四章 心のありか
婚姻の解消――その哀しい言葉を、フロインは一度だけ風の騎士に持ちかけたことがあった。それを、彼は拒んだ。言葉を尽くして頑なに。
『ノイン、なぜ?わたしたちは普通の夫婦ではないわ!』
「何が普通ではないと思う?」
『わたしは精霊獣よ。それに……実体すらうまく保てない……』
「それがどうした?いや、それが理由ではないな?君は、もうオレへの心がなくなったのか?」
『いいえ!わたしの心を疑うの?』
「疑っていない。確認しただけだ。では、何が不満だ?」
『ノイン……わたしとでは、霊力の交換ができないわ』
「君は、触れることでオレに霊力を送ってくれている。交わらなくとも、同じ作用が働いている」
『それは、そうだけれど……ノイン……』
「フロイン、ありがとう。だが、憂うことはない。大丈夫だ。十分だ。君にいてほしい。オレのそばにいるのは、君でなければ意味がない。すべて承知の上だ」
『けれども!けれども……ノイン!』
「構わない。フロイン……構わない」
フロインの葛藤を、風の王・リティルは知っていた。
夫婦間の問題だと、ノインのぼやきは聞いていたが、聞いているだけに留めていた。しかし、フロインが婚姻の解消を仄めかしたと聞いて、さすがに話をしないわけにはいかなくなった。
「フロイン、おまえも成長して、いろいろ思うところがあるのはわかるけどな、婚姻の解消はさすがにないぜ?バラしたかねーけど、ノインも悩んで凹んでたぜ?」
『……丸め込まれたわ』
「はは、おまえ、精霊獣だったんだよな?オレも忘れてたんだ、ごめんな。でもな、ノインはわかってる。おまえ、振られ続けてただろ?ノインが折れたのは、押し切られたからじゃねーよ。おまえ”で”いいって思ったからだぜ?」
『”で”を強調するのね』
「ハハハ!でもおまえ、わかってるだろ?ノインの特別はおまえだよ。どうしたんだよ?フロイン。霊力の塊みてーなおまえなら、ノインを守れるだろ?」
『リティル、愛とは何?』
「へ?また答えにくいこと聞くよな?うーん……裏切らない、疑わないってことかな?おまえ、ノインのこと今どう思ってるんだよ?」
『生きてほしいの。そのために、わたしが相手ではダメなのよ』
「それが、ノインと婚姻を解消してー理由なら、そうあいつに言ってみろよ。ぜってー怒られるぜ?意味わからねーよ。おまえ、何か隠してるのかよ?」
言えなかった。ノインの霊力構造に問題があって、放っておいたら死んでしまうかもしれないと、なぜか言ってはいけないと思った。結局言えずに、ノインはついに命の期限を突きつけられ、力の精霊に転成する羽目になった。
ノインと一時的な別れを経て、今また、転成を果たした彼と魂を分け合った。
風の騎士の命を長らえさせるため、体を保つための霊力まで与え続けて、肉体が希薄だったあの頃とは違い、フロインは肉体を問題なく具現化できる。
リティルは、彼の体内にある至宝・原初の風をフロインの心臓として外に出すか?と言ってくれたが、それはリスクが高いとインファに反対された。フロインもリティルを守るという原初の風の想いが形を得た存在のために、リティルの外に出ることは怖かった。
しかし、リティルの中にいるかぎり、フロインは守護鳥という存在から抜け出せず、人型は化身の姿という理からは抜け出せない。
風の騎士を失い、彼の分までリティルを守ろうと誓っていたフロインは、リティルの中に原初の風を残しながら、何とか精霊になれないかと考えていた。
方法を教えてくれたのは、宝石の精霊であるセリアだった。
セリア達宝石の精霊は、要石と呼ばれる宝石を心臓に肉体を形成している。故に、致命傷を負ったとして、要石をすげ替えれば蘇ることができる不死身の精霊だった。しかも、記憶を保持したまま。
宝石の形をした原初の風は、受精させる力を司る、最大の産む力だ。フロインは、リティルの守護する原初の風の産む力を使い、クローンを産み出し心臓とすることで精霊へと転成を果たしたのだった。
精霊となってしまったために、自由にリティルの中には戻れなくなってしまったが、本体の原初の風と繋がっているために、リティルとは心で会話ができる。そして、宝石の精霊同様、不死身だ。
これで、風の騎士の代わりに、リティルを守れるはずだった。
しかし、風の騎士との婚姻のおかげで抑えられていた、魅了の力が解放されて、しかも、受精させる力という特性で性的な魅了というありがたくないパワーアップを果たしてしまい、安易には城の外に出られなくなってしまった。
それを知ったリティルには爆笑され、インファには「ノインは偉大でしたね」と笑われてしまった。同じ司の精霊ではないが、原初の風の精霊であるインジュが首を傾げながら「ボク、魅了の力ないんですけど、どうしてなんです?」と大真面目に疑問をインファにぶつけて困らせていた。
シェラが指導してくれ、徐々に抑えられていったが、豊満な肉体は隠しようがなく、風の騎士がどう抑えてくれていたのかシェラも疑問だと言っていた。
今、力の精霊・ノインの妻となったが、魅了の力は抑えられている気配はなかった。そのせいで、フロインは、力の間から出られなくなってしまっていた。
「すまない、フロイン」
ノインには、風の騎士がどうフロインの魅了の力を抑えていたのかわからず、どうしようもない状態が続いていた。
「気にしないで。いってらっしゃい、ノイン」
フロインは美しく微笑みながら、インファと狩りをするために出掛けるノインを見送る日々を送っていた。
ノインを送り出したフロインは、フッとため息をついた。
ルディルに婚姻を報告するため、リティルと3人で太陽の城へ来て、ルディルに報告を済ませると、ルディルは案の定フロインとノインを玉座の間から追い出した。
どんな話し合いがなされたのか、聞くことさえ許されず、力の間で待っていた2人の前にルディルが現れて「フロイン、今日から太陽の城住まいだ」と言われてしまった。リティルに決定には従えと言われていたフロインは、何も言えず、来てくれなかったリティルにしばらく声さえかけられなかった。久しぶりにリティルの声が聞けたのは、それから1日経ったころだった。
――何とかやれそうか?
と、リティルの方から念話で話しかけてくれた。「大丈夫」と答えるしかないじゃない!とフロインは思ったが、それ以上は言葉にできなかった。
あれから、半月。シェラやセリアがよく来てくれたが、彼女達も重要な精霊の妃達だ。忙しい風の城を、頻繁には出られない。
「ノイン……あなたの寂しさが、今やっとわかったわ」
風の騎士は晩年、リティルから物理的に離れなければならず、その日数がかさむほど心の安定を失っていった。リティルと心で繋がるフロインは、そこまで不安定ではないが、寂しさを感じていた。
太陽の暖かさに匹敵する、明るい笑顔と優しさ。15代目風の王・リティルの統治する風の城は、春風のような城だ。太陽王も優しい王だが、リティルには敵わない。そして、あの城は、とても賑やかだ。レシェラがたまに来てくれるが、彼女は彼女で忙しい。フロインは1人の時間を持て余していた。それも、寂しさに拍車をかけている原因となっていた。
『フロイン』
ボンヤリ、広場にある緑色に塗られた鉄のガーデンチェアに座っていると、不意にリティルの声がした。
「リティル」
『あいつの様子、どうだ?』
リティルは自分で関わればいいのに、定期的にノインの様子を聞いてくる。
「安定しているわ」
『そっか、フロイン様々だな』
「そうかしら?リティル、あなたが関わってくれればもっと楽できるのよ?今日もインファは炎の領域でしょう?」
『おまえまでそう言うなよな。最近、インファとインジュに責められてるよ。なあ、おまえの目から見ても危ういのかよ?』
風の騎士の心を守れなかった引け目か、リティルはノインの精神を案じていた。しかし、フロイン達からすれば、そうじゃないのよ!と思っているところだった。
「大丈夫よ。風の騎士の記憶に、引きずられているということではないの」
『ん?違うのかよ?2人ともオレが関係してるようなこと言ってたけど、何なんだよ?あいつに会えばわかるの一点張りなんだよ』
「ノインに会えばわかるわ」
『ちぇ、インファの息がかかってるなぁ。フロイン、おまえは?大丈夫かよ?』
拗ねるリティルの声に、フロインはクスクスと笑ってしまった。笑っていたフロインは、リティルの声がこちらに向くのを感じて、一瞬反応が遅れた。
「わたし?」
『おまえだよ。大丈夫か?』
リティルが気にかけてくれていることが、無性に嬉しい。守護女神なのだ、こちらが案じなければならないのに、この人は分け隔てない。
「リティル……」
この優しさには、誰も敵わない。
『お、おい!大丈夫かよ?泣くほど寂しいのかよ?インファ……じゃダメか。シェラ……は出てるな。こういうときに限って、みんな出払ってるんだよな!』
リティルの声が焦っている。リティルに心配をかけたくないのに、フロインは涙を止められなかった。寂しいと思ってしまった。リティルが、いないから……。
「リティル……会いたいわ……」
『今、あいつ炎の領域だよな?わかった、待ってろよ?』
心の声が、消えてしまった。暖かな心の火が消えて、北風がこの頼りない体を容赦なく吹き付けるようだった。
フロインは、椅子とセットの丸いテーブルに突っ伏して泣いた。こんな我が儘はいけない。主君の手を煩わせては、風の騎士に怒られてしまう。そう思ったが、フロインは瞼の裏のリティルの笑顔に、寂しくて泣き止めなかった。
声が、いつでも聞けるだけ、風の騎士の晩年よりマシでしょう?と思うのに、どんな戒めもきかなかった。
「ダメね……ノイン……わたし、わたしではあなたの代わりは務まらないわ……」
フロインは無理矢理泣き止もうと、体を起こすと涙を手の甲で拭った。しかし、止まらない。あまり泣いては、帰ってきたノインに泣いていたことがバレてしまう。あの人の前では、笑顔でいたい。魅了の力のせいで、ただでさえ気に病ませているのだから。この涙が、リティル絡みだと知られてしまったら、彼は行動を起こしてしまう。それは、阻止したかった。
「フロイン、泣くなよ」
声に顔を上げたフロインは、一瞬目を疑ったが、彼なら来てくれると心のどこかで思っていた。リティルはそういう人だ。優しくて、行動力のあるわたし達の王。
「リティル……!」
苦笑する小柄な風の王に、フロインは抱きつくと、小柄な彼に合わせてズルズルと膝を折っていた。抱きつかれたリティルは、何も言わずにヨシヨシとフロインの頭を撫でた。彼の前では皆、小さな子供に戻される。それを許す、童顔な皆の父。
「リティル、なぜ、ノインに会わないの?」
「あいつとあいつを重ねたくねーんだよ。あいつ、けっこうまんまノインだよな?だからな、あいつとあいつを重ねて、刺激したくねーんだよ。オレがこんなんじゃ、何かの拍子ってこともあるしな。あいつは、揺るがなくて強かったからな。オレは、ノインが守ったあいつを、守ってやりてーんだ」
「記憶なら、戻ることはないわ。消したのはレジーナよ?」
「ああ、わかってるさ。オレが怖いのは、心だよ。ノインは、父さん――14代目の感情が残っちまったせいで苦悩してた。オレに、どっちが必要なのかって、考えなくてもいいことを、騎士だったせいで悩んだりしてたんだ。オレに必要だったのは、風の騎士で、父さんじゃなかったのにな。力の精霊には、そんな気持ち、継いでほしくねーんだよ」
風の騎士は死んだ。それで、もういいんだと、リティルは静かな声で言った。
本当に、風の騎士は死んでしまったの?と、フロインも彼と彼を切り離して考えているのに、リティルの言葉に彼はノインよ?と矛盾することを思ってしまった。
一家の皆が、いや、風の騎士と交流のあったすべての精霊が、彼はノインだという中、フロインとリティルだけが、風の騎士と力の精霊は違うと思っている。それはなぜなのか、フロインは答えを出せていなかった。
