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一章 名を呼ぶ声

 力の精霊・ノインは、皆無に等しいほど太陽の城から出ない精霊だった。

主人と認識している太陽夫妻の夫の方、夕暮れの太陽王・ルディルは、太陽でありながらフラフラと出歩く王で有名だが、奥方の夜明けの太陽女王・レシェラは滅多に城から出ない。

本来太陽とはそうしたものだが、この夕暮れの太陽王は元初代風の王という経歴を持つ、転成精霊だ。風は自由に世界を飛び回る精霊故、彼の奔放さは仕方がなかった。

ノインが、1人がけと2人がけの籐の椅子と机が、所狭しと置かれているサロンに顔を出すと、城の住人がすでに集まっていた。

「リャリス、久しぶりだな」

「あら、嫌みですの?仕方ありませんわ。今日は足止めを食っていますのよ?あなたのおかげで」

同じ城の住人でありながら、ノインはリャリスと滅多に顔を合わせない。というのは、リャリスは太陽の城に殆どいないのだ。夜には帰って来るものの、1日の殆どを風の城で過ごしていた。

久しぶりに会ったリャリスは、あからさまに不機嫌にコーヒーを飲んだ。そんなリャリスを諫めたのは、様々な花の飾りをあしらった花束のようなドレスを着た、派手な顔をした女性だった。太陽女王・レシェラだ。

「リャリス、言い出したのはあなたでしょう?ノインも来たことだし、ほらほら、聞いてみなさいよ」

レシェラの言葉に、リャリスは渋々、本当に嫌そうにノインにジロリと視線を合わせた。

「あなた、最近変な夢を見ていませんこと?誰ともわからない人と一緒に、見たこともない部屋の中にいる夢ですわ」

リャリスの言葉に、ノインはあからさまに驚いた。

「……なぜ知っている?」

「あら、対価をお支払いになるの?私から情報を引き出したいのなら、対価を支払ってくださいまし」

プイッとリャリスは視線をそらして、もう2度とノインを見なかった。そんな不機嫌すぎるリャリスの態度に、ルディルは苦笑した。

「おう、ノイン、本当なのか?そりゃ悪夢か?悪夢だったとしたら、早めに対処しねぇとなぁ?」

悪夢だと言われたらどうしようか……そう内心ドキドキしていたが、ノインは「悪夢?」と眉根を潜めた。それは、悪夢などではないと言っているかのようで、ルディルは内心ホッとした。

そんなルディルの心情が手に取るようにわかったリャリスは、しっかりしてくださいましと小さくため息を付いたのだった。

「悪夢……悪い気はしないのだが……。だが、気にはなっている。誰だがわからないが、その者がオレの名を呼ぶたび、オレは癒やされる。それと同時に放っておけない。小柄で、とても暖かい力の持ち主だ」

真剣に耳を傾けていたレシェラが「それって」と、顔を上げた。

「リティルじゃないかしら?」

ズバリ言われて、ルディルとリャリスは内心ヒヤッとしていた。ルキには仄めかせと言われていたのに……と。だが、同時に、これだけ特徴を掴んでいて、ノインはなぜ気がつかないのかと疑問に思ってしまった。

リティルとノインは、ルディルの手で1度だけ顔を合わせている。手合わせまでしていて、しかも圧勝されているというのに、風の王・リティルのことが印象にないなど、ありえない。というのは、力の精霊は本来、最強の精霊でなければならないからだ。

それは、魂を狩ることを許された風の王といえども、間違いを犯さないとも限らないからだ。力の精霊は、風の王のお目付役なのだ。

それなのに、ノインは完膚なきまでにリティルにやられている。精霊として、危機感を持たねばならない。よって、忘れられない男となっているはずだが……そこまで不抜けていやがるのか?ルディルのほうが危機感を募らせた。

風の騎士・ノインと言えば、賢者に名を連ねる、博識で聡明な精霊だった。それは、謎を謎のままにしておかない探究心の成せる技だったのだが、ノインはそんなことさえ失ってしまったのだろうか。

 レシェラの言った名に、ノインがどんな反応をするのか、ルディルは観察していた。

ルディルはその時、リティルから泣きながら「ノインを失いたくなかった!」と胸の内を吐露され、そんなに想うなら、風の城にノインを常駐させろと言ってしまい拗れてしまった。

リティルの出した答えは、風の城は一切ノインと関わらない。オレは2度とノインの名を呼ばない。というものだったのだ。

ルディルには、リティルの決断が未だに理解できない。どうみても、導きが必要な状態なのに、魂を導く風の王が、特にリティルは導くのが上手いというのに、ノインだというのに手を放すその行動に、深い理由があるのだと思うしかなかった。

 力の精霊の誕生、風の騎士の転成の顛末を知っているリャリスは、リティルの気持ちがわかるような気がした。ノインの中に”リティル”がいるのならば、あのノインならもうとっくに行動を起こしているはずなのだから。

しかし、ノインは未だ風の城に行こうとしない。それは即ち、ノインの中に”リティル”がいないということなのではないのだろうか。で、あるなら、リティルはノインを混乱させないために関わらない道を選択する。あの優しい父ならきっとそうすると、リャリスは確信していた。

だから、リティルは現に、補佐官だった風の騎士・ノインを想いながら、力の精霊・ノインを関わらないことで守っているのだ。

大切だったのだ。リティルにとってノインは、かけがえのない家族だったのだから。

「リティル?風の王・リティルか?」

ノインの答えに、あら、名前は覚えていたのですわね。と、リャリスはどこまでも冷ややかだった。忘れてしまったことは彼のせいではないが、リャリスの心はリティルに傾倒していた。そして、ノインは1つ、リャリスに嫌われる行動を取っている。

新たな道を歩み出したノインに、リャリスがとやかく言えることはないのだが、どうにもリャリスは許せなかった。

「そうよリティル!笑顔の素敵な風の王様よ!童顔で小柄で、頼もしいんだけど、ちょっと脆いとこあって放っておけないのよ。ねえ、ルディル、ノインの夢に出てくる人に、イメージピッタリよね?」

そこまで言っていませんわよ?と傍観していたリャリスは思ったが、少々強引なレシェラも、ノインとリティルが会えることを願っているのだなと感じた。

「あ?ああ、そうだなー」

ルディルははぐらかすように明後日の方を見た。リャリスは、頼りない王の態度に、ハアとため息をついた。見た目も精霊的年齢も、リティルよりも格段に上なのに、どうしてこう頼りないのだろうか。

 それよりリャリスは、ノインに突きつけたかった事があった。

「あなた、お父様に嫌われていますわよね?あの大らかで、お優しいお父様が出禁にするなんて、何をしでかしたんですの?」

1度だけ、太陽の城の赴いたリティルに何があったのか、本人に直接聞くわけにもいかず、ただ、何かあったことだけは一家全員が察した。

風の王妃・シェラと息子で副官の雷帝・インファが、何も聞かずリティルを労るように慰めていた様が蘇る。あの時、シェラとインファは太陽の城から帰ってきたリティルを、城の皆の目から隠すようにして、中庭にある東屋にすぐさま連れて行った。

「そっとしておきましょう?」そう言って、インファの息子の煌帝・インジュが止めたが、ノインに何かされたのか?と感情の先走ったリャリスは中庭へ行ってしまった。そして、打ちひしがれたような養父の姿を見てしまった。触れてはいけない。咄嗟に思った。そして、インジュが正しかったことを理解した。

「わからない。覚えがない。彼と会ったのは1度きりだ」

ノインは、その時のことを思い出していた。

 ルディルになぜか戦えと言われ、何も知らずに来たらしい風の王に戦いを仕掛けた。彼は乗ってくれ、完膚なきまでに叩きのめされた。

その時「ルディルに言われたからって、風の王にケンカ売るなよ!」と自分と相手の技量くらいわかるだろ?と叱られた。ずいぶん若い外見の王だったが、ノインは彼の言葉を心に染みるように聞いていた。不思議な王だと思い、それ故ルディルが引き合わせたかったのか?と思った。

初対面で馴れ馴れしいとは思ったが、名を呼んでもいいか?と伺いを立てると、不機嫌そうにしながらも許してくれた。

出禁の理由に覚えがないと言ったが、初対面でいきなり戦いを仕掛けた無礼のせいでは?と、ノインは思っている。それ以外に、何もした記憶がないのだ。

あの時、ふと、夢のことを思い出し、リティルに「名を呼んでくれないか?」と確かめたくて頼んでみた。何となく、彼は聞いてくれるような気がした。だが、それは思い違い……だった。

リティルは名を呼ぶことを躊躇ったあげく、何か、誰かを見るような瞳で何かを呟き、そして泣いた。涙をこぼしたことに驚いた様子で、リティルは部屋を飛び出していき、その後、ルディルに「おまえ、風の城出禁にされたわ」と告げられた。

疑問がないわけではない。だが、世界の刃たる風の王を呼び出して有無を言わさず戦いを仕掛けたことが、やはりマズかったのだと一応納得した。

「呆れた。絶対に何かしでかしていますわ!ルディル、もういいですわよね?私、風の城へ行きたくてよ!」

リャリスは付き合いきれないと、乱暴に立ち上がった。

ノインも、リャリスが血の繋がりのない風の王を、父と呼び、彼の長男を兄と呼んでいることは知っている。彼女に風の王のことを尋ねたいが、彼女に嫌われている自覚のあるノインは、聞けないでいた。風の王とルディルはかなり親しい友人のようだが、主人に他の王のことを尋ねるのは気が引けた。

「待て!オレも共に行く」

今なら行ける気がする。ノインは、リャリスを引き留めていた。

「ですから、出禁ですわよね?あなた」

「その理由も含め、リティルに聞いてみたい」

「……いいんですの?あの方、来ていますわよ?」

リャリスはますます不機嫌に、サロンの扉を見やった。皆が視線を向けると、火の鳥に案内されて、緑色の髪にキンモクセイの花を咲かせた、可憐な花の精霊が入ってくるところだった。

「どうぞごゆっくり!」

すぐに追い返さないノインの様子に、ますます苛立ちを募らせたようで、リャリスはそう言い放つとシュルリと蛇の下半身をくねらせて、花の精霊を一瞥してから部屋を出て行ってしまった。

「やめとけ、ノイン。恋人もできて、今、1番いいときだろう?」

「そうね。風のお城は忙しいし、リティルはいるとは限らないし。ルディル、リティル元気?前は案外しょっちゅう来てくれたけど、今はこないから、ちょっと寂しいわ」

「しょっちゅう?オレの記憶では、リティルがこの城を訪れたのは1度きりだが?」

うんうん、あなたがいるものねと、レシェラは思ったが、言えるはずもなかった。

「キンモクセイちゃん、いらっしゃい。コーヒーいれてあげるわね」

レシェラはやっとたどり着いたキンモクセイの精霊・キンモクセイに、ソファーを勧めて自分は立ち上がった。キンモクセイは深々と太陽王夫妻に頭を下げた。

レシェラは元花の姫だ。故に、花の姫の証であるモルフォ蝶の羽根がその背に咲いていた。風の王妃・シェラも花の姫で、彼女には「姉様」と呼ばれて親しくしている。

キンモクセイの背には、スジグロカバマダラの羽根が咲いている。蝶の羽根は、花の精霊の証でもあるのだった。

「レシェラ、リティルなら水晶球でいつでも話せるだろう?知っているぞ?おまえ、この前も話していやがっただろう?」

コーヒー、コーヒーといそいそと場を離れようとする王妃を、ルディルは呼び止めた。

「えへへ、バレてたの?リティルったら、相変わらずいい男だわ!」

レシェラはそうルディルを挑発して、席を離れていった。

「はあ、今はオレが出張る仕事もねぇしなぁ。何でもねぇのに、リティルに連絡できるあいつが羨ましいわ」

ルディルがリティルに連絡しようものなら「ん?何やらかしたんだよ?」と言われるに決まっている。どうしているかと思ってなんて理由「ああ?気持ち悪りーな、何かあったのかよ?」と逆に心配されてしまう。正直に「ノインが手に負えねぇ」などとは口が裂けても言えない。

 自分をなんとかできるのは、自分だけ。ノインは自分で、風の城に行かねばならない。そして、知らなければならない。ノインという存在のルーツがどこにあるのか。己は、どう生きるべきか、自分で決めなければならないのだ。

だのに、ノインは一向に生きるための行動を起こさない。このままでは消滅の危険があるところまできているのにだ。

リティルも、風の騎士・ノインは死んだと言い張るしで、ルディルは途方に暮れていた。

「ルディル様、リティル様がどうかしたのですか?」

だが、道は一つではない。

ノインがこのまま、このキンモクセイを選ぶことでも、存在を確立できる。ノインという精霊は産まれたてだ。何を心の中心に定めるのか、選択肢は無限にある。

「ん?いや、リティルはいつも通りなんだがなぁ。ノインの夢に、リティルらしい人物が出てくるって話だ」

「!ノイン、それは本当?」

「そのようだ」

「行って。行かなければダメ!」

淑やかなキンモクセイが凄い剣幕で、ノインをサロンから追い出してしまった。

彼女的には、激しく動きすぎたらしい。フラリと体を揺らし、ルディルがその大きな腕で支えてやる。

まさか、彼女の方から風の城を提案してくるとは思わなかった。ルディルはてっきり、恋敵のいなくなった今を狙って、ノインの心を盗りにきたと思っていたのだ。

風の騎士・ノインは、風の王の守護鳥・フロインと婚姻関係にあった。何があったか知らないが、力の精霊となったノインは、彼女との婚姻が切れてしまっていた。

リャリスは嫌悪しながらも、それも一つの道だと知っているようで、ノインに小言は言わなかった。態度は険悪その者だが……。

だからリャリスは、ノインの部屋に1度も入らないのだ。女性を連れ込んでいる部屋になんぞ、入りたくないのだ。

あれでいて純情で、煌帝・インジュに恋しているリャリスは、紳士的に対応してくれるインジュとノインを比較して、ノインの態度に怒っているのだろう。

やるなぁ、インジュ。とルディルは、女性の様な容姿の、風の最強精霊を思った。

「すみません……」

「おまえさん、いいのか?風の城にはもれなくフロインもいるんだぞ?あいつはもう、儚い守護鳥じゃねぇ。風の王の守護女神だ。れっきとした精霊だ。ノインが記憶を取り戻したら、おまえさん、間違いなく捨てられるぞ?」

「わたしは花の精霊です。わたしはノインと、どうこうなるつもりはないのです。むしろ、フロイン様とのことを思い出してもらいたいのです」

フンッと、不相応な笑いが、おおよそそんな笑いをしないような者の鼻から漏れた。

「健気ねー。信じられないわ。キンモクセイ、あなた、フロインに見せつけたいんじゃないの?記憶が万が一戻っても、ノインは捨てられないわ。今、ノインの隣にいるあなたは、フロインに勝ったのよ。花の精霊の本質は、誘惑と嫉妬よ。わたし、嘘つきは嫌いよ」

コーヒーを持って戻ってきたレシェラは、隠さず辛辣に言った。

ルディルは、いつも笑顔でキンモクセイを迎える妻が、実は快く思っていないことをやっと知った。まったく、風の城贔屓で、困ったモノだ。

ノインが転成して、この城に暮らすようになり、キンモクセイは真っ先に来た。あまりの早さに驚きはしたが、あれだけベッタリと連れ添っていたのに、今の今まで1度も来ない元妻のフロインを、ルディルは薄情だなという思いがないわけではなかった。

ノインと関係を断つ決断をリティルはしたが、彼のことだ、フロインにはノインに会いに行けと言ったことだろう。しかし、フロインはノインを訪ねない。

これでは、ノインを盗られてもしかたないだろう。

「わたしはそろそろ散ります。散ってしまえば、わたしのこの記憶はなくなります。そうなれば、ノインは1人になってしまう……。ノインは、またわたしと出会い直してはくれないでしょう。しかし、フロイン様なら、ノインの為に、婚姻の証を放棄できたあの方なら、きっと……」

うん?放棄?フロインが婚姻の証を放棄したっていうのか?とルディルは驚いた。

あんなにノインに尽くしていたフロインが、ノインにベタ惚れだった彼女が?と信じられない。

だが、ノインの左耳には今でも、フロインとの婚姻の証である、オウギワシの羽根をモチーフにしたピアスがある。解消したのは、確かにフロインなのだと腑に落ちないが納得した。

だから来ない?いや、来ることができない?その辺の事情を、レシェラは知っているのだろうか。なんだ、オレは蚊帳の外だったのかと、ルディルはやっと気がついた。

「そういうこと。だったらキンモクセイ、もうここへ来るのはやめなさい。あなた達は風に近づいちゃいけないの。儚く散る花は、風の心を死へ向かわせるわ。ノインは今、本当に無気力よ。あなたを本当に大事に思ってしまう前に、離れるべきね。わたし、花の精霊は嫌いなのよ」

