お外は絶賛終末中だけどシェルターの中は安全と思ったのに
観返り教徒から解放されて五日が経った。元気を取り戻したソラとは対照的に、全身損傷の北形は日を追う毎に衰弱していった。見かねたソラは北形の部屋へ入るなり、「君を入院させる」と言明した。
「もう、病院側には連絡を入れたから。救急車が来るから今すぐ準備」
「それはっ。それはダメです!」
慌ててベッドから北形が体を起こすが、ソラは有無を言わせぬ口調で言う。
「北形。これは命令です」
「私は、この身が朽ち果てようとお嬢様のお傍にいたいのです。調子は悪いですが、最悪でも盾くらいにはなれます」
ソラは黙って北形のベッドに腰かけると、溜息と頬杖を同時についた。カフェに残されていた新品の制服を気に入って、ソラはここ数日、鼠色のチェックのシャツに細い黒のズボンを履き、腰には深緑色のエプロンを巻いている。
「お嬢様」
北形は己の傍らにいる、清潔な身なりをした貴人に皺の一つも付けぬよう、繊細に身を捩りながら言う。
「では、せめてこのような人気のない場所ではなく、もっと安全な所へ移動して頂けませんか。国の要人が大勢避難している、警備の強固なシェルターにでも――」
「北形。私はあえてここを選んでるんだ」
ソラはバネの利いたベッドの縁をポンと手で叩いた。
「宙の羊飼いは私を苦しめたがっている。が、殺したい訳ではない」
ソラはフォトジェニックな笑みを零した。
「怪獣と北形が戦った拍子に、一帯の電気ガス水道の供給が止まってしまった。が、水も食糧もこのシェルターの中にたくさんある。餓死の心配もない」
北形は不安そうに口を尖らせた。
「しかし……」
「威子口タワーの惨劇を思い出せ。タワーの防衛レベルが高いとみるや怪獣をけしかけてくる滅茶苦茶な連中だ、奴らは。私が人の多いシェルターに入れば、却って被害が大きくなる」
ソラは自分の太ももに手を滑らせた。
「しかしここなら、せいぜいゾンビだ。少し離れた場所からサイレントの一小隊にカフェを見張ってもらっている。見かけよりはずっと安全だ」
「おーい、救急車来たぜ」
金枝が二人に報せにくる。
「頼まれてくれるね。北形?」
ソラに頼まれた北形は首を縦に小さく振った。
カフェの前で北形はソラにぺこりと頭を下げた。次に金枝の前に立つ。
「金枝」
「何だよ」
身構える金枝を、北形は真っすぐ見つめた。
「お願いだ、お嬢様を危険な目に遭わせないでくれ。時々無茶をするのだ」
「ああ、気をつける」
「頼んだぞ」
北形は一瞬不安げな眼差しをソラに向けた後、静かに救急車へ乗り込んだ。
「あいつ、いつ戻ってくるんだ?」
金枝の質問にソラが答える。
「かなり損傷しているから、一か月くらい。その頃には、羊飼いと灸叔父様の戦闘も終わっている頃だ」
「勝ってるといいな」
ソラは小さく頷いた。
観返り教徒らの惨たらしい死体は一つの部屋に集められ、満身創痍の北形によって扉を完全に溶接されていた。それでも不思議と、シェルター全体には死人の嫌な臭いが漂う。ソラと金枝は日中、シェルター内でお湯を沸かし、地上のカフェで暖かいコーヒーを飲むなどして気を紛らわせた。
「金枝君、どうかした? さっきからぼーっとして」
ソラはマグカップで手を暖めながら、気さくに微笑みかけてくる。
「え、いやぁ。なんでも」
金枝は素っ気なく返事をすると、カフェラテを啜った。
「カフェラテ、好きなんだっけ」
「まあね」
それは嘘だった。コーヒーなんて香りくらいしか金枝は好きではないから、ただなけなしのミルクを入れてマイルドにしているだけだった。しかし、コーヒー好きのソラにはそのことを黙っていた。
最近、ソラに変な遠慮をしてしまっている。金枝自身もそれは感じていた。ソラは懺悔虫の拷問を受けた時の詳細を話さないし、聞くのはさすがに不味いと金枝は思っていた。気遣いなど不要とソラなら言いそうだが、実際のところは分からない。お互い黙っているから、何となく二人の間に溝が開いたような気がした。
もう一つ、金枝にとって気がかりなことがあった。シェルターのソラの部屋の前を通る時、時々楽しげな男女の笑い声が聴こえてくる。一人は当然ソラなのだが、もう一人は宙の羊飼いのあの、電波ジャックで映っていた金髪男のようだった。宙の羊飼いから渡された、ソラの手首に巻かれた腕時計に似た機械を介して会話をしているらしい。
「何であんな奴と話すんだよ。元はと言えば、羊飼いのせいで拷問を受けたんだぜソラは。何で仲良くするんだ。しかも盛り上がってるし」
――じゃあ本人に訊ねれば良いじゃないか、美糸クンよ。君は一応婚約者なのだし、問い詰める権利はある筈だ。
ホルスに促された金枝は、ソラとのカフェの中で何度か話題に出そうとはしたものの、タイミングが合わなかったり忘れてしまったりで、毎度切り出せずにいた。
そんな調子のまま、二人の合同生活は一週間が経った。
外に出ず、何もしない生活。金枝の今のお気に入りは、カフェの店の中から外を眺めて、色々なことを想像することだった。相変わらず濃い霧に覆われ、普通なら視えない世界も碧色のゴーグル越しにはよく窺えた。
