夥しいエネルギーが生じて……」
ソラは言葉を切ると、静かに告げた。
「この宇宙から地球という惑星は完璧に消滅する」
「何故、そんなものが……」
「地球を爆破する為に決まってるじゃない」
唖然とする北形にソラはさらりと答えた。
「威子口は前々から『リアース計画』と称して二つの計画を進行していた。一つは、一切から隔離した地球環境によく似た星へ少数の人間を飛ばすこと。そしてもう一つが、地球を破壊することだった」
「何で地球破壊すんの?」
「地球離れの為のショック療法が根底にはあるらしい。だけど今回の爆破理由は全く別物。人類が地球離れ出来ていないことを利用するだけだから」
ソラは背後の壁に近寄ると、爪先立ちをして壁の上部を人差し指と中指で押した。すると天井で物音がして、ルービックキューブのような物体が降りてくる。ソラはそれを両手に掴むと、繋がっていた糸を強く引き千切った。
「ソラ、そいつは?」
「起爆装置」
ソラはこともなげに言うと、空間共有装置からカードを抜き取る。程なくして三人は宇宙船の船内に引き戻された。
「どうせなら地球の見える部屋に行かない?」
ソラは二人の意見を聞くことなく、空間共有室を出る。
――おい、美糸クン。彼女、地球を爆破しようとしているぞ。いいのか、止めなくて。
金枝は息を吐くと、ソラを追いかけた。青ざめた顔の北形ものろのろと続いた。
ソラが選んだ部屋は貸し切り状態のラウンジで、ゆったりとくつろげるカウンターからは宇宙の輝きを望めた。嵌め殺しのワイドな窓からは碧い宝石のような地球が暗黒の中にぽわんと浮かんでいるのが見えた。
「金枝君、今は話しかけないで。あと北形、部屋をロック」
ソラは手元のタブレットと、薄い色をした金属の立方体を交互に見ながら、カチャカチャとルービックキューブが如くそれを回している。
「それで、地球を爆破できんの?」
「ええ、そう。でも祖父の設計したパズルを解かないと、起爆装置にならない」
金枝は肩を竦め、近くのソファに腰をかけていると、車椅子の北形が横へ来て震える声で囁いた。
「金枝。お嬢様は一体、どうしてしまったんだ……」
「は、何が?」
「地球を、爆破……などと。後世まで残さなくてはいけない母なる星を、何故そんな」
「知らねーよ。本人に聞け」
金枝に冷たくあしらわれ、北形は口ごもる。ソラはかれこれ十五分以上も熱心にキューブを回していたが、やがてパチンとバネの弾けた音と共にキューブは変形を始め、赤いブロックの出っ張りが一つ、表面に突出した。
「ふう、出来た」
「あのお嬢様。どうして地球を破壊などと……」
堪らずに北形が尋ねると、ソラは少し迷う素振りを見せながら言った。
「それはね、北形。地球破壊の重罪をヴシャペトレ人に擦り付けることで、人類の結束を強められないかと思ったんだ」
「擦り、つける……?」
北形が茫然とした顔で呟く。
――そうだろうな。
ホルスのしみじみとした声が金枝の脳内で聞こえる。
「宇宙各地に散った人類に強い危機感と種族の結束を促すには、地球消滅くらいのインパクトは必要なの。ヴシャペトレが攻めてくるから、私としては正直やりやすくなった」
「地球に残っている人々が、どうせ死ぬからですか?」
北形が声を震わせる。ソラは無言で頷いた。北形は顔を歪めた。
「お嬢様、目を覚ましてください! たとえヴシャペトレに地球の人々を殺されたとしても、地球そのものは残るはず。それをわざわざ、私達の手で破壊するなど、あってはなりません! 地球の生命、自然、あらゆるものが宇宙の藻屑と消え、二度と修復されない。そんな大それたことを、ああ……」