冷たいねぇとルディルは思った。だが、辛辣な理由に、心当たりがないわけではない。

レシェラは、花の姫という、神樹の花という特殊ではあるが元花の精霊だ。花の姫は散らない花だが、分類的には花の精霊で、花の精霊は、花の姫の眷属という繋がりだ。

だが、花の姫だった当時から、花の精霊とは一線を画していた。好きではないことは、風の王をしていた当時から、ルディルも何となく知っていた。

風の王の補佐官だった頃のノインは、聡明でクールで大人だった。そんな彼に、とやかく言うのもなとレシェラは控えていたのだが、今のノインは、何というか間違いを平気で犯してしまいそうで危うかった。自暴自棄、無気力、風の騎士時代を知っているだけに、そう見えて、とにかく覇気がなかった。

 今、キンモクセイに背中を押されて、風の城に向かったノインを、リティルはどう迎えるのだろうか。強すぎる絆のあったリティルでは、ノインを導けないかもしれない。レシェラは、自分自身の優しさでズタズタに傷つくリティルを想い、ああ、わたしもリティル贔屓だなと今更ながら思ってしまった。


 先に風の城にたどり着いたリャリスは、もうくぐり慣れた玄関ホールの、蝶の羽根を持つ乙女とオオタカのレリーフの彫られた白い石の扉を開き、応接間に入った。

入ってすぐに目に飛び込んでくるのは、広い広い象眼細工の床だ。風の王の両翼の鳥であるクジャクのインサーリーズとフクロウのインスレイズがそこかしこに戯れる、それはそれは見事な床だ。その何もない床を十数メートル行くと、やっと一家や来客の座る、ワインレッドの布張りのソファーにたどり着く。

「お父様!」

聳えるようなガラス窓のそばに置かれた、コの字のソファーに、風の城の主はいた。

こんなに広いが、声は風が届けてくれ、話しかけたい者に大声を出さなくても声は届く。

リャリスの声は、金色のオオタカの翼を背負った小柄な精霊に届き、彼が顔を上げた。その拍子に、黒いリボンで結わえ損なった半端な長さの金色の髪がサラリと揺れ、その金色の光の立ち上る力強く生きている瞳が、リャリスを見て笑った。

「リャリス。おっ?どうした?」

シュルルと床を走ったリャリスは、デスクワークしていた童顔な王の腹に抱きついていっていた。リティルは動じた様子なく優しく笑うと、ヨシヨシとリャリスの頭を撫でた。

リティルは、歴代最年少の19才という精霊的年齢の王だ。対するリャリスは、二十歳をとうに過ぎた娘盛りの外見をしている。チグハグに見えるが、精霊という種族は永遠に外見が変わらないため、しばしこんなことが起こるのだった。

「お父様……」

ああ、癒やされる……この人の風は、ギスギスした心を丸く戻してくれる。

「インジュな、今までおまえを待ってたんだけどな、仕事に出ちまったんだ。連絡しとくか?」

「お父様、私、インジュと付き合っているわけではありませんのよ?」

リャリスは、4本の腕をリティルの脇腹に絡めたまま、今そういうこといらないと言いたげに、不満そうな顔を上げた。

「はは、インジュも同じ事言ってるな。そう思ってるわけじゃねーよ。からかってるつもりもねーんだ。おまえ、インジュの隣で何か充電してるんだろ?」

「お父様のそばでも充電できますわ。インジュでなくてもいいんですのよ?」

「ハハハ。じゃあ問題ねーな。ちょっと待っててくれよ。あとちょっとで終わるんだよ」

そう言ってリティルは、ソファーに寝そべって脇に抱きついているリャリスの頭をポンポンと優しく叩くと仕事を再開した。

 真っ白で、常に明るい太陽の城とは違うが、風の城も明るくて、殺風景な応接間なのにとても暖かくて心地いい。

その空気を作っているのが、風の王・リティルを筆頭に中核を担う鳥達だ。

リャリスは、チラリとリティルの横顔を下から見ていた。

リティルは、リャリスの本当の父親ではない。リャリスの本当の父親は、5代目風の王だ。

リティルは、ひょんな事から5代目風の王の魂と邂逅し、彼の頼みとリャリスの意思で、娘として引き取ったのだった。しかし、智の精霊は太陽王の家臣だと言い張って、リャリスは夜は太陽の城に帰る。そんな彼女を、リティルは引き留めない。彼女は大人だ。意志を持ってやっていることに口出ししないのだ。

『リャリス』を尊重してくれるリティルが、本当に好きだなと思ってしまう。もちろん、恋愛的な意味ではない。

 ジッと見つめていると、リティルが小さく笑った。そして、少し困った顔で見下ろしてきた。

「リャリス、そんな見つめられるとな、オレでも何かあるのか?って思うぜ?」

「!インジュのことは見つめてなどいませんわよ!ただ……私、幸せ者だと思ったのですわ」

視線に我慢できなくなったリティルが、苦笑交じりに言うと、リャリスはそんなつもりないと慌てた。そこにインジュの名が出てきてしまう時点で、ああ、恋してるんだよな?とリティルは、こんなきつい容姿なのにウッカリなリャリスを、可愛いと思ってしまった。

「ん?幸せ者?」

「ええ、そうですわ!こんな外見の私を、娘だと受け入れてもらったあげく、こんな我が儘も許されていますもの」

無気力に太陽の城で寝起きしているだけのノインが、可哀想に思えてならない。リティルがそばにいれば、あの人は、きっと変われる。そう思う故に苛立つ。花の精霊などにうつつを抜かし、自分という正体を失っているあの人が、とても憐れで。

だが、手を出しづらい。風の城が関係を断っている以上、ノインの交友関係に口出しは御法度なのだ。

「幸せ者っていうのなら、オレも幸せ者だな。オレは、あんまり1人になったことがねーんだ。誰か彼かそばにいてくれる。それが今、すげー心強いんだ」

「寂しいんですの?」

リャリスは静かに微笑むリティルに、不安な気持ちを抱きながら問うていた。

「ああ、そうだな……今まで当たり前にあったものが、そばにないのは、寂しいな。だからって、手放したオレが今更――」

手放したくて手放したわけではない!とリャリスが抗議しようとしたとき、玄関ホールに続く扉が開いた。一家の誰かが帰ってきたのだと思った。リャリスはリティルと同時にそちらの方を見ていた。リティルも「おかえり」と声をかけようと思ったことだろう。

 しかし、リティルの発した声は、低く恐ろしげだった。

「おまえ、出禁だって聞いてねーのかよ?」

出禁?リャリスはその者の姿をハッキリと見た。

「承知している。だが、貴殿に聞きたいことがあってきた。話を聞いてほしい!」

ノイン?あの花の精霊と、イチャイチャすることを優先すると思っていたのに、と、リャリスは冷ややかに思った。

彼がなくしてしまったのは、彼のせいではない。だが、リティルや風の城の皆が大切になってしまったリャリスにとって、この城を苦しめるノインは敵以外の何者でもなかった。

それに、あのピアス。あれを外さずに身につけたままにしていることも、彼が忘れていて理不尽なことはわかっているが、嫌悪していた。

あれを身につけたまま、あの花の精霊と会うことも、この城の敷居をまたいだことも、リャリスには、ルキと謀ったことだったが、やはり心穏やかではいられない。

だが、グッと我慢した。これは、ノインにとって大事なことだ。腑抜けの腹立たしい彼が、目覚める切っ掛けになれば、皆の望む未来が開けるかもしれないのだから。

「話?ルディルを通せ。あいつからなら聞いてやる。わかったら出て行け」

リティルは、リャリスを脇に抱きつかせたまま、ソファーから立たなかった。邪魔している?と手を放そうとしたリャリスは、その手を掴まれて動きを止めた。ノインからは見えないであろうその角度で、リティルはリャリスの手を掴んでいた。放してくれるな!そう言われた気がして、リャリスは絡める腕に力を込めていた。リティルの心細さが、伝わってきたのだ。

 それにしても、リティルがここまで拒否の感情を露わにするとは思わなかった。リティルなら、感情を押し殺して、話くらい聞いてくれると思っていたのだ。

これは、甘かった。ルキの言葉に乗る前に、リティルか風の王の副官に話すべきだったと、リャリスは後悔した。後悔したが、もう遅い。

「風の王――」

「聞こえなかったのかよ?帰れって言ったんだよ」

有無を言わさないリティルの声が、ヒドく傷ついて聞こえた。これはダメだ。リャリスが、物理的にノインを追い出そうと動こうとしたとき、荒々しく風が動いた。

天井のシャンデリアを揺らし、キラキラ輝く金色の風が落ちてきた。リティルのいるソファーとノインとの間に立ちはだかったのは、風の王の守護女神・フロインだった。


 守護女神・フロイン。金色の波打つ髪に、彼女の霊力で枯れない野の花を飾った、金色のオウギワシの翼を持つ、神々しいまでに美しい風の精霊だ。

彼女はかつて、リティルの中にある、精霊の至宝・原初の風の半分から具現化した守護鳥だった。人型を取れるまでに自身の力を高め、風の騎士・ノインを射止めて夫婦となった精霊獣だ。

風の騎士と婚姻を結んでからは、殆ど姿を現さず、彼の中で彼の魂に寄り添っていた。

その理由をリティルは、風の騎士の崩壊しそうな存在を繋ぎ止めるためだったことを、彼を失ってから打ち明けられた。

風の騎士・ノインは、無理に目覚めた精霊だった。不具合は、目覚めた時からだったことを、リティルはやっと知ったのだった。だが、それは遅すぎた。

今、ノインとの婚姻を一方的に解消したフロインは、精霊と言えるまでに成長を果たしていた。

今まで、ノインを守る為に使っていた力を、すべて自分のために使えるようになったための変化だった。今や立派な一家の主力の1人、女騎士だ。

 オウギワシの雄々しき翼を背負ったフロインは、そのグラマーな肢体を隠さなくなった。

柔らかな面立ちから妖艶さはないが、その肉体は、見る者を性的に魅了する。原初の風は、3つに割れて半分しかないとしても、受精させる力の結晶体だ。命を育む行為を、フロインは半分司っているのだ。

ノインとの婚姻が、そんな彼女の無駄な魅了を抑えていたが、今はそれもなくなり、フロインはそれすらまったく隠さなくなった。リティルはそんなフロインが自暴自棄に見えて、1人では絶対に城から出さない。

魅了を抑えることのできる、原初の風の所有者であるリティル、原初の風の4分の1の精霊である、煌帝・インジュ、王妃で、花の精霊に属しているが故、性的魅了の力を持つ花の姫・シェラ、副官の妻である魅了の力を持つ宝石の精霊・セリア、原初の風の4分の1を託され守護しているリティルの次男・レイシと共にしか、城の外へは出せなくなった。

「お引き取りを。王はあなたの訪問を、快く思ってはいないわ」

裸足で、トンッと象眼細工の床に降り立ったフロインは、金色の瞳に冷たい光を宿していた。

「フロイン!やめろ!」

風の城には、リティルも含めて16人の精霊が暮らしている。

今日は魔物狩りで、皆出払っていて、リティルとフロインしか城に残っていなかった。

フロインがいるから、おまえを追い返したかったのに!リティル1人では、今のフロインは手に負えない。

愛する風の騎士・ノインを失って、心がやさぐれている。外見だけノインのおまえを、フロインに会わせるわけにはいかねーだろ!と、リティルは慌ててリャリスに手を放させた。

 フロインは、力の精霊・ノインに会いたがっていた。

それは、もう1度絆を構築する為ではない。彼女がかつて風の騎士・ノインに贈った婚姻の証を、壊すためだ。

精霊の婚姻は霊力で作ったアクセサリーを贈り合うことで成立する。

力の精霊・ノインは、フロインとの婚姻の記憶を持っていないはずなのに、他人の霊力で作られているとわかっているはずなのに、その証を身につけたままにしていた。

それを知って、フロインは壊そうと機会を狙っていたのだ。そんなことをさせるわけにはいかなかった。あれを放棄するか否か決めるのは、フロインではなくノインなのだから。

 リティルが叫んだが、遅かった。フロインの手が鋭く閃いて、ノインを風が襲っていた。

フロインの狙いは違わず、ノインの左耳を飾っていた、オウギワシの羽根のモチーフにしたピアスが壊され――

「――フロイン相手に、棒立ちってなんなんですぅ?」

フロインと同じ、キラキラ輝く金色の風がすんでのところで割って入っていた。三つ編みハーフアップに結った流れるような金色の髪を、オウギワシの翼の間に文字通り流した華奢な後ろ姿。彼は――

「インジュ!」

シュルリと近づいてきたリャリスに、インジュと呼ばれた風の精霊は「今日はこないんだと思ってました」と笑ったようだった。彼の後ろからリャリスを見ていたノインは、彼女が妖艶な顔に健全な、安心しきった笑みを浮かべるのを見た。

太陽の城では見たことのないその笑顔は、まるで少女のようで初々しかった。

「フロイン、話くらい聞きましょうよぉ」

険悪な女神を、インジュは茶化すように咎めた。

「リティルが帰れと言ったのよ」

フロインは拗ねたような顔をして、プイッと激しくインジュから視線を外した。その拍子に、波打つ髪が体の前に垂れ下がり、髪に絡むように飾られた小さな野の花たちが、ノインの目にも見えた。あの花……あの配色は――?

「そうなんです?ハア、あのぉ、そろそろ何とかしましょうよぉ。すみませんねぇ、力の精霊さん。うち、基本的にリティル大好きっ子の集まりなんです。なので、出禁のあなたは歓迎されませんよぉ?」

振り向いたインジュは、風の精霊でありながらその瞳の色が金色ではなかった。白と青と緑の混ざり合った不思議な色をしていた。

申し訳なさそうにしながらも、彼からは妙な動きをしたら……わかってますよねぇ?と言われているような殺気が漂っていた。

 インジュはフンワリと女性寄りな中性的な顔に、柔らかな笑みを浮かべると、どうぞと手でノインにソファーを勧めた。

「インジュ、おまえが相手してくれ。茶はオレが入れてやるよ。フロイン、手伝えよ」

リティルはサッサと席を立つと、金色のシラサギが持ってきたワゴンに向かってしまった。

「ええ?わかりましたよ。様子だけ見て、すぐ戻るつもりだったんですけどねぇ……」

インジュはブツブツ言いながらも、リティルの言葉に従って、ノインを伴ってリャリスとソファーに向かった。

「インジュ、仕事だと聞いていましたのよ?」

「仕事、してきましたよぉ?今日はこの近くだったんです。大型の魔物1匹です。ですので、両手両足もいでラスに押しつけてきましたぁ」

あっけらかんと陰惨なことを言い放つインジュに、正面に座らされたノインは「残酷な」と呟いた。そのつぶやきを聞いたリャリスが、キッとノインを睨んだ。当のインジュは気にした様子なく、柔らかく笑っていた。

「あはは、そう思いますよねぇ?当然です。ボク、風の城最強精霊ですけど、命を奪えないんで、こういう戦い方しかできないんですよねぇ。一緒に飛ぶ家族の命、守らないといけないんで。その為なら、ボクは、どんな残酷なこともできますよぉ。ボクにこういう戦い方教えてくれたのは、前任の補佐官でしたねぇ」

そう言ってインジュははたと、名を名乗っていなかったことに気がついた。

「ああ、名乗ってませんでしたねぇ。ボクは煌帝・インジュ。風の王の補佐官です。ついでに風四天王、説明しときます?風の王・リティル、副官の雷帝・インファ、補佐官のボク、執事の旋律の精霊・ラスです。副官と執事、そのうち帰ってきますよぉ?お父さん……雷帝・インファはそれはそれは血相変えて帰って来ると思います。楽しみですねぇ」

楽しそうに笑うインジュの、柔らかく女性のような顔に、どこか狂気が浮かんでいた。

「それで、どうしてこの城に来たんです?出禁の力の精霊さん」

柔らかさはそのままに、インジュの雰囲気が「返答次第じゃ殺しちゃいますよ?」と首に手をかけられるような、殺人鬼のそれに変わった。

「リティルに、聞きたいことがある。ここまで歓迎されないとは思わなかった。許してほしい」

「間が悪いんですよぉ、あなた。王以外の、風四天王がいるときにしてくださいよぉ。うちの守護女神様、見た目も破壊力ありますけど、力も強いんです。最近精霊獣から精霊になったんで、不安定で、しかも遅い反抗期で不良お姉さんなんですよぉ」

インジュは柔らかく、ため息交じりに苦笑した。

 そうこうしていると、玄関ホールに続く扉が開いた。

「インジュ!雑に戦って、あとよろしくって、いったい何があったんだ!」

応接間に足を踏み入れると即怒りの声を発したのは、裾の長い黒の上着を着た、左目を長い前髪で隠した若い容姿の風の精霊だった。彼の金色のハヤブサの翼が血で汚れている。

見れば、金色の綺麗な髪も赤黒い液体にまみれ、雫が滴っていた。

「あはははは!」

それを見たインジュは、ノインの――来客の前だというのに腹を抱えて笑い転げた。笑われた血まみれの真面目そうな風の精霊は、目をつり上げると更に怒りを露わにした。

「インジュ!あ、リャリス来てたのか?…………!?あ、リティル、お茶ならオレが」

ソファーにいる面々を見た彼はノインを見て息を飲み、瞳を一瞬見開いて固まったが、ワゴンのそばにいるリティルに気がついて、王のもとへ鋭く飛んだ。

「うわ!ラス、血まみれじゃねーか!怪我じゃねーよな?いいから風呂行ってこい!」

滴ってる!滴ってる!とリティルはシラサギと一緒にワゴンを遠ざけた。

「しかし……わかった。すぐ戻るから!」

旋律の精霊・ラス。風の城の執事は、どこかオロオロしていたが、リティルの言葉に従うと鋭く城の奥へ続く扉に飛んでいった。ワゴンからその扉までも、十数メートルはありそうだった。ラスの通った床に落ちた血の痕を、どこからともなく飛んできた、召使い精霊の金色のスズメたちが掃除していった。