あいつは死んだと言い切るリティルは、その答えにたどり着いているのだろうか。そう思ったが、フロインは、怖くて、問えなかった。
「名さえ呼ばないのに、未練はないと言うの?わたしにまで、強がらないでいいのよ?」
顔を上げたフロインは、もう泣いていなかった。慰めていたほうが今度は心配されて、リティルは苦笑した。
「はは、名前を呼べねーのは、重ねねー為だよ。フロイン、もう少し頑張ってくれよ。オレ、何とか折り合い付けるからな。そしたら、リャリスとあいつも引き受けてやるよ。ルディルともそう話しつけてるんだ。今まで言えなくて、ごめんな」
そう言ってリティルは、感情を飲み込んで優しく笑った。そんな顔を、させたいわけではない。笑顔ですべてを隠さないで!そう言いたいが、迷いを抱えているフロインには、リティルを解きほぐすことはできようはずもなかった。
「リティル、でも……」
「オレは世界の刃だ。イシュラースを安定させることは、オレの使命でもある。大丈夫だ。風の城には、防御特化の精霊も多いからな。全員オレが守るよ」
そう言ってリティルは明るく笑うと、フロインの頭をヨシヨシと再び撫でた。
そろそろ帰ると、リティルは笑ってフロインに背を向けた。その背を追えないまま、フロインは見送った。
「リティル……そんなあなたを、ノインは、いつも案じていたわ。そして、どうしたら支え続けられるのか、悩んでいたのよ。そばに……いたかった、のに……」
なぜ、残ったのがわたしなの?あなたが1番大事と言いながら、別の人を選んでしまうわたしが、なぜ、ここに生きているの?風の騎士は、本当にリティルが1番大切だった。だからこそ、力の精霊となれば生きながらえることができるのに、最後まで躊躇った。リティルのそばに戻れないのなら、死んだのと変わらないからと。
風の騎士の姿形で、すべて忘れて、別の宿命を生きるなら、リティルを戸惑わせ悲しませるこの姿を維持する命を捨てても構わない。それが、彼――風の騎士・ノインだった。
そんな人があなたのそばからいなくなって、わたしがここにいる。あのとき、死ぬのがわたしだったらよかったのに……。そうすれば、少しの哀しみだけですんだ。
「リティル……リティル……」
――ごめんなさい……ノインを守る為に、あなたはわたしをノインに嫁がせたのに……
フロインは、思ってもしかたないことを思いながら、ギュッと自分の服を掴んで俯いた。
その姿を、力の精霊・ノインに見られているとも知らずに。
力の精霊・ノインは、リティルとフロインにも打ち明けていないことがあった。
これを打ち明けると、記憶の時と同じように、消されてしまうかもしれないと頭をよぎったということもあったが、思い切ってインファに打ち明けると、彼は「焦らず行きましょう」と言ってくれた。
持っていてもいい?追求してもいいのか?とノインは未だ自信がなかった。
それは想いだ。漠然とした想い。風の王・リティルに向いているとわかる想いだった。
フロインを手に入れなければならないという、必死さにも似た思いではなく、もっと不確かなあやふやなものだった。
これが、風の騎士だった名残であることは、割とすぐに気がついた。しかし、どんな想いなのか、一向に像を結ばない。
心配――しているのか?と何となくそう思えるだけで、これだと言い切ることができない。しかし、確かにあった。
――本物の想いは、記憶を消したくらいじゃ消えねーんだよ。消えねーんだ
リティルの寂しそうな言葉を聞いたとき、危うく「消えていない!」と言ってしまいそうになった。風の騎士を――オレを誤解してほしくないと思った。しかしノインは、オレには言う資格がないと思ってしまった。
フロインとやっと婚姻を結び、ルディルに報告すると、すぐさまに玉座の間を追い出された。廊下にいるのも、と、ノインはフロインと共に力の間へ戻った。フロインは、ルディルが部屋を訪れるまで、緊張気味に何も話さなかった。
ルディルにこの城に住めと言われたフロインは、あからさまに気落ちした。それを予見していたのか、ルディルは苦笑して「すまん」と1言言ったのだった。
ルディルはフロインの意志で、風の城と太陽の城をいつでも行き来していいと言ってくれたが、フロインが太陽の城に暮らして2日目で、それができないことが発覚してしまった。城の廊下で、フロインは召使い精霊である火の鳥の大群に、追いかけ回されたのだ。
シロクジャクのサーリーとワシミミズクのスレイが助けに飛び、ノインが力の間に逃がして事なきを得たが、その時は何が起こったのかわからなかった。ルディルが風の城に問い合わせ、インファとシェラが来てくれ、フロインの性的な魅了の力がまるで抑えられていないことが発覚した。
風の騎士との婚姻中は、抑えられていたというその力。霊力の交換なしに夫婦をしていたというのに、霊力の交換を済ませたにもかかわらず、フロインの魅了の力は抑えられなかった。元花の姫のレシェラにもどうすることもできず、フロインは力の間へ軟禁状態となってしまった。ノインはインファに、フロインを風の城へ戻すようにかけあったが、王が許可してくれないと断られてしまった。
リティルは、何を考えているのか。ノインは、フロインが苦しんでいるのになぜなのか?と疑問しか浮かばなかった。
フロインは、いつも美しく笑っていた。それは嬉しいのだが、他の感情をなくしてしまったようで、気になっていた。
だが「いってらっしゃい」と送り出してくれる彼女の存在が愛しくて、手放しがたい。
けれども、やはりフロインは無理をしていたのだと、知ってしまった。
炎の領域で、いつものようにインファと合流したノインは、だいぶ彼と連携が取れるようになり、短時間で狩りを終えることができた。
「こんな戦いを、日々強いられているのだな」
黒い燃えかすのような残滓を漂わせて、消えていく魔物の姿を見つめながら、ノインは呟いた。
「皆さんそう思うようですね。オレは目覚めた時からこの空気の中にいますから、強いられていると感じたことはないですかね?父さんはたまに、お酒を飲むとオレ達に謝ることがあります。あの人は無駄に優しいですからね、言わせておきますけどね」
そう言ってインファは、何のことはないように笑った。つくづく、強い男だなと思う。強いと言えば、彼女もそうだ。笑顔しか見せてくれない彼女は、ずっとずっと強い。
「インファ、おまえも落ち込むことがあるのか?」
「ありますよ。悟らせないようにしているつもりなんですけどね、誰か彼かが気がついて慰めてくれますよ。ありがたいですね。オレが潰れれば、風の城は空中分解してしまいます。責任重大なんですよ。あなたは、大丈夫ですか?見たところ、悩みがあるようですね」
インファは、伺うように小さく首を傾げた。
「敵わないな。実は、フロインのことで、悩んでいる。風の城の妃達が様子を見に来てくれるが、不安や弱音を吐いているだろうか?」
「父さんが定期的に話を聞いていますね」
「!リティルが?」
「ええ。彼女と風の王は、体内の原初の風を通じて繋がっていますからね。いつでも念話できますよ。知らなかったんですか?変ですね。フロインはなぜ、あなたに言わなかったんでしょうか?」
隠すほどのことでもないと、インファは首を傾げた。
「インファ」
「ええ、謎は謎のままにしておかないでください。あなたはノイン――謎の風ですから」
それでは。と、インファはニッコリ笑うと太陽の城へ引き返すノインを見送った。
ノイ・イン――謎の風と名付けたのは、オレですよとノインには話した。
かつて、目覚めた風の騎士は、謎の風という名に合わせ、顔の上半分を覆う仮面を付けることを選んだ。14代目風の王の知識を継承していた彼は、目覚めた時から聡明だった。真面目だった14代目と違ったのは、ユーモアがあるところだったなと、インファは思いながら、風の城へ踵を返したのだった。
太陽の城に帰ってきたノインは、レシェラに呼び止められた。彼女は短く「リティルが来てるわよ」と教えてくれた。それは、力の間に入ってもいいのだろうかと躊躇ったが、レシェラは「こっそり覗いちゃえばいいわよ」と悪びれなかった。ノインはそうすると言って、見守ってくれている彼女に礼を言って、そっと部屋に帰ったのだった。
2羽の鳥が主の帰還に気がついたが、ノインは唇の前に人差し指を立てると、2羽はノインの気配を消すかのように左右に分かれて、部屋の中を移動していった。
遠目で、何を話しているのかわからなかったが、リティルは泣いているフロインを慰めているようだった。まるで子供を安心させるような優しい顔で、そんなリティルを見たことがないノインは、少し驚いた。ルディルが、あいつは無性の愛だと、リティルという風の王のことを称していたが、あの顔を見て、何となく納得した。
そんなリティルが、憂いを帯びた瞳で苦笑した。そして何事かをフロインに告げる。フロインはその言葉を咎めているようだった。しかしリティルは、決意を秘めた、自分の感情を殺した瞳で答えた。そして、安心させるような明るい笑顔を浮かべると、フロインの頭を撫でてやっていた。背の低いリティルに合わせて立ち膝していたフロインは、立ち上がり、1度リティルと抱擁を交わすと、リティルはフロインに手を振り部屋の出口に向かって飛んで行った。
ノインがフロインに視線を戻すと、彼女はもうリティルは見えなくなっただろうに、彼の行った方を見つめていた。
そうしていたフロインは、ギュッと自分の服を掴んで俯いた。その姿が、とても哀しそうでノインは胸に小さな痛みを覚えた。
彼女を風の城へ。
ノインの迷いは晴れていた。フロインは、リティルのそばにいなければならない。リティルに受け入れられていないノインは、フロインを手放す決心をしたのだった。
ノインはフロインが小屋に引き返すのを待って、フロインのあとを追った。
「ノイン、おかえりなさい。もう、この城には慣れたわ。わたしのことは気にせず、インファと遊んできていいのよ?」
紅茶のポットを手にしていた彼女は、ノインに気がついて美しく笑って、そう提案してきた。ノインには、その笑顔が偽りには見えなかった。だが、偽りなのだと思ってしまった。
「ただいま。ああ、ありがとう。……フロイン」
「?」
フロインは1つだったカップを2つにして、ノインの分の紅茶も淹れ始めていた。その手を止め、ノインを見た。
「いや、何でもない」
「オレの前でも泣いてくれないか?」言えなかった。言う資格がないと、思ってしまった。
その夜、フロインが隣で眠りに落ちたのを確認して、ノインはそっと小屋を出た。
クジャクと、本来夜行性のはずのワシミミズクも、自分達のねぐらで寝ていた。
ノインはインファからもらった水晶球を手の平に出現させると、声をかけた。
「インファ、すまない、今少し話せないか?」
『いいですよ。少し待ってください。…………どうしました?』
インファは、場所を移動してくれたようで、彼の背景が暗く沈んだ。どうやら、中庭に出てくれたらしい。
「リティルは、城に1人になることがあるだろうか?」
『城に1人……応接間を人払いすればいつでもできますよ?城の皆さんも、協力的ですし』
「そうか。リティルと話したい」
『了解しました。父さんには言わずにおくので、明日来てください。時間は――』
明日の昼間を指示され、インファはいつも通り飄々とした態度で水晶球からいなくなった。
小屋を振り返ったノインは、ガーデンチェアに崩れるように腰を下ろしていた。
この風変わりな庭のような部屋に、風の王妃・シェラが新たな花を贈ってくれた。夜になると間接照明にもなる色とりどりのラナンキュラス。生花だが、すべての花の頂点である花の姫であるシェラが手を加え、日が落ちると淡い光を発するように品種改良されていた。
