結城姉妹――姉の仕事場
朝の七時くらいのこと、まだ眠い眼を擦って掛かってきた電話にイラついて出ると、相手はその常識を弁えない人物は姉だった。
姉はどうやら焦った様子で、話の内容から忘れ物があるとのことだった。
「どうしても、大事なものなの! しずには悪いんだけど、持ってきてくれないかな?」
それって、私に拒否権ないんじゃない。半ば強制的