「……インジュ、無理して帰ってきましたの?」

あまりに壮絶なラスの様子に、リャリスは若干引き気味に隣のインジュに問うた。

「リャリスが城に来たって小鳥が知らせてきたんで、急いだんですよぉ。それでちょっと手元が狂っちゃいまして、魔物の腕をもいだときにラスにドバーッて」

そんなラスを置いてきてしまったインジュに、リャリスは首を傾げずにはいられなかった。

確かにノインが来て、フロインとご対面してしまい修羅場になりかけたが、その前はリティルと2人で平和だったのだ。インジュがとんぼ返りする理由がわからなかった。

「ラス、災難でしたわね……けれどもなぜですの?」

「落ち込んでませんでしたぁ?今日は遅かったですし、何かあったのかな?って」

インジュは、勘が当たりましたねぇと微笑んだ。

「お見通しですのね。もう、私たち付き合ってしまいませんこと?」

「はい?本気です?ボク、本気にしちゃいますよぉ?」

インジュは目を丸くして、若干戸惑いを見せた。

「冗談ですわ。今の距離感が壊れてしまうのは、嫌ですもの」

「壊れちゃいますかぁ?それはボクも嫌ですねぇ。うーん、どうしましょうか……?」

「もう、いいですわ!冗談ですわ。冗談」

恥ずかしくなったのか、リャリスは大げさに声を荒げると、きちんと座り直した。その隣でインジュは真面目に悩んでいた。

それを正面で見せつけられていたノインは、呆気にとられていた。太陽の城で会うリャリスと雰囲気が全然違っていたからだ。

「リャリス、今のおまえが本当のおまえなのか?」

「なんですの?異形の姿の私は恋愛してはいけないという決まりでもありますの?」

キッとリャリスはノインを睨み付けた。オレにはこんな瞳しか向けないのだが……とノインは冷静にリャリスを観察していた。

 「あはは」と、力なく笑う声で、ノインはインジュに視線を向けた。

「ボク、恋愛感情なくしちゃったんです。ので、困ってるんですよねぇ。元々あったものってなくなるものなんです?それとも、まだあって、今は寝てるとかなんでしょうか?ボクをそういう意味で好きになる人はみんな、ボクといると寂しいって、みんな離れていっちゃうんですよねぇ」

インジュは誰に言うとは無しに言うと、腕を組んで悩んでしまった。

「寂しい?そんなこと、思った事ありませんわよ?やっぱり私、今のままでいいですわ。ここにこうして、ボンヤリ座っていられたら幸せですの」

リャリスは、清浄な笑みを、悩むインジュに向けた。

「……そう、言っていられなくなるのが、恋愛という感情だ」

視線をそらしたノインの様子に、リャリスはイラッとして反射的に叫んでいた。

「あら、でしたら早く婚姻を結んでしまえばいいのですわ。あの花と!」

「ルディルも誤解していたが、オレにそんな感情はない」

「弄んでいますの?あの花、あなたのこと、物欲しそうに見てますわよ?」

「彼女を辱めるな。オレはすでに断っている」

え?リャリスは意外な言葉に言葉を失った。それはいつ?いつ断ったの?だってあの花、未だに恋人の顔して太陽の城に通ってきてますのよ?とリャリスはぶちまけそうになって堪えた。フロインが不機嫌そうな顔で、紅茶を運んできたからだ。

そっと、フロインがノインの前に紅茶を置いた。顔を上げたノインは「ありがとう」と自然に声をかけていた。フロインは驚いたようで、目を丸くするとフイッと視線をそらして逃げた。その髪から、飾った花がノインの紅茶に落ちた。

 ノインは気にした様子なく、紅茶をその花ごと一口飲んだ。そして、ゆっくりとティーカップを置く。

「オレには、捜している女性がいる」

「初耳ですわ。どこでお知り合いになりましたの?」

「わからない」

「なんですの?それ」

リャリスは呆れた声を上げた。もっともだという顔をノインはすると、おもむろに左耳に飾っていたピアスを外した。

オウギワシの羽根を模したピアス。これのことは、リャリスも、風の城の者も全員が知っている。

「オレは、これを贈ってくれた女性を捜している。これが婚姻の証であること、いや、あったことはオレにもわかる。だが、彼女が誰なのか、わからない」

真後ろにいますわよ?リャリスはフロインに視線を送りそうになって、グッと堪えた。

「その人に会って、どうするんです?」

問うたのはインジュだった。

「わからない。オレは彼女に返事をしたのだろうか?これを、オレが持っているということは、オレは彼女を受け入れたということではないのか?オレはまだ、半年しか生きていない精霊だ。その認識すら間違っているのではないのか?と、これを見ていると思う。このピアスだけが、オレの手がかりだ」

憂いを帯びた瞳で、愛しそうにピアスを見つめるノインが、ちゃんと血の通った命なのだと、リャリスはやっと思えた。

無気力に、何を考えているのかわからない様子で、太陽の城から一歩も出ないノインを、リャリスは血の通っていない人形のように見ていた。

彼が力の精霊となってすぐ、押しかけてきたあのキンモクセイ。彼女の存在も気持ち悪くて、リャリスは極力ノインと関わりたくなかった。それでも、ノインに一切関わらない風の城のためにと、嫌々夜な夜な太陽の城に帰る日々を送っていた。

リャリスはただ、ノインが生きていることだけを日々確認していたのだった。

「壊してしまえばいいのだわ」

冷ややかに、ノインの背後から声を落としたのは、フロインだった。

「終わったのよ。終わっていないのであれば、その人はあなたに、会いに行くはずよ」

ノインがゆっくりと立ち上がった。ソファー越しに見つめ合う2人。リャリスは、フロインがノインに怒鳴られるのでは?と戦々恐々とした。

「構わない。終わっていたとしても構わない。オレは彼女に……会いたい」

「彼女が誰なのか、わかりもしないで?」

「それでも、これを身につけていれば、彼女の方が見つけてくれるのではないかと、身勝手に期待している」

「身勝手よ。終わった相手に、話しかける物好きはいないわ」

フロインはほぼ同じ目線のノインを睨んだまま、目をそらさなかった。

「新しい人がいるのでしょう?ならば、未来を見るべきよ」

「彼女に逢えたなら、考えよう」

退かないノインに、フロインはフッと目を伏せた。

「そう、教えてあげるわ。そのピアスをあなたに贈ったのは――」

「フロイン!待て!」

リティルが慌てて飛んでくる。フロインはリティルの手に口を塞がれる。


「わたしよ」


一歩、リティルの手は届かなかった。ノインは、目の前の女性を凝視していた。リティルの手で口を塞がれ、そのまま後ろに引っ張られて、2人とも床に倒れる様を、ゆっくりと動く時の中で見つめていた。

 ノインは、机を挟んで向こう側にいる2人を振り返った。

「事実か?」

平然とした顔で、そう問われたリャリスは、ビクッと身を震わせてノインの顔を見るばかりで、答えられなかった。

太陽の城に一向に来ないフロインが、まさかこんなに簡単にピアスを贈ったのはわたしだと、暴露してしまうとは思わなかった。

「事実だったとして、あなた、何か感じますぅ?感じないでしょう?フロインの言ったことは正しいですよぉ。新しい人がいるみたいですし、未来を見ましょう?」

「ねえ?」とインジュは柔らかく微笑んだ。

ノインは、彼女に逢えたら、何か感じるとでも思っていたのだろうか。

リティルの事が、自分の命より大事だったのに、そのリティルを前にしても何も感じていないような人が、フロインに会ったくらいで何か感じるとは、インジュは残念ながら思えなかった。

 インジュは、リティルがノインを出禁にした理由がわかっていた。一家の、インファでさえ知らない力の精霊・ノインの容姿を、インジュは知っていたからだ。

一家は、力の精霊・ノインのことを、新たに産まれた精霊だと思っている。名前が同じ事は偶然で、容姿は違うと思っているということだ。

だが、力の精霊・ノインの容姿は、風の騎士・ノインと同じだった。だが、彼は彼ではない。まったくの別人だ。

風の騎士・ノインは死んだ。しかし、ノインの姿で声で、存在している人がいる。そんなノインと会えば、1度は皆、思い出してくれないかと思ってしまう。彼はノインではないのに。それはお互いに不幸ではないのか?

残酷だ。ノインが大切だっただけに、この事実は受け入れがたい。

インジュにとっても、かなりの苦痛だ。なぜならノインは、師匠であり、煌帝・インジュという精霊が生きていられる恩人でもあるのだ。

インジュは、風の王・リティル、雷帝・インファ、そして、風の騎士・ノインの為なら死ねる。そのノインに忘れられた悔しさは、計り知れなかった。

ノインは、新たに産まれたのではない。転成なのにどうして?ノインは転成だと知っているインジュは、口を閉ざす方を選んだ。リティルの味わった悔しさ悲しさを、もう、一家の誰にも感じてほしくなかったからだ。

インジュは、ノインの事より、一家の安寧を優先したのだ。

「フロイン」

やっと体を起こしたフロインとリティルに視線を戻したノインは、彼女の名を呼んでいた。「話を」と言いかけたノインに、目もくれずフロインは机にあったピアスに手を伸ばしていた。

そして、オウギワシの羽根のピアスを奪い取って、何もないホールに戻っていた。

「わたしは……あなたに贈ったのではないわ!あの人は死んだ!死んでしまったの!これを、あなたが持っているなんて、不愉快よ!」

髪を振り乱したフロインはそう叫ぶと、泣きながらピアスを握った拳を振り上げた。

ノインは、金のオウギワシの羽根にヒビが入るのを見た。

リティルが何事か叫んで、フロインの手に飛びかかった。しかし、オウギワシの握力に敵うはずがない。皆の目の前で、フロインがノインに贈った、婚姻の証が粉々に――

「大変なことになっていますね」

「あっ!」

静かな、しかし存在感のある声が聞こえたかと思うと、フロインの手首から血が流れた。

斬られた衝撃でフロインはピアスを落としていた。それを見たリティルはそれを空中で両手に受けると、無事を確かめてどこかホッとしていた。

「遅くなってすみません。オレの名は、雷帝・インファ。風の王の副官です」

いつの間にか、聳えるようなガラス窓のそばに、美しい精霊が立っていた。

長い金色の髪を、肩甲骨の辺りから緩く三つ編みに結い、イヌワシの雄々しい翼の間に垂らしている。男性寄りの中性的な容姿の、思わず見とれてしまうほどの魅力のある若い男性だった。


 これは驚きましたね。それが、インファの力の精霊・ノインを見ての感想だった。

 インファは、この半年、リティルの心を守ってきた。

寿命という精霊にあるまじき危機に直面した風の騎士・ノインを救おうと、リティルは奮闘し、そしてそれが叶わなかった。そう報告を受けた。

風の騎士・ノインは死んだのだと。

ノインの死と同時に、目覚めた力精霊。まったく太陽の城から出てこない彼の噂は、聞いていた。風の騎士・ノインに似ていると。だが、まったく姿を現さない彼の容姿が知れているのはおかしいのでは?とその噂の信憑性を疑った。ラスも同じだったようだ。

こんな噂が出たのは、力の精霊の名が、ノインというからだとラスも同じ結論に達したようで、それは一家の皆に定着した。

力の精霊は、ノインという名の別人である。もちろん容姿も異なる。というのが、一家の共通認識だ。インファもラスも、そうだと思っていた。

 それでも、『ノイン』という名であることがずっと引っかかってはいたのだ。

なぜ、同じ名なのか?と。新たに目覚めたのなら、なぜこの名だったのか。

ノインという名は、インファが名付けた。ノイ・イン――謎の風という意味だ。

力の精霊の名としては、不釣り合いな名だ。偶然?しかし……と疑問だった。

 今の今まで力の精霊・ノインと関わらなかったのは、風の王がノインを出禁にしたからだ。何かあるのだろうと、その心を汲んだにすぎなかった。

ノインが死に、新たな力の精霊が誕生した太陽の城にリティルが呼び出され、そして帰ってきた父は、本当に大丈夫か?と心配になるほど心がひどく傷つけられ、痛ましくて見ていられないような状態だったのだ。

これは、新たな力の精霊より、リティルの方を優先する。それは、副官としても当たり前の行動だった。一家も、それに従った。

 だが、インファは気がついていた。

リティルとフロイン、そしてリャリス、リャリスと親密なインジュが何かを隠している事を。もう少し落ち着いてから、暴いてやるつもりだったが、まさか、こんな……

インファは彼等の隠し事を今知った。力の精霊・ノインは、新たな精霊ではなく、転成した風の騎士・ノインだったのだということを。


 いきなり現れ場の空気を一瞬で掌握したインファは、ニッコリと微笑んで「皆さん、座りましょうか?」と、席替えを指示しつつ促した。そこへラスが戻ってきて、修羅場の空気を感じ取ったようで戸惑っていたが、すぐに気を取り直してお茶の支度を調えてくれた。

「父さん、こんな状態なら、フロインは追い出さなければいけませんよ?最近、荒れていますから」

彼は雷帝・インファ。風の王の長男だ。リティルには、あと2人、インリーという娘と、養子のレイシという息子がいた。

「ああ、悪い。なあインファ」

「言い訳は後で聞きますよ?風の王」

ヤンワリと父王を咎める容姿端麗なインファを、ノインは観察していた。ノインは、先ほどまでインジュとリャリスの座っていた、ガラス窓を背にしたソファーに移動させられていた。机を挟んだ向かいには、リティルとインファが座り、机の周りにコの字に置かれたソファーの一人席に、ラスが座った。

リティルとインファの背後に置かれたソファーに、インジュとリャリスが、フロインの両脇に腰を下ろした。

「オレの顔に見とれていますか?フフ、冗談です。仮面を外して鏡で顔を見てみてはどうですか?」

「見なくともわかる。貴殿はオレに似ている。いや、オレが貴殿に似ているのか?」

ノインは、インファよりも2、3才年上の容姿をしているが、兄弟かと思えるほどに似ていた。リティルの実の息子と聞いたが、その容姿はリティルには似ていず、ノインと酷似していた。

「どっちと言えばいいんでしょうかね?その辺りのいきさつは、いささか複雑です。説明は省きますが、ところで、大丈夫ですか?」

インファは余裕の表情で、ノインの様子を案じた。

「少し混乱してきているが、1つわかったことがある。オレは、目覚める前、前世というのか?そのとき、この城と深い関わりがあったのだな?それを悟られないために、出禁にされたということか?」

「いいえ、あなたは新たに産まれた精霊ではありません。ノイン、あなたは風の王の補佐官、風の騎士・ノインが転成した、転成精霊だと思われます」

インファは1度言葉切った。そして、ノインの様子を見ながら、口を開いた。

「裏ぐらい自分で取れるでしょう?理解したのならば、一旦お引き取りください。混乱しているでしょうから、後日改めて話しをしましょう」

視線を紅茶に落としていたノインは、ゆっくりとインファを見た。

「それからこれはお返しします。これはあなたのモノです。あなた以外の誰も、自由にしていいものではありませんからね」

インファは、腰を浮かせると、オウギワシの羽根のピアスをノインの前に置いた。

「インファ、少しだけで構わない。話を聞いてはくれないか?」

そしてノインは、やっと、自身が見ている夢の話をすることができたのだった。

 静かに聞いていたインファは、しばらく考えた後、口を開いた。

「夢は、記憶の断片です。風の騎士・ノインの記憶が夢に現れているとみて間違いありませんね。ノイン、自分が誰だかわからなくなったり、本物の記憶と混同したりということは、ありませんか?」

「いや、そんなことはないが……」

「今後、夢が鮮明になるようなことがあれば、存在が揺らぐかもしれませんね。転成で、記憶がすべて失われてしまった原因は不明ですが、なくなったことには意味があると考えたほうが良さそうですね……」

慎重に動いた方がいいと、インファは少しだけ深刻そうな顔をした。

「オレが関わらなけりゃ何とかなると思ってたんだけどな、ダメだったってことだな。インファ、どうにかできるのかよ?」

「夢のことは、夢の専門家に聞くのが1番です。これ以上、風の騎士の夢を見ないようにする方法を探しましょう」

「待て!この夢を、悪いモノには思えない」

おや?とインファは意外に思った。彼の話を聞く限り、夢を見始めたのはつい最近ではなさそうだ。それをずっと取るに足らないと放置していた割には、固執しているようだなと感じたのだ。いや、取るに足らないと放置していたのではない?大切にしていた?