このイシュラースの中心に立つ、次元の大樹・神樹。彼女はその大樹の花の精霊だ。ドゥガリーヤから吸い上げられた混沌が、枝葉の先から漏れ出て、この世界の空気との摩擦で燃える。その白い煌めきがシェラだ。彼女の黒髪に、その白い光の花が咲いている。
言葉を持たなかったフロインは、彼女に憧れて、彼女の口調を真似て言葉を発していた。
そのために、フロインの話し方はシェラにソックリだ。当時、声は違うが、同じ抑揚で喋るフロインに、リティルはしばらく挙動不審だったと、インファが楽しそうに教えてくれた。そんな、言葉さえ満足に持たなかったフロインの感情を育てたのは、風の騎士だった。
彼女の心が、ノインに向いていることを、ノインは疑っていない。風の騎士を知れば知るほど、勝てないと感じてしまうが、フロインから風の騎士を取り上げようという想いは不思議と湧かない。いつか、風の騎士に嫉妬して、そんな残酷なことを、彼女に言ってしまうのだろうか?そんな恐れを抱きながら、ノインは、フロインを愛していた。
フロインを、風の城に帰すだけだ。婚姻の証を放棄するわけではない。
それなのに、ヒドく寂しい……。
手放しがたいぬくもり。彼女の想いだけ、それとわかる形で心に残した風の騎士も、フロインにそんな想いを抱いていたのだろうか。彼女のあの肉体を、ベッドの中で抱きしめながら、性的な行いは一切しなかった風の騎士。これだけの想いがあるのだ、確かに彼もフロインを愛していただろう。この肉体も健全だ。だのに、なぜ触れずにいられたのか、ノインには理解できない。フロインも、ノインの手を拒まなかったのに。
フロインは、風の騎士との婚姻を、歪んでいたと言った。意味がわからなかったが、それ以上問えなかった。フロインの様子があまりに痛そうで、哀しい切なさが彼女の明るいその瞳を陰らせるのがイヤだった。
翌朝、何も知らずにノインを見送るフロインに、今からどこへ行くのかを告げた。
「フロイン、風の城に行ってくる」
「風の城へ?」
フロインは、真意がわからず首を傾げた。
「リティルに直談判してくる。君を、風の城へ戻す」
風の城へ戻す?フロインはハッと瞳を見開いた。そして、ノインの腕を掴んできた。彼女はオウギワシだ。その握力はとても強い。ノインの腕の骨が軋むほど強く、フロインは握ってきた。余裕がなくなるほど、フロインは拒絶の意志を示してくれたのだ。だが、ノインの意志は揺るがなかった。
「君は、風の城に、リティルのそばにいるべきだ。逢いに行く。フロイン、何も変わらない。大丈夫だ」
ノインはフロインに手を離させると、彼女を置いて、部屋を出て行ってしまった。
取り残されたフロインは、動揺していた。
風の城へ戻す?ノインはなぜ、そんなことを急に言い出したの?とフロインは、体が震えていた。言い知れない不安。リティルの心は揺るがない。ノインでは勝てない。
リティルは、心に折り合いを付けて、必ず、ノインと2人風の城に迎えると言ってくれた。
その矢先に、なぜノインは?フロインは、リティルと会話できることを、ノインに伝えていなかったことにやっと気がついた。ギクシャクしている2人に、これ以上よそよそしくなってほしくなくて、ノインにリティルの名さえ出さなかった。
フロインはリティルの守護女神だ。その存在が、主と繋がっている素振りを見せなければ、不審がられて当然だった。
彼は、リティルと離れていることを案じている。そのことに、やっと思い至った。ノインは、風の騎士が残してくれた知識のおかげで、様々な理に精通している。そんな彼が、フロインのことを知らないはずはない。
だが、今このタイミングはダメだ!フロインは震える体を抱いた。
リティルは折れない。ノインも折れられない。リティルに勝てないノインが取る行動は?
「イヤ……ノイン!」
ノインは、フロインを想って婚姻の証を放棄するだろう。ノインに婚姻の証を壊させるわけにはいかないリティルは、それを預かり、フロインは風の城へ――フロインはそんな未来を思い描いて、目の前が真っ暗になった。
風の騎士は、言葉を尽くしてくれた。言わなければ、誤解が生じるからと、些細なことも、時にはそんなことを聞くの?と言うことまでフロインには言葉を尽くしてくれた。姿が見えず、触れられなかったからこそなのかもしれないが、風の騎士は言葉責めだった。
あまりに囁く愛の言葉が過激で、その落ち着いた声で犯されるようだった。
「恥ずかしいからやめて!」と訴えると「それもそうだな。オレも言いすぎた」と言って、彼には珍しく照れて笑ったことが思い出された。
――ノイン、なぜ何も言ってくれなかったの?
そう頭をよぎって、フロインははたと気がついた。
風の騎士は、本来、おしゃべりではない。むしろ、無口なほうだった。それが変わったのは、フロインと婚姻を結んだあとだ。今ノインが、思った事を口にできないのは、言葉にしなければ誤解が生じると思い至った記憶を失っているためだ。
思いやりと行動力のあるノインが何を考え、何をしようとしているのか、ずっと風の騎士と共にいたフロインには手に取るようにわかった。だって、彼はノインだから!
「ノイン!」
フロインは、翼を広げると、力の間の外へ、出た。
太陽の城の中を猛スピードで飛び抜けるその後ろを、火の鳥達が追いかけてきたが、本気のオウギワシに追いつけるはずもなく、フロインは火の鳥達を振り切って、城の外へ飛び出していた。
風の領域は?と視線を彷徨わせると、広い平原の向こうに、天を貫くような大樹の聳える様が見えた。あれは、神樹だ。神樹にはシェラと、同じゲートの力を使える精霊が住んでいる。シェラが母様と慕うその精霊、神樹の精霊・ナーガニアなら、風の城へのゲートを開いてくれる!フロインは神樹へ向けて進路を取った。
かなりのスピードが出る大きな翼だが、今日は心が急いて、とても遅く感じられた。フロインは、1人で空を飛んだことがなかった。
ずっとノインと一緒にいたということもあったが、遙か昔に、リティルが一家の皆に1人で飛ぶことを極力やめるように言ったからだ。移動にはゲートを使い、警戒を怠るなとそう警告した。風の城は、命を奪う性質上、どこにどんな敵がいるかわからないからと。
その警告が功を奏しているのか、これまでに奇襲された者はいなかった。
フロインは、その容姿に似合わず、風の城でも屈指の戦闘能力を誇る精霊だ。
遅れをとったとしても、対処できるはずだった。
「!……?」
フロインは、神樹の周りを取り囲む、森の中で、何かが閃いたのを感じた。だが、一瞬それを見逃していた。
「え?」
小さな衝撃があり、フロインは自分の胸に視線を落としていた。そこには、ナイフが刺さっていた。これくらいの傷、怪我のうちにも入らないフロインだったが、グラリとその身が揺れた。心臓が……止まる?
――キンポウゲ科の花には、毒を含む物も少なくないのです。中には、心臓を止めてしまう強い毒を含む物もあるのですよ
大昔、グロウタースの花園で、色気なくそう教えてくれた魔導士の友人がいた。それは、ラナンキュラスをフロインが気に入ったためだったが、ラナンキュラスの毒は、皮膚がかぶれるくらいのものだと、魔導士の彼は言っていた。
気がつくと、フロインは、森に墜落していた。地面に広がった血の痕。ああ、結構な怪我をしたようだが、フロインは不死身な上に超回復能力の更に上を行く、高い治癒能力を持っている。傷はすでに癒えていた。
意識を取り戻したフロインは、体を起こそうとしてギクリとした。散った、ラナンキュラスの花が目に入ったのだ。
神樹の森は、森の姿をしているが、どこにも属さない。生き物はいず、花も咲かない。ここにラナンキュラスは咲かない。目の前の散った花は、どこから?
それは、フロインの頭に飾られた花冠以外ありえなかった。
だが、これはノインが婚姻の証に贈ってくれたものだ。精霊の力、霊力がなければ壊れない。それが、壊されて散っていた。
「あの高さから落ちて、しかもクリスマスローズの毒をタップリ仕込んだのに、死なないなんて、あなたも化け物なのね」
この声は、キンモクセイ?彼女がわたしを?フロインはボンヤリとそんなことを思いながら、目の前の散った花を見つめていた。その花が、グシャッと踏み潰された。
「なぜ、あなたなの?あなたは……ノインとの婚姻の証を放棄したじゃない!」
婚姻の証の放棄……フロインは、風の騎士のくれた婚姻の証を、彼の死の間際、この手で、壊した。彼に生きてほしかったから。
力の精霊になるように説得するリティルの声を、フロインは風の騎士の散りゆく命を繋ぎ止めながら彼の中から聞いていた。止めたくても、彼の命はこの手の隙間からこぼれ落ちて消えていった。フロインの最大の癒やしを持ってしても、ノインの命を繋ぎ止められなかった。
リティルにも散っていく彼の命が見えていただろう。これまでのかけがえのない風の騎士との関係性をすべて賭け、リティルは彼を説得しようと言葉を尽くしていた。だが、風の騎士は、リティルの下へ戻れないなら、ここで果てると譲らなかった。
だから、フロインは、だから彼を裏切った。
風の騎士の最後まで、共に行くと約束したのに、その約束を破った。
『わたしとあなたの関係性の放棄が、あなたとリティルの支払う対価を少しでも肩代わりしますように』
フロインは、彼から贈られた、バラの花からト音記号の揺れるピアスを、壊した。
風の騎士の目の前で。
彼の、感情なく見つめる瞳が、忘れられない。壊したくなかった。彼の最後の瞬間まで、彼の――風の騎士の妻でいたかった。
でも、何を犠牲にしても彼に、生きてほしかった。この、ちっぽけな絆の放棄が、彼の命を救えるなら、惜しくなかった。彼の心に、最後に傷をつけるとしても、繋げる命を、放棄してほしくなかった。
記憶を失ったノインは、風の騎士とは言い難く、その存在は、新たな精霊といっても過言ではないほどだった。
それでも、ノインという存在を守れただけでよかった。
しかし、それは自己満足だったのかもしれない。
あの時、婚姻の証を放棄していなければ、彼の心に、これほどまで強く、残らなかったのかもしれない。フロインは、憎しみの籠もった哀しい瞳で、こちらを見下ろすキンモクセイを瞳だけで見上げた。
この娘が、風の騎士を想っていることを知っていた。腹立たしかったが、きちんと肉体があって、精霊である彼女が、当時フロインは羨ましかった。
ノインと離れ、肉体を得て精霊へと転成を果たしたフロインは、キンモクセイのことを知って、太陽の城に行くことをやめた。リティルには、行けと言われていた。オレとノインのことは気にするなと背を押してくれたが、フロインは行かなかった。
わたしが愛しているのは、風の騎士だけだ!そう言い聞かせて、ノインを諦めた。キンモクセイがいるなら、もう……風の騎士を想うことに疲れ果てたフロインは、身を引いたのだ。なのに、ノインは忘れていなかった。記憶を失っても消されても、フロインを取り戻しにきた。
精霊なのに、そんなに恋愛感情は強くなかったはずなのに「君しかいない」と言って。
なぜ?わたしは……あなたを捨てたのに?理由なんて関係ない。わたしは、あなたとの婚姻の証を放棄した……。後ろめたくて、その事実が哀しくて、フロインはノインに素直になれなかった。風の騎士が未だに好きだと告げても、彼は「それで構わない」と言った。そんな彼に、絆されてしまった。そして、一縷の望みを賭けた。
今、ここにいるあなたは誰?記憶を消されて目覚めたノインは、ノインにしか見えなかった。見えなかったが、フロインの守りたかった彼ではなかった。風の騎士と同じにしか見えないノインを、違うと思ってしまう理由に、フロインは、今たどり着いた。
――リティルが1番大事だったあなたを、わたしは、愛していたのよ?