「ねえ金枝君はどう思う? 地球を爆破するの」
「そうだな。俺は……ソラの意見に賛成かな。太陽系の住民はもう死んだか逃げたかで、今さら地球に拘る必要がないし」
「しかし、まだ水星と金星にも人がっ」
「二対一。多数決で決まりだね」
ソラが澄ました顔で言う。北形は絶望の表情を浮かべ、がくりと肩を落とした。
「こんな、こんな筈……。お嬢様がこんなことする筈が……」
うなだれたまま独り言を呟く北形を尻目に、ソラはすたすたと化粧室に入ると、新品の可変ウィッグを頭に付け、高校で撮った自身の写真をウィッグの疑似アイに翳した。ウィッグはするすると伸張し形も変え、ものの数秒で、例の美しい黒髪長髪が結い目の細部まで完全再現され、ソラの頭部に出現した。
「ま、こんなものか」
ソラは満足げに鼻を鳴らすと、鏡台に背を向けた。そして、「金枝君」と爽やかな笑みを浮かべながら金枝に近づいてくる。
「な、何か」
「これなんだけど」
そう言って赤い出っ張りの飛び出した金属のキューブを金枝に差し出した。
「冗談じゃない。俺は嫌だからな!」
意図を察して拒む金枝の手首をソラが素早く掴み、半ば強引にカウンター席に座らせ、ソラも右隣りの席に腰かけると二人の間のテーブルの上にキューブをそっと置いた。
「金枝君。私は、共犯者が欲しいんだ」
ソラは目を爛々とさせながら言う。
「北形はあんな調子だし、元々期待してなかった。地球を破壊するという重い枷に耐えられる人間はそういないもの。私ですら今、心震えてる。でも君ならば。もし、私が臆してしまった時、背中を押してくれる人間は君くらいだと私は思ってる。結構買ってるんだよ? 君のこと」
――どうするんだ、金枝美糸。
金枝はしばらくの間渋い顔をしていたが、やがて口を大きく開けて言う。
「ああ、いいよ。地球爆破の共犯になってやるよ。主犯は君な。で、いつ押すんだ?」
ソラは嬉しそうに微笑むと、乙女の手を取る騎士のように丁重に金枝の手を取ると、その人差し指をキューブの赤い出っ張りの上に触れさせた。
「金枝君はただ、こうしていればいい」
ソラは金枝の指に自身の人差し指を重ねた。
「その時が来たら、私が上から力を与えるから」
「……つまりは、結局俺が押すってことじゃねえか。普通逆だろ、主犯格はどう考えても君で、共犯者が俺なんだから。押すのは――」
「『君が下で、私が上』。縁日の射的勝負で交わした約束。覚えてるよね」
金枝は言葉を失い、唾を飲んだ。
(ソラはあの時から、こうなると予測して……いや、そんなはずが)
金枝は薄ら寒いものを振り払うように小さく息を吐いた。
(いや、違う。曖昧なこと言っておけば、後からどうとでも取れるんだ)
そう思うことにしたので、金枝は微笑するソラを前にして畏怖せずに済んだ。
「喉が渇いたな。お酒が飲みたい気分だ」
ソラはカウンターテーブルをノックし、「柑橘系のカクテル二つ」と注文した。魔法のように手際良く船のAIが飲み物を用意する。
「お二人様から未成年の識別反応が検出されましたので、代わりに新鮮なグレープフルーツジュースをご用意しました」
カランと澄明な音がして、カクテルグラスの氷が泳いだ。
「地球に乾杯」
「地球に、乾杯」
金枝が唱和する。二人はグラスを持ち上げ、軽く縁をぶつけ合うと、絞り立ての濁冷水を顆粒ごと喉奥に流し込んだ。その時、ソラの携帯端末が震えた。
「あ、もう時間」
「押すのか?」
「ええ、もうやらないと。あまり時間をかけると、ヴシャペトレ人の襲来と地球爆発との辻褄が取れなくなるし」
