01:空箱の楽園
西暦二二〇〇年、人類は人の殻を捨てて電脳世界に閉じこもった。
極論、人間は過酷化する地球の環境変化に順応できなかったということだ。
文明が残した負の遺産、数多の工業設備、自動車、そして増えすぎた人間により地球は許容量をオーバーし、川は枯れ果て、極地の永久凍土が融けたことにより海面は上昇した。大気のオゾンが薄くなり、日中の気温は五十度を超え、呼吸するだけで喉が焼けるほどであった。
その中で先時代に生まれたヴァーチャル・リアリティを追求した技術は後の人類にとって新たな可能性を見出す結果となった。
置換現実。仮想の現実を生み出し体験させるのではなく、元いた世界と作り出した世界とを本質的に入れ替える考え方だ。
それを現実のものとしたのがプロジェクト・コード、《空箱の楽園》である。
【《空箱の楽園》――――人類が自らの意識をネット上にアップロードすることで、その中で生活することを前提に開発された、二三〇四年の現在において人が生きとし、住処としている世界規模の超巨大サーバーのことである】……少なくとも学校ではそう習う。
しかし、その史実は《キューブ・ノヴァ》の稼働から百年経った今、とても曖昧なものになっていた。
この世界の人たちは《キューブ・ノヴァ》の中にいながら、《キューブ・ノヴァ》の中にいることを普段は認識していないからだ。
仮想物が現実と限りなく同化しているのは言うまでもなく、ある意味では《置換現実》が目指した究極であると言えるだろう。
だが、ここまで自然に受け入れられている理由には釈然としない背景がある。
たった百年ほどの歴史しか持たない《キューブ・ノヴァ》は、人類誕生の歴史から考えれば至極僅かなものだが、サーバーという観点から見れば相当な骨董品である。
普通に考えて百年持つサーバーなんて考えられない。二二〇〇年当時、幾ら技術が向上したところで定期的なメンテナンスを含めて耐久年数は十年が限界と言われていた。それを開発者はその十倍に相当する百年間の耐久性を保証すると言い切った。
そしてそれが事実であったことは二三〇〇年まで、人類が《キューブ・ノヴァ》の中で存続していたことが証明している。
だが、そうなったところで新たな疑問が浮上した。
百年を過ぎた今、《キューブ・ノヴァ》が存続されている事実をどうやって説明するのか、という疑問である。
《キューブ・ノヴァ・サーバー》の稼働開始は二二〇〇年五月とされているから、百年後になるのは二三〇〇年五月。しかし、現在は二三〇四年九月である。四年四ヶ月もの期間が経っているのにも関わらず、なんの予兆もなく世界は継続されている。
実際、二三〇〇年のサーバー停止予定日――いわゆる《終末の日》のもっと前から、そのことについて追及するジャーナリストたちによって民衆による暴動やデモ行進が盛んに行なわれたらしいが、政府のある発言によって事態は一気に収束した。
【《人もどき》はその数を増やしすぎた。今まさにサーバーの許容量のリミットは近く、キューブ・ノヴァ存続が危ぶまれている。我々《人》は断固として世界永続のため、この事態を改善する必要がある――――】
【――――よって《フォルス》に対し《自発的余命選択法》を施行する】
《自発的余命選択法》――――多くの人がこれを《十五歳の決断》や《決断令》という俗称で呼ぶ。その内容は十五歳になる誕生日のその時刻に自らの余命を選択するという残酷な法律である。
元々、酷い迫害を受け、その一部は奴隷扱いされてきた《人もどき》と呼ばれる人々は自身が長く生きるということに執着がない。もっとも奴隷として《人》に拘束されているため自殺という選択肢さえ許されないような《フォルス》にとっては、この法律はある意味で救済であると政府は説いたのである。そして思惑通りに《キューブ・ノヴァ》に生きるフォルスの数は減少した。
結果的に浮上した疑問は民衆の中で史実ごと捻じ曲げられ、《フォルスの数を減らし、サーバーに負担をかけなければ世界は永続する》という認知に至った。