カフェの前の通りは、お洒落な気配がした。なかなかない、純西洋の雰囲気。この通りの角っこに、金枝らのいるオープンカフェが構えていた。カフェの柱には、細身のテニスラケットが三本、置いてけぼりを食らっている。きっと持ち主は女性だろう。金枝は想像した。表参道にある、西洋から切り抜いたような粋なオープンカフェにやってきた、全身テニスウェアの女子大生数名が、アイスコーヒーを飲んで火照った身体を冷やしている。そんな折に、隕石かゾンビといった終末現象に巻き込まれ、その若者達は命からがら逃げ出し、後にはラケットがぽけーっと残された。そうに違いない。
通りの向こうに目を向ければ、銀杏の樹が立ち並んでいる。本来ならアスファルトの通りに陰を作って夏に涼しさをもたらすのだろうが、生憎と絶賛冬で、風景も寒々としていた。他にも、銀杏並木の合間合間のスペースには置き去りにされたアコーディオンとか、無人のケバブ店。更には、大きな銀色の筒のオーブン機の中に黒ずんだ小ブタの丸焼きがそのまま入っていた。可哀そうな小ブタは横の鉄棒に肉体を貫かれ、宙ぶらりんで誰からも忘れられていた。きっとオーブンに再び電気を通せば、辺りにはたらたらとこんがり焼けた良い匂いが漂い始めるのだ。すると、匂いに釣られてアコーディオン奏者が帰ってくる。テニスで汗を流した女子大生がふらりとカフェに立ち寄って冷たいコーヒーを飲み、ぺちゃくちゃお喋りをし始める。
そんなことを想像するだけで金枝は楽しかった。次第に増えつつあるゾンビの通行人には成る丈目を瞑りながら。
シェルターに足を踏み入れてから三週間が経過していた。金枝は暗いカフェのテーブルで独り、ミルクたっぷりのコーヒーに口をつけながら、白霧の世界を嫌というほど堪能している。通りの景色にはすっかり飽きて、今は練り歩くゾンビの生前の人物像を妄想していた。
――美糸クン。今日が何の日か知っているかね。
「知らねえ」
欠伸混じりに金枝が答えた。
――少しばかり外へ出てみろ。ゴーグルを付けていれば大丈夫だろう。
「うーん、そうだなァ」
金枝は壁の時計を見た。『常連客』らしきゾンビがドアの前に立ち塞がる時刻まで、二時間弱の猶予がある。
金枝が席を立ち、店の出口へ向かう途中、何者かが後ろから金枝のゴーグルを取り去った。
「金枝君。濃霧用ゴーグルは大切なんだ」
音もなくシェルターから出てきたソラはツンとした表情で金枝を睨んだ。
「暇つぶしに使わないで」
「はぁ? 何だよ。俺の唯一の楽しみだ、返せ」
ソラは知らん顔でゴーグルを持ち去ろうとするので、金枝は怒った。
「おい、ソラ」
勢いに任せて金枝は訊いた。
「俺知ってるぜ。お前、宙の羊飼いの野郎と楽しそうに通話してんだろ、結構な頻度で。あの、化粧したドイツ人か何かと」
ソラは立ち止まると、不満そうに金枝を見つめ返した。
「金枝君、まさか嫉妬してるの?」
「さあね」
ぶっきらぼうな金枝に、ソラが軽く腰に手を当て言う。
「宙の羊飼いだって人間なんだから、仲良くしておいて損はないはず。現に今、ギュンターは私に心を開きかけている」
「へえ、あいつギュンターって言うんだ、名前までかっこつけだな。じゃあソラはそいつを篭絡すればいいんだ。おっぱいを見せろ、それが良い」
ソラは鼻を鳴らし、これ見よがしにふーと息を吐いた。
「全く、君はクズだな。言っておくが私は、人類の未来の為なら何だってする。が、今は胸をはだけてる場合じゃない。大変な事態が起きたんだ」
「へえ、どうだか」
気のない態度を取る金枝に、ソラは溜息をつくと言った。
「ゴーグルを常時使えるようにしておきたいのは、いつ何が起きても出られるように備えておきたいから。分かる? この意味」
ソラの告白で金枝は急に冷めた。いよいよ、来るべき時が来たのか。そんな気配が薄暗い店内に沸々と漂い始め……。
が、金枝は気づかないふりをした。
「はあ? 分からねえな。ここで宙の羊飼いをぶっ潰すまで粘るんじゃなかったのかよ。やっぱ電気ガス水道のある場所へ変えんの? それとも灸さんの軍隊が、羊飼いを潰走させて――」
「ヴシャペトレ人の本隊が、太陽系に侵入した」
ソラが単刀直入に言った。金枝は一言「何だそれ」と言った。
「ナンダソレもヘチマもないよ。どうなるか分からないから、いつでもここを出られる準備をしてってこと」
ソラはコンコンと霧視ゴーグルを指で弾いた。
「金枝君、来るか? 灸叔父様から連絡があって、ヴシャペトレの科学力がどんなものか、分かる映像を送ってくれるらしい」
「俺というより、ホルスに見せたいんだろ」
「そういうことだ」
ソラは跳ねるように答えると、先だってシェルターへと向かった。
核シェルター地下六階は唯一南国バカンステイストがない。飾りっ気がない通信室のドアを開けた金枝とソラは、奥にある一メートル弱の壁に掛かったモニタータペストリの前に立った。
「メリィークリスマス! ようアダムとイブ。元気にしてたか?」
たくさんの武骨なパイプを背景に、サンタコスをした威子口灸がおどけて手を振った。ソラと金枝は少し驚いたように顔を見合わせた。
「うわ。クリスマスだっけ?」
「すっかり忘れていた」