絆されてはいけなかった。やはり”ノイン”は死んでしまったのだ。フロインが、婚姻の証を賭けてでも守りたかったノインの心は、守られなかった。
――力の精霊を、選んではいけなかったのよ。わたしは、風の王・リティルの守護女神だから
そう思うのに、なぜ、あなたは消えてくれないの?
やはり、風の騎士以外愛せないとわかったのに、フロインの心にいるのは、黒い翼の力の精霊・ノインだった。
――ノイン……わたし……生きていることが、辛い……
フロインは、瞳を閉じた。その瞳から流れた涙が、大地を殺す。
フロインの頭で、崩れてもなお飾られていたラナンキュラスの花冠が、枯れ落ちていった。
淡い輝きの照らす夜の中、いつからそうしていたのかフロインは瞳を開いた。
目の前の、淡く白く輝く柳の下に、岩に腰掛けているその人がいる。
金色のオオタカの翼を背負った、仮面の騎士。
「ノイン!」
フロインは泣きながら地を蹴った。風の騎士は、飛び込んでくるフロインを涼やかに微笑みながら抱き留めた。泣きじゃくる彼女の右耳に触れた彼は、壊されて消えてしまったはずの、バラの花からト音記号の揺れるピアスをフロインの耳に飾っていた。
「夢を見ていたのよ……怖い夢……あなたが、死んでしまう夢……」
「そうか。それは、恐ろしかったな。泣くな、フロイン。オレは、ここにいる……」
フロインは、座っている彼の首にすがりつきながら、顔を上げずに頷いた。秋の朝のような涼やかな風を感じる。彼の――風の騎士の風だ。ああ、彼は生きていた!と思った。
フロインは、優しく頭を撫でられながら、安心して瞳を閉じた。
フロインを取り巻く世界は、彼女の見ている世界と異なっていた。
風の騎士の服を着た骸骨が、羽根の抜け落ちて肉のなくなったオオタカの翼を生やし、フロインの頭を優しく、優しくその骨の手で撫でていた。吹きすさぶ雪の風。フロインの体を、白い雪が冷たく覆っていっていた。
太陽の城を出たノインは、一路、風の城を目指した。
オオタカの翼は風を纏わなくとも、しなやかに速く、ノインの体を風の城まで運んでくれた。
風の城の玄関ホール。天井の見えないその暗闇に向かって、規則正しく、幾本もの石の柱が立ち並んでいる。いったいどこに迷い込んだのか不安にさせる、広いホール。リティルの操る鳥達の住まいであるこの玄関ホールには、そこかしこから姿の見えない鳥達の視線が注がれる。
ノインはその玄関ホールを抜け、応接間の扉の前に立った。深呼吸して、その石の扉を押す。
「ああ?力の精霊?そういうことか。インファのヤツ、謀ったな?」
扉から数十メートル先にあるソファーに、リティルが1人でいた。インファはノインの為に、人払いしてくれていた。
「風の王、話がある」
意を決して、ノインはリティルのいるソファーまで飛んだ。
「手短にな」
リティルは、不機嫌そうに机の上の書類に目を落として、それきりノインの顔を見なかった。
「フロインのことだ。風の城に戻してやってほしい」
「ケンカでもしたのかよ?」
リティルは顔を上げない。
「フロインが、気落ちしている。彼女は貴殿の守護女神だ。貴殿と離れているせいだ」
「却下」
リティルは顔を上げないまま、短く言った。
「なぜだ!」
声を荒げたノインに、面倒くさそうにリティルは顔を上げた。
「おまえ、自分の心配しろよ。フロインがそばにいなくて、心を正常に保てるのかよ?守護女神って称号、伊達じゃないぜ?あいつはおまえを、力の精霊にしてくれる。婚姻だけじゃねーんだよ。わかったか?わかったら、帰れ」
「リティル!」
再び視線をそらそうとするリティルに、ノインは強くその名を呼んだ。リティルはジロリとノインを睨んだ。
「わからねーヤツだな。おまえ、ここへ来る前、フロインとちゃんと話てきたか?あいつと話ができてるなら、ありえねーこと、おまえしてるぜ?」
「わからないのは貴殿だ!フロインを、風の城へ戻せ!そのためならオレは――」
「その為ならオレは?オレは何だよ?婚姻の解消するって?」
「貴殿にも、愛する妻がいる。オレの想いがわかるだろう?」
「わからねーな」
ポンッと羽根ペンをぞんざいに机の上に投げて、リティルは背伸びをした。
「リティル!」
「わからねーよ。オレは、死んでも、あいつの命と婚姻を天秤にかけられたとしても、シェラとの婚姻を解消しねーよ。絶対死守だ!何が何でもオレはシェラを裏切らねーよ。魂を分け合うんだぜ?そんなホイホイ解消してたまるかよ。わかったら、フロインと納得できるまで話し合ってこいよ!」
おかしいなとリティルは思った。フロインが風の城に戻さなければならないほど、気落ちしてるって?確かに、オレに会いたいと泣いていたが、これだけしょっちゅう話していて、追い詰められているあいつに、オレが気がつかねーはずがねーんだけどなと、リティルは、内心首を傾げていた。
それに、昨日、力の精霊も引き受けてやるとフロインに話したばかりだ。もう少し待ってくれと言ったら、そんなに引き受けて大丈夫か?と慰めに行ったはずなのに、フロインの方がリティルを心配していた始末だ。追い詰められている奴が、他人を心配なんてできるわけがない。
フロインは正常だ。だのに、なぜに力の精霊は、婚姻の証まで賭けて脅迫してきてるんだ?とリティルは腑に落ちなかった。
考えられるのは、会話をしていないということだけだった。
「とにかくだ!力の精霊、こっち来て座れ。その手、放せよ?」
リティルは、フロインとの婚姻の証に、今にも外しそうな勢いで触れているノインを、ソファーに呼んだ。
こいつ、思った以上に危ういな。思いこんだら突っ走るタイプなのか?とリティルは改めてノインを観察していた。
風の騎士は、物静かだったが、言いたいことはガンガン言ってきた。織り交ぜられる個人的見解が、耳を疑う物が多く、面白い人だった。リティルは、見た目が可愛いと真顔で言われたことがあった。
フロインにもいらないことを言って、よく機嫌を損ねていたなと思い出した。それくらい、風の騎士は言葉を尽くす人だった。フロインと会話をしてないなんてあり得ないと思って、そういえばとリティルは1つ思い出した。風の騎士は、インファ以上に恋愛に疎かった。下心があることが丸わかりの精霊を追い返さず、フロインの嫉妬を買ったことがあった。怒ったフロインに何も言えず「弁解しなければ、彼女は納得しないと思いますよ?」とインファに言われて、それからだ。それから彼は言葉を尽くすようになったのだ。風の騎士は元々、無口だったんだとリティルは唐突に思い至っていた。
思いこんだら突っ走る?ああ、風の騎士も同じだった。死にそうなのに、オレを助けに穢れた川に飛び込んできたなと、リティルは思い出した。あいつも突っ走ってた。と、寂しく風の騎士を思い出してしまった。
「あのな、フロインは心配しねーでも風の城に戻すぜ?」
言いたかねーけどしかたねーなと、リティルは観念するしかなかった。力の精霊は、本当に婚姻の証を賭けてしまいそうだ。そんなことを許せば、フロインがどんなに傷つくかわかったものではない。リティルはそっと、思い出に蓋をした。
「と言うと?」
「おまえのこと、引き受けてやるって言ってるんだよ。オレの個人的な事情で、一旦ルディルに預けたんだよ。ルディルのヤツ、おまえらを扱いきれねーって不甲斐ねーこといいやがって、風の城の準備が整ったら、引き受けるつもりだったんだ」
ハアと、リティルはため息をついた。
「話しちまったらもう尻込みしててもしかたねーよな?明日から風の城に来いよ。それとも、気に入らねーか?」
「いや、願ったり叶ったりだ」
「そうかよ。だったらとっとと帰って、フロインに報告してこいよ」
リティルが顔を背けながら言い放つと、ノインはあからさまに嬉しそうに立ち上がった。
「ああ!礼を言う、風の王」
人懐っこい大型犬かよ?犬は黒いヤツがもういるから、いらねーんだけどな。と、リティルはノインの顔を見ないまま思いながら、まあ、これでいいんだよな?ノイン。と風の騎士を想っていた。
こうしてはいられない!とノインが飛び立とうとしたとき、リティルは胸を押さえ、ノインはピクッと虚空を睨んでいた。
2人が鋭く顔を見合わせたとき、机の上の水晶球が光を発した。
『婿殿!今すぐ神樹の森に来なさい!』
鹿の角を生やした貴婦人が、水晶球に映し出されていた。
「ナーガニア、どうしたんだ?」
彼女は、神樹の精霊・ナーガニア。花の姫・シェラのイシュラースでの母親で、リティルの義母に当たる精霊だ。
『フロインが、花の精霊に襲われました。大事ないと思ったのですが、起き上がらないのです』
それを聞いて飛び立とうとしたノインに、リティルは視線を向けないまま片手の平を向けた。ノインは細い糸のような風に捕らえられ、身動きが取れなくて舞い降りるしかなかった。
「リティル!」
「うるせーよ。わかった。ナーガニア、ゲート頼むな!」
足止めされたノインは抗議の声を上げたが、リティルはそれをピシャリと黙らせ、ナーガニアにゲートを頼むと立ち上がる。
「インジュ!おまえも来い!」
『はい!よくボクがいること、わかりましたねぇ』
リティルがシャンデリアを仰いで声を張ると、シャンデリアを揺らして、1羽のオウギワシが舞い降りてきた。
「インファのことだ。オレ達がケンカになったら、仲裁しろとか言われてたんだろ?」
リティルはノインにかけた糸を解きながら、何もない床の上に開いたゲートに足を向けた。
「そこまで読んでましたかぁ。リティルはすごいですねぇ」
化身を解いたインジュは、フロインが襲われたというのに、まったく危機感なくニコニコしながらリティルに続いてゲートを越えていった。ノインも急いであとを追ったのだった。
花の精霊に、フロインが遅れを取ったって?それよりどうして、神樹の森なんかにいるんだ?リティルは疑問しか湧かなかった。呼び出された?あり得ないことはないが、フロインが乗るとは思えなかった。相手は十中八九、キンモクセイだろう。フロインはもうノインと魂を分け合っている。今更略奪のしようがない。
婚姻の証は、贈られた者にしか壊せない。他の者に壊されたとしても、再生される。悪質な嫌がらせにしかならないのだ。
「フロイン!」
枯れた針葉樹の足下に、血まみれで倒れているフロインが目に入り、飛び出そうとしたノインを、リティルは手で制した。そして、インジュに頷くと、インジュは頷き返し、ゆっくりと歩みを進めた。
インジュは、倒れているフロインを見下ろした。彼女の周りの大地が、明らかに変色していた。それは、彼女の血を吸ったためではない。死に汚染され、死んでいるのだ。
「リティル!フロイン、心臓止まってますよ」
「毒か?」
「使われたみたいですけど……抜けてますねぇ。……あのぉ、このままフロインの心臓抜いちゃいません?」
インジュが死に汚染された大地を踏むと、途端に大地が息を吹き返し緑の絨毯が広がった。枯れていた針葉樹も、元通り青々と葉を茂らせた。
「オレの中に戻せてって?それすると、フロインのヤツ、2度と出てこなくなるぜ?」
リティルは1メートルくらい離れたまま、ノインを制したままインジュに答えていた。
「いいじゃないですかぁ。ついでに記憶もリセットしちゃうんです」
「へ?おまえ、思い切ったこと言うなぁ。何だよ?」
