【黄昏】
【黄昏】
男は右手の槍に半ばもたれ掛かる形で片膝をついた。
食い千切られた左肩から流れる血が、足元で赤い溜まりになっていく。
肋骨も折られている。
深手だ。
全身を覆う豪奢な装飾の板金鎧が、圧し掛かるように重い。
左腕の盾が地面に滑り落ちた。
それでも。
それでも、男は両の足に力を込める。
苦痛を奥歯で噛み潰しながら立ち上がった。
分厚い兜の奥、隻眼の瞳で己が敵たる魔獣を睨め付ける。
狼。
少なくとも形はそれに近い。だが大きさこそは異様だった。
頭部を下げた戦闘体勢でありながら、男が見上げるほどの体躯。
体高は四メートルを優に超えるだろう。
大振りのナイフほどはある牙を剥いて、油断なく距離を測っていた。
ひとりと一頭が対峙するのは荒涼たる平原。
朽ちた灌木が少しと、雑草が申し訳程度に生えているだけだ。
空には分厚い雲が広がり、どんよりとした暗さが漂っている。
先に動いたのは男だった。
大きく踏み込み、槍を繰り出す。狙うは額の中央。
必中必殺の一撃だ。
しかし、魔獣は後方に跳んで、一瞬にして射程外に逃れる。と、着地と同時に再跳躍。
引き戻される槍より速く男に迫る。
予想外の反撃を男は伏せてかわす。
鋭い爪牙が手足に深い傷を作るが、どうにか致命傷は避けた。
そのまま無様に転がって間合いを開ける。
「偉大なる王よぉ、残念ながらここまでのようだのぅ」
しゃがれた女性の声。ねっとりと絡みつくような喋り方だった。
直後、魔獣の直ぐ横で空間が歪む。
転移魔法。
距離を超えて物体を瞬間的に移動させる超高等魔術のひとつだ。
術者の魔力が強ければ強いほど、より重い物をより遠くまで運ぶ事ができる。
男が隻眼を見開く。
滲み出るように現れたのは、魔獣の倍はあろうかという途方もない巨人だった。
黒曜石を思わせる漆黒の肌は、あちこちで亀裂が走り、炎が滲んでいる。
赤々と輝く瞳。体内で渦巻く熱が蒸気になって鼻口から漏れていた。
右手に提げた剣は、熱した鉄そのもの。しかも自身の背丈ほどある。
「出おったか!」
男が槍を構えつつ、言い放つ。
だが、巨人は男に気付かないのか、厚い雲をぼんやりと眺めるだけ。
「偉大なる王よぉ。こやつの無礼は私が詫びようぅ」
巨人の右肩に女性が座っていた。
濁った緑色のローブ姿で、フードを目深に被っている。
「こやつの目に滅びゆく者は映らぬのでなぁ」
「滅びるだと? 世迷い言を! 我は不滅の王なり!
