【第5章 1話】
【五章】
乗りかかってくる重力。
押し込んでくる空圧。
風の立てるバタバタという轟音。
眼下から赤茶色の屋根が迫ってくる。
木材に焼いた土を薄く載せて、強度と耐水性を持たせた物らしい。
このまま叩き付けられたら大怪我は免れない。
そんな考えが否が応にも不安を煽り、つい両手に力がこもってしまう。
衝撃が来る。寸前に身体が数センチ浮く感覚があった。
ふうっと息を漏らした途端に、マルグレットの挑発的な言葉が飛んでくる。
「怖いなら目を瞑って、無様に縋り付いているんだな」
「怖い? バカ言うな。新鮮な体験を楽しんでるんだよ」
光輝は腕の力を抜きながら軽口を返す。
「ふん。小さくなって震えていれば、まだ可愛気があるものを」
「プロは可愛さよりもクールさが重視されるんだよ」
兜の奥、マルグレットが「ふふふ」と笑いをこぼす。
「この状態で、よくもまあプロだのと偉そうに言えるものだ」
即座に反論したい光輝だったが、現状を鑑みると術はない。
何しろマルグレットに横抱きにされている状態。
しかも自分の腕を、彼女の首に回しているのだ。
完全無欠のお姫様抱っこの体勢。しかも悲しいかな自分が姫側だ。
「ちゃんと捕まっておかないと振り落とされるぞ。
あと、無様な悲鳴だけは上げるてくれるな。
プロの前に男の子なんだからな」
「くそ。こいつ、嬉しそうに言いやがってぇえぇぇいぃぃぃ」
マルグレットが跳躍に入ったせいで、最後の方は浮遊感で裏返ってしまった。
一歩、二歩、三歩。
風の足場を蹴って、光輝を抱いたままマルグレットが舞い上がる。
屋根から六メートルほどの高さまで来ると四歩目で前に。
シャルロッタから借りた隠れ身の外套をはためかせながら、数件先の屋根に向けて滑空していく。
首に巻かれた光輝の腕に力が入るのを感じて、マルグレットが口元を緩めた。
兜のせいで見えないが、なかなか性悪な表情だ。
屋根に到達する寸前。
最後の足場で勢いを殺すと、音もなく着地した。
光輝のプランはシンプルだった。
地面の振動で行動が悟られるなら、足をつけなければいい。
つまり、マルグレットの不可視の足場で、中央の大木に接近。
シャルロッタ製作のランプ「火竜の瞳(試作)」を叩き付ける。
名付けて強襲火炎瓶作戦である。
マルグレットの空中歩行は一度に六歩前後が限界。
屋根を使って迂回、南側から攻める事にした。
町の南東部は、庶民の居住エリアらしく建物の高さがまちまち。
比較的低い屋根を着地点とすれば、下からの発見もされ難いだろうと考えたからだ。
作戦参加はマルグレットと荷物運び兼フォロー役として光輝、ふたりだけ。
当初はマルグレットの背中に取り付いて移動する予定だったが、視認性の低下を狙ってシャルロッタの外套を借用する事になった。
結果、お姫様抱っこという屈辱スタイルになってしまったのだ。
屋根に下りる。
南北を貫く大通りの付近まで来た。目的の木まで残二百メートルほど。
「どうする? もう少し西側に迂回するか?」
マルグレットの口調からは、先ほどまでのおふざけ感が消えていた。
ルートは光輝が臨機応変に決定する手筈だ。
しがみついていたマルグレットから離れて、屋根の端からそっと下を覗き込む。
付近にゴーントの騎士は見えないが。
「また嫌らしい防衛陣を敷いてやがるなあ」
木から五十メートルのところに十体。
木の根元付近に三体。
「東西南北、全方向に備えてるみたいだな。
くそ。かなり南から迂回してきたのによ」
「ふん。戦いがこちらの想定通りに進むものか。
こちらの行動を把握できていないだけでも、今までより遥かに大きなアドバンテージだ。
で、どうする?」
「西に回っても状況は変わらないだろうな」
「なら、ギリギリまで屋根伝いに近付くしかないか」
抱き上げようと近付くマルグレットを、光輝が小さく手で制する。
「なんだ? 今更恥ずかしいのか?