「おいおい。二人とも。少しは外に出た方がいいぞ? 街はクリスマス一色だっていうのに」
金枝は久々のソラ以外の話し相手に歓喜した。
「久しぶりです、灸さん。こっちはもう二人っきりで退屈ですよ。ソラが外出禁止だっていうから――」
「当たり前だ」
ソラが間髪入れずに声をあげた。
「外はゾンビがうろついているのに。これでもマシな方で、私が渋谷を焼却しなければ大変な数になっていた」
「おや、ギスギスしてるじゃないか。美糸君、髪を切った新妻は気に入らないか?」
「いや、そういう訳じゃないですけどね。おっしゃる通りぎくしゃくしてて、たまに感染者がカフェのドアを叩いたら、いっそ、いらっしゃいませと招き入れたくなるっていうか。気分転換で」
ソラがしかめ顔で金枝を睨んだ。灸と金枝は少しの間、軽い調子でお喋りに興じたが、それも一段落ついたところで灸が真面目な口調になる。
「ところで、悪い報告と良い報告がある。どっちから聞きたい?」
「そういうの嫌い」
ソラの口からぼそっと呟かれた声は金枝の耳にだけ届いた。
「じゃあ、良い報告から」と、金枝。
「太陽系の戦力を火星へ集結させた。これでいつでも宙の羊飼いと戦える」
「悪い報告を」と、ソラ。
「ヴシャペトレが海王星を攻撃し、一瞬で墜ちた」
金枝は、ぽぉっと胸の内が暖まるのを感じた。太陽系内で、大きな戦争が始まっている。
「被害は? トリトンの潮汐防衛網はどうなりました」
「んなもんは通用しねえ。見た方が早い」
灸はモニターに人差し指を近づけ、横に振った。
画面が切り替わり、海王星の地表に築かれたドーム内の居住エリアが映し出される。商店街、学校、駅、公園。色々な角度でカメラアングルが切り替わり、海王星の生活が垣間見える。人工太陽によってドーム内は疑似的な真昼を作り出し、海王星の人々は地球と変わらない生活を送っていた。
「何か……美男美女ばっかですね」
「ふっ。そう見えるだけで実際は地球と変わらない」
金枝の感想にソラが説明をした。
「海王星の住人は八年前から自動美化フィルターを身体にかけて生活している。深刻な少子化を食い止める為に政府主導で始められたんだ。私は大して変わらないだろうが、金枝君がここに行けばクリント・イーストウッドになれる」
「何かの弾みでフィルターが取れて阿鼻叫喚すりゃあ良いのに」
金枝が素っ気なく言う。灸が話を続けた。
「ドームは海王星の地表に二つ、地下に三つある。一ドームあたり約二億の住民が暮らしていたが、二時間足らずで死体に変わった」
カメラが切り替わる。昼下がりのドーム世界。さっきまで普通だった平凡な映像に一瞬、赤い光が走った。赤い光はドームの外の、氷と岩の世界を貫き、ドーム内まで到達していた。
それから一時間もすると、突然倒れる人間が映像に現れ始めた。夕方になると、どの場所にカメラが切り替わっても、立っている人間は見当たらない。皆、突然死でもしたように床に伏し、ぴくりとも動かない。
「全員、死んだんですか?」
金枝は静止した光景に瞬きをした。建物が破壊されていない、と呟くようにソラが言った。
「いや、全員はじゃない。一部の大人や老人なんかは生きている」
灸は時間を巻き戻した。そこは託児所のようだった。保母らの胸の中で、赤ん坊がぐったりとしている。何人かの保母は周りの赤ん坊を必死に揺すって、反応のある赤ん坊がいないか探していた。
「最初に死んだのは赤子だった。で、次は幼稚園児、小学生、中学高校大学と年齢が上がっていく。最後に大人の順だ」
「生き残った者に共通点は?」
ソラの問いに灸が答える。
「そうだな。弱ったじいさんばあさんに、遺伝性の不治病感染者。子宮を摘出した女に、睾丸を摘出した男……」
――なるほど。子孫が続かない連中か。
ホルスの言葉が金枝の脳内に虚しく響いた。
「何だそれ。じゃあ、ヴシャペトレはわざわざ子孫が続く可能性のある人間だけを殺して、残りは見逃した?」
ソラは無言で口に指をやった。画面が切り替わって、灸が映る。サンタ帽と白髭を取り、疲れた顔で黒のサングラスを磨いていた。
「さすがヴシャペトレ人が直々に指揮する艦隊とあって、俺達には理解不能な兵器を平気で使ってくる。旧遺物が奴らの文明の残骸という噂も納得だよ」
「ホルス、君どう思う?」ソラは、金枝の瞳の奥に潜む先輩の異星人を不意に覗き込んだ。
――人類の将来を憂うなら、民を避難させることだ。
ホルスは他人事よろしく提案する。
――例え旧遺物の技術を使って対抗しても、たかが知れているだろう、人間は。太陽系から脱出し、そのまま宇宙の果てまで逃げ続けるしかあるまい。
金枝がそれを二人に伝えた。ソラは「そうか」と冷え白飯のような素っ気なさで言ったきり、深い世界に没入していく。
そんなソラを尻目に、灸は自嘲するように言った。
「灸叔父さんはな、宙の羊飼い討伐用に集めた兵力を木星に集結させて、そこでヴシャペトレを迎え撃とうと思う。月は後回しだ」
「ええっ。冗談でしょ」
金枝は立ち上がると、モニターに詰め寄った。
「俺達地球の人間はどうなんすか。一か月我慢すれば灸さんが助けに来るんじゃないんですか。誰も助けに来ないなんて聞いてないですよ」
「助けなど必要ないかもしれない」