「――――でも博士、それって《フォルス》の人たちを差別する良い理由にしているだけで、本質的な問題は解決してないんじゃ?」
「お、それに気が付いてしまったか。カイト」
ニシシッと、白衣の男は三十路も半ばの男にはとても見えない無邪気な笑い方をする。
白木康仁。それがこの人の名前である。髪は何か月も研究に没頭していたためか無造作に伸ばされたロングヘア。せめて身だしなみとして髭だけは毎日剃っているらしいが、どうにも剃り切れていない顎鬚がいただけない。
白木は手に持っていた分厚い本をパタンと音を立てて閉じるとそれをこちらに向けてきた。
「そうだ。これは政府が民衆の不安から気を逸らすための措置に過ぎない! 政府も《キューブ・ノヴァ》がいつ崩壊するかなんて正直予測がついていないはずだからね」
「そしたら、あまりにも《フォルス》の人が可哀想じゃないか……」
「うん……そうだね……」
でも、と白木は付け加える。
「この世界は常にアンバランスな状態だ。いつ終わりを迎えてもおかしくない。その日がいつになるか解らないから不安感が煽られる。だからこそ《フォルス》は意図的にそういう存在にされた節があると僕は思うよ。ただでさえ差別されていた《フォルス》に追い打ちをかけるように民衆に潜在意識を植え付けたんだからさ。そうでもしない限りは混乱が収まらなかったと取るべきなんだろうね」
「じゃあ、博士は《フォルス》の犠牲は間違ったことじゃないってそう言い切れるの?」
そうじゃないよ、と白木は目を伏せた。
「僕はできることなら《フォルス》が今受けている迫害を止めたい。今やっている研究もそのためだからね」
白木はカイトに親指を突き立てて、二カッっと笑った。相変わらず能天気な人だとカイトは思ってしまう。
と、そんなやり取りをしながらも白木は何やら外に出る準備を済ませていたらしく、
「あ、カイト……悪いんだけど、僕は学会に出てくるから、あと頼んだよ。もし出るんだったら鍵をかけて出てくれよ」
カイトは白木から投げられた研究室の鍵をひょいっとキャッチした。いつもの一回きりしか使えないインスタントキーである。
「了解。行ってらっしゃい、博士」
「ああ、行ってくるよ」
にこやかに手を振る白木にカイトは手を振り返してから、扉が閉まると、ふぅ……と息を吐いた。白木が研究室を出て行ったからというのも間違いではないが、カイトのそれはまた別のことに対してのものだ。
毎度のことだが白木は忙しい。本人の身なりも見事に比例して手が回っていない有様である。
ましてやこの研究室など片付いているわけが――――
「――――……あーあ。掃除でもしていくか」
カイトは一週間に一度のペースでここを訪れるが、毎回顔を出す度に一週間でどうしてこうなったと言わんばかりのゴミと資料が散乱している。以前それを指摘したこともあったが、『あ、悪いね! 次も頼むよー』と特に悪びれもせず返されただけだった。
カイトはそそくさと慣れた手つきで研究室を片付けていく。白木とは長い付き合いなので何がどこにあったのかは全部頭に入っている。
「……っと、こんなもんか」
あくまで軽くだが、資料散乱、食べ残し散乱な状態でなくなっただけで随分と見違えて見えるものである。
ふと窓を見ると傾きかけた日の光が夕刻を示している。
「そろそろ帰るか……」
おそらく白木は夜遅くにならないと帰っては来ないだろう。
カイトは渡されたインスタントキーで扉を閉める。同時にそれはデータの塵になって消えてしまう。
考えてみればこの《箱》では実際の物質なんて存在しないんだよな、とまで考えたがすぐに頭を振ってかき消す。
「あんまもたもたしてると飯が食えなくなるぞ、カイト」
らしくもなく、そう自分に言い聞かせてカイトは少し早歩きで外に出た。
次回、空箱庭のディストピア《02》は11月更新になります。
お待たせしてしまいますがよろしくお願いします。
なお、ミライはユキとともに《解放編第五章《肆》》は10月更新予定です!