秘紋よ! 我が槍に! 輝け! 勝利の槍よ!」
男の振り上げた槍が、まばゆい光を放つ。
その輝きに魔獣は後ずさり、巨人も大剣で防御の構えをとる。
だが。
「槍は輝かぬ。秘紋は既に失われたり。不滅の王は既に滅する運命にあり」
女が淡々と告げた。
その言葉に反応するように、槍から光が抜けていく。
「我が槍が、我が秘紋が……。やはり、やはりか」
男が漏らした。
男は経験から学んでいた。
秘紋なくして魔獣に及ばない事。秘紋なくして巨人に敵わない事。
そして、魔女が秘紋を封じる力を持つ事。
つまり、自分がここで果てる事を。
男の口元に笑みが浮かぶ。
そう。経験で学んでいたのだ。無論、覆す手は打ってある。
長い時間を掛けて、万全の準備を施してきた。
「時は来たり! 英雄達よ! 我が槍に代わり! 奴らを打ち滅ぼすのだ!」
男が槍の石突きで地面を打つと、いくつもの光の円が現れた。
自らを餌として敵の要たる魔女と巨人を誘い出す。
予め仕込んでおいた転移魔法で伏兵戦力を投入。一気に殲滅する。
単純にして確実な罠だ。
男が微かに眉を顰めた。転移魔法は発動している。
だが。
魔女がくつくつと肩を揺らす。
「偉大なる王よぉ、お前の援軍は来ぬぅ。来ぬのだぁ」
「どういうことだ!」
問う男に対し、魔女はゆっくりと右腕を上げる。と、空中に映像が浮かんだ。
それを目にした男の顔が強張る。
まさに凄惨な光景だった。
緩やかな起伏の草原。
普段なら優しい景色が広がっているはずのそこを、今支配しているのは圧倒的な死だ。
そこかしこに転がる、簡素な青銅の防具をつけた巨人達。
ある者は無数の刃傷を受け、ある者は全身が焼け焦げている。
しかし、それ以上に多いのは人間の死体だった。
白銀の甲冑に身を包んだ女性が、肩口を大きく斬られて倒れていた。
熊の毛皮を被った青年は腹部を巨大な槍で貫かれている。
青い膝丈チェニックの少女は首を捻じられ絶命。
胴体を踏み潰されて転がっているのは、ポケットが沢山あるベストを着た小柄な女の子だ。
黒い背広で灰色シャツの少年はナイフを握ったまま事切れ、ポンチョの男性は腰を切断されて息絶えている。
巨大なハンマーの傍らで崩れ落ちている戦士風の男。
武器らしき物を持たぬ少年の死体もある。
二百を優に超える死体は全て、男が世界中から掻き集めた人間達だった。
「偉大なる王よぉ。誤解のないように言っておくぞぉ。
お前の兵は紛れもない強者達であったぁ。
最強の巨人達を投入してなおぉ、刺し違える形で得た勝利であったのだぁ」
「何故、何故だ! 我が策に誤りはなかった!」
「浅知恵を巡らそうが無駄じゃぁ。
お前の未来視をもってしてもぉ、破滅から逃れることはできんのじゃぁ。
定めは決して変えられぬぅ。変えられぬが故に運命なのだぁ」
「我は認めぬ! 槍よ! 今一度、勝利の力を!」
雄々しく槍を掲げるも、だが光は宿らない。
その様子を好機と見たのか、魔獣が動く。
男との距離を瞬時に詰めて飛び掛かった。
対する男は槍で迎え撃たんとするが、その穂先は虚しく空を切ってしまう。
魔獣の巨体に押し倒され、衝撃で手からこぼれた槍が地面を転がった。
容赦なく喉を噛み千切ろうとする魔獣。
その牙を男は両手で辛うじて止める。
だが、力比べでは圧倒的に不利だった。
「偉大なる王よぉ。
運命を知りぃ、なおその運命に立ち向かった勇気に敬意を表しぃ、私がひとつ名を送ろうではないかぁ。
大いなる道化、というのはどうだぁ?
そうか、気に入ってくれたかぁ。私も嬉しいぞぉ」
狂気じみた笑いを上げながら、魔女が目深に被っていたフードを撥ね上げる。
その顔は異様だった。
右半分は白く瑞々しい肌の美女。
しかし左側は腐敗し、蛆の這い回る醜悪な死者の物だ。
右の澄んだ青い瞳と、左の崩れ掛けた眼球が、魔獣の牙に対し必死の抵抗を続ける男に、僅かな憐れみを注いだ。
が、それもほんの数秒。
「大いなる道化よぉ、世界の終わる様を見ているがいいぃ」
その言葉に応えるように、黒曜石の巨人が大剣を地面に叩き付ける。
広い荒野が一瞬にして火の海に変わった。
いや、ここだけではない。
炎は世界中を包み込んでいた。
全て燃え上がり、溶け、崩れ去っていく。
男は自身の敗北を悟った。しかし。
「この光景を見ろ。考えろ。策を巡らせ。朽ち果てた我を乗り越え、運命を打ち破るのだ。
我は不滅だ。滅びの運命すら克……」
喉笛に突き立てられる牙に、意識が遠のいていく。