金枝は鬼の形相でソラを振り返った。
「どうして!」
「宙の羊飼いを懐柔すればいい」
ソラは真顔で指を振った。金枝は半信半疑でソラを見返す。
「話を聞こうか?」と灸。
「ありがとう灸叔父様」
ソラはこほんと咳払いした。
「彼等の信奉する神様が完全武装をして太陽系へ出現し、海王星を襲った。宙の羊飼いの連中だって当然疑念を持ちます。彼等は人類の攻略を託されたのに、それを反故にされたのだから」
「まあそうだな」
「私は何度も何度も、『宙の羊飼いだって人間なのだから、殲滅対象に入っている』と彼らに伝えてきました。それが遅効性の毒となり思考を誘導してくれる。宙の羊飼いと人類は手を組んでヴシャペトレを迎撃します。これは絵空事ではなく、私がそう仕向けさせます」
ソラは確固たる口調で言い切った。
――自信家め。あくまで戦うつもりか。
ホルスのからかうような口調が金枝の意識の深層で発せられた。
金枝はソラを直視した。ソラは離人症ではないのに何故だか薄らと白く輝いて見えた。
「ソラちゃんがそこまで言うなら、待ってやってもいい」
灸が首を軽く回した。
「奴らの次の標的は天王星だ。ご丁寧に、太陽系の外周から順に我々を潰すつもりのようだ。おかげで此方も準備の時間はたっぷり取れる」
ソラの合図があるまでは太陽系軍のヴシャペトレ攻撃を延期すると灸は約束した。
その日の夜。またソラの部屋から宙の羊飼いの男の声を金枝は耳にした。金枝は内心面白くなかったが、通話が終わったタイミングを見計らい、部屋をノックした。
「よう、ソラ。懐柔、上手くいってるか?」
金枝はドアを開ける。椅子に腰かけていたソラは金枝と目が合うと、得意げに鼻を高くした。
「それが、もう少しで寝返りそうなんだ」
「マジで?」
「フフフフ……」
ソラの眼はとても綺麗な色をしていた。蟻の巣を自宅の庭で見つけた小学生男児の瞳と同じ類の、純粋な悪の輝きをしていた。
「ところで、金枝君。カフェでティーパーティでもしないか。私はココアが飲みたい」
「いいね。じゃあ俺はカフェラテ」
「またカフェラテ」
「悪い?」
二人は寝間着のまま、沸かした熱湯を電気ケトルごとシェルターから持ち出すと、クリスマスの夜のオープンカフェで体の芯を暖め合った。
金枝とソラが表参道の地下シェルター及びカフェに来てから二十五日が経過していた。
その日は朝から雨だった。昼から夕方にかけて雨脚は増し、カフェの前の通りは溜め池のようになっている。店内も、アクリルシャッターの隙間やスペースデブリの開けた穴からじわじわ浸水してくるものだから、雑巾を土嚢替わりに床に侍らせたが、雑巾達はあっという間にぐしょ濡れ、白旗を挙げた。
金枝は一人しゃがんでせこせこ雑巾を絞り、何故か潮の香りがする汚水をバケツに貯めていた。
――何故、潮の香りがする。
「さあね。だったら、これだけ風が吹いてても霧が晴れないのだっておかしい」
――それに関しては宙の羊飼いが関東一帯で濃霧を対流させているからだろう。
ふと、金枝の視界に映り込む紺のジーンズ。そして鈍光を纏う黒のレザーブーツ。金枝はしかめっ面で顔をあげた。
「ソラ、急に消えてどこ行ってた。さぼってねえで手伝って――」
「金枝君、ここを出るぞ」
金枝はしかめっ面のまま立ち上がった。見るとソラは白黒ボーダーの長袖のシャツの上に橙色のレインコートを羽織り、フードまで頭に被って、今からこの大雨の中を進軍しますという恰好をしている。ソラに半透明の合羽を差し出され、金枝は無言でそれを羽織った。
ソラはときめいたような笑顔で言った。
「金枝君。やっと、ここから出られるんだ」
金枝はぽかんとしていたが、次第に顔がにやけ、心が高揚した。
「それって……この死臭くせぇシェルターから出れる?」
「そう」
「見飽きたカフェからも出られるって?」
「そう言ってる」
被せ気味にソラが答えた。
「じゃあ、宙の羊飼いは人類側へ寝返ったんだな!? だから俺達はもう、他人の命を考慮してこんな所にいる必要はないんだな?」
ソラはにっこりと微笑んで見せた。
「やったぜ!」
金枝は天井に拳を突きあげた。
「そんなに悪い生活じゃなかったけど。死臭にも慣れたし」
そう言いつつもソラは感慨深げにカフェの中を見渡した。
ドンドン、とカフェのドアが叩かれる。ソラはスキップしながらドアの小窓を覗いて訪問者の容姿を確かめると、軽々しくドアを開ける。レーザー銃を携え霧視ゴーグルを被った、パワースーツのサイレント部隊隊員ら四名が大量の雨水と共に雪崩れるように入ってきた。
「どうぞどうぞ。好きなだけ水浸しにして下さいよ」
滔々と流れ込む雨水を金枝は歓迎した。隊員達は仰々しくソラと金枝に敬礼し、避難方法を説明した。
「当初のヘリでの移動はこの強風と白霧を考えると危険と判断し、我々がボートでお送りします」
「え、ちょっと待った。別にこんな大雨の中、わざわざ出なくても。雨が止むまで待ったら?」
隊長らしき撫で肩の男がゴーグルをずらすと、金枝の方を見た。
「ソラ様からは何も聞いていませんか?」
「佐久間隊長、説明をしてやってくれ」
ソラはカフェの二人席に腰かけた。