だが彼は一切行動を起こしていない。インファは、ノインを伺った。

「あなたは力の精霊・ノインで、風の騎士・ノインではありません。未来を脅かす過去は、断ち切るべきですよ?」

「わかっている。わかっているが……」

わざと感情なく言ってみると、ノインはわかっていると言いながらも、手放しがたそうに見えた。これは脈あり?だとすると、父さんの見立て違い?いや、これはもしや?インファは、冷静にノインを観察していた。

「関係は、これから築けばいいとオレは思いますよ?あなたに記憶の混乱がないのならば、一切関わらないほうがいいと思いましたが、あなたの過去があなたを脅かしている今、オレ達は関わらなければならなくなってしまいました」

「出禁は解いてもらえると?」

「ええ、致し方ありません。やっと目覚めた力の精霊を、失うわけにはいきませんから。オレ達は世界を守る刃です。イシュラースを平穏無事にしておく義務があるんですよ。そうですよね?風の王」

インファは、隣に座るリティルに、有無を言わさない笑顔でニッコリ微笑んだ。

「ああ、そうだよ。力の精霊、しかたねーから、面倒見てやるよ!」

オレはおまえとは関わりたくねーんだよ!と聞こえてきそうな態度だった。

「インジュ、ラス、しばらく城はあなた達に預けますよ。しっかりやってください」

「はい。通常業務のほうが、心臓に悪くなくていいです。ので、リャリス、ボク忙しくなっちゃうんで、城にいなくてもガッカリしないでくださいねぇ」

妬いてください!と言わんばかりのインジュの態度に、リャリスはノインを恨みがましい瞳で睨んだ。

「ノイン、恨みますわよ」

「リャリス、殺せない殺人鬼のインジュは、城担当だから、たぶんずっと城にいるよ」

そんなリャリスに「インジュ虐めちゃ可愛そうだ」とラスが笑った。

「あら、そうですの?ノイン、いい仕事しましたわね」

 お気楽な居残り組に苦笑した、インファはすっと笑いを収めた。

ノインのことになると、リティルはずっと様子がおかしいが、もう1人様子のおかしい者がいる。

「フロイン、あなたも来なさい」

「おい!大丈夫かよ?」

リティルは血相を変えた。フロインは自分が贈った婚姻の証を狙っている。リティルとしては、彼女が壊してしまうことだけは阻止したかった。フロインが風の騎士との婚姻の証を破棄した場面に、リティルは居合わせた。フロインの涙と想いを知っている。だからこそ、フロインを心配しているのだった。ノインが贈り主を捜していると言ったのに、フロインは壊そうとした。彼女にとって今のノインは苦痛なのだ。

「ノインと決別するいい機会です。力の精霊・ノインと縁ができてしまう以上、彼が今後もこの城を訪れることがあるでしょう。そのときいちいち嫉妬に狂っていては、困りますからね」

「おまえ……今後も会うつもりなのか?こいつと?」

正気か?とリティルに精神を本気で心配されながら、インファはニッコリと微笑んだ。

「オレは記憶を失う前の彼と友人でした。今の彼ともいい友達になれると思います。父さんも過去を清算してください」

そう言って、インファはおもむろに立ち上がった。

「ノイン、明日、もう一度風の城に来てください。オレは徹夜なんです。いい加減眠いので、今日はこれで帰ってください。オレの不在の間に、またケンカされては困りますから」

「了解した。世話になる。インファ」

ノインは、机に置かれたままのピアスを掴むと立ち上がった。

「フフ、あなたにまた名を呼んでもらえるとは、思ってもみませんでした。城門まで送りますよ」

そう言ってインファは嬉しそうに笑うと、ノインと並んで、玄関ホールへ消えた。

 ラスは、インファの背中を見送りながら、ホッと緊張の溶けたため息を付いた。

ラスは、ノインの姿を見たとき、心臓が止まるかと思うほど驚いてしまったが、インファは初めから最後まで平常心だった。大人な対応でその場を収めた彼を、やはり頼もしいなと思った。

それにしても、本当に驚いた。ノインは死んだと聞いていたのに、ノインはノインのままで、ラスは風の騎士・ノインが帰ってきたと刹那錯覚してしまった。

諜報を行うラスも、力の精霊・ノインには近づけなかった。リティルに一切関わるなと、釘を刺されていたからだ。

その理由が、ノインが転成なのに記憶の一切を失ってしまったからだとわかった。記憶のないノインを刺激しないために、リティルは遠ざけたのだと今日知った。

「はあ、インファが戻ってきてくれてよかったよ」

呟いたラスに、リャリスはジロッと咎めるような視線を送ってきた。

「ラスがなかなか戻ってこないから、いけないのですわ」

「え?オレじゃ手に負えないよ?」

リャリスに怒られて、ラスは驚いて言葉を返していた。

「手に負えましてよ。あなた、いつも軽くあしらってるじゃありませんこと」

一時はどうなるかと思いましてよ?とリャリスはハアとため息をついて、頬杖をついた。

「はあ、ラスは自己評価低いですからねぇ。補佐官の座、譲りましょうかぁ?」

「自分で立候補したくせに。でも、ありがとう、リャリス。役に立ててるなら嬉しいよ」

ラスは控えめに笑った。

「リティル、大丈夫?」

 ラスは、ずっと俯いたままのリティルに気がついて、その顔を覗き込んだ。問われたリティルは、ゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫じゃねーよ……あいつとルキルース探検って、そんな地獄あるかよ!」

「いいんじゃないのか?インファが、関わっていいって言ってるし」

「あいつを”ノイン”と重ねねー自信なんてあるかよ!しかも、なんかボンヤリしてて、揺るぎなさがなくなってて、あいつが目覚めてすぐくらいに1回会ってるけどな、そのときよりヒドくなってるんだよ!ルディルのヤツ、何やってるんだよ!」

ノインを心配していることは明白で、皆は憤るリティルの様子に、放っておけないんだなと暖かく苦笑した。そして、ホッとしたのだった。

 程なくして、インファが戻ってきた。

「父さん、夢のこともそうですけど、ノイン、霊力が最上級にしては少なすぎではないですか?」

リティルは、ユラリと顔をインファに向けた。そして、いきなり叫び出すと頭を抱えた。

「ああああああああくそ!ルディルに預けたオレがバカだった!それはあれだ。生きる気力を失ってるんだよ!ノインのヤツ、どう生きればいいのかわからなくなってるんだよ!」

「え?ノインが迷ってる?……確かに、転成だと思うのに、記憶がまったくないのは変だけど……」

「そうなんですよねぇ。ノイン、転成なんですよねぇどう見ても。リティルが死んだなんていうから、どうなんだろうって思ってましたけど」

インジュは咎めるようにリティルを見た。

「悪かったよ……ノインが転成だって教えなくて……」

リティルは項垂れた。

「オレくらいには、明かしてほしかったですね。さすがに驚きましたよ」

死んだと思っていたノインを前に、表情を取り繕うのに苦労したと、インファは苦笑した。

「ごめん……」

「理由はわかりますけどね。あんなに綺麗さっぱり忘れられると、オレでも哀しくなりますから」

更に小さくなってしまったリティルに、インファは労うように声をかけた。

「ノインどうしちゃったんです?ノインは生も死も理解してましたよねぇ?もの凄く物知りで、中の中まで理解してましたよねぇ?」

浅く広く知るインファとは違い、風の騎士・ノインは、世界の道理や理、風のことは深く深く知っていた。持っている知識の違っていた2人は、知らないことを調べるやり方も違い、真相へのたどり着き方も違う2人は、時の魔道書・ゾナと3人で、風の城の三賢者と呼ばれていた。

「それは、彼のベースが伝説の風の王だったからです。ノインは力の精霊になるにあたって、ノインをノインたらしめる思考回路の源を失ってしまったようですね。彼と話して感じました。今の彼には以前の聡明さがありません。他にもいろいろ失っていそうですね。風の騎士・ノインの、潔さ、覚悟の重さ、聡明さは伝説の風の王・インから受け継いだものです。それらすべてを失っているとしたら、危ういというレベルではありませんね。父さん、導けますか?」

インファは、副官の顔で父王を見やった。リティルは険しい表情ながら、頷いた。

「やるしかねーよ。できなきゃノインは確実に死ぬぜ」

「でも、ノイン、気配は希薄じゃなかったね。何か、今の命にしがみつくものがあるんじゃないのか?それがあれば、生きていけるんじゃないのか?」

ラスの言葉にリャリスは、ノインが唯一大切にしているものの存在に気がついた。

「婚姻の証……そうですわ、ノインはあのピアスを肌身放さず持っているのですわ。今の今まで、無神経につけたまま、よく他の女性に会えますわねと蔑んでいたのですけれど、ノインはあのピアスで存在を保っていたのではなくって?」

リャリスの毒舌を拾いつつ、リティルはふてくされているフロインを見やった。

「おまえ、蔑んでたのか……。おーい、フロイン!おまえノインにトドメ刺すところだったぜ?」

「あの人のそばには、花の精霊がいるのでしょう?あれを壊したところで、死ぬことなどないわ」

フロインは、どこまでも冷めた声だった。

「聞いてませんでしたぁ?ノイン、ピアスの君に恋して、現実の女の子振っちゃったんですよぉ?」

「今のわたしを知れば、千年の恋も冷めるわ」

そう言うとフロインはオウギワシに化身し、高い高いシャンデリアの下がる天井へ舞い上がって行ってしまった。天井には、3階廊下へ続く隠し扉がある。そこを目指したことは容易にしれた。

 「フロイン、なぜあのように頑ななのですか?今でもノインに思われていますのよ?今の彼は、以前の彼と比べるとかなり微妙ですけれど」

「おまえ、かなり微妙って、相当力の精霊のこと嫌いなんだな?自分から婚姻を解消した手前。なのか?フロインとノインな、夫婦やってたけど清い関係だったんだ」

「霊力の交換をなさっていなかったの?婚姻関係にあって?」

精霊が婚姻を結ぶ理由なんて、それしかないのでは?と言いたげなリャリスに「そうだけどな」とリティルは苦笑した。

精霊は婚姻を結ぶと、その2人の間で特別な魔法を使う事ができるようになる。それは、交わりによって、相手の霊力を体内に留めるという魔法だ。

不老不死である精霊は、種の保存のために子を成すことはない。婚姻を結ぶのは、相手の霊力が目当てで、交わるために結ぶようなものなのだ。

リティルは、風の王妃・シェラが、無限の癒やしという力も持つ精霊であるために、その癒やしの霊力を体内に持っていて、1度だけ死んでしまうような怪我も一瞬で治すことができるのだった。

「フロイン、今でこそ精霊だけどな、あの頃、精霊獣だったんだ。しかも、肉体も希薄で、殆どノインの中にいて、出てくることも稀だったんだよな。ノインは可愛いオウギワシだとか言って、幸せそうにしてた。幸せそうじゃねーな。あいつはフロインを愛してくれてたんだ。フロインもあいつが大事だった。リャリスは見てたよな?ノインとオレが支払う代償を少しでも軽くしたくて、フロインは婚姻を解消した。それが、あいつの心を動かして、ノインは……力の精霊になって命を繋いでくれたんだ。不甲斐ねーのはオレだ。悪い……ちょっと1人にさせてくれ」

そう言うとリティルは、フラリと城の奥へ続く扉へ飛んで行ってしまった。

「あなたの精霊的年齢では厳しいですよ……。ノインは、あなたの父の願いから産まれてくれた精霊です。ノインの精神はどこまでも高潔で、揺るぎなかったではありませんか。あなたもオレも、彼にずいぶん支えてもらいましたよ。すみません。オレも休ませてください。インジュ、ラス、頼みましたよ?」

インファは寂しそうに言葉を紡ぐと、リティルの行った扉へ消えた。

「ボク、責任重大です?」

「そうだね。あのノインの位置にいるわけだし。でも、オレもいるよ。一家のみんなも」

「頼りにしたおします!みんな、早く帰ってきてくれませんかねぇ。今日に限って、みんないないって、どういうことです?」

風の城は、精霊的年齢10代から70代までの精霊が16人暮らしている。中核を担う精霊は、19才のリティルを除いて皆20代だ。ノインが抜けてしまったため、最年長は25のインファとなってしまった。

風の騎士・ノインも若くはあったが、リティルを風の王へと育てた、歴代1番長く生きた風の王の、生きた時間を持った精霊だった為に、とても成熟していた。涼やかに笑いながら、余裕で物事をこなしてしまう彼の姿は頼りがいがあった。

「風の城の皆様は皆頼りになりますわよ?それとくらべてルディルは!」

リャリスの態度からラスは、ああ、見た目年齢はあまり関係ないかな?と思ってしまった。

「でも、ルディルは初代風の王ですよねぇ?リティルも頼ってるとこ、ありますよぉ?」

「インジュ、ルディルより断然お父様の方が頼りになりましてよ?私も、気は進みませんけれども帰りますわ。ごきげんよう」

「ああ、また明日」「明日、また会いましょうねぇ」

また明日。そう言ってくれる風の城の皆がリャリスは好きだった。

リティルの養子の次男であるレイシには「なんで、風の城に住まないの?」とズバリ聞かれたが、リャリスもここにいられたらいいのにと思ってしまう。力の精霊が気になるからと言っておいたが、実はリャリスは望んではダメだと思っている。

智の精霊は、思われている以上に大きな力を司っている。そんな精霊が、世界を守るために戦う風の城に押しかければ、弱みとなってしまうかもしれない。身を守るくらいの力は持っているが、風の城のお荷物にはなりたくはなかった。

何よりリャリスは、智の精霊として未熟なのだから。


 翌朝、どうにも早く目が覚めてしまったリャリスは、自室にいるのも手持ち無沙汰で、まだ薄暗い廊下をサロンに向けてシュルシュルと滑るように歩いていた。普段は、ノインの部屋の前は避けて通っていたのだが、昨日の風の城でのやりとりで、彼に少しだけ同情していたリャリスは、中に入る気はなかったが部屋の前を通りがかった。

……?大剣を中心で交差させた細工がされた、重々しいが洗練された美しさのある扉。力の間の扉の中から、物音がする。それも、何かが壊れるような穏やかではない音だった。

リャリスは、この部屋には入ったことも覗いたこともなかった。中がどうなっているのか、知らなかった。扉に向かって耳を澄ませたリャリスは、また何かが壊れるような音を今度はハッキリ聞いて、躊躇ったが扉を開けた。

 中は、思っていた部屋とは違った。

庭か温室か?と思えるような部屋だった。

大理石の床が所々くり抜かれ、樹木が植わっている。縦に筋の入った飾りの柱の上には、プランターが乗っかっていて、花が植えられていた。淡い光を放つ、太陽の形をした間接照明がいくつも灯されていたが、部屋の中は薄暗かった。

リャリスは、扉から顔だけを部屋の中に入れて、部屋の主を捜したが、樹木などに遮られて、この部屋がどれくらいの広さがあるのかさえ把握できなかった。

リャリスはスルリと扉を越えて中に入ると、何気なく、プランターに近づいた。

……?植えられている花はパンジーとビオラだったが、その花の配色に誰かを思い出すようだった。

どうしても、そのグラマーな体に目が行ってしまうが、彼女はその波打つ金色の綺麗な髪に、野の花を飾っていた。それはパンジーやビオラではなかったが、このプランターからはなぜだか彼女を連想してしまった。

「ノイン?何をなさっているの?」

また、何かが床に倒れるような音を聞いて、リャリスはシュルリと音のする方へ近づいた。

「花も生きていますのよ?そんなことをしては可哀想ですわ」

大理石の床には、倒されたプランターから、土と共に花々がこぼれてしまっていた。

「オレは……夢を見ることも許されないのか?」

「それでこの所業ですの?」

リャリスは、転がったプランターを起こすと、こぼれてしまった花を丁寧に拾い上げて植え直していった。

「フロインだ。このピアスの贈り主は彼女だ。その確信さえも捨てなければならないのか?」

「新たに築けばいいのですわ。出禁を解かれたじゃありませんこと?以前のフロインとは、変わってしまっていますけれども」

リャリスは、プランターに花を戻し終わると、土で汚れた手をパンパンと叩いた。体を起こそうとしたリャリスは、ノインに両肩を掴まれていた。

「以前の彼女を知っているのか?」

「……対価、お支払いになりますの?」

「払う」

「本気ですの?ああ、お父様、お兄様、聡明なノインは本当に死んでしまってよ?仕方のない方ですわね。過去など知っても、凹むだけですわよ?聞くのならば、今のフロインになさいまし」

「教えてくれると?」

そんな、期待の眼差しで見られると、私も揺れてしまってよ?とリャリスは、ノインに少し心が近づけた。

「私固有の知識ですわ。対価は必要ではなくってよ?その前に!お花!戻してさしあげて」

リャリスは両手を腰に、胸を反らした。ノインは、一瞬ぽかんとしたが、ああと踵を返すと、木々の向こうへと歩いて行った。その後ろ姿が、とても心細く見えてしまった。

「……本当に、小さな子供みたいですわね。お父様……なぜ、こんな人から手を放してしまわれたの?」

――ノイン、生きろ!オレはおまえに、生きていてほしいんだ!

力強く真っ直ぐなリティルの声が、リャリスの耳に蘇る。

力の精霊にならないと、そう選択したノインにリティルはそう叫んだ。もう、死を目前にしていたノインに、葬送の力を持つリティルは近づくことさえできなかった。

――リティル!オレは、おまえの騎士以外、何者にもなれはしない!