「ボク、キンモクセイが凸してきたあのあと、記憶を見に行ったんです。フロインとノインとの間に何があったのか、必要になると思ってですねぇ」
「そっか。それで?」
インジュが振り返った。そして、ノインは容赦なく睨まれた。
「非道くないですかぁ?フロイン完全に被害者ですよぉ?ノインが婚前交渉ってビックリでしたけど、フロイン、ノインの精神についた傷に気がついてました。癒やすために嫌がらなかったんです。その直後、ノイン、記憶リセットですよぉ?やられ損です。その時フロイン、ノインから婚姻の証を無断で返してもらってるわけですけど、それだって、それがノインの手元にあると、記憶のないノインが混乱しちゃうと思ってですねぇ、未来のためにだったじゃないですかぁ。そりゃ、ノインが目覚めるのを見届けに行きましたけど、覚えてないくせにピアス返せって言ったり、口説きまくったのはノインでしたよぉ?フロイン、いきなりキスされるわ、監禁されそうになるわ、散々で、ボク、ちょっと引きました」
「へえ?」
リティルはチラリとノインに、意味ありげな視線を投げた。
「いや、事実だが……すまない」
「おまえ、どうしてフロインに拘ってたんだ?」
「わからない」
「顔と体。どっちが目当てだったんだ?それとも両方かよ?」
「顔と体?確かに、美しい人だが、色香に惑ったわけでは……いや、惑ったのか?」
幸せそうに歌う彼女に、確かに魅せられていた。だが、違う。もっと、必死な何かを感じていた。ここで捕らえなければ、永遠に失ってしまう!と、彼女の事を知りもしないのに強く感じていた。あの時、目覚めたばかりで、まだ事態を正しく認識できていなかったノインは、その想いに突き動かされ流された。
「もう1度……もう1度と思った。代わりになる物を、彼女に、フロインに贈らなければならないと思った。彼女はなくしてしまったからと」
フロインが、風の騎士にもらったピアスを壊したこと、覚えてるのか?とリティルは思った。あいつ、やっぱりショックだったんだなと、リティルは苦しく思った。
本物の想いだったから残ったんだ。そうフロインに言ったのはリティルだったが、そうなんだな?と残してくれた風の騎士にリティルは感謝した。
「ノイン、フロインのこと、好きなんです?」
「愛している」
「即答ごちそうさまですぅ!って事なんですけど、キンモクセイ、それでも邪魔したいです?」
キンモクセイ?ノインは、インジュが声を投げた方にある1本の木を見やった。その針葉樹の幹に、スジグロカバマダラが留まっていた。その蝶がフワリと動き、辺りをキンモクセイの香りが包んだかと思うと、キンモクセイが姿を現した。
「キンモクセイ……君が、本当に彼女を?」
ノインは信じられないと言いたげだったが、インジュとリティルはため息を付いた。
「キンモクセイ、フロインは壊したくて婚姻の証壊したわけじゃないです。風の騎士が死にそうだったの、あなた知ってましたよねぇ?あの人、最後の最後まで、死ぬ気でしたよぉ。フロインはそれをずっと自分の霊力で食い止めて、もうギリギリってところで、婚姻の証を賭けたんです。フロインが婚姻の証を放棄したことが、あの人の心を動かして、力の精霊へ転成したんですよぉ?今も同じです。フロインにあるのは献身です。ノインはただ、搾取してるだけです!」
「言い切ったな?」と苦笑いするリティルにインジュは「言い切ります。ボク、これでも怒ってるんで」と返した。
「あとは、ノイン、お願いしますよぉ?ボク達、フロインを助けなくちゃならないので先に帰ります」
インジュがフロインを抱き上げると、枯れた花冠がボロボロと地に落ちた。死んだ大地は治ったが、花冠だけは枯れたままだった。
リティルはそれを丁寧に拾い集めると、インジュを促して、ナーガニアが開いたままにしておいてくれたゲートを通って帰っていった。
ノインの隣を通り抜けたインジュに抱かれていたフロインの顔は、蒼白で、血の通わない陶器の人形のようだった。白い服は彼女自身の血で汚れ、肌を汚した血はすでに固まっていた。その美しい髪にも、血が固まり、彼女の髪に飾られていた花たちがすべて枯れていた。
「キンモクセイ、申し開きは聞かない。聞きたくない」
「ノイン……あなたが好きだったわ」
「であるなら、オレを狙うべきだった。君の心に、オレは今の今まで気がついていなかった。オレにとって女性は、フロインだけだ。愛の言葉も欲望も、彼女にしか注げない」
「知っていたわ。でも、止められなかった。ノイン、終わらせて、あなたの手で」
キンモクセイは泣きながら笑っていた。ノインは大剣を抜いた。そして、軽く振るう。
キンモクセイを、突風が襲い、彼女の髪に咲いた花が千切れるように散っていった。
『ああ、ありがとう……ノイン……これで、忘れられる……』
花の精霊は儚い。散ることと咲くことを繰り返し、記憶は、散るとなくなる。次に咲くキンモクセイに、ノインとフロインの記憶は残らない。
ノインは、消えていくキンモクセイを最後まで見送らずに、踵を返した。
風の城に担ぎ込まれたフロインの翼は、漆黒に変わっていた。
彼女の体は、鳥籠と呼ばれる、温室に置かれることになった。明るい日が磨りガラスを通して差し込む、様々な花色のクレマチスが咲き乱れる場所だ。
天蓋で日を遮ったベッドに寝かされたフロインの心臓は、依然として動き出さなかった。
原初の風は、壊れることのない精霊の至宝だ。その宝石から具現化しているフロインは、死という概念のない精霊だった。故に、死ねないのだ。
「これは、死んでいますね」
専門家ではないといいながら、フロインを診たインファは短くそう感想を述べた。死を導く力を持つインファでさえ、フロインに触れた手が茶色っぽく死人の色に変色した。
そのインファの手は、フロインから離れるとスウッと元に戻っていった。
「そうなんですよぉ。フロインは死なない精霊なんですけどねぇ、死んでるんです。フロインの心、どこ行っちゃったんです?」
「そりゃ心が行方不明になったら、行くところは1つだな」
「ルキルースか」
「さすがにわかるよな?おまえでも。よし!迎えに行くぜ?力の精霊!」
「ノイン、オレが行っていいのか?って言うのはなしですよぉ?」
インジュが完璧に口調を真似て先手を打った。
「そうですね。ここでフロインを諦めたら、さすがのオレも怒りますよ?落ち込んでもいいですけど、浸るのはあとにしてください。フロインも産む力を持つ精霊です。その精霊が反属性の死を呼んでいます。これは、一刻の猶予もありませんよ?」
「フロインは今、どういう状態だと?」
「そうですねぇ。自殺しようとしてるってところですかねぇ。フロインの本体はリティルの中にある原初の風なんです。フロインはそれからクローンを作って、精霊に転成したんですねぇ。ので、リティルが原初の風を捨てちゃわない限り、肉体が死ぬことはないです。だからフロインは、心を殺すことを選んだってところですねぇ」
「何があったのかは、聞いてやらねーよ。とにかく行くぜ?ルキルースは、オレやインファでも危険な場所だ。気張れよ?力の精霊」
「了解した」
インファとリティルからは、ノインを責めるような感情は微塵も感じられなかった。だが、インジュだけは抑えてはいるようだが隠さない怒りを発していた。
インジュは、眠るフロインに視線を合わせたノインに、すかさず「近づいちゃダメです!」と言ってきた。それは、物理的に被害が出るからという意味と、近づいてほしくないという意思を感じた。そして彼は「フロインを起こしたら、許してあげます!」と言った。
ノインには、フロインがなぜ神樹の森に1人でいたのか、どんなに考えてもわからなかった。リティルや雷帝親子にはわかるのだろうか。怒っているインジュは、その理由がわかるから怒っているのだろうか。
ノインは、キンモクセイの心にすら気がついていなかった。フロインに贈る婚姻の証を何にするのかと聞いてくる彼女は、祝福してくれていると思っていた。まさか、かすめ取ろうと考えていたとは思いもよらなかった。
同じく、婚姻の証を何にするのかと聞いてきたスワロメイラと、何が違ったのか、ノインにはわからない。だが、確かに、レシェラはキンモクセイをよくは思っていず、スワロメイラに対しては警戒心がなかった。2人は、何かが違ったのだ。
ピアスの騒動のあと、キンモクセイは来なくなった。当たり前と言えば当たり前なのだが、ノインも問いただすことはなかった。フロインが、もういいと言ったからだ。
話をするべきだったのか?だが、いったい何を話せばいいのかわからないノインには、できることはなかった。
風の城の中庭にある、バードバスにあるゲートを通り、ルキルースの断崖の城に足を踏み入れると、いつもは玉座に寝そべっている幻夢帝・ルキが、珍しく起きていた。
リティルとほぼ同じ背の彼は、手足である宝石三姉妹のエネルフィネラとスワロメイラと共にいた。
「やあ、来ると思ってたよ」
ルキは、ニンマリと心の読めない笑みを浮かべた。
「ルキ、悪いな」
「ううん。フロインのことだよね?居場所は突き止めてるよ。でも、ちょっと厄介かもね」
リティルがすまなさそうに詫びると、ルキは首を横に振った。そして、笑みを収めると彼にしては真剣な瞳をしていた。
「もの凄い数のオオカミと、オオタカが守ってるのよ」
エネルフィネラがゲンナリした顔で、首を竦めた。
「ん?オオカミとオオタカ?……オレか!」
「象徴と言ったところね。1頭と1羽1組で、防御は大したことないけど、連携がやっかいね。あら、まんまリティル様なのね?」
大げさに目を見張るエネルフィネラは、演技ではなくリティルを責めていることがわかる。
「エネル……嫌みが凄いぜ?」
「ごめんあそばせ。わたしの糸も使い物にならなくて、捨て身で行って見てきたけれど、その先がなかなか凄いわよ」
エネルフィネラは、朱を引いた唇を歪めて続き、聞きたい?ともったいぶった。
「フロイン、いるんだよな?」
「ええ。一緒に骸骨の騎士様がいるわね」
「骸骨の騎士?」
リティルの疑問に答えたのは、スワロメイラだった。
「あの服装は、間違いなくノインよ。ねえ、リティル、何があったのよぉ?ノイン、ここにいるじゃない。なのに、フロインなんで、骸骨に縋ってるのよ?壊したんだっけ?あのピアスも元に戻ってるし」
「ピアスが?……その骸骨の騎士は、フロインの産み出した産物なのか?」
「違うね。あれは、消された記憶の残りかすだね。風の騎士・ノインだよ」
「ノインが……フロインを捕らえてる?力の精霊、おまえ、何したんだよ?フロインに何言ったんだ?」
リティルの問いに、ノインは困惑していた。
「何も。風の城に、直談判しに行くと言っただけだ」
「記憶も見たけど、確かにノインはそれだけしか言ってなかったよ。そのあとのフロインの様子がちょっとおかしくて、いきなりイヤだって叫んで飛び出してったんだ。ノインを風の城に行かせないようにしてるみたいだったし、リティル、ノインと何かあったのかな?」
ルキは、君じゃないの?とリティルを伺った。リティルは「オレ?」と狐につままれたような顔をした。
「何かあるほど会ってねーよ。こいつとは」
ノインの顔を見ずに彼を指さすリティルに、スワロメイラはからかうような視線を向けた。
「リティル、そろそろノインのこと許してあげたら?大人げないわよぉ?」