「は、それでは。現在東京湾の海水が高台へ向かって逆流を起こしております。湾岸付近の住民には避難勧告が為されており、なるべく低い土地へ避難する必要があります」
「何だって?」
金枝が呆れていると、ソラが口を挟んだ。
「宙の羊飼いによる新しい終末現象だ。おそらくこれが最後の」
「まだあいつら悪さしてんのか。人類側についたんだろ?」
ソラはひらひらと手を振り口元をすぼめた。
「内乱があって鎮圧するのに手間取ったらしい。私もさっきようやくギュンターと連絡が取れて、羊飼いが人類側につくと知ったんだ。その内乱の間に、親ヴシャペトレ派の奴らが終末現象を加速させた。収まるまでは半月はかかるそうだ。私はもう東京にいる必要はないし、海斗叔父様のところへ――」
「ああ。そりゃいいや。マゼラン星雲へね。あ、まだ地球から出られない人はどうすんの。置き去りか?」
金枝の軽口に、ソラは微かに眉を顰め、目を瞬かせた。
「私は……威子口としては、ヴシャペトレが冥王星を滅ぼした時点で太陽系全域に避難指示を出している。貧困家庭の子供は、その星の輸送艦に片っ端から乗せている。しかし、船の頭数が足りない。太陽系から短期間で全ての人間を退避させるのは物理的に不可能だ」
ソラは威子口の者特有の異様な気配を漂わせ始めた。サイレントの隊員は身じろぎをし、金枝は背筋で薄ら寒いものが駆けていくのを感じた。
――地雷を踏んだらしい。
「大体君は、地球地球ってうるさいな。もし辺境の珪酸塩と水銀で爛れた恒星に敵艦隊が迫っていて、その星から私が開拓民より早く脱出を敢行しようとしていても、君は同じようにぶー垂れるか?」
ソラは苛つきを隠さず言う。
「不満なら君だけ残ればいい」
「不満は一切ありません、ソラ様」
金枝がさっと敬礼する。ソラはそれを無視した。
「威子口家は代々、人類の地球離れを目標に掲げてきたというのに。精神性では今も昔も地球ありきだ」
「地球の基準で統一した方が良いこともあんだろ。例えば木星の一年は地球換算で十二年弱。木星で生まれたからって木星基準で一歳の誕生日を祝う頃には子供の肉体年齢はほぼ十二歳だぜ。そのせいで年齢という概念がゴミ以下になった」
「私は、そういうことを言ってるんじゃない」
ソラは軽く自分のおでこを叩くとブツブツと独り言を漏らす。
「地球信仰の傾向は地球から離れる程に顕著に現れるというから不思議だ」
「そうだソラ。俺がコーヒーを挽くよ。最後の一杯を飲もう」
機嫌を損ねたソラを金枝は何とか宥めすかせ、喧嘩にはならなかった。外は轟々と暴風によりかき混ぜられ続けている。滝に近い雨は白霧と共にうねり暴れて、ボタボタとした雨粒は硝子を叩き、張りつき、斜めに流れる。通りの水嵩はいよいよ人の膝上の高さまで達し、外をうろついていたゾンビは一人、また一人と水流に捕まり水中へ飲まれてゆく。長い付き合いになった常連客のゾンビも、とうとう流れていった。
カフェ店内は雨と海と泥の濁水が床を侵し、少し歩くだけでバシャバシャと水音が鳴った。
「遅いね」
ソラはアンニュイな顔つきで呟いた。ソラは霧視ゴーグルを付け、水甕を引っくり返したような荒れ狂う世界を眺めていたが、迎えのボートは一向に姿を見せない。既にカフェの中まで海水が浸水し、膝は常時漬かっていて歩けば太腿が濡れる程までになっている。棚の下に仕舞われていた写真立てやコルク瓶は、ぷかぷかと水面に浮かんでいた。カウンターの上に置かれたラジオからは『海水が高台へ向かう性質上、水平に内陸部へ避難するか、あるいはなるべく低い土地へ避難するように』という、聞いていて頭のおかしくなるような避難指示が真面目に流れている。
不意に隊長の通信機が小さく震えた。隊長は通信機のスイッチを指で弾いた。
「はい、こちら佐久間。……何。後続部隊との連絡が途絶えた?」
隊長は雨に濡れた短髪を掻いた。
「分かった、もういい。一班のボートはC地点で待機。周囲の安全を確保した後、カフェで合流。十五分後を予定、以上」
ソラは少し不安そうに訊いた。
「何か問題でも?」
「いえ。霧の中ではぐれたようで。地球脱出の支障にはなりません。ご安心を」
手持ち無沙汰な時間が再び、カフェの中で流れ始めた。雨合羽を着たまま退屈していた金枝は、この沈みつつあるカフェを写真に残したくなった。手元の携帯端末を起動させ、自動撮影モードにする。ふわっと端末は浮遊すると、店の中を色々な角度で記録し始めた。素朴な木の扉、店内に仕舞われ浸水した小さな黒板に、カウンター奥にある精巧な黒檀色の珈琲焙煎器。アンティークな白銀の西洋電燈。指示を待つ若い隊員。木の丸テーブルに軽く伏せて微睡むソラ。
ソラは浮遊する端末に気づくと、纏わりつく海水に足を取られながらも先回りして端末の撮影を邪魔し始めた。
「おいソラ、カフェが撮れないだろ!」
「碌な被写体のない水びたしカフェより、生まれながらにして威子口であるこの私を撮れ」
ソラがふざけているのに気づき、金枝も一緒になってふざけることにした。浸水途中の店内を飛び回るカメラに何とか写ってやろうと、二人が変なポーズをして遊んでいると、カメラが金枝の手元に戻ってきた。