揺るぎなく言い切ったノインを、リティルは「おまえはもう必要ないんだ!」と絆を断ち切り、その命だけを救った。

リティルとの絆を断ち切られ、ノインは、本当に命以外のすべてを失ってしまった。それが、転成なのに、新たに産まれたようなあやふやな状態を生んでしまったのだと、リャリスは思った。

2人、お互いがとても大切だったのに……ノインはリティルを忘れ、リティルは彼のすべてを奪ったと、ノインに近づけなくなってしまった。応接間で、寂しそうにしているリティルを知っているだけに、何もしないで太陽の城に引きこもっているノインに怒りが湧いてしまった。

ノインのことを、知りもしないで私は……。

 リャリスは、シュルリとノインの行ったほうへ行ってみた。

木々に遮られた向こうへ抜けたリャリスは、思わず立ち止まっていた。

真っ白なクジャクと、大きなワシミミズクが、同時にリャリスを見たからだ。

色は違うが、クジャクとフクロウは風の王の配下の鳥だ。

クジャクは王の右翼を担い、フクロウは王の左翼を担う。共に、魂を葬送する重要な鳥だ。これは、偶然だろうか?

「サーリー、スレイ、威嚇するな」

サーリー?スレイ?リャリスは、ノインが呼んだ2羽の鳥の名に、この人、本当に記憶がないんですの?と思ってしまった。

風の王のクジャクの名は、インサーリーズ。フクロウの名は、インスレイズと言うのだ。ノインに威嚇するなと言われ、2羽の鳥はあっさり引き下がった。

「気に入られたな。キンモクセイは未だに慣れない」

「あら、私お友達になれそうですわね」

緊張気味に、プランターを片づけるノインに近づくと、2羽は場所を空けるようにクジャクはゆっくりと歩き、フクロウはその大きな翼を広げた。

彼等の姿を目で追うと、フクロウは柱に取り付けられた止まり木に留まった。クジャクは、網目状のドーム型の屋根を持つ小屋に入り、座り込んだ。編み目の屋根にはジャスミンを模した陶器の花が咲いていた。リャリスには、とても、見覚えがあった。

「……あなた、何か覚えていることがあるのではないのですの?」

「ない」

「じゃあ、この部屋は何なのですの?」

「漠然としたイメージを元に造った。夢に見ていることも、目覚めるとすべてが朧気になる。何か感じるのか?ルディルもレシェラも教えてはくれない」

それはそうでしょうとも!とリャリスは、頭を抱えたくなった。

「この部屋のいろいろな物、鳥達、もっとくまなく見たらまだいろいろ出てきそうですけれど、風の城の住人や部屋を連想させますわ!そのプランターの花なんて、彼女を知っている人が見れば、誰をイメージしているのか一発ですわよ!」

「誰だ?」

ノインは顔を上げ、リャリスをジッと見つめてきた。

「言わせますの?フロインですわ!彼女の髪、見ませんでしたの?」

「そうか、やはりな。彼女がオレの前に舞い降りたとき、その髪に飾られた花を見て戸惑った」

だから、彼女が攻撃してきたとき、反応できなかった。フロインを一目見て、彼女を知っていると思ったからだ。

「あなた、なぜ城の外に出ませんでしたの?」

もっと早く、風の城に行っていれば、何かが違ったと、リャリスは思った。こんなに、焦がれているなら、早くリティルに会うべきだったのだと強く思った。思って、リャリスは、ノインは一度この部屋でリティルに会っていることを思い出した。

リティルは知っていた?この部屋のことを?なのに、なぜ、ノインを出禁にしたのだろうか?あれ?とリャリスは、リティルの行動に疑問を持った。

「リャリス、おまえはこの城を暖かく感じているか?」

ノインはプランターに花を戻す作業に戻っていた。

「それは、太陽のお城ですもの。暖かいですわよ?」

「オレには、凍えるほどに寒い。唯一温かいこの部屋から出たくはない。城内でこの寒さだ、外はもっと寒いのだろうと思っていた」

「どうでして?風の城はどうお感じになったの?」

「……オレは、捨てねばならないのか?」

残っているのでは?リャリスは唐突に思った。ノインの中に、風の騎士がいるのでは?とリャリスは思えた。

「ノイン、胸の内、風の王様と副官様にお話になった方がよろしくてよ?お父様は……ちょっとあなたを前にすると、いつものお父様ではなくなってしまいますけれど、お兄様なら冷静に聞いてくださいますわ」

ノインにも風の城が必要なのでは?と凍えるほどに寒いといいながら、ルディルの世話を焼いていた彼が、風の騎士が持っていた強靱な精神力を失わず持っている事を知った。

「リティルはなぜ、オレを嫌う?」

ノインは、声色こそ普段通りの落ち着いた音をしていたが、俯いたその様子は気落ちが見て取れた。

 そんな寂しそうに……とリャリスは絆されそうで困った。名も呼べないなんて、一度会ったことがあるという2人に何があったのだろうか?と思わずにはいられない。

リャリスの目から見て、リティルは見た目以上に大人だ。ノインがそばにいなくなって寂しいとそう明かしてくれたのに、本人を前にすると頑なに拒否する。

フロインもだ。インジュが、フロインはやさぐれていると言っていたが、未だにそんなに好きなら、新たに関係を築けばいいものをと思ってしまう。

気持ち悪くて嫌だが、そんなところはあのキンモクセイを見習えばいいと思う。

「嫌ってはいませんのよ。ただ、失われたあなたを思うと……。お父様、ご自分のことを不甲斐ないと言っていましたわ。いいじゃありませんこと?お兄様はあなたを受け入れると言ってくれていますのよ?」

「インファ……彼の風は暖かく、懐かしささえ感じた。……まだ、夜明け前か」

ノインは高い壁のステンドグラスを見上げた。木の葉の舞う絵が描かれたステンドグラスは、まだ、光を受けずに暗く沈んでいた。

あの丸い窓、絵は違いますけれどあの部屋を連想してしまいますわね。と、リャリスはインファにこの部屋を見せて感想を聞いてみたいと思ってしまった。

 寒いと心許なげなノインは、夢のくれるイメージでなんとか自分を保っているようだった。こんな人から、本当に夢を取り上げてしまっていいのだろうか。リャリスは、不安になった。失った記憶。本当に彼にとって害なすモノなのだろうか。

ルキルースに今日行くのだが……リャリスはシュルリと身をくねらせると、ノインから無言で離れた。

「お兄様、起きてらっしゃいます?」

リャリスは木の裏に身を隠すと、水晶球を取り出して、悪いとは思ったが思い切ってインファに呼びかけてみた。まだ寝ていると思っていたが、眠っていたところを起こしてしまったとは思えない、インファの声が返ってきた。

『おはようございます。どうしました?』

優しく労るようなインファの声にホッとする。

「お兄様……あの、ノインのことなのですけれど、夢を、本当に奪ってしまってよろしくって?」

『何かありましたか?いろいろ暴露してしまいましたからね。反発というんですか?動きがあるのでは?とは思っていました』

「お兄様、今から来られませんこと?」

『太陽の城に。ですか?そうですね。父さんも寝ているようですし、行きますよ』

こんなにすんなり、行くと言ってくれるとは思わなかった。インファもまた、太陽の城にはあれから1度も来てはいないのだ。

「こっそり火の鳥に案内させますわ」

『よろしくお願いします』

では。と言ってインファは水晶球から消えた。

 ハアとリャリスは腰が抜けそうになって、こうしてはいられないと、廊下に急いだリャリスは、太陽の城の召使い精霊である火の鳥を呼んで、雷帝・インファをここへ連れてくるようにと手配したのだった。

 あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。

ノインがぶちまけてしまったプランターを黙々と直し、さて、最後の1株になったというころ、サーリーとスレイが反応した。

「インファ?」

ノインはあからさまに驚いて、動揺していた。この部屋は風の城に似ているとリャリスに言い切られたところで、インファに知られたくなかったのかもしれなかった。だが、向き合ってもらう。少しの恥ずかしさなど感じているときではないのだ。

「すみません。あなたの様子がおかしいと、聞いたものですから」

インファが苦笑して、木々の間からこちらへ出ようとすると、2羽の鳥がノインが止める間もなく翼を広げた。インファが襲われる!と思っていた2人は、2羽の鳥の行動に驚いた。

「人懐っこいですね。そうですか、サーリーとスレイという名なんですね?フフフ、あなた方の主人と話したいので、今はこれで許してくれませんか?」

ワシミミズクを握った拳に乗せて、クジャクの細い首を撫でてやるインファに、2羽はもっと撫でろといわんばかりの態度だった。

「さすが鳥、ですわね。なぜ私にも友好的だったのですの?」

インファが襲われずにホッとして、リャリスはそう言えばなぜ?と首を傾げた。

「考えられるとするならば、父さんやインジュの匂いが移っているのではないですか?」

「まあ、私にですの?それは、嬉しいですわね」

2羽の鳥と共に、インファはノインとリャリスに近づいた。

 そして、2人の間にあるプランターに気がついた。

「フロインは、風の騎士の中にいて、霊力を常に送っていましたね。風の王の守護鳥とは名ばかりでしたよ」

急に、フロインの話を始めたインファが、この花たちに何を思ったのか、確かめなくてもわかった。インファも、このプランターにフロインを見たのだ。

「それはその、四六時中一緒だったということですわよね?」

「ええ、そう聞いていましたよ?ので、キンモクセイのことは知っていました。ノインは、花の精霊達と交流がありましたからね」

オレはとても花園には近づけませんと、インファは首を竦めた。

「では、フロインは、この城にキンモクセイが来ていることを知っていたのか?」

ノインが、口を挟んできた。

「知っていたと思いますよ?あなたが転成だということも、知っていたでしょうね。彼女のあれはどうやら、嫉妬というのか、浮気されて怒り狂っているといいますか。とにかく、心中穏やかではなかったことは確かです」

インファは悠長に構えすぎていたことを後悔していた。

初代風の王のルディルがいるのだ、ノインは大丈夫だと思ってしまった。風の城は表面上平穏無事のようだったが、実はそうではない。ノインを失って、業務は滞りなくても、内面はボロボロだった。そのためインファは、リティルの心を支えることを優先し、やっと、めどが立ったところだった。

リティルが落ち着けば、ノインと名乗る力の精霊に会ってもいいと思っていた。インファもずっと、親友と同じ名の力の精霊に興味があったのだ。

 しかし、リティルとフロインの隠し事は、とんでもないモノだった。

力の精霊・ノインは、容姿だけなら、風の騎士・ノインだったからだ。

死んだと思っていた親友が実は生きていて、ただ、すべてを失っただけだったなんてこと、一目で悟らせないでほしかった。

寝不足も相まって、気絶しそうなほど驚いたのだ。ノインの為に、気合いで踏みとどまったにすぎない。

「あら、脈ありですわね。よかったですわね、ノイン。お口説きになるのでしょう?」

しかし、ノインは浮かない顔をした。

「それは、取り返しのつかないことを、したのではないか?」

「そうですの?フロインは正妻で、あの花は浮気相手……あら、アウトですわね。フロインに引っ叩かれても文句は言えませんわね」

「引っ叩かれるなら、まだ希望は残っているかもしれないが……」

リャリスの容赦ない毒舌に、ますますノインは落ち込んだ。

「婚姻の証を壊しにきましたね。激怒ということになりますかね?フロインの態度は理不尽ですが、どうしたいかは、あなたに任せますよ、ノイン。風の騎士も、フロインにはずいぶん言葉を尽くしていました。彼女は風の騎士の妻の座にふさわしくないと、葛藤していたようでしたからね」

「あら、そうですの?私の目からは、ずいぶん信頼した絆を感じていましてよ?」

長い間見ていたわけではない。リャリスが風の騎士だったノインと関わったのは、ほんの一時だ。だが、それでもわかる。2人は、2人で1つのようだった。

もしも本当にノインが命を落とすことになったのなら、フロインも共に逝ってしまいそうなほど、想い合っていたように見えた。

「……お互いに、父さんが1番大事でしたからね。騎士と守護鳥です。息はピッタリでしたよ。オレは恋愛相談には乗れません。得意なのはインジュなので、相談があるのなら彼にしてください。ノイン、この部屋のことをいくつか質問してもいいですか?」

風の騎士・ノインほどの人が、こんなに何もかも失ってしまうなんて、インファも信じられない。

それを目の当たりにしたリティルは、さぞ傷ついたことだろう。

ノインは死んだ。力の精霊とは関係がない。

そう言いたい気持ちはわからないでもない。だが、姿、名前、それが示すところは転成だ。それを知るリティルが、なぜここまで拗らせてしまったのか、インファには謎だった。

「構わないが、答えられることは少ない」

「ええ、構いませんよ。早速ですが、サーリーとスレイはモデルがありますか?」

「いや。リティルと戦ったあと、気がつけばここにいた。オレが造ったのかすら危うい」

「なるほど、了解しました。では、このプランターの花は、雰囲気がフロインです。フロインだと自覚していますか?自覚したのはいつですか?」

「昨日、彼女に出会った時だ」

「お兄様、聞いてくださいまし!この人、フロインに拒絶されて、それでプランターをひっくり返して回っていたのですわ!」

ノインらしからぬ行いだと思ったのだろう。インファは一瞬瞳を「え?」と意外そうに目を丸くした。そして、すぐに困ったように笑った。

「そうですか……。彼女は手強いですよ?あんな容姿と性的魅了ですからね」

「引く手あまたということか?」

「魅了の力がダダ漏れなんです。彼女に言い寄ると血を見ますからね。魅了の力を持つ精霊と組ませてしか、城から出しません。フロインは、自分の魔法にかかっているのかそうでないのか見抜きますからね。彼女を落としたいのであれば、理性を強く持ってください。さて、次の質問ですが……」

 インファは、辺りを改めて見回した。

壁の円い窓、あれは、風の城にあるピアノホールの天窓に似ている。風の城のステンドグラスは、オオタカと花の姫が戯れる絵が描かれている。明るい配色の華やかな天窓だ。こちらは、木の葉の舞う絵だが、紅葉した葉と光のような黄色を基調としているため、控えめだが明るい絵となっていた。

残っているんですね……何もかも失ってしまった。そう思ったが、断片的とはいえ、これだけ見られれば、嘆きも少しは癒やされる。

 悲しむばかりではダメだ。

ここに生き残ってくれた親友を、守らなければならない。一時は本当に絶望したのだ。緩やかに死へ向かう彼を、救う術がないと……

「インファ、この城をどう思う?」

しばし、部屋の様子を観察していたインファは、ノインに問われて視線を戻した。

「はい?太陽の城の事ですか?暖かく心地よい空気の城ですね。太陽王夫妻の人となりが出ているのではないですか?」

「そうか……」

「ノイン、お兄様にお話なさいよ。あなたがおかしいのは、明白ですわ」

「リャリス……あなたは少し辛辣すぎますよ?ノインの何が気に入らないんですか?」

「それは……気持ち悪いと思っていましたのよ!」

リャリスは嫌悪感を露わに叫んだ。思わぬ言葉に、インファは思わずノインと顔を見合わせて首を傾げた。

「あの花ですわよ!キンモクセイ!この人が婚姻を解消した途端ですもの。この人も追い返さないのですわ!そういう関係なんだと、思いますわよ!」

「誤解だと言っている。オレがこのピアスを外さなかったのは、誰とも恋愛しないという意思表示だ」

「無神経な人だと思っていましたわ!婚姻の証をこれ見よがしにしていながら、別の人と!お兄様!毎日ですのよ?毎日、あの女来るのですのよ!来ればこの部屋に引っ込んでしまいますの!太陽夫妻にも公認でしたのよ?」

それを聞いて、インファは堪えきれずに吹き出していた。

「――ノイン、変わっていませんね。あなたは他意なく、そういうことを平気でしてしまう人でしたよ。オレのことは美形だと褒めるくせに、自分のことはわからないんですよね。父さんがぼやいていたことがあります。フロインは嫉妬しないのか?と。していましたよ。フロインは嫉妬深いですからね。最初の頃はよくケンカになって、本気で困っていました。フロインの怒りの理由がわからないと言うもので、潔白なら言葉を尽くしてみては?と言ってみました」

「それで、なんとかなりましたの?」

「しばらくして、フロインはノインの中から、殆ど出てこなくなってしまいましたからね。オレではわかりかねますが、夫婦仲は風の王夫妻に次いでよかったと思いますよ?ノインは簡潔な物言いですから、伝わらないと思っていたのか、フロインとはよく会話していたと思います」

「ノイン、信じていいのですわよね?」

キッと睨むリャリスに、ノインは困ったようにため息を付いた。

「おまえも疑り深い。この花々の世話の仕方を教わっていただけだ」

「レシェラを頼ればよろしかったのよ!彼女は、元花の姫ですわよ!」

人選が間違っていますわ!とリャリスは再び声を荒げた。

「……そうなのか?」

「呆れた!あなた、仕える主のことも知らないのですのね」

「そこが、風の騎士・ノインとあなたの著しく異なる点ですかね?動かなかった理由があるんですか?」

ノインはため息を付くと、2人を低い階段の上にある東屋に誘った。

本当に、フロインの色をした花ばかりだなと、東屋の低い壁に取り付けられたハンギングを見て、インファは思った。

白い円柱型の東屋。中に置かれた、石のスツールとテーブル。風の城の中庭にある東屋その物だった。リャリスも気がついたようだ。ハアとため息をついていた。

「知ることが、怖かった。目覚めてから、疑問は怒涛のように湧いた。だが、知ってはいけないという想いが、強く残っていた」

「あなたは、父さんとそんなにヒドい別れ方をしてしまったんですか?それとも、風の騎士はあなたが詮索しないように、そんな想いを残して逝ったんですか?」

「ヒドい……かもしれませんわね……。ノイン、あなたはたぶん、風の城の事を思い出してはいけないのですわ」

――ノイン!どうして、わかってくれねーんだよ!いらねーんだよ、おまえなんかああああああ!