シャルロッタは羨ましがっていたぞ」
出発前、お姫様抱っこされる光輝を見て、何度も「いいなぁ」を繰り返していた。
「プロとしてクールさに欠けるんだよ。
いや、そうじゃなくてだな。木の上を見てみろ」
「なんだ? ただの鳥だろう?」
大木の周囲を五匹の黒い鳥が旋回している。
高度は結界の上限、二十メートルギリギリ。
「結界の中で、光の雨を耐え抜く鳥か? あまりに希望的観測だな」
「ふ、ふん。言ってみただけだ。
なんとなく身体の質感が、ゴーントの騎士に似ているか」
「早期警戒用の固体かもしれないな。
空中から近付くと一発で見つかりそうだ」
「このマントの性能では、隠れて近付けないからな」
隠れ身の外套と大層な名前だが、その効果は微妙なところ。
周囲の景色に溶け込むという触れ込みだが、なんとなく近い色に変化する程度だ。
しかも単色。
動けば直ぐバレるし、じっとしていても違和感が残るレベルにしかならない。
「さて、どうやって近付くかだな」
「ふん。そんなことは考えるまでもない」
外套を外すと、光輝の頭から被せる。
「五メートルに一回、影から出ないといけないのだろ。
お守りくらいの役には立つ」
「おい。まさか」
「槍と盾を出せ。
私はこのまま南側から突撃を掛ける。お前は迂回して近付け」
「なら、担当は逆だな。
空中から一直線に近付けるお前と、囲まれても影があれば脱出できる俺。
どっちが適材適所かって話だ」
「ふん。お前はやはり阿呆だな」
右手を広げて見せる。
板金が指を包み込み、隙間になる関節部分は金属の編み込みで守られている。
「この手では正確に物を投げたりできないんだ。
予備がいくつもあればいいが、今回はミスが許されない。
可能性の低い賭けはできない」
「だからってな」
「自分をわきまえろ。
お前と私なら、戦闘能力は私が遥かに上だ。
逆に咄嗟の機転はお前が僅かに勝っている。
陽動と本命、どちらが向いているか」
「それは、そうかもだが」
「コーキ、誤解するな。私はこのプランに乗り気ではない。
最初に提案した通り、私が敵を全て蹴散らし木を打ち倒す。
こっちが確実だと思っている」
「解ったよ、マルグレット。
お前さんは、ここから正面突破を狙ってくれ。
俺は迂回して、木への直接攻撃を行う」
影の中に放り込んでおいたマルグレットの槍と盾を渡す。
「いいか。危ないと思ったら、途中で退くんだぞ。
命を粗末にするなよ」
「ふん。我らエインヘルアルは不死身の戦士だ。
命の使い時は十分に心得ている」
「命に使い時なんてあるかよ。
ったく、お前みたいなバカに言っても無駄だろうけどな」
盛大な溜め息をこれ見よがしにひとつおいて、影の中に消える。
残されたマルグレットは槍の握り具合を確認しながら。
「バカはお前だ。私達は不死身の戦士、絶対に死ぬことはない。
死から逃げ回る軟弱さなんて不要なんだ。
それを聖騎士マルグレット・ルーセンベリが証明してやる」
屋根から身を躍らせると、大通りに降り立った。
地面に足が触れた瞬間、前方で待ち構えていたゴーントの騎士達が、一斉に武器を構える。
巨大な剣。通常の片手剣に比べ、刃渡りは五割増しで、刀身の厚さも三倍はある。
普通の人間では到底扱えない代物だが、彼らの圧倒的な膂力があれば。
「なかなか賢い選択だな」
マルグレットが兜の中で不敵な笑みを作る。
あのサイズの武器で殴り掛かられると盾では到底防げない。
分厚い金属鎧も役には立たないだろう。
マルグレットの体術があれば、一撃一撃を避ける事は難しくないが、問題は数。
取り囲まれて攻撃されると、とても凌ぎきれるものではない。
マルグレットを包み込むように突風が起こる。
「風よ、加護を!