「ソラ。一緒に写真見ようぜ」
金枝はカウンターに飛び乗り、保存した画像をチェックし始めた。
「やだ、見ないで。変なのしか写ってない」
「なんで。君が最初にやってたんじゃないか」
「途中で我に返って恥ずかしくなったんだ」
そう言いながらも、ソラはカウンターにお尻を乗せると金枝の横に腰かけ、端末の画面を覗き込む。
「どれどれ……。ぷっ、何だこの顔は」
写真の中の金枝は、目を瞑っていたり半目だったりと普段より輪をかけて恰好悪かった。ソラも同じようにふざけている筈なのだが、彼女とその周りだけはまるで映画タイタニックのワンシーンのように幻想的で様になっている。
(何で俺だけ……)
金枝は内心落ち込みながら、どこかにソラの変な画像が撮れていないか血眼で探していると、不意に「はぁ?」と声が出た。
「ソラ。なあ、ソラ。変なの映ってる」
「君の顔だろ?」
「ちげーよ。そうじゃなくて、ほら。アクリルシャッターの所に……」
金枝は端末から顔を上げ、ぎょっとして押し黙った。
写真に写っていたおかしなものは、今もなお透明なアクリルの外側部にへばりついていた。水中から覗くそれは、ハンドボール大の一つの目玉だった。半透明な白目に、鮮やかな蒼の瞳の眼球。それが店内を、外からぎょろぎょろ覗き込んでいるのだ。
「え、なに?」
眼球に気づいたソラは、怯えた声をあげた。異変に気付いたサイレントの隊長が、「どうしました?」と声をかけた。
「佐久間隊長。巨大なイカの目玉のようなものが、外に」
佐久間は途端に厳しい顔になると、手を挙げ隊員を呼んだ。すぐさま店内でばらけていた隊員三名が集まり、レーザー銃を構えて謎の目玉を遠巻きに囲った。
「揖斐野。見てこい」
「はい」
隊長に言われ、一番若い揖斐野は慎重に、その眼球に近づいていった。ピチャ、ピチャ、と静かな店内に揖斐野の立てる水音が鳴る。
「……た、隊長。近づいても分かりません」
「揖斐野ッ」
佐久間に叱咤され、若い隊員はごくりと唾を飲むと、アクリルに張り付いたそれにあと一メートルという距離まで近づいた。
ぎょろり。霧視ゴーグル越しに奇妙な蒼い瞳と目が合った。揖斐野は激しい悪寒がした。レーザー銃を構え直した時、巨大眼球はすっとシャッターから離れると、氾濫する海水の中へと消えた。
「隊長、いなくなりましたぁ」
佐久間が大きく溜息をついた。安堵に包まれるカフェ。ソラが唐突に口を開いた。
「分かった。今のはレコンだ」
「レコン、ですか」
隊員らが顔を見合わせる。
「レコンって何」
金枝の質問に、ソラは思考を巡らせながら返事をした。
「人工の生命体だ。広い海洋からプラスチックを探知し、超音波を発してプライーターを呼び寄せる。プライーターはプラスチックを食べるが、レコンはプライーターの排泄物を栄養源にしている。プライーターとは共生関係にある」
「じゃあ、それが海水と一緒に流れてきたってことか」
その時、ドアがノックされた。隊員達の無線機からざらついた声が流れる。
「こちら一班、到着しました」
佐久間は無線に「了解」と伝えた。
「ソラ様、美糸様。準備は宜しいですか」
ソラは小さく頷くと金枝を見て言った。
「金枝君、出よう」
「言われなくても、一人でだって出てくよ」
オープンカフェのドアを開けると、雨ざらしの隊員が二人、ボートと連れ立っていた。金枝とソラは隊員に後ろから押され、滑り止めの凸凹がついたボートのへりを超える。雨合羽を着た二人はまどろっこしい霧視ゴーグルを持ち上げ、ボートの中で目配せした。
雨が強かにビニールのフードを打ち付ける。金枝は目を細めながら、白霧と水の世界を見回した。真っ白な靄が表参道を包み込んでいる。その時、何かが水から上がる音を雨の音に混じって金枝は聞き取った。隊員が水中に身を潜めていたのだろうか。金枝はぐしょ濡れの手でゴーグルを鼻先まで降ろした。
ボートに捕まっている隊員の真後ろに、透き通った生き物が立ち尽くしていた。それはサメの頭部とイモリの胴体を合成したような姿をしていて、透明な体はゼラチンのようにブヨブヨとしており、カラフルな内臓が透けて見えていた。体内に仕舞われているのは七色のプラスチックの破片だった。ようやく隊員が気配に気づき、おずおずと後ろを振り返る。その生物はクマのように立ち隊員を見下ろしていたかと思うと、力強く隊員の頭を齧った。それの透き通った口内で、隊員の頭が歪み砕け、トマトのように鮮やかでグチャグチャに潰れていく様を金枝はゆっくりと見つめていた。
「杉田ァ!」
「何だこの、化け物っ」
隊員達の怒声で金枝は我に返った。雨の中、マゼンタ色の光線が降りしきる雨を蒸発させながらプライーターの巨体へ次々に撃ち込まれる。プライーターは怯みながらも絶命させた隊員を離さず、隊員を水中へ引き込みながら攻撃を躱した。
「ボートを店の中へ!」
二人の隊員がボートを引っ張り、カフェの中へ引き入れようとする。ボートが屋内へ半分ほど入ったところで、まだ店の外にいた隊員が「ぎゃあ」という悲鳴をあげ、水中に引きずり込まれた。ボコッという音と共に、カフェのアクリルシェルターが破られ、プライーターが次から次へと店の中に侵入する。サイレントの隊員はレーザー銃の銃口を水中に向け、節操なく乱射した。マゼンタ色のレーザーが水中を貫き、白い湯気があがる。