あの時、リティルは必死にノインの命を守ろうとしていた。風の騎士としてはもう生きられないとわかってしまったノインを、いらないと突き放し、力の精霊になっても生きられると、諭していた。そして、風の騎士・ノインは答えを出した。

風の騎士を殺し、力の精霊となることを。

風の騎士・ノインが言った最後の言葉。その言葉が、力の精霊・ノインの心を縛っていることに、リャリスはやっと気がついた。

――リティル、今まで世話になった。さらばだ。オレの、生涯ただ一人の主君

力の精霊は風の精霊ではない。風の王を主君とは仰げない。風の騎士・ノインにとって、リティルは命その者だったのだ。思い出してしまったら、どうなるの?リャリスは恐ろしくなった。ノインの精神が崩壊してしまうのでは?と心配になってしまった。

「なぜだ!皆が暖かいというこの城を、オレは受け入れられない。夢の中の温かさ、おまえやインファがフロインだと言い切るこの花だけが、オレに体温を戻す。それを失って、生きていけるとは思えない」

声を荒げたノインに、リャリスは口を噤んで俯いた。彼の憤りが怖かったのではない。彼をどこへ向かわせればいいのかわからなかったのだ。インファがポンッとリャリスの肩に手を触れた。剥き出しの肌に、血の繋がらない兄の手の温かさ染みこんできた。

「……重症ですね。リャリス、きちんと見ていてくれなければいけませんよ?」

優しく諭すインファの声に、恋愛に現を抜かしていたのは私だったとリャリスは気がついたが、リャリス自身、しがみ付かねば不安でたまらなかった。

縋った当時、大いに翻弄されて戸惑っていたインジュは、何があったのか恋人の真似事をいつしか許してくれていた。そして動けなくなった。触れられない彼の、居心地がいいその隣から。

優しい精霊達、笑顔の絶えない城。リャリスも孤独を癒やされ、護られていた。それをノインは受けられない。過去、腕を切り落とされても放せない強固な絆があったばかりに。

「夢の中……具体的にはどんな夢なんですか?」

「目覚めると消えてしまう。だが、誰かがオレの名を呼んでいたことだけは覚えている。彼に名を呼ばれると、癒やされる。レシェラがそれはリティルだと言っていたが、彼は名を呼んでくれない。確かめられない」

「父さんに名を呼ばせるのは、今となっては至難の業です。1度、太陽の城に行ってから、風の騎士のこともあなたのことも、話題にしづらくなってしまったんです」

帰ってきたリティルに「新しい力の精霊はどうでしたか?」と聞ける雰囲気ではなかった。ルディルに聞いてみたが、言葉を濁し「ノイン、出禁にされたわ」と返ってきた。

それからは、風の通常業務をこなしながら、これはまったく問題なかったのだが、ノインを失った哀しみは、城を蝕んだ。インジュとラスと3人で、哀しみが死を招かないように守っているうち気がつけば半年経っていたのだ。

「出禁にされてしまったからな。”ノイン”という名に、何かあるのか?リティルは、自分の名を呼ばせることは許してくれたが、名を呼んでくれないか?と提案したとき、泣かせてしまった」

泣いた?まさか、父さんがノインと関わらなかった理由は、とても私的なことだったのでは?とインファはリティルに疑問を持った。

理由もわからず、風の王を泣かせてしまったノインは出禁にされてしまい、太陽王の手前、強行できなかったのだ。それがわかった。

「!……何をやっているんですか?父さん。リャリス、風の城へ行って、オレとノインは先にルキルースへ行くと伝えてくれませんか?フロインを、嫌がっても連れてくるように念を押してください」

「わかりましたわ。お兄様」

リャリスは、シュルリと身をくねらせると走るように東屋を飛び出していった。

「……彼女は、貴殿の言うことには素直に従うのだな」

「妹ですから。それとオレのことは、貴殿ではなく、おまえでいいですよ?オレとあなたは対等です。さて、思っていた以上に事態は深刻なようです。ルキルースへ行きます」

「おまえ」とは、対等なのか?とノインは戸惑いを見せた。「対等ですよ?」とインファは言い切ってみた。

「手放さなければならないのか?」

「それも含めて、最善の道を探します。心配しないでください。あなたに苦痛を強いるようなことはしませんし、させませんよ。多少、苦悩はしてもらいますが」

行きましょう。と、インファは右腕を差し上げた。チャラっと小さな音を立てて、彼の右手首にあった球のビーズのブレスレットが鳴った。

夜へ通じると思われる穴が突如目の前に開き、インファは戸惑うノインを促すと、その中へ慣れた様子で入って行った。


 ルキルースへの扉を潜ると、そこは薄日が差し込む城内だった。

藍色の細長い絨毯が、扉のないアーチから数段上の玉座まで続いていた。尖頭窓はカーテンが開かれていて、そこから太陽の光が差し込んでいた。

「あれ?インファ?」

影になった玉座の辺りから、声変わり前の少年の声がした。

「こんばんは、ルキ」

「こんばんは……ノイン」

目を凝らすと、玉座に置かれた黒いクッションの上に、小さな影が蹲っていた。闇色の紫の瞳だけが、異様に目立ってこちらを伺っていた。

「こ、こんばんは」

インファに促され、ノインはぎこちなく挨拶した。

「彼は幻夢帝・ルキです。ルキ、ノインの夢の観測していましたよね?どうでした?」

「インファ!黙っててごめん。でも、どうすればいいのかわからなかったんだ!リティルには相談しにくいし、インファも……頼っていいのかわからなかった!」

ピョンッと飛び降りてきたルキは、一直線にインファに抱きついていった。ノインは、幻夢帝だと紹介されたところで、イシュラースを2分する国の王が、王ではない精霊にこんな行動を取るなど信じられなかった。インファは、飛びかかってきたルキを受け止めて抱っこすると、思わずヨシヨシと頭を撫でた。

「あなたは、ノインと仕事するほうが多かったですからね。父がすみません。あなたから見ても、余裕なく見えていましたか」

ルキの方は余裕なかったようですね。と、ルキが取り乱す姿を見たことがなかたインファは、少し驚いていた。驚きすぎて、思わず抱き上げて頭を撫でてしまった。

それはあとで謝ろうと、インファは思ったのだが「あ、インファに撫でられるのもいいね」とルキがニンマリ笑ったので「恐縮です」と返しておいた。

ルキの頭を撫でるのは、インファが知っている限りでは、リティルとノインだけだったのだった。

「風の城に、ノインはタブーなんだと思ったよ」

落ち着きを取り戻したルキは、インファの腕からトンッと降りた。落ち着いたようで何よりだ。インファの性格では、幻夢帝を抱っこして頭を撫でるというのは、普段では決してできないことだったのだから。

「すみません。風の城を運営することで、精一杯だったんです。父さんが、力の精霊と風の城は一切関係ないと公表していましたからね、平気なように取り繕わなければならなかったんです」

見た目は正常、でも内面はズタボロ。ルキもノインの夢に気がついて動揺していたために、これまで窓口はノインだったために、誰に情報を流していいものか見極められなかったのだ。

「はああ、ごめん。君にばっかり背負わせたね。で?リティルは?」

長いため息を付いて顔を上げたルキは、普段の幻夢帝・ルキの顔に戻っていた。

「リャリスに伝言を頼んだので、すぐ来ると思いますが……フロインの説得に手間取っているかもしれませんね」

「フロイン?外に出していいの?性的魅了ダダ漏れ状態だよね?」

「ええ。父さんが一緒なら問題ありません。原初の風の所有者ですから」

「……インファは、大丈夫なの?」

「はい?オレの妃は宝石の精霊ですよ?宝石は魅了の女王です。彼女の霊力がありますし、オレの理性は化け物だと定評がありますからね、平気ですよ」

インファは首を傾げた。インファは加えて女嫌いだ。基本的に、色香に惑うことはないのだった。

「じゃあ……」

ルキは、チラリとノインを見た。

「未知ですね。風の騎士は彼女に首に始終抱きつかれていても、ケロッとしていましたが、なぜ平気なのかオレにも謎でした」

フロインは胸が大きい。あの存在感は、インファが妃をいかに愛していても、フロインに対してそんな気は微塵もなくても、押しつけられたら平常心は難しいなと思えるレベルだ。

ルキはノインを見上げて、同情するような目をした。

「ノイン……フロインそういう目で見ると、たぶん殺しに来るから気をつけた方がいいよ」

2人の視線に居心地悪さを感じながら、ノインは肩をすくめた。

「彼女の方から、オレに近づいてくるとは思えないが……」

自分で言って凹む。敵意剥き出しの彼女と、せめて穏やかに話せる日は来るのだろうか。ノインには、前途多難に思えてため息が零れそうだ。

「あなたはキンモクセイに言い寄られていましたよね?そういうふうに、蹌踉めかなかったんですか?」

「?ないが?」

ノインは本当にわからない様子で、首を傾げていた。ああ、花の精霊の魅了も大した物なんですけどね……とインファは、魅了の力を使っただろうキンモクセイに同情した。

それとも、あのフロインのピアスのせいなのだろうか。

「そのピアス、外せと言われませんでしたか?」

「1度だけ言われたが、この贈り主を捜していると言ったら、キンモクセイは納得した」

それは納得ではなく、脈無しだと悟ったのでは?と風の騎士ばりに鈍いノインに、インファは苦笑いを浮かべた。

「ノイン、フロインは敵意剥き出しなわけですが、いいんですか?彼女で」

「彼女でなければならない」

「熱いね」

「そうか?ここは肌寒い」

「いや、部屋の温度じゃなくてさあ!ノインとこんな話、考えられないよ!」

からかいが通じなかったノインに、ルキはずっこけそうになってなんとか踏みとどまった。

「彼は清廉な空気を纏っていましたからね。加えてフロインがベッタリくっついていては、女性の話など振りようがないですよ」

「そうだね。ノインって面倒見がよくて無防備だったから、夢魔にも人気があってさ。フロイン、希薄な存在で頑張ってたんだね」

ルキは、しみじみと過去に想いを馳せていた。

「ルキ、そろそろ本題いいですか?」

「うん。この夢、ちょっと危険だよ」

ルキは、急に真面目な表情になった。すると、辺りに暗く、不安を煽るような空気が満ちた。ノインは思わず寒そうに腕をさすった。それを見たインファが、すすすとノインのそばに移動した。インファの存在は、温かく、寒さを遠ざけるようだった。隣を見やると、インファはチラリと視線だけをノインに向け、ニッコリ微笑んだ。

 副官と補佐官。彼と肩を並べて風の王を支えていた過去があったことを、ノインは未だに信じられない。

あの城で、オレはどんなだったのか、ノインには想像できなかった。険悪な顔しか知らない、あのリティルと、どんな関係を築いていたのか、夢で呼ぶあの声がリティルなら、仲は悪くなかったはずだと思えた。

「この夢は強すぎるんだ。そのうち、ノインの精神を侵食して、下手すると夢から出られなくなる」

「そんな恐ろしい夢なんですか?」

それは予想以上だ。インファは険しい顔で問うた。

「幸せなんだ。温かいんだ。ノイン、君は今とっても無気力だよね?現実より、夢の方がいいってすでに思ってない?」

「そこまでは言い切れないが、この夢を失いたくないとは思う」

「ノイン、この夢は捨てた方がいい」

ルキはジッとノインを見上げていた。リャリスと同じ事を言われているが、彼には怒鳴る気にはなれなかった。

「それしかありませんか?」

インファの手が、ノインの肩に置かれていた。グッと力を込められる手の強さに、インファの想いが伝わってくるようだった。

「なくなっても問題ないよ。ノインには記憶がないんだからさ。フロイン捕まえるんでしょう?インファと、風の仕事これからすればいいよ。現実を生きないと、夢は現実を食い破る魔物になっちゃうんだ」

「夢から出られなくなった精神は、どうなるんですか?」

「……こっち」

ルキはついて来てと2人に促し、扉のないアーチへ向かった。

 アーチの先は廊下だ。薄暗い天井には、どこかの風景が描かれていた。とても緻密な絵であることは下から窺い知れたが、勿体ないことに暗くてよく見えなかった。

長い廊下に、1つだけ扉があった。鉄格子だ。

ルキはその扉を引き開けた。中から漏れる空気が、生暖かい。そして、甘ったるいような匂いがした。

「あれは、夢邪鬼。夢に喰われた精神のなれの果てだよ」

天井から下がった巨大なラッパの口から、ポトポトと、男女の判別のできない笑い顔の影が落ちてきていた。どうやら、ここにその夢邪鬼を集めているようだ。

バルコニーから見下ろす下は湖と森が広がっていた。

「ああなるともう、どうしようもないんだ。見てごらん」

ルキが指さす方を見やると、湖の水が盛り上がるところだった。そこから、象に似た長い鼻の、毛むくじゃらな動物が頭を出した。かなりの大きさだ。

「獏だよ。グロウタースでは悪夢を食べるなんて言われてるけど、実際は、このルキルースに入り込んだ異物を排除する掃除屋なんだ。ノイン、あれに食べられたくないでしょう?」

「目覚めて半年で喰われて終わるというのは、いささかいい終わりではないな」

「でしょう?風の城の出禁解いてもらってさ、しばらく住んでみたらいいよ」

ここに長居はよくないというように、ルキは2人の背を押して入ってきた扉を潜った。

 3人は、玉座の間まで引き返した。まだ、リティルとフロインの姿はなかった。

「出禁は解いていますよ。父さんは関わらないの1点張りですが」

「リティルがそんな拒否するなんて、信じられないよ。殆どのこと笑って許しちゃうのにさ。君、何したのさ?」

「……わからないが、名を呼んでほしいと言ったことが、彼の機嫌を損ねたらしい」

「名前?」

ルキは説明を求めるようにインファの顔を見た。

「名を呼べなかったようですが、理由はオレにもわかりません。ルキ、風の騎士と父さんに何があったのか、彼の死の記憶を見たいと思います」

「え?リティルに許可いらない?」

ルキの瞳が大きくなった。

「独断で動きたいところですね。いっそ、ノインに記憶をすべて戻し、葛藤してもらったほうがいいような気がしますよ。しかし、風の騎士と父さん、フロインの間であの時何があったのか、知らずには決断できません。今回の事案、父さんはまったく当てになりませんし」

風の騎士・ノインは、風の王・リティルにとって大きすぎる存在だ。正常な判断はおそらく困難だろう。

インファは早々に、父王を頼ることをやめた。

「インファ、その記憶、オレも共に見てもいいだろうか?」

「それは許可できませんね。風の騎士が今もあなたを守っているとしたら、オレは彼の想いを無駄にすることはできません。彼は、オレの相棒であり親友でした。そして、大事な家族だったんです。あなたがこんな状態になってしまったのは、オレのせいです。オレは、今あなたが生きていてくれていること。それだけで十分なんですよ。ですが、必ず最善の道を探しますよ」

インファの強い意志に、ノインは何も言えなかった。

「やれやれ、わかったよ。レジーナのところに扉開いてあげるから、行っておいで。リティルのことはここで足止めしといてあげる。リティルの事だから、ノインの記憶見せないように頼んでるかもだしさ」

ルキが指さすと、空間が歪みどこかへ通じているらしい歪みが現れた。

「ええ、レジーナの攻略は容易ではありませんが、頑張ってみます。ノイン、ここで待っていてくれませんか?寒いのなら、ルキを抱っこしていると温かいですよ?」

『そうそう、ノイン、よく抱っこしてくれたよね?』

ルキはニンマリ笑うと、半端な毛の長さの、2股に分かれた長い尾を持つ黒猫の姿に化身した。インファがニッコリ笑って歪みに消えていく中、ノインは猫に抱っこをせがまれて戸惑っていた。真面目な彼の事だ。幻夢帝を抱っこなどできるか!と思っているに違いない。


 インファが歪みを越えると、背後でそれは消えてなくなった。

顔を上げたインファの目の前を、ハラリ、ハラリと淡く輝く桜の花びらが舞い落ちていった。花曇りの夜空を、無数の花びらが舞っている。周りには満開の桜が咲き乱れ、淡い輝きを放っていた。