「許すも何も……心の折り合いがつかねーんだよ。オレが望んだことなのに、どうして、忘れたんだよ!って想いが消えねーんだ。ああああああああ!くそ!バカノイン!行ってやるよ!それで、フロイン奪い返してやる!」
案内しろよ!と、リティルは憤りながらスワロメイラの腕を引っ張った。「しかたないわねぇ」とスワロメイラは笑いながら、先に歩き始めた。
「風の王は、オレが忘れたことを怒っていたのか?」
「かもね。風の騎士なら、心のどっかで覚えててくれるって期待したんだね。リティルと、インファ、風の騎士で、風の城は動いてたからね」
ボクも寂しいよ。ルキは思ったが口にはしなかった。ルキは、幻夢帝ということもあったが、記憶を完全に消去したノインと会うのは、これが初めてだった。人づてに、ノインはノインだよと聞いてはいたが、記憶がないのに?とそんなわけないと思っていた。
「リティル、今まで世話になった。さらばだ。オレの、生涯ただ1人の主君」
ルキは、ノインを見上げると、風の騎士の最後の言葉を言ってみた。
わかっていたことだが、ノインからは何の反応も読み取れなかった。
「この言葉に、風の騎士の心がすべて詰まってると思うね。だからリティルは、君に記憶を取り戻させるわけにはいかないんだ」
ノインは、躊躇うような思案するような素振りを見せたが、意を決したようにルキに視線を合わせてきた。
「……消えていない。と、言ったら、リティルは喜ぶのだろうか?それとも、苦悩するのだろうか?」
風の騎士だった頃には、見たことのない表情だった。ノインは自信なさげで、仮面をつけていてもそうとわかる、情けない顔をしていた。
「消えてないって、覚えてるって事?」
そんなはずないと、ルキは猫の瞳を見開いた。
「覚えていない。思い出は、オレの中には何もない。レジーナのくれたこの首飾りに、涼やかな風のぬくもりを感じるのみだ。だが、心が何かを訴える」
ノインは、細いチェーンの首飾りを服の下から引っ張り出した。オオタカの羽根を模した金色の飾りが揺れていた。
「幻夢帝・ルキ、1つ尋ねたい。貴殿は、オレの友人なのか?イシュラースを二分する王と、王の配下でしかない風の騎士が?とも思うが、貴殿には、そう表現することが妥当な感情を感じる」
ルキは「え?」と再び瞳を見開いた。そしてすぐ取り繕った。
「フ、フン!君はボクの下僕だったよ!友人?そんなはずないじゃないか」
言い捨てて、全力でそっぽを向いたが、ルキは我慢できずに恐る恐るノインを見た。ノインはそらさない瞳で、ルキを見ていた。
「フッ、そうか」
涼やかに微笑んだノインに、ルキは風の騎士を信じられない心持ちでしばし見つめてしまった。
「ボ、ボクのことより、リティルの事だよ!消えてないって、何なのさ?」
「案じているらしい感情を僅かに感じる。不確かであやふやな、想いと言っていいのかさえわからない。それに、リティルの足下にも及ばないオレでは、案じるなどおこがましい」
「心配……ノイン……君は、ノインなんだ……」
「ルキ?オレは君を傷つけるようなことを言ってしまったのか?」
泣き出してしまったルキに、ノインはオロオロした。ルキはそんなノインの腰に抱きついた。それには、ますますノインは困惑したが、リティルがフロインにそうしていたように、躊躇いがちにルキの頭を、その大きな手で撫でてみた。
「風の騎士は、心配してること悟らせないように隠しながら、リティルの事ずっと心配してたんだ。リティルの事だけじゃない。風の騎士はみんなのことを心配してた。知識と経験が、みんなの危うさを風の騎士に気づかせていたんだよね。ボクも、たくさん助けてもらったよ。言いたいことはズケズケ言うしね、あいつ。ボクなんて、守りにくい!って何度言われたかしれないよ。大昔、フロインと結婚したら盾として使ってあげるよ!って売り言葉に買い言葉で言ったことあったっけ。そしたらホントに結婚しちゃうし、面白い人だったね」
ルキはノインから離れながら、鼻を啜った。
「ボクも君に、風の騎士に戻ってほしいとは思わない。だけど、その心配する心は、風の騎士が遺したものだ。リティル、君を風の城に引き取るんだってね?心配だ、心配だって口にすればいいよ。思った事、言えばいいよ。上も下も関係ないんだ。リティルはたぶん、生意気だって君に言うと思うよ?そしたら、笑ってやればいいよ。危ういおまえが悪い!って」
「了解した。助言痛み入る。ルキ、オレはフロインを取り戻せるだろうか?」
「風の騎士が、ただフロインを捕らえてるとは思えないよ。彼には考えがあるはずだよ。君にはわかってるんじゃない?大丈夫、彼は味方だよ。いつだってね」
そう言ってルキは、いつもの心の読めない笑みでニンマリと笑うと、ノインの背を押した。
ルキルースは想いが形作る夢の国。
この国は、部屋という小さな世界が繋がってできている。部屋は、強い想いによって作られ、想いの消失と共に消えてなくなる。
フロインのいる部屋は、産み出されたばかりの新しい部屋だった。スワロメイラは、ノインが追いついてくるのを待って、口を開いた。
「凍った心の間。そんな名前がついてるわね」
その扉は、意外にも断崖の城の廊下にあった。
骸骨に抱かれる女性のフレスコ画が描かれた、四角い扉だった。
骸骨に後ろから抱きすくめられる女性は、微笑みながら安心しきった顔で瞳を閉じ、胸の前にあるその骨の手に、そっと片手を添えていた。
「ねえ、本当に2人で大丈夫?」
「ああ、オレとこいつじゃなきゃダメなんだ。風の騎士がいるなら、尚更な」
「風の騎士と、話なんてできないかもよぉ?」
「戦いにしかならなくても、風の騎士に会う、最後のチャンスだ。あいつを……眠らせてくるよ。オレは風の王だ。あいつに恥じない、王でいなくちゃな」
王でって……ノインは、何の肩書きもないリティルを護るためにそばにいたんじゃなかったの?とスワロメイラは、危うさを感じたが、風の王・リティルに逆らえるはずもなく、引き下がるしかなかった。ノインだったら「意気込むな」と1言言っていただろう。
「複雑だ」
風の騎士を思っていたスワロメイラは、彼と同じ声に顔を上げた。
「オレは風の騎士でもあるというのに、彼と戦わなければならないとは、複雑だ」
行きたくないと態度からにじみ出ていた。
「おまえは風の騎士じゃねーよ。力の精霊だろ?バカなこと言ってねーで、ほら、行くぜ?」
重ねてんなよ!とリティルは言い捨てると、サッサと扉を開いて中へ入って行ってしまった。
「ノイン?」
「なんだ?ルキに言いたいことを言えと言われた。実践したまでだ。行ってくる」
そう言ってノインは、リティルのあとを追って行った。
「……風の騎士だ、力の精霊だって、やっぱりバカバカしいわよ。ノイン……なくしたのは、本当に、記憶だけなのねぇ。リティル……早く気がついてあげなさいよね!」
ノインの発言で、リティルらしさを失いかけたリティルが持ち直したのを感じた。風の騎士も、常にリティルを護るという気持ちでいたわけではない。自然体で騎士をやっていた。リティルはただ、彼の率直な言葉に勝手に救われていただけだ。
知識や技術は、あとからいくらでも身につけられる。数年、いやもっと早く、彼は風の騎士と遜色なくなるだろう。そして、いつの間にか風の騎士と同じように、リティルにツッコミを入れているのだろうなと思えた。
「フロイン、リティル、ノインはちゃんと帰ってきてくれたわよ?」
スワロメイラは、軽やかな足取りで姉と幻夢帝の待つ玉座の間へ引き返したのだった。
部屋の中は、極寒の平原だった。
吹雪が視界を奪い、その中に、殺気立った気配が無数にあった。
「風の騎士かフロイン、どっちの想いなんだ?2人にこんな拒絶されるなんて、哀しい限りだぜ」
「拒絶なのか?オレにはそうは思えない」
「おまえ、この殺気感じてねーのかよ?」
「襲ってくる気配がない。威嚇なのではないのか?」
「襲ってこねーのは、オレ達がまだテリトリーに入ってねーからじゃねーか?」
そう言って、リティルは不用意に歩き始めた。ザワッと、殺気が膨れ上がる。
「オレとやるか?いいぜ。かかって来いよ!」
いきなり宣戦布告したリティルは、両手に2本のショートソードを抜き放った。
「自分の身は自分で守れよ?力の精霊!」
翼を広げて切り込んだリティルが、オオカミとオオタカの群れを一手に引き受けようとしていることは、さすがにノインにもわかった。
無茶苦茶だ!とギョッとしたノインは、慌てて大剣を抜くとリティルのあとを追って飛び立った。
鋭く切り込むリティルに、オオカミとオオタカが群がったが、彼には爪も牙も届かずに弾かれていた。ノインが目を凝らすと、リティルの周りに薄ら球体のような物が見えた。あれは……針?雪の当たった箇所だけ、一瞬形が見える。リティルの周りに細く細かい針のような風が動いていた。それが盾となって、彼等の攻撃を防いでいた。しかし、あれだけの数だ、風の補充が間に合わない。風の針は動き続けるが、すでに穴が空き始めていた。
このオオカミとオオタカは、戦略も心得ているらしい。リティルの風の針の穴を見つけたらしく、その穴をこじ開けようと、1点を目指して動き始めた。
「リティル!」
「ああ?なんだよ?」
大剣を振るい、リティルの背後を守ったノインは、背中を預けた。
「危うくて見ていられない」
「これくらい引き受けてやるぜ?行けよ、力の精霊」
風の針は穴だらけだ、その穴を通り抜けたオオタカを、リティルは切り伏せた。
「貴殿が、いや、おまえを置いては行かない」
「大丈夫だって、言ってるだろ?」
「目障りなのは謝るが、この先にいるのは風の騎士なのだろう?オレが試されているのなら、おまえを無傷で連れていく!」
閃いた大剣に、炎のような闘気が宿る。振り抜いたその軌跡に、炎の波が生まれてオオカミとオオタカを飲み込んだ。
「はは、騎士気取りかよ?力の精霊。じゃあ、オレに合わせてみろよ!」
おまえに、ノインの代わりは務まらねーよ!リティルはそれを証明したかった。少しでも多く、彼との違いを見つけたかった。そうしなければ、力の精霊と一緒にはいられないと、そう思っていた。
リティルは、風の騎士と力の精霊を重ねたくなかった。同じだと、思ってはいけないと思っていた。
ノインは死んだ。力の精霊の中に、ノインを見てはいけないと思っていた。
ノインにもう、甘えてはいけないと思っていた。
力の精霊として、転成してくれたノインを、惑わせたくなかった。
本当は、力の精霊を、風の城に置いておきたくない。遠く、関わらないでほしい。
リティルと関わらない場所で、幸せに生きてほしい。
やっと、やっと、お守りから解放されたのだ。自由に生きてほしい。
フロインのことは、本物の想いだった。だから、理由などなくても再び選べた。
だが、リティルを守ってきた彼の想いは?やはり、騎士という精霊の理が植え付けたものだった。力の精霊が、関わってこなかったことで、リティルは確信していた。
あいつの中に、オレはいない。頑なに騎士に拘ったのは、想いが消えることを、知っていたからだと、リティルは思っていた。それが本当のノインなら、それでいいとさえ。
関わるな。関わってほしくない。一家の肖像画から彼の姿を消しても、オレの心にノインがいる限り、同じ姿のおまえに、期待する。
危ういオレを、叱ってくれるんじゃないか?