「ソラ、逃げよう!」
金枝はソラを引っ張り、ボートから降ろした。
「どうするの?」
「地下シェルターに避難すんだよ!」
「ソラ様の護衛を!」
佐久間らが二人の背後につくと、忍び寄るクリスタルの影へレーザー銃を放ち、水ごと焼いた。二人はまとわりつく水に足を取られながら、カフェの中を進む。一人、また一人と隊員が食われていく。金枝は顔を引き攣らせ言った。
「何でプライーターが人を襲うんだよッ」
「羊飼いが好みを変えたんじゃない!? 本来は、プラスチックを分解してくれる海の益虫だから!」
「クソッ」
二人は地下階段を水音を立てながら降りていく。後ろからは激しい銃撃の音と、ジュージューと水の蒸発する音が聞こえる。
地下は水が溜まり、プールのようになっていた。ソラは泳いで扉の前に近づくと、手順に沿って光彩認識を行い、銀球のつまみを引いた。飛び出した引き出しへソラが手を入れるより早く、雨水と海水が流れ込む。ソラは小さく舌打ちした。
「金枝君、下手すると開かないかもしれない」
ソラは引き出しの底に指の腹をつけながら言う。金枝が白目を剥いた。
「何でッ」
「遺伝子認識液が薄まってるから」
ソラは早口で答えた。佐久間隊長が後ろ向きで階段を下りてくる。既にサイレントの生き残りは隊長一人になっていた。
「ソラ様、敵が多すぎます!」
隊長が怒鳴った。複数のプライーターのくぐもった唸り声が階段で木霊する。
金枝はソラと目があった。ソラは神妙な顔で自分の左手を口元に持っていく。そして、奥歯を見せるなり、躊躇もせず親指の付け根の肉を強引に食い千切った。金枝が驚愕する中、ソラは目に涙を溜めながらも、皮膚の剥がれ、血の滲む己の左手を引き出しの奥まで突っ込んだ。
シンセナイザーな電子音と共に天井のランプが緑の光を灯し、鉄の扉がゆっくりと開く。大量の水に誘導されるように二人は扉の中へ流れ入ると、急いで床のバルブに手をかけた。少々手こずりながら、鉄蓋を開ける。金枝は落下する水と共に地下シェルターへ飲み込まれた。手痛い尻もちをつき、顔をしかめる中、ずぶ濡れのソラがするりと真横に着地した。
「金枝君、佐久間隊長の安否を」
「分かった」
水がドバドバと流れ落ちる中、金枝は鉄梯子を伝い上を覗き込んだ。水の流れに目を細めながら階段の方を見ると、佐久間は今まさにプライーターから突撃を受け、壁に叩きつけられていた。金枝は佐久間を呼ぼうとしたが、口元の水しぶきで叫ぶこともままならない。
その間に、一匹、二匹と無色のサメイモリのような図体の怪物が階段から雪崩れ込んでくる。
――もう助からんな。早いところバルブを閉めろ。
ホルスに促されても、金枝は五秒待った。その間に佐久間は震えながらも腰にぶら提げていた枯草色の手りゅう弾を取り外すと、グローブをした手で派手にピンを引き抜いた。金枝は黙って重たい鉄蓋の取っ手を掴み、体重をかけて引き落とす。フロアへの水の流入は止み、一瞬落ち着いた後、遠くの方で爆発音が聞こえた。それからはもう何も聞こえず、フロアは絶対的な静寂を取り戻した。
二人はしばらく無言のままその場でへたれていた。いくら慣れても不愉快な死臭を嗅いで気分が落ち込むのは無理からぬことだった。
二人は互いに喋る気も起きず、弱々しい常温のシャワーで体の汚れを順々に洗い流した。金枝はすぐにベッドに沈み、ソラも外部と連絡を取って、同じく気絶したように眠りこけた。
朝の感覚もなく金枝は目を覚ました。凝り固まった、どうしようもない肩に吐き気を催しながら地下一階へと向かう。
金枝の気分と相容れないトロピカル調のフロアの、長い緑青色のソファにはソラがちょこんと座っていた。ソラは湯気立つマグカップ内のレトルトのスープカレーをずずずと音を立てて啜ると、手短に「おはよ」とだけ言った。
「外は?」
「表参道は海の底のようだよ」
ソラは淡々と言う。
「この辺りは海抜が高い。今回の終末現象は水が高台へ向かう。港区全体の雨水や海水はここへ吸い寄せられたように集って、水製のピラミッドが表参道に出来たんだ。私達は今、その淡水ピラミッドの真下に閉じ込められている」
「救助はどのくらいかかる?」
「分からない。今、政府のダイバーがピラミッドに入りカフェの様子を探ろうとしたけれど、複数のプライーターの襲撃に遭っているみたい。二、三日で出られる感じじゃない」
金枝は頭を掻くと、地上へ続く鉄梯子を上っていく。腕力でバルブを回し、鉄蓋を開けようとしたが、昨日と違ってびくともしない。
「クソ、閉じ込められた」
悪態をつく金枝を見て、ソラは身を震わせた。観返り教徒に捕まって以来の、完全なるシェルター生活が再開されたという現実は、ソラの心に暗い影を落とした。
金枝は汗を流していた。太腿がパンパンになりながらもエアロバイクを漕ぎ続ける。それは、ソラの為だった。
シェルターに閉じ込められてから三日後。つい電力を使い過ぎたのか、シェルター内の電源が落ちて全フロアが真っ暗になってすぐ、ソラがパニックを起こした。
(そういえばこいつ、閉所と暗闇の恐怖症だったな)