聖騎士マルグレット・ルーセンベリ! 死を恐れない真の勇者だ!」
風の力を受けた高速移動で、一気に距離を詰めた。
ゴーントの騎士達は陽動を警戒してか、接近を待ち構える。
リーチはマルグレットがやや有利。
初撃を受けてからの反撃を狙っている様子だった。
槍の間合いに入る直前でマルグレットが盾を正面に突き出す。
「風よ!」
盾が飛ぶ。「投げつける」なんて悠長な速度ではない。
爆風に煽られるような勢いで、吹っ飛んでいったのだ。
しかも暴風に包まれている。それは最早砲弾に近い。
盾を受けた一体の上半身が一瞬にして粉砕された。
もちろん、その様子をぼんやり見ているほどマルグレットは甘くない。
すぐさま槍を繰り出す。
容赦のない攻撃で瞬く間に二体を撃破した。
ゴーントの騎士達も反撃を開始。
二体が駆け寄りながら剣を打ち下ろし、他の五体はマルグレットを取り囲もうと動く。
だが、マルグレットの反応は早い。
迫る二本の剣に向かって、逆に踏み込む。
身体を捻って、ギリギリ斬撃をかわす。と、風の足場を蹴った。
剣を引き戻す前に、空中に舞い上がる。
無防備になった頭を容赦なく破壊。ふわりと着地する。
「ふん。これが聖騎士マルグレット・ルーセンベリの武技だ。
この程度の相手なら、いくら集まろうが敵ではない」
ひとりごちつつ、ちらりと左腕に目をやった。
純白の甲冑から赤い液体が流れ、地面にポタポタと点を作っていく。
「もう傷が開いたか。全力で戦えるのは十分……」
槍を構え、僅かに腰を落とす。次の攻撃に移る、言わば溜めだ。
研ぎ澄まされた戦士としての感覚が、周囲から集まってくる敵の気配を察知していた。
他の方向に布陣していたゴーントの騎士達だろう。
「いや、五分ほどが限界か」
兜の中で唇を噛む。
「それでも聖騎士マルグレット・ルーセンベリは退かない!
見るがいい! 真の聖騎士だけが持つ、死を恐れぬ気高き勇気を!」
口上を叫ぶと、槍を突き込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「どうにも妙な感じしかしねえな」
建物の陰にしゃがみ込んだ光輝は、外套のフードをより深く被った。
隠れ身の外套は周囲の石畳に合わせて、ねずみ色になっている。
マルグレットと分かれた光輝は、中央広場の西側まで回り込んだ。
夕方近い時間のはずだが、日の入りには数時間あるように思える。
太陽を背負う形だ。影は前方に伸び移動に困らない。
視線の先、百メートルほどで一辺十メートル四方の広場になっている。
そこの真ん中に堂々と立つ大木がターゲットだ。
幸いな事にゴーントの騎士達もいない。
おそらく南、マルグレットの迎撃に向かったと推測できるが。
「鳥みたいなのもいなくなった。全員が一斉に持ち場を離れるとか。罠っぽいが」
マルグレットが無茶をやっているのは想像に難くない。
「あの手の連中は、なんで死にたがるのかね。
死ぬのが勇気の証明だとでも思ってやがるのかよ。
ったく、気に食わねえな」
右手で分厚いキルティング緩衝材の包みを握り締める。
「もうちょっと様子を見たいところだが、死にたがりの阿呆を長時間放置できねえしな。
罠でもなんでも見事にクリアして、プロの力を見せつけてやるしかないぜ」
大きさも重さも投げやすくはある。
自分の投擲能力を鑑みて最低十メートル、欲を言えばもっと近付きたいところ。
大きく息を吸うと、覚悟を決めて飛び出す。
どうせ見つかるなら影の中を悠長に移動するより、地上を駆ける方が早い。
身体を低く、それでも速度を維持して距離を詰める。
七十、五十。
大木が迫ってくる。
高さ八メートル優、幹の直径三メートル強。
緑の葉に覆われた枝を大きく広げ、金色の光を放つ花をびっしりと咲かせている。
猛々しさと繊細さ。
相反する要素を見事に融合させた美しさがあった。
つい見とれてしまいそうになるのを堪えて、光輝は地面を蹴る足に更なる力を込める。
三十、二十。周囲にゴーントの騎士はいない。
広場に入った。ついに十メートルを切る。
勢いそのままに跳躍、右腕に全体重を乗せて投げつける。
ハンドボールのシュートに近い形だった。
木の根元、地面との境界に一直線。
狙いを違える事なく命中する。
寸前!