無駄に追い詰められるオレを「しっかりしないか!」って、引き揚げてくれるんじゃないかって!
おまえの守りはもう、必要ないって言いてーけど、オレの成長しない精神がそれを許してくれねーんだ。
辛い……辛いんだ。おまえを頼れないことが、寂しいんだ!
ノイン……オレは、おまえの中から、消えたくなかったんだ!それが、今更わかったよ。
「っ!」
オオタカに攻撃を誘われ、乗ってしまったリティルの伸びきった腕に、オオカミが齧り付いた。そして、腕を容易く折られていた。
「リティル!」
リティルの目の前を、炎が走り、背中がノインの胸に触れていた。後ろから抱きすくめられるような恰好になり、リティルは思わず暴れていた。
「こら!暴れるヤツがあるか!短時間なら持ちこたえられる!その間に腕を治せ!」
大剣を水平に構えたノインの周りに、キラキラ輝く金色の風が渦巻いた。フロインの風を使った風の障壁だった。風の障壁の外で、オオカミとオオタカが壊そうと体当たりを繰り返していた。
「視界が悪い……あとどれくらい進めばいいのか、先が見えないのは辛いな」
そもそも、方向は合っているのか?とノインは風の障壁を維持しながら、辺りを見回した。
「……見えるぜ?」
「本当か?どこへ向かえばいい?」
「目の前だ」
リティルの目は、確かに真っ直ぐ前を凝視していた。ノインも目を凝らしてみたが、暗闇に吹き荒れる白い雪が見えるばかりだった。
「試されてるっていったよな?ホントにそうなのかもな。オレ、小っこいだろ?風の騎士はよくこうやって、庇ってくれたんだ」
今までは見えなかった。暗闇の吹雪の中、右も左もわからなかった。なのに、ノインの腕の中なら、進むべき道がハッキリ見えた。まるで、受け入れろと言われているようだった。
――ノイン、おまえ、オレに期待しすぎじゃねーのか?
力の精霊を導く自信は、今もリティルにはない。風の騎士という存在は、リティルにとってそれほどまで大きかった。大きすぎた彼と同じ姿で、声で、物の考え方でいる力の精霊を、彼は彼だと言い切ってやることができない。できねーよ!とリティルは瞼の裏にしかいなくなってしまった風の騎士の背中に叫んでいた。
「そうか。リティル、告げるべきではないのかもしれないが、オレの中には、漠然とした想いのようなモノがある」
リティルは、ノインを見上げた。チラリと、ノインは視線を落としてきた。
2人の視線は、今初めて、完全に交わった。
「案じている心。おまえの戦い方を見て、その意味がやっとわかった。おまえの戦い方は心臓に悪い。騎士でなくとも、心配するが、な」
案じて……?心配する?ノインがオレを?
「心配?オレ、風の騎士に心配されてねーよ?怒られてばっかりだったぜ?ああ、でも心配してたから怒ってたのか?あいつ。怪我して帰ると、無駄に傷を負うなって毎回毎回、口うるさかったぜ」
「言いたくなる気持ちがわかる。風の王、油断がすぎる」
利き腕を折られるヤツがあるか!とノインは呆れたため息をついた。
「はは、耳が痛てーな。よし!逃げ切るぜ?来い!」
リティルはスルリと抜け出ると、ノインの腕を掴み、グイッと引いた。腕を引かれたノインの手が大剣から外れ、風の障壁が解ける。その隙を見逃さず、オオカミとオオタカが襲いかかってきた。
リティルは片手で風を操ると、全方位に風を放っていた。殺傷能力はないが、強烈な風にオオカミとオオタカたちは弾き飛ばされていた。その隙に、ノインの腕を引いたままリティルは輝く柳の生えたそこへ向かって飛んでいた。
リティルの手には太いノインの腕が滑り、2人は互いの手首をしっかりと握り合った。
前を飛ぶ小柄なその背中を見ながら、ノインは暗闇を迷わず進む、その眩しい翼に瞳を細めていた。
雄々しく飛ぶ彼の小さな手のぬくもりに、ノインの中の、像を結べなかった想いが丸く淡く輝きながら、その形を結んでいった。
――リティル、オレはおまえが大切だ……
言ってはいけないと思った。これを言ってしまったら、リティルが守ろうとしてくれているモノを、壊してしまうと思った。
ルキに、言いたいことは口にしろと言われたが、伝えていいのかわからない。
力の精霊であるオレが、持っていていいのか?とも思えた。風の王が世界に仇なしたとき、太陽王の剣として、彼を討たねばならないというのに……。
リティルの翼が止まる。風を使って空中に留まったリティルの背中が、緊張しているのが伝わってきた。
緩く吹く雪を纏う風の向こう、雪に埋もれた柳の木の下に、彼等はいた。
骸骨と成り果てた風の騎士と、その膝に縋っているフロインの姿。
ルキは、風の騎士は味方だと言ったが、フロインの頭を撫でるその姿は、ノインには受け入れがたいくらい異様に映っていた。
「ノイン」
リティルの声に、ノインは我に返った。彼の呼んだ名が、どちらに向けられたものなのか、わからなかった。彼が、掴んだ手に力を込めてくれなければ、わからなかった。
「ああ、どうする?リティル」
こちらを振り仰いだリティルが、フッと笑った。
「オオカミとオオタカが入れねーように結界張ってやる。風の騎士からフロインもぎ取れよ?」
「争えと?勝てる気がしない」
素直に胸中を吐露するノインに、リティルは思わず笑ってしまった。
「ハハハ!あいつは手強いぜ?けど、今生きてるのはおまえだろ?頑張れよ、ノイン」
そう言ってリティルは、迫り来るオオカミとオオタカの群れと対峙した。金色の風が壁となって、柳の木の周辺を覆った。
――父さんは、防御魔法が壊滅的に苦手です
唐突にインファの声が脳裏に蘇った。急がなければ、リティルはまた、あの大群を1人で引き受けてしまう。ノインは、リティルに名を呼んでもらえた余韻に浸る暇もなく、柳の木目掛けて急降下して行ったのだった。
雪の積もった大地に降り立つと、あれだけ吹雪いていたのが嘘のように、風が止んでいた。チラチラと降ってくる粉雪。輝くような柳の木には、雪が積もってどこからかの光を反射して輝いていた。
ノインは、足をなかなか踏み出せなかった。今、目の前に見えている光景が、とても幸せそうで、壊しがたかった。
柳の木の下の岩に腰を下ろした風の騎士は、肉を纏い、その背のオオタカの翼は金色をしていた。
愛しそうに、膝に縋るフロインの頭を撫でる彼の瞳に、彼女に対する深い愛情を感じた。
ふと、騎士の手が止まる。そして彼は、ゆっくりと顔を上げた。翼の色以外、ノインと寸分変わらない彼――しかし、その瞳の落ち着きに、勝てないと、ノインは思ってしまった。
撫でる手が止まったためだろう。フロインが顔を上げた。そして、騎士を見上げて、騎士の視線を辿り、こちらに視線を向けた。
「ノイン?」
名を呼んでくれるとは思わなかった。
「フロイン、迎えに来た」
迎えと聞いて、フロインは首を傾げた。その右耳で、見覚えのないピアスが揺れた。
『フロイン、君は帰らなければならない』
風の騎士が声を発した。声に、フロインは座ったまま騎士を見上げた。状況が理解できていないようで、彼女の瞳は困惑していた。
『思い出せ。君が、ここへ来てしまったときのことを』
優しく、落ち着いた低い声で、騎士が語りかけた。騎士を見つめていたフロインの瞳が、恐怖に見開かれていった。
「イヤ……わたし……イヤよ!」
フロインは目をつむり耳を塞ぐと、頭を激しく振った。そんなフロインの腕を、風の騎士は掴んだ。そして、こちらを向かせる。
『フロイン、オレは朽ち果てる。オレのすべてを、消化しやすいように加工して、残した。ここにいるオレは、レジーナに消された記憶の、消え残った残滓にすぎない』
フロインは瞳を見開いて、両手で口を覆った。切なそうに微笑んだ騎士の姿が、骸骨に変わっていく。
「ノイン!ノイン!イヤ!ああああああ!イヤ!」
骨となり果てた風の騎士を、フロインは泣きながら抱きしめた。そんな、すがりつくような、ここへ、繋ぎ止めようとするような彼女を、騎士の骨の腕がそっと抱きしめた。
「ノイン!わたしは間違ってしまった……!あなたからもらった魂を、わたし、わたしは、壊してしまった!生きていてくれさえすれば、それでいいと思ったのよ!未来のことなど、何も!」
『未来は繋がった。君の腕に抱かれて死ぬのも悪くないと、思っていたが、それを許さなかった君の手で、オレの未来は守られた』
騎士の言葉に、フロインが顔を上げた。涙は止めどなく、彼女の頬を濡らしていた。
「けれども!あなたは、1番大事だった心を、失ってしまった……!あなたが、風の騎士に拘った理由よ!あなたは、リティルの下へ帰りたいと、その願いのために命を長らえようとしていたのに!わたしはあのとき、あなたの魂を殺したのよ!」
――フロインの1番はリティルよ。騎士夫婦はね、2人ともリティルが1番だったのよ
スワロメイラが暴露した言葉が、ノインの耳に蘇った。
「あなたが選ぶべきは、わたしじゃない……!わたしは……!リティルとあなたの絆を守りたかったのよ!だから……あなたのくれた魂を賭けたの!あなたの転成の対価になればと。あなたは、リティルとの絆は歪んでいると言った。リティルも、なくなるならそれが本当のあなたなのだと言ったわ!けれども……その願いを失ったら、あなたはあなたでなくなってしまう!」
『失うなら、それは偽物だったということだ。オレは、オレだ。転成で本質が歪められた例はない』
その言葉は凪いでいて、感情を感じなかった。骨となってしまったその顔からも、もう、どんな気持ちで言った言葉なのか、読み取れはしなかった。