ソラの指の震えが金枝の指に伝わってくる。空気中の視えない糸がぴんと張り詰めるのを金枝は感じた。
(ああ、威子口空でも躊躇うのか)
そう、思いかけた。それも束の間、金枝の人差し指はぐっと上から押し込まれる。手汗で汗ばんだ赤い凸部はキューブの内部でカチッと小さな音を立てた。指への反発が消えた時、金枝は青い星に自然と意識を吸い寄せられた。一秒、二秒、三秒。何も変化がない。金枝が呼吸を再開しかけた時、メディアや本で見慣れた群青色の惑星は橙色の光を帯び、流動する液体状の力に飲み込まれ、静かに、暗黒の宇宙に絵具が滲むように瓦解し、霧散していく。そして後に残ったのは生命の宝庫だった水の惑星の成れの果てらしき、粒子状をした灰色の塵。それが煙か靄のように漂う光景だけ。
金枝もソラも力が抜けた。
アポカリプスサウンドが唸るようにして船内へ届いた。脳を揺さぶる、悲しげで悍ましい音色。それが余韻を残しつつ遠くへ吸い込まれるように消えていった。
「北形?」
ソラの声色で金枝は異変を察した。北形がぐったりしている。終末の音色から耳を覆うような姿勢で、目を瞑っているが、左手の掌とこめかみの間から血肉が垂れている。
「北形。何で」
ソラは青ざめ困惑しながら北形に歩み寄ったが、途中で床にへたれこんでしまった。北形の右手はレーザー銃に変形し、自ら己の頭部を撃ち抜いて死んでいた。自身の脳漿が壁に飛び散らぬよう、左側頭部を反対の手で押さえて、遠慮気味に自死する光景に、二人とも言葉を奪われた。
居た堪れない沈黙の中、「何でどうして」と涙を流すソラの背中をじっと見つめていた。
やがてソラは立ち上がると、部屋のロックを解除した。
「どうするんだ、これから」
金枝の問いにソラは目の腫れた白い顔を向けた。
「私は、緊急の演説を行う。地球が爆破されたこと。ヴシャペトレの脅威。全てを説き、人類の結束を促すつもり」
金枝は思った。どうせこの女は、人の心を動かす言葉を予め用意して暗記してあるのだ。そして本当に、人類をまとめあげるに違いない。
「北形は俺が見てる」
ソラは軽く頷くと、悲しみを胸に抱き締めるようにして部屋を出ていった。金枝は独りになった。
「もったいないな、お前。これから始まるってのに」
誰もいなくなった部屋で金枝は屍に話しかけてみる。勿論、返事は無かった。
風呂上りで臍が冷えたような、妙な虚しさを感じながら、金枝は再度、部屋を施錠した。
その後人類はヴシャペトレの侵略に抗い続けたが、じわりじわりと星を追われ、銀河を追われ、勢力図を縮めていった。やがて人類は散り散りとなり、僻地の星々を転々としながら細々と暮らすようになったが、次第にその姿も見られなくなった。
最後に人間の生き残りが射殺されてから百年が経過した頃には、もう人類は一人残らず宇宙からいなくなったというのが通説になっていた。人類の存在は、今では昔話として宇宙の酒場で語られている。まだどこかに人間だけの星があって、そこでこっそりと奴らは生き永らえている。そんな噂が流れることもあった。。
ある辺境の酒場で、妙に詳しく『人間だけの星』について話す宇宙人の酒飲みがいた。
「まるで見てきたみてーだな」と聞いていた客からツッコまれると、その宇宙人は酩酊状態でヘラヘラと笑う。
「見てきたどころか、人間の中で暮らしてたぞ」
「ははは、んな訳あるか」
酔っ払いの戯言に、聞いてた客は興醒めして席へ戻っていく。独りになった酒飲みは醸造酒を一杯グイとあおると、色褪せた記憶の中にしばらく浸っていた。
ここまで読んでくれて感謝です。感想もらえると喜びます。