地面の下から漆黒の腕が突き出し、緩衝材の包みを掴んだ。
着地した光輝が思わず呻く。
そんな彼を嘲笑うかのように地中に伏せていたゴーントの騎士が、土をこぼしながら立ち上がる。
背丈は一メートルもなく、身体つきも薄っぺらい。
非力そうである分、隠密行動には最適の固体に思える。
光輝がナイフを抜いた。
絶望するのはまだ早い。「火竜の瞳(試作)」を奪還してリトライすればいいだけ。
貧弱な固体なら数秒で倒せる。
そう考えて斬り掛かろうとしたところで動きが止まった。
光輝の前で地面から、もう一体現れたからだ。
それだけではない。
光輝の左右後方でも、土を押しのけて身体を起こしてきた。
合計四体。完全に取り囲まれた。
焦る光輝を気にする様子もなく、前方の一体が掴んでいた緩衝材の包みを放り投げる。
放物線を描き、光輝の頭上を通過。
三十メートル以上離れた硬い石畳に無情にも転がった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
華麗にバックステップ。
剛剣横薙ぎの一撃を紙一重で避けると同時に槍を突き出す。
切っ先を刺し込んだ手応えに、すぐさま風の力を込める。
ゴーントの騎士の光沢を持った肌が歪んで弾け飛ぶ。
だが、息をつく暇もなかった。
背後から打ち下ろされた斬撃を、小さく左に跳んでかわす。
着地点。ここぞとばかりに、二体が剣を振り下ろしてきた。
必殺の軌道の合間に滑り込むと、槍を振るって一体を撃破。
残った方の傍らを駆け、ひとまずは包囲からすり抜けた。
「次から次へと」
マルグレットが舌打ち。
ゴーントの騎士、残りは三十二体。じりじり囲もうとしてくる。
巧みに移動しながら敵の戦力を削いではいるが。
「近付くことすらできないとは、我ながら情けない」
既に呼気は大きく乱れていた。
左腕も出血が酷く、指先が痺れだしている。
「こいつらを釘付けにしておくのが精一杯か」
左右から迫るゴーントの騎士。
右側が近いと見るや、逆に距離を詰めて槍を躍らせる。
頭部と上半身を抉って破壊。
残った左からの攻撃は、身体を捻ってやり過ごす。
だが、完全に回避できず、肩口を掠めてしまった。
想像以上の衝撃にバランスが崩れる。
その機を逃さず、三体が剣を振り下ろしてくる。
「風よ!」
突風と供に地面を転がって、攻撃をなんとか凌いだ。
素早く身体を起こす。
と、西の大通りから、中央の大木に駆け込んでいく光輝が見えた。
付近に敵はない。
光輝が跳躍する。
このままランプを叩き付ければ終わり。
マルグレットはミッションの成功を確信した。
「なんだ?」
当惑が言葉になる。火が起きない。
理由は直ぐに解った。
光輝と大木との間、地面からゴーントの騎士達が出てきたからだ。
「肝心なところで! 相変わらず役に立たない男だ!」
小型とは言え四体。
光輝の戦闘力では荷が勝ち過ぎる。
「今助けてやる! 小さくなって震えていろ!」
怒声と供に、槍一閃。
近くの一体を吹っ飛ばして、そのまま中央に駆け寄ろうとするが。
三体が立ちはだかった。
しかもその後方に、ゴーントの騎士が並んでいく。
攻撃してくる気配はない。
待ちに徹し、光輝を仕留める時間を稼ぐつもりのようだ。
「こ、こいつら!」
マルグレットが奥歯を軋ませた。
「うわぁぁぁぁぁ!」
光輝が絶叫しながらナイフを振り回し始めた。
破れかぶれで隙だらけの動きだ。
「止めろ。そんなことをしても、どうにもならないんだ」
痛々しく呟くが、もちろんその声が届くはずがない。
少し木に近付いたところで、無様にバランスを崩して倒れこんでしまった。
その拍子にナイフが手から抜ける。
山なりに木の方に。
奇跡的な軌道を描き、幹の端っこに刺さった。
マルグレットが頬を緩める。
「ふふ。ここまでか。
一矢報いたというには、あまりにお粗末な結果だったな。
だが、お前の行動は、私が最後になすべきことを教えてくれたぞ」
ぎゅっと槍を握り締める。
「一体でも多く破壊して後事を託す。
見せてやる!
ヴァルハラ最強の聖騎士、マルグレット・ルーセンベリの意地を!」
自身を鼓舞するように言い放った。