インファは、イヌワシの翼を広げ、一気に丘を飛び越え、その丘の上に立つ大きな桜の古木の前に舞い降りたのだった。

「おはようございます。レジーナ」

桜の古木の中腹辺りに、身長を優に超えた真っ直ぐな黒髪の乙女が、瞳を閉じて浮かんでいた。この万年桜の園の主、記憶の精霊・レジナリネイだ。

インファの声で、レジーナは微睡んだ瞳を開き、眠そうにしながらも、フワリと黒地に桜の花の模様の振り袖をなびかせながら舞い降りてきた。

「インファ」

「レジーナ、風の騎士・ノインの死の記憶を見せてください」

レジーナは、瞳をゆっくりと瞬きした。

「リティル、ダメ、言った」

「でしょうね。しかし、このままでは、力の精霊・ノインが死にます。オレは決断を迫られているんです。レジーナ、ノインを救ってください」

レジーナは無表情ながら、インファに縋るような視線を向けていた。

「ノイン、永遠の、眠り、つく?レジーナ、忘れられた、哀しい。記憶、戻したい。レジーナ、できる。でも、リティル、ダメ。なぜ?」

「それを探るため、必要なんです。あの場にいたのは誰ですか?」

「風の騎士・ノイン、風の王・リティル、智の精霊・リャリス、風の王の守護鳥・フロイン。インファ、ノイン、死ぬ、ダメ。助けて」

「ええ、助けますよ?全霊をかけて。というと、彼は怒りますけどね。レジーナ、お願いします」

レジーナはうんと頷いた。

そして、桜に背を預けて座るように指示すると、インファの額にそっとキスをした。

 途端に、インファの意識はここではないどこかへ引っ張られた。

「オレは……力の精霊にはならない」

どこかわからない、見覚えのない洞窟の中に、風の騎士・ノインの力強い声が響いた。

やはり、ノインは力の精霊になることを1度は拒んだのだと、インファは思った。彼はおそらく、記憶を失うことを想定していただろう。そして、力の精霊になってしまっては、風の王・リティルの下へは戻れないこともわかっていた。

もしや、リティルと風の騎士との間で、死んだことにしろという取り決めがあったのだろうか?インファは記憶を失ったノインを見て、皆が悲しむと危惧した彼の遺言だったのか?と邪推した。

 ノインの言葉を聞いたリティルはため息を付くと、彼に近づかないまま、ギロッと睨んだ。

「ノイン、生きろ!オレはおまえに、生きていてほしいんだ!」

リティルの言葉も、インファの思った通りだった。父は真っ直ぐに、生きることに拘る。死んでしまったら終わりなのだ、それは正しい。

だが、ノインにとっては地獄だ。

ノインは、リティルの父だった先代風の王・インに代わり、リティルを支えるために生きてきた精霊だ。その魂を捨てて、別の者に仕えることは死に等しい苦痛だろう。そしてそれはもう、ノインという人格を否定することと同じ事だったはずだ。

「リティル……だが、力の精霊となってしまえば、オレは、インの願いを失うことになる。インの願いはオレの魂その者だ。それを失い、命をながらえたとして、それは生きていると言えるのか?」

ノインは、インファが思った通りのことをリティルに訴えた。そんなノインの心をどうやって覆したのか、インファはずっと疑問だった。

リティルが1番大切だった記憶を失えば、それで生きていけるのか?

いや、かつて、風の騎士・ノインが目覚めた時リティルと父である14代目風の王・インがしたように、対価として差し出したリティルと親子だった記憶の消去でさえも、インの「どんなことをしても、リティルを守りたい」という願いを消し去れなかった。

強い想いは、記憶を凌駕して残ってしまう。それを体験したノインは、同じ状態に陥ることを悟っていたはずだ。

それなのに、彼は命を長らえる方を選んだ。いったい誰が、彼に地獄の道を歩ませることを覚悟させたのか、インファは疑問だった。

「ノイン、それは本当におまえの思いなのか?オレもインファも、ずっと、おまえに押しつけてきたって想いが消えねーんだ。オレを守りたいっていうその願いが、消えてなくなるなら、それが、本当のおまえなんだよ!恐れるな!ノイン!おまえはおまえにやっとなれるんだ。誰に左右されたものでもない、おまえ自身になるだけだ」

揺るがない、真っ直ぐな風の王・リティル。命を守れる王になりたい。死に逝く魂達を見守りながら、リティルは多くの死の運命に翻弄される魂を救ってきた。

それを、ノインと2人支えてきた。ノインも、ここにリティルが居合わせてしまったら、容易には死ねないことはわかっていただろう。

「それでもオレは、失いがたい」

「おまえ、城を出るとき言ってたよな?オレ達とおまえの絆は歪んでるって!捨てろよ。そんな絆なんて、捨てたっていいんだ!また繋げばいい。そうだろ?おまえが望むなら、望んでくれるならオレ達は何度だって!その希望も、命を手放したら終わっちまうんだ。いいのかよ!わかったよ!おまえが捨てられねーっていうなら、オレが捨ててやる!風の騎士・ノイン、今この瞬間をもって、風の王・リティルの補佐官の任を解く!おまえは自由だ。ノイン、その命だけ手放すな!」

「リティル!オレは、おまえの騎士以外、何者にもなれはしない!」

「それはまやかしだ!おまえの宿命が、おまえの目を曇らせてるだけだ!ノイン……ノイン!どうして、わかってくれねーんだよ!いらねーんだよ、おまえなんかああああああ!オレのそばにいてくれるのは、インがよかった!父さんの姿だけのおまえより、インがよかったんだあああああああ!」

そこまで、そこまで言ったんですか?父さん……。リティルの叫んだ言葉は嘘だ。ノインにも当然わかっていた。リティルにそこまで言わせてしまい、ノインにやっと迷いが生まれたのを、インファは見た。

それでも動けないノインの黒く変わってしまった翼から、キラキラ輝く金色の風が立ち上った。実体化したフロインは、哀しそうな愛しそうな美しい笑みを浮かべると、リティルのそばに飛ぶ。

そして、耳に飾っていた、ト音記号のピアスをそっと外した。あのピアスは、ノインがフロインに贈った婚姻の証だ。彼女が何をしようというのか察したインファは、止めに入りたいのをグッと堪えた。これは触れられない幻、そんなことはできようはずもないが、インファも妻ある身。妻のセリアにそんなことをされれば、しばらく、千年くらい立ち直れない自信はあった。

『わたしとあなたの関係性の放棄が、あなたとリティルの支払う対価を少しでも肩代わりしますように』

微笑むフロインの瞳から、ポロリと涙が一滴流れ落ちた。

フロインは、ノインとの婚姻の証を、握り潰していた。目をそらさないフロインに、ノインは、何の言葉もかけられなかった。

見つめ合う2人、最初に視線を外したのはノインだった。

「リティル、今まで世話になった。さらばだ。オレの……生涯ただ1人の主君」

ノインは笑っていた。涼やかに。そんなノインを置いて、リティルは踵を返していた。リティルを追って、フロインも飛び去った。涙脆い父が、よく、泣かなかったなとインファは思いながら、その背中を見送っていた。

「リティル……許せ……おまえのもとに2度と戻れないオレを許せ……この記憶を、守れないオレを許せ……」

ノインが泣いている。彼がなく姿を、インファは初めて見た。思わずもらい泣きしそうになるのを、インファは堪えるのに必死だった。

「なぜですの?生きていれば会えるではありませんこと?お父様とフロインは、あなたが生き残ることを望んでいらしたのよ?」

「オレが、この姿形をしていることが、リティルとフロインを苦しめる。わかっているが、オレは生きなければならない。リティル……フロイン……耐え難いのなら、オレと関わるな。おまえ達が心安らかなら、オレはどんな地獄も耐えられる!例え、この身が灰になろうとも!」

ノインはリャリスの持っていた大剣の柄に手をかけた。そして、その鞘を取り払うとノインは、躊躇いなくその燃える炎のような闘気の迸る剣で、その身を貫いた。

――奪われたのではなく、記憶を壊したのは、あなただったんですね?ノイン……

 意識が体に戻るのを感じた。

ゆっくりと瞳を開いたインファを、心配そうにレジーナが覗き込んでいた。

「レジーナ、ノインは記憶を自ら壊したようでしたが、修復できるんですか?」

「できる。レジーナ、簡単。ノイン、記憶の、こと、素人。記憶、壊す、消去、混同。壊す、だけ、記憶、消えない。壊す、間違い、消去、正しい」

「……………………つまり、ノインの中に記憶はあるということですか?」

「そう。壊れた、だけ。ノイン、覚えてる。でも、壊れてる、今のまま、危険」

「危険、ですか?どのように?」

「心、記憶、通じてる。記憶、壊す、心、壊れる」

「!ノインの心も壊れているんですか?」

「ノイン、精神、強い。でも、時間、問題。心、記憶、治す」

「記憶はレジーナ、あなたが治せるんですね?心は誰が?」

「レジーナ、知らない」

「わかりました。ありがとうございます。ノインをここへ連れてきますから、記憶の修復をお願いします」

「いいよ。レジーナ、インファ、好き。ノインも、好き。リティルは、もっと好き」

無表情に微睡んでいたレジーナが、僅かに笑った。その笑顔に、インファは優しく微笑えみ、彼女の頭に手を伸ばすとヨシヨシと撫でた。

「ありがとうございます。オレもあなたが好きですよ。レジーナ、記憶の専門家のあなたから見て、力の精霊・ノインに風の騎士だったころの記憶を戻すことを、どう思いますか?」

レジーナはしばらく微睡んだ瞳で、思案していたが、口を開いた。

「ノイン、記憶、辛い。レジーナ、ノインの、記憶、抜く。思い出、宝物、渡す」

「風の騎士にも、あなたは記憶をネックレスにして贈ってくれましたね。わかりました。これが本当の別れになったとしても、彼が生きられるほうを選びますよ」

インファは寂しそうに視線を落とした。そんなインファの頭を、レジーナはヨシヨシと撫でた。インファが顔を上げると、微睡んだ瞳に心配を滲ませた彼女と目が合った。

「大丈夫ですよ。オレがノインを望みます。もう1度、絆を結んでみせますよ。歪んだ絆ではなく、友人だと、今度こそ言い切れる絆を、作ってみせます」

「インファ、ノイン、心、そのまま。大丈夫、きっと」

レジーナは、大人になりきっていないその手で、インファの右手を包んだ。

感情の起伏の少ない彼女が案じるほど、オレは、今、そんなに傷ついた顔をしているのだろうかと、インファは何とか微笑みを浮かべた。

 ノインが、失いたくないと訴える風の騎士の記憶。

聡明な風の騎士・ノインが自らの手で壊した、記憶。

インファが選ぶべき道は、残念ながら風の騎士の行いの方だ。

力の精霊は、風の王の監視者。リティルを1番大切だと、主君だとそばにいたノインの心とは相容れない。力の精霊として生きていくため、ノインは自分自身に引導を渡したのだ。

――ノイン……オレ達はもう1度、手を繋げますか?あなたはそこにいるのに、そばにいってはいけないことが、寂しいですよ。オレにとっても、今のあなたの存在は、痛みでしかないんです……

ノインの見ている夢の中に、オレはいるんだろうか?とインファは、寂しく思ってしまった。

 いや、今は力の精霊・ノインを救わなければとインファは顔を上げた。

「インファ、防御、魔法、得意?」

レジーナがふと、丘の下へ微睡んだ視線を投げた。

「ええ、ノインほどではないですが、得意ですよ?」

「広めに、4、5人、入れる、くらい、作る」

レジーナは、スススと空を滑るように移動していった。何が起こるのか?と首を傾げながら、強度は果たしてどれくらいに?と思いながらもインファは、風の障壁をドーム状に展開した。

 その直後だった。ドンッと音がしたかと思うと、丘の下で桜の木々が明らかに倒されて、花びらが煙と共に巻き上がった。


 声がする。

聞き慣れた声。何かに追われているようだが、どこか余裕のある叫び声だった。

「――どうするんだよ!やっちゃっていいんなら、やっちゃうぜ?」

『殺しちゃダメなんだ!眠らせるとか、眠らせるとか、眠らせるとか!』

「あのな、優しくはできないぜ?オレじゃ半殺しだ」

『もっと、他にないのかな?インファー!助けてよ!』

……うーん、ここを動けば魔法が解けてしまうんですが……と、インファは風の拾ってきた会話を聞いて、苦笑していた。

それより、2人?ノインはどうしたのだろうか?とインファは一抹の不安を覚えた。

いったい何が?と待っていると、レジーナに先導されたリティルが丘を飛び越えて現れた。小脇に、猫に化身したルキを抱えていた。

「インファ!」

インファの姿を認めてホッとしたリティルの背後に、象のような鼻を持つ毛むくじゃらな巨大な動物がヌッと姿を現した。

レジーナはリティルに先を譲ると、突進してくる動物と対峙した。

「眠って」

レジーナがフウッと息を吹きかけると、動物は数歩惰性で足を踏み出し、そして、ズシーンと大地を揺るがして倒れて動かなくなった。

「あれは、獏ですか?あれは夢邪鬼を食べるだけの存在ではないんですか?」

インファの後ろでハアハアと息を切らして、へたり込んだリティルは顔を上げたが、インファに答える答えを持っていないようで首を横に振った。

『何かに操られてるみたいなんだ。こんなことは初めてだよ。あれから少しして、リティルとフロインが来たんだけど、そしたら突然獏も来てさ』

 レジーナが終わったと戻ってきたのを見て、インファは「少し待っていてください」と言い置いて、眠っているらしい獏に近づいた。顔は象のようだが、体は虎のようで、尾は牛?体長は3メートルくらいあるだろうか。インファは手の平から鎖をジャラリと引き出すと、獏を縛り上げた。

「ルキ、夢邪鬼ってヤツは、精神と夢の融合体なのか?」

インファが戻ってくると、いくらか落ち着いたらしいリティルがルキに問うていた。

『うん。でも、獏は生身は食べないはずなんだ。狙われたのは、君の記憶かな?夢は、記憶からできてるからね』

「力の精霊も狙われてなかったか?それと、フロイン。あいつが誰を狙うか目移りしてくれて助かったぜ」

今、なんと言いましたか?聞き捨てならないことが聞こえた気がした!とインファは会話に割って入っていた。

「その力の精霊とフロインはどこですか?」

「ああ、先に逃がしたんだ。捜さねーとな」

「2人で行かせたんですか?」

「しかたねーだろ?」

「父さんが1人獏と対決すればよかったんです!ルキ、2人はどこですか?」

おおい、それはないだろう!とリティルは抗議したが、インファはサラッと無視した。

『待って。獏の暴走でルキルースの気が乱れてる……ちょっと時間かかるよ』

ルキはレジーナに視線を送ったが、首を横に振った。彼女も捕捉が難しいらしい。

それを聞いたインファは、すぐさま水晶球を取り出した。

「インジュ!あなたの母さんはそこにいますか?」

『いきなり何なんですかぁ?えっとですねぇ、お母さんは……まだ寝てますねぇ』

そういうインジュも眠そうだ。今、セクルースは何時なのだろうか。

「叩き起こしてレジーナのところに来るように言ってください!大至急です!急がないと、あなたの大好きなノインが、フロインに殺されてしまいますよ!」

『えええ?わかりましたよ!って、ラス早いですねぇ。他に誰か必要です?』

ラスがいるということは、インジュは起きてはいたようだ。背後が明るい。朝なのだろうか。ルキルースは常夜だ。ここにいると時間の感覚がなくなり、数時間のつもりが、何日も経っていたなどということも起こる。

「わかりません」

『お父さんがわからないって、珍しいです!大丈夫なんですかぁ?冷静の鏡、ラスほしいです?』

「いいえ、ラスを城の補佐から外すわけにはいきません。あなたを1人にすると、戦闘特化に振りすぎますから。少し冷静になってきました。ありがとうございます、インジュ」

『いいえ。こんなとき、ノインがいないの実感しちゃいますねぇ。ノインなら、笑って落ち着け!て背中叩いてくれるのにぃ。いっそ、コピーでも作っちゃいます?妖精・ノインってちょっと可愛くないですかぁ?』

「ふざけすぎですよ。力の精霊・ノインがいる以上、そんな真似はできません。オレ達は、彼の手を放すべきです」

インジュの言が冗談であることはわかっていたが、インファには余裕がなかった。冗談に乗ることもできず、出した結論を、容赦なく突きつけてしまっていた。

水晶球の中のインジュが、明らかに気落ちした。

『そうですか。結論出ちゃいましたか……記憶戻る方に期待してたんですけどねぇ。ボク、ノインのあのクールな笑顔が好きでしたよぉ』

「ノインはノインですよ。オレ達が彼の中から消えるだけです。ノインに笑ってほしいならば、そのように関係を築き直せばいいだけですよ」

しみじみ言うインジュに、しまったと後悔しながら、インファは慰めるように言葉を紡いだ。自分に、言い聞かせたかっただけかもしれない。

『そうですねぇ……でも、ボク、自信ないです。ノインとボクは、ちょっと変わった絆なんで……うーん、同じようにはなれそうにないですねぇ……』

「受け入れてあげてください。それが、灰になるほどの地獄を歩むと決めた、風の騎士・ノインの意志です」

「灰?」

インファの言葉に反応したリティルの声で、インファは「では、城をお願いしますよ?」とインジュに言い、通信を切った。

「父さん、気持ちはわかりますが、もう少し大人になってください。ノインが生きる道を選んだのは、あなたのためですよ?ノインの遺言、聞きますか?」

インファは久しぶりに怒りの感情をリティルに向けていた。そして、リティルの返事を待たずにレジーナにそっと耳打ちした。頷いたレジーナは、まだ座り込んだままのリティルの前に膝を折ると、その顔を両手で掴んで瞳を閉じると額を合わせた。

その時間は、数分となかったと思う。リティルは、レジーナを突き飛ばしていた。

――リティル……フロイン……耐え難いのなら、オレと関わるな。おまえ達が心安らかなら、オレはどんな地獄も耐えられる!例え、この身が灰になろうとも!