過呼吸に陥るソラの背中を擦りながら、金枝は北海道の絶滅水族館でソラが潜水のアトラクションをパスしていた記憶を思い出した。
「あの時は、楽しかったよな」
学校の連中はどうしているだろう。何もかも遠い昔のように感じられ、金枝は臍がきゅうと切なくなった。
その一件以来、金枝は目が覚めると、エアロバイクを漕いで電力を補充した。ソラはというと熱心に金枝を誘っては卓球をしたり、ビリヤードをやってみたり、名作映画を鑑賞し、時には二人で温泉に漬かったりした。気楽にも思える生活だが、金枝にはそれらが、シェルターに閉じ込められているという事実を極力忘れる為のソラの精一杯の努力だと気づいていた。
「そんな、怖いか?」
ある日金枝は、卓球でストレート負けした腹いせにソラへ訊いた。
「シェルターっつっても、広いじゃん。開放的だろ」
「閉所恐怖症は大丈夫。それより、地下の、それも水の底にいるのが恐いんだ!」
ソラは体を擦りながら寒そうに答えた。
「君には淡水ピラミッドの映像とか見せてないから分からないだろうが。表参道が、沈んでるんだぞ。バルブも水圧で開かないし、もう最悪。疑似的に潜水艦が、深海で動かなくなったような――」
「へへっ」
「何が可笑しい!」
ソラは怒りのまま、鋭いスマッシュを金枝の顔面に叩き込んだ。
十二月三十一日。濃霧の表参道に現れた濁水のピラミッドと、その中で回遊するプライーターの群れの処理に日本政府が悪戦苦闘する中、未だ地球から避難出来ずにいる日本人はじっと、静かに息をするように、年越しを待っている。金枝とソラの二人は地上の空気も知らずに、昼食はインスタントの蕎麦を啜っていた。
年明けまでもう幾ばくもない静寂の深夜帯。無味乾燥とした地下六階の通信室に独り、枝垂れるようにして威子口空が座っている。ソラは壁時計の秒針には目をくれず、パソコンのモニターを見つめていた。木星の傍で鶴翼に陣取るのは人類側の星間戦闘船舶約六千隻と、月を一瞬で制圧した羊飼いの戦艦が千四百隻程度。それら一隻一隻は小さな光点として、木星宙域を示すパソコンの青黒いカラーモニターに簡易表示されている。七千四百の白い光点は溌剌と輝いて、主張し合っているよう。それに比べ、ヴシャペトレ人の艦隊を指し示す僅か二百足らずの光点は仄暗く、いつ、宇宙の暗闇と同化してもおかしくないが、それらは臆すことなく人類側の艦隊で形成された巨大な光の束へ等速で近づいていた。パソコンの傍らに置かれた旧式スピーカーからは時折、人類側の船舶のノイズ混じりの船員の声がランダムに拾われてはソラの意識を流れる。交戦への緊張感漂う中、船員達は不安隠しに派手で野蛮な言葉を口にしては自らをその気にしていった。
「ソラちゃん、聴こえてるか。こちら威子口灸」
唐突に自分を名指しする声にソラは背筋を正した。
「はい、こちら威子口空。状況は?」
「待機。ヴシャペトレの艦隊は此方の中央突破を目論んでいるのか真っすぐ直進を続けてる」
「そうですか」
「ソラちゃん。俺らのこと捨て石くらいにしか思ってねーんだろ」
「いいえ。勝ってくれるものと信じています」
ソラの応答に灸はからっと笑う。
「奴らが宙上戦闘でどういう戦法を取ってくるか、しっかり情報を探って次に活かせよ」
灸は一方的に告げると交信を切った。
ヴシャペトレは人類側の艦隊の射線に入るか入らないかのギリギリの位置で停止する。そして、一瞬明滅をした。人類軍の射程外から、何らかの攻撃を行ったらしかった。
二十秒ほどラグの後、鶴翼を作る光点の四分の一が消え失せた。残っていた光点が、一斉にヴシャペトレへ向かって前進を始める。が、その間にもまた人類側の光点が消えた。スピーカーからは事態が飲み込めない船員達の、縋るような息遣いが雑音に混じって漏れ聞こえた。
ようやく、ヴシャペトレ艦隊に攻撃が届くようになった頃には、人類側の光点は半分にまで減っていた。
さすがのソラも言葉を失った。まだ、数の上では圧倒的に有利な筈だが、負けに等しい戦況だった。散り散りになった人類軍は、コバエかシラミでも潰すようにヴシャペトレの艦隊に追われ、光を奪われていく。
結局、ヴシャペトレ側の損失は無人の偵察船九隻と二隻の駆逐艦のみ。人類側の損失は、威子口灸の乗る旗艦を含めた八百隻余りの艦隊。太陽系の全戦力に羊飼いの艦まで加えた巨大連合軍は甚大な被害を出し、失意の果てに潰走した。ヴシャペトレはそのまま木星に接近すると、海王星の時と同様に人類根絶の光線を浴びせた。
ソラが時計に目をやると、既に時刻は零時をとうに過ぎていた。
「ハッピー、ニューイヤー」
ソラの言葉は虚空で蒸発した。果たして、こうも忌まわしい新年を迎えたことは今まであったか。まさか、ある筈がない。ヴシャペトレの艦隊は空間縫合航法を小刻みに行いながら太陽系の外周を順に回り攻撃している。海王星から木星までは僅か七日での進軍。火星を滅ぼした後は空間縫合もするまでもなく近接の地球へ襲来するだろう。猶予は四十八時間もなかった。
ソラは体を引き摺るようにして通信室を出た。人の気配の消失を検知した通信室は、自ら消灯を行って深い眠りについた。




