ただ、このときは
目の前で燃えさかる炎を見ていた。
広がるは、ただ、一面の赤。
「ディミヌ!」
熱風と共に届いた母の声に、振り返る。
「逃げて!」
声を探し、凝視する。母の姿は見えない。視界は振り返る前と同じで。
まだ十五歳の彼女は逃げる方向もわからず、動けなかった。
炎ではない赤い色が、舞った。それは、母の──。
ふわりと赤いマントが目の前に舞い、足は無意識で止まる。周囲を見渡せば赤だけではなく、黄色のマントをつけている者もいて、
(ああ、こんなに何人もいたんだ)
と、彼女は現実に戻る。
あの記憶は、一年前のこと。思い出すのは珍しい。
彼女は右足を前に一歩踏み出す。左足も──二歩、三歩と歩みを進める。
苦い過去を思い出しても、感傷に浸らないのが彼女のいいところ。目的の壁の前に立ち、掲示板を見上げて白い貼り紙の前に立つ。
「勇者様、この案件を受けてくださるのですか? ありがとうございます。こちらは、レベル五十以上の方への案件です。申し込みに記載をお願いします」
すぐ隣に設置されているカウンターから声が聞こえる。恐らく、さきほど目の前を通った赤いマントの者が、カウンターで受け付けをしているのだろう。
彼女は聞き耳を立てず、目の前のたった一枚の白い貼り紙に真剣な眼差しをそそぐ。
約四メートル四方の空間。そののうち三面に、大きなコルクボードがあり、貼り紙がされている。掲示板ではない一面に、カウンターと出入口がある。
赤い貼り紙が一面ほど、残りの二面はほとんど黄色い貼り紙で、白い貼り紙はわずか一枚。
貼り紙には、仕事内容と報酬金額が記載されていて、仕事の危険度の低いものから白、黄色、そして、赤へと変わる。報酬が高いのは赤い紙。白い紙は低額だ。
空間には十五人ほどがいて、赤いマントを身に着けている者が多い。
赤いマントの者は、赤い貼り紙を吟味するように読んでいる。黄色いマントの者は、黄色い貼り紙を。
彼女はというと、青いマント。赤い貼り紙も、黄色い貼り紙も該当しないのだろうか。
目に着くのは茶色い髪の毛は外ハネのショートボブ。幼い顔立ち。腰にある長剣は不釣り合いだと言っていい。青いマントで隠れているが、左側にスリットの入った水色の膝丈ワンピースを着ている。ただし、スリットがあっても色気はほど遠く。ワンピースの下には青のミニスカート、更にその下には黒のレギンスを履いている。袖は半袖で、露出の腕を保護するように肘まであるライトグレーの長い手袋をつけ、足元は手袋と同色のショートブーツ。出で立ちで見れば、彼女も一応『勇者』らしい。
黄色いマントをつけた者が、一枚の黄色い紙を手し、彼女の背後を通過して行く。
「勇者様、この案件を受けてくださるのですか? ありがとうございます。こちらは、レベル五十以下の方におすすめする案件です。申し込みに記載をお願いします」
彼女は、目の前の白い紙に手を伸ばす。そのとき、カウンターの方から男性の声が聞こえた。
「ヤチ王の公認勇者だが、掲示されていない特別枠の依頼はあるか? ああ、一応、マントの金具も確認してもらわないといけないな。……ほら、ヤチ王の紋章があるだろう? 青いマントだけでも公認勇者とわかるだろうが、念の為にこちらも確認をしてもらうのが、公認勇者としての礼儀だからな」
彼女の視線が動けば、そこには銀に輝く鎧に青いマントをつけた者がカウンターの女性と楽しそうに話し、申し込み用紙を受け取っている。銀に輝く鎧に青いマントをつけた者が笑顔なのだから、条件がよかったのだろう。
「勇者様、ありがとうございます。これからもご活躍を楽しみにしています」
彼女の伸ばしかけた手は、自らのマントの金具へと重なる。
「はっはっは。魔王クレシェは、私がいつか倒して世に平和をもたらそう」
「はい! 皆、期待しております!」
赤いマントと黄色いマントの者から拍手が沸き起こる。他のカウンターの者たちも、同様に。
彼女はといえば、マントの金具を握っている。上げていた顔は下がり、目を伏せ掲示板に背を向けると、ヤチ公認勇者とカウンターの真横を通ってその場を出て行く。
「おや? 今の娘は……」
「ご存知なのですか? 青いマントなので、どこかの公認勇者様だとは思うのですが……カウンターには寄らずに、何日もレベル不問の白い貼り紙ばかり見に来られるのです」
カウンターの者の言葉に、ヤチ公認勇者はニヤリと笑う。
「知っているもなにも、彼女はある意味有名さ。最弱の『レベル十の勇者』ってね」
このときは、まだ誰も知らない。
最弱の勇者ディミヌが、最強と恐れられる魔王クレシェの手から世界を救い、誇らしげに公認した国王に呼ばれることを。
「望みはなにかないか、ディミヌ」
世に平和をもたらした勇者に、国王は満足そうに聞く。
「あります!」
これは、最弱の勇者とその仲間と、最強の魔王のお話。