「わたしは!同じ心を持つあなただから、愛せたのよ!守護鳥のわたしは、あなたの強さに憧れて、リティルを守るにはあなたを守ればいいのだと思ったの。インジュが教えてくれた心の形……それを知って、それを注ぐべき相手があなたならばいいと思ったのよ。ノイン……わたしは……あなたを愛していたのかしら……?」
あなたの魂を壊してしまったわたしは、愛していたと言えるのかしら?フロインは、真っ直ぐに風の騎士を見ていた。
そんなに真っ直ぐに見られるモノなのか?否定か肯定か。恐ろしくはないのか?と、ノインは潔く刃の前へその喉を晒すようなフロインの姿を見つめていた。
『かまわない。その心は、見返りを求めるモノではない。君の注いでくれた命に、報いたいと思っただけだ。オレの心も、愛なのかと問われると甚だ疑問だ。だが、愛していると言う以外に、この心を表す言葉を知らない』
彼の言葉に、本当か?とノインは疑問に思った。この心にあるものは、確かにフロインという女性に対する情だ。この心は、おまえが残したモノではないのか?と風の騎士を見やった。
「ノイン……やめて……あなたは、わたしを……」
触れられないから言葉責めだったと、フロインから聞いたのだがな。決定的なことを言わない風の騎士に、ノインは、なるほど、オレに言わせたいのか?と察した。
「愛している。そして、オレはリティルを、大切に思っている」
風の騎士の言葉の続きを受け取ったようなノインの言葉に、フロインは騎士から視線をこちらに向けた。
「消えていない。少しなのか、大幅なのかはわからないが、想いの形が変わっただけだ。君とリティル、オレには思う土俵が違っていて、どちらが大切なのか比べられない。だが、オレがリティルを裏切ることはない。説得力はないな。リティルとはまだ、まともに話すことすらできないのだからな。風の騎士、貴殿が、目覚めるオレの混乱を、最小限に留めようと努力してくれた結果なのだろう?」
『オレが死ねば、リティルを壊してしまう可能性があった。だが、風の騎士を生きながらえさせることができないと悟ったとき、命を繋ぐことと死、どちらがリティルの心に負担が少ないのかを考えなければならなくなってしまった』
苦渋の選択だったと言ってのける彼は、オレと同一なのか?と、生き物としての理はどうした?と思ってしまった。
「冷静すぎて、精神状態を疑う。オレなら迷わず生きる方を選ぶ。生きようとすることは、生命の理ではないのか?」
と、口にしてしまい、こういうところが風の騎士とオレとの違いなのだと、リティルとフロインに思われていたとしたら、決定的になってしまったのでは?と瞬間過ったが、口から出てしまったものはもうなかったことにはならない。
「そうよノイン!生きていなければリティルを守れないのよ?転成して守る方法を探してほしかったわ」
よかった。死などあり得ない!と憤ったフロインに、ノインは安堵した。
『フッハハハハ!主君を最優先に考えることは、騎士の理だ。だが、リティルは理の外にいる者だ。オレ達の押し問答、見てみろ。リティルは平気で理を砕きに来る。根負けしそうになったオレにトドメを刺したのは、フロイン、君だった。婚姻の証を、目の前で握り潰された。さすがに、受け入れがたかった』
「投げやりの転成だったと?」
それはまた……らしくない。
『ある意味な。おまえも、リティルとフロインのそばにいるのならば、覚悟した方がいい。死も生も、彼等の手の内だ。論理も通じず、行き当たりばったりだ。危ういことこの上ない』
「ああ、インファが苦労しているようだ」
『相棒は苦労を苦労と思っていない。彼の生きがいだ』
わかるような気がした。疲れると言いながら、インファはいつも楽しそうに笑っている。
『フロイン、体に戻れ。風の騎士を、君は救った。1つ意地悪な細工をしたが、君は癒やしてくれただろう?』
「!ノイン……婚前交渉になってしまったわ。なぜあんなことをしたの?」
『そうか、婚姻前になってしまったか。それは予想外だ。君には拒まれ続けた。君は、オレに欲望がないと思っていたのか?』
「え?け、けれども、わたしは精霊獣で……」
『あれだけ具現化できていた。行為の間くらい保てたはずだ』
「ノ、ノイン……」
『オレが、君を手放せるはずがない。この想いは、誰にも奪わせない。フロイン、体に戻れ。オレは来た。見返りは要らないと言ったが、オレの想いに、報いてくれ』
フロインは、涙を拭くと頷いた。そして、1度、骨になってしまった風の騎士を抱きしめた。彼の胸から離れると、フロインは自らの足で、ノインの前に立ったのだった。
「わたしはこの通り、夫のあなたよりリティルが1番な薄情な女よ。それでも、もう1度あなたはわたしを選ぶの?」
「今更だ。オレの想いは変わらない。フロイン、帰ろう。オレはオレだ。重ねる必要はない。記憶は失ったが、オレはノインだ」
「ノイン……ごめんなさい……彷徨ってしまって……」
「いいや。オレも言葉が足りなかった。すまない。リティルを覚えている。だが、言えなかった」
ノインとフロインは、ギュッと強く抱きしめ合った。
「ノイン、このピアス、持っていくことはできるか?」
『おまえが預かって、体に戻ったフロインに渡してやればいい。もう、迷ってくれるな。もう、像を結べない……』
骨となり果てた風の騎士の体が揺らめいた。彼は、死のうとするフロインの精神を繋ぎ止めるため、オレ達が来るまで時間を稼いでくれたのだと、ノインはわかった。彼と対話して、ノインは、彼はオレなのだと確信した。
フロインの壊したピアスを戻すなんて、オレが彼でもやったと思って、ノインは思わず笑ってしまった。
「ノイン?」
「ああ、すまない。フロイン、ピアスを預かる」
「持っていても、いいの?」
「言ったはずだ。オレはオレだ。君が不本意な形で失ったモノを、元に戻すことは当然だ」
何か問題が?という態度が、フロインの知っているノインその者だった。
――最初から、あなたは、あなただったのね?あなたを信じればよかっただけだったのね?
フロインは、ジッとノインを見つめていた。
「!……?どうした?」
フロインの視線に気がついたノインは、一瞬迷ったようだったが、問う方を選んでくれた。
「ノイン……おかえりなさい。言っていなかったわ」
フロインの言葉に、ノインは瞳を僅かに見開いたが、その瞳がフッと優しく微笑んだ。
「ただいま」
――やっと、帰り着けた……
そうノインが噛み締めていると、上から声が降ってきた。
「おい!おまえら手伝えよ!くそっ!バカノイン!おまえが消えたら、消えるんじゃねーのかよ!」
見上げれば、大量のオオカミとオオタカに追いかけ回されるリティルがいた。
「……ノイン、リティルに怒っているのね……」
「ああ、オレはおまえを忘れていないと、過去からの声がするようだ」
「リティルに話すの?」
「しばらくは黙っている。失っているモノもある。騎士だった頃のように、リティルを、最優先には考えてやれない。だが、そばにいる。力の精霊として」
行こう。と、ノインはフロインを促すと、その黒い翼で飛び立った。
初めて見たが、ノインは大剣を両手で軽々と操り、豪快に揺らめく陽炎でオオカミとオオタカたちを焼き尽くした。彼の言うように、失ってしまったモノも確かにある。優雅に待ち戦法だった風の騎士を思うと、豪快に切り込むその姿は別人だった。
いや、もしかすると、風の騎士は元々こんな人だったのかもしれない。遠慮なく迫ってくるノインに、最初は戸惑ったことは確かだ。けれども、風の騎士は「オレにも欲望がある」と告白してくれた。触れたくても触れられなかったのだとわかり、記憶を失い、その理由も失ったから、ノインは易々と越えられたのかな?と思うと、フロインは複雑だった。拒み続けたと言われたが、拒んで……いただろうか……?うーんと、フロインは首を傾げていた。霊力の交換は必要ないと、彼の方がそう言っていたのではなかっただろうか?
「フロイン!出口はどこだ!」
物思いにふけっていたフロインは、ノインの声で上を見上げた。
見れば、リティルが必死な顔でこちらに向かってきていた。その背後を守るノインの後ろに、大量のオオカミとオオタカが迫っていた。
出口?どこかしら?と思いながら、フロインはスッと手の平を空に向けた。キラキラ輝く金色風が解き放たれ、柳の木の周りを風の障壁が覆っていた。
「ゼエゼエ……あいつら、無尽蔵なのかよ?フロイン、出口わかるか?」
へたり込んで荒い息を吐くリティルの隣で、ノインも軽く息が上がっていた。
「ここはたぶん、ノインが作った部屋なの。だから、ノイン、どこに扉があるのかわかるのではないかしら?」
「ああ、そうか、オレか。ならば、出口はここだ」
ノインは大剣を、雪の積もった柳に向けると、下から切り上げた。
闘気が風を呼び、柳に積もった雪を吹き飛ばす。と思ったが、雪の積もった柳は、フレスコ画へと変化していた。
「行こう」
絵に悠々と向かうノインに、リティルは呆気にとられていた。扉を隠す時点で、風の騎士らしいが、それを難なく暴いたノインに驚いていた。
「リティル、彼はノインよ?」
「ああ?それはそうなんだろうけどな。……ますます自信ねーよ」
「重ねてしまえばいいのよ?ノインなのだから」
「はあ?できるわけねーだろ?オレを忘れてるヤツに!」
そう声を荒げながら、リティルは扉を開いて待っているノインのもとへ駆けていった。
その後ろ姿に苦笑しながら、フロインはそっと両手を胸に押し抱いた。
――ありがとう、ノイン……あなたを愛し続けて、よかったわ
フロインは春に咲く花のような明るい笑顔で笑うと、翼を開いて愛する2人を追いかけていったのだった。