風の騎士の最後の想いが、力の精霊・ノインの探究心を殺した。

疑問を1つ1つ辿っていけば、すぐに風の城と風の王にたどり着く。風の騎士は、リティルとフロインの心に波風立てないように、自分の存在が、この世界に定着できないかもしれない、危うい道を行くことを選んだのだ。

「灰になどさせませんよ。ノインの世界を、地獄にもさせません!」

インファの背後の空間が歪み、ニュウッと腕が生えた。

「インファ、フロインがノインをなんて脅かさないでよ!ラスが真っ青だったわよ?しかもこんな朝早く」

眠そうに抗議しながら、ピンク色の髪をした儚げな美人が、インファの背後から首に腕を絡ませながら落ちてきた。

「セリア、安眠を妨害してすみません。大至急、宝石姉妹を招集して、ノインとフロインを捜してください。それから、獏に関する情報をできるだけ集めてください」

セリアは、仕事モードの夫に、左右で違う青と緑色の瞳を瞬いて首を傾げた。

「獏って、夢を食べるあの?きゃあ!どうしてここに獏がいるの?いつもは、獏の餌場から出ないのよ?」

地面に降り立ったセリアは、鎖に縛られた爆を見て悲鳴を上げるとインファの腕にしがみ付いていた。

「基本知識があるようで何よりです。問題が起こっているようなので、平らげます」

「了解、任せてちょうだい。ノインとフロイン、見つけたらここにつれて来ればいい?」

目は覚めたらしい。セリアはキリッと頷いた。

「ええ、お願いします」

2人は簡潔に言葉を交わすと、セリアはルキとリティルに深々と一礼すると、現れた時と同じように空間を歪ませてさっさと消えていった。

彼女は、宝石の精霊・蛍石のセリア。雷帝・インファの妻だ。

彼女には、上に2人の姉がいる。長女・魔水晶のエネルフィネラ。次女・ラピスラズリのスワロメイラ。セリアは3女で、宝石の母の証を譲渡され、幻惑の暗殺者という異名を持つ宝石3姉妹のリーダーなのだった。

風の城に住んでいるが、ルキルースの精霊で、元は幻夢帝・ルキの部下だ。リティルとは親友であるルキの許しで、インファと婚姻を結んだ。儚げだが意志の強そうな瞳の美人だが、戦闘能力はかなり高い。

「ルキ、勝手をすみません。ですが、フロインに、ノインの持つ婚姻の証を壊させるわけにはいかないんです」

「いいよインファ、君が指揮とってよ。ボクは情報集めてくるよ。宝石三姉妹との連絡、君受けられるよね?」

「ええ、セリアと繋がっていますからね。レジーナ、ここに本部を置きますがいいですか?」

「いいよ。獏の、こと、教えてあげる」

テキパキと体勢を立て直すインファを見つめながら、リティルはまだ、自分で自分を大剣で貫き果てた、風の騎士・ノインの幻に囚われていた。

風の騎士・ノインは、大剣の纏った炎のような闘気に焼かれながら、リティルの名を呼んでいた。その瞳を涙で濡らしながら、リティルを呼んでいた。

記憶が焼き尽くされるまで、リティルを呼んでいた。


 誰かが呼んでいる……

この体の名を。夢の中でこの体の名を呼ぶ声に、なぜか冷えていってしまう体に温度が戻された。消えていくのなら、冷えていくのなら、体温さえ戻らなくていいのにと、無気力に思っていた。目が覚めないのなら、それでいいのに……目が覚めたところで、やりたいことなど……ない。

「――……イン――ノイン!」

ハッとノインは意識を取り戻した。呼んでいる声が、夢の中ではなく現実だと気がついたからだ。

「フロイン……?」

「大丈夫?あなた、怪我を?」

「いや……問題ない」

心配そうにこちらを伺うフロインから、ノインは咄嗟に距離をとってしまっていた。

神々しい。そんな表現が大袈裟ではなく似合う女性だ。ずっと閉じこもっていたノインは、かなり刺激が強かった。それに、女騎士だというのに、その雰囲気は優しすぎる。

フロインは気にした様子なく、ホッとした顔をしていた。ノインが体を起こせたことで、大丈夫だと判断したようで、フロインは辺りを見回した。

そうだ、たしか、幻夢帝・ルキの居城である断崖の城の玉座の間で、リティル達と合流した直後、獏という化け物に襲われたのだったと、ノインは思い出していた。

――フロイン!力の精霊を守れ!殺すなよ!

あんな怪物相手でも少しも怯まず立ちはだかったリティルは、すぐにフロインに指示を出していた。フロインもすぐに動き、ノインの腕を引くと廊下へ向かった。

フロインはルキルースに不慣れらしく、廊下に出たはいいがどこへと足が止まった。そこへ、もう1頭現れ、その長い鼻がフロインを掴もうと迫った。ノインは、咄嗟に庇い、鼻の1撃を受けていた。フロインが抱き留めてくれた感触と、どこかへ転がり落ちる感覚を最後に、気を失っていた。

 それにしても、フロインは自分と身長の似た大の男を、どうやってここまで運んできたのだろうか。ここは、どう見ても、断崖の城ではなかった。そんなノインの疑問を感じたのだろうか。フロインが説明してくれた。

「ルキルースは、扉でいろいろな部屋――空間と繋がっているの。扉を越えれば、景色はもちろん、世界の法則まで変わってしまうのよ。ここは、バラ園ね。咄嗟に扉を開いてしまったわ。戻る扉を探さないと」

「扉は一方通行なのか?」

「開いたままにしておけば戻れるのだけれど、獏が来ないように閉じてしまったの。わたしはルキルースに不慣れなの。なんとか戻れるといいのだけれど……」

「では、進もう」

獏に殴られた背中に痛みがあったが、動けないほどではなかった。立ち上がったノインを、フロインはどこか驚いた顔で見上げていた。

「どうした?」

「……あなた、引きこもっていたと聞いたのだけれど、前向きなのね?」

「不思議と不安はないな。むしろ、少し楽しい」

部屋。とフロインは言ったが、ここは外の世界にしか思えなかった。

空には、巨大な青色の満月が浮かび、その光に照らされているのは、ガラスのような透き通った花弁を持つバラだった。花弁の先が磨りガラスのように青白く、がくへ向かって透明に透き通っていく青いバラだ。

美しいなと思いながら、見つめていると、フロインが腕の服をツンッと引っ張った。

顔を上げると、フロインがずっと向こうを指さしていた。遠く地平線まで続くバラたちの中に、蝶や虎の彫刻が鎮座していた。それらの向こうに、ぽつんと扉が立っているのが見えた。

「どこに続いているのかわからないけれど、行ってみる?」

フロインは少し緊張しているようだった。これは頼られている?と感じたノインは、フロインよりも知識がないというのに、なんだか嬉しくなってしまった。

「行ってみよう」

ノインが促すと、フロインは気丈に頷いた。少し前を歩き始めたノインに、フロインはついてきた。彼女が先に行かなくてよかったと、ノインは思っていた。彼女の後ろ姿を見ていると、その髪に触れたくなってしまいそうで、理性が危うかったのだ。

 彼女しかあり得ない。

そう宣言したとき、ノインは初めて地に足がついたような気がした。どこに向かうのかわからない風船のように、ノインは自分があやふやだと自覚していた。それを確定させる作業を、ノインは行えなかった。心に沸き起こる疑問を、1つ1つ辿っていけばいいことを、ノインは知っていた。知っていたが、何かが行動にブレーキをかけ、フロインのことすら、捜しに行けなかった。

太陽の城にある部屋に引きこもって、誰かをイメージした花を世話する毎日。ずっと続けていたなら、この花園のような景色になっていたかもしれない。

 彫刻の間を抜け、2人は扉の前に立った。

「この扉は……」

ノインは、大きさこそ違えど、目の前の扉のデザインに戸惑った。

大剣を中心で交差させた細工がされた、重々しいが洗練された美しさのある扉。ノインの見慣れたそれは、中心から開くタイプの扉だったが、これにはノブがあり、こちらに引き開けるようだ。大きさも、ノイン達に合わせた通常の大きさだった。

「ノイン?」

扉を凝視して開かないノインの様子に、フロインがどうしたのかと声をかけてきた。

「この扉……力の間の扉と似ている」

「力の間?」

「太陽の城にある、オレの自室だ」

「ルキルースは、常に崩壊と創造を繰り返しているわ。想いの強さがこの世界を造るとルキが言っていたけれど、あなたは、何かを強く想っているの?」

ノインはその言葉に自嘲気味に笑って、フロインを見た。

「リャリスに、無気力で、生きているのに死んでいるようだと言われているオレに、そんなモノがあるとは思えない」

では、この扉はどこへ繋がっているのだろうか。ノインがノブに手を伸ばした時、背後で破壊音がした。

「獏だわ!」

フロインがノインの背中を守るように前に出ると、鉄扇を風から作り出して構えた。

あれは、どうあっても追ってくるようだなとノインは感じた。そして、素早く視線を巡らせた。

獏は、猛然と、祈る女性の立像と、前足を立てて座り込んだドーベルマンの彫刻の間走ってきていた。

「フロイン、あの女性の像を倒せるか?」

「ええ」

「合図で、ドーベルマンの彫刻の方へ倒せ」

ノイン達を追ってきた獏は、玉座の間に現れたモノより小柄だった。フロインの隣に並んだノインは、腰から剣を引き抜く仕草をした。腰に鞘はなかったが、ノインの手には一振りの、炎のような揺らめきを纏う黒塗りの大剣が握られていた。

「今だ!」

2人は同時に地を蹴っていた。

ノインはドーベルマンの彫刻を、フロインは女性の像を同時に倒していた。狙いは違わず、獏は2つの彫刻に押しつぶされ、ズシーンッと重たい音を立てて地に伏した。フロインが警戒気味に近づき確かめると、獏は目を回して昏倒していた。

 ホッとしたノインは、ズキッと背中に鋭い痛みを感じて、思わず片膝をガクリとついていた。

「ノイン!やっぱり怪我を?見せて」

「いや、しかし……。……恥ずかしがる間柄でもなかったか」

彼女とは夫婦だったのだと思い至ったノインは、躊躇いなく上半身をフロインの前に晒していた。だが、フロインは小さく悲鳴を上げると、慌てて顔をそらした。

「どうした?」

あまりに可愛らしい反応に、ノインの方が戸惑った。

「あ、あ、あ、う、後ろを向いて!早く!お願い!」

フロインの叫びに、ノインは慌てて背を向けた。なぜこんな反応?とノインは、見慣れているだろう?と胸が高鳴っていた。

しばらくすると、フロインが近づいてくる気配がした。そして、背中に手がかざされたのがわかった。温かな力が体の中に流れ込んできたからだ。

「わたしとノインは、交わったことがないの」

ノインの背中には、獏につけられた痣があった。翼の間、背骨が軋んでいただろう。我慢させてしまったわねと、フロインは胸が痛んだ。

「夫婦ではなかったのか?」

「夫婦だったわ!けれども……わたしは精霊獣で、肉体が希薄だったの……。ノインが……死んでしまったのは、わたしの……せい、なのよ……!」

悔しかった。霊力の交換ができる存在だったなら、風の騎士・ノインはきっと死なずにすんだ!とフロインは、愛するあまり、彼の手を放せなかった自分をずっと悔やんでいた。

精霊獣の身の上で、浅ましくもリティルの大切な人に恋をして、守らなければならなかったのに、結局――

「……今、こうして生きているのがオレですまない」

「!そんなこと……!」

「インファも、風の騎士が死んだのは自分のせいだと言っていた」

「違うわ!わたしが婚姻の証をもっと早く壊せていたら、ノインと霊力の交換ができていたなら、あの人を……あなたを守れたのよ!」

フロインはノインの裸の背にコツンと額を当てていた。彼女の触れた場所から、ノインは冷え切った体に体温が戻るのを感じていた。

「婚姻の解消……拒んだのは”ノイン”だった。そうだろう?」

「だとしても……だとしても……!」

「フロイン、この扉を開ける」

ノインはそっと、フロインから離れると服を整えた。泣いているフロインを手招き、ノインはその扉のノブに手をかけたのだった。


 三姉妹は仲がよかった。

インファに命を下されたセリアは、姉達を招集した。彼女達はすぐにきてくれた。

長女、魔水晶のエネルフィネラ。赤い袴を履いた、水色の透き通るような髪をポニーテルに結った、色の白い切れ長の瞳の美人だ。

次女、ラピスラズリのスワロメイラ。フワリと膨らみ足首ですぼまったズボンと、チューブトップを着たエキゾチックな軽装で、瑠璃色の短いフワフワしたくせっ毛の、セリアよりも年下の容姿をした可愛い女の子だ。

「あら、セリア、またリティル様が何かしでかしたのかしら?」

朱を引いた唇を引き揚げて、エネルフィネラが冷たく微笑んだ。しかし、セリアを見るその瞳は優しい。

「リティル様も来てるけど、今回はフロインとノインを捜すの。それと、獏のことを調べろって言われたわ」

「フロインとノイン?あの2人、またくっついたの?」

自身は恋愛感情はないのに、色恋が大好きなスワロメイラは、元夫婦の2人に興味があるらしかった。

「微妙ね。フロインはなぜだか険悪なの。でも、ノインは脈ありだってインファが」

セリアはまだ、ノインに会っていない。インファとインジュに来てるなら知らせてくれればよかったのに!と拗ねると、2人は気遣わしげな瞳になって「今は、会わない方がいいですよ」と言われてしまった。

「あら、素敵な話ね。確か力の精霊・ノインは、風の騎士だった記憶がないはずよね?」

「ええ」

「寂しそうね、セリア」

「寂しいわ。だってノインは、何でも許してくれる友達だったんだもの」

気落ちしたセリアを、エネルフィネラはそっと抱きしめると、ヨシヨシと頭を撫でた。

「獏はわたしが調べるわ。セリアとスワロは2人を捜して」

「はい、お姉様。セリア、行くわよぉ?」

エネルフィネラと別れた2人は、さて、どこへ行こうかと顔を見合わせた。

「断崖の城から行方不明なのよねぇ。玉座の間から1番近い扉は?」

ええと、とスワロメイラが状況確認を始める。

「バラ園ね」

「じゃあ、そこいってみましょう!」

スワロメイラは、ウキウキした軽い足取りで扉を開いたのだった。


 ピクニック気分で開いた扉の先は、宣言通りバラ園だった。

ルキルースは壊されても、一定時間で何事もなかったかのように自動修復される。

「あら、獏よぉ」

スワロメイラが指さす方を見ると、バラを踏み荒らした先に、獏が彫刻に押しつぶされて目を回していた。修復がされていないということは、まだこうなってからそんなに時間は経っていないということだ。

「ビンゴね」

「ええ。とりあえず、獏は巣穴に送った方がいいわよね?」

「そうしましょう」

楽しそうなスワロメイラを尻目に、セリアは獏の真下に扉を開いて、部屋から追い出した。獏という支えを失って、倒れてきていた彫刻がズシンッと地響きを立てて地に転がった。

「フロインとノインがやったのかしら?なかなかやるじゃないの」

こういう戦い方は、ノインが得意としていた。彼の策だとしたら、彼はやっぱり彼なのかもしれないなとセリアは一条の光を見た気がした。

倒れた彫刻を迂回して、宝石の2人は見慣れない扉を発見した。

「うーん、この扉を開けたのかしら?」

風の城に住んでいるセリアはもちろん初めて見る扉だったのだが、スワロメイラも同じだった。これは、最近できた部屋に繋がる扉だ。

新しい部屋。2人の緊張は高まったが、この扉以外に、近くに何も見当たらない。

「まあ、行ってみるしかないわねぇ」

スワロメイラは、警戒心なく扉を開いたのだった。


 扉を開いた先で、こんな事態になっているとは思わなかった。不可抗力だったのだ。覗くつもりなんてなかった。

白い大理石の床を所々くりぬき、その穴に木が植わった室内庭園の様な部屋の中を、2人は慎重に進んだ。常にルキルースにいるスワロメイラも知らない部屋だったのだ。さすがに警戒していた。幻惑の暗殺者は、気配と足音を完全に消し去れる。慎重に木々の間を進むと、かすかに女性の声がした。

何かを強請るような甘い声だった。

え?セリアは身を強ばらせた。この声……セリアは咄嗟に先行くスワロメイラの肩を掴むと、何?訝しがるスワロメイラと茂みに隠れると、その先を覗いた。

茂みの向こうは、少し開けているらしい。その場所で繰り広げられていたのは、とても想像できなかったことだった。

「ひっ――!」

スワロメイラは悲鳴を上げそうになって、慌てて口を両手で押さえると、気分悪そうに目をそらした。思わず観察してしまったセリアは、そんな姉の様子に気がついて、慌ててその場から2人で逃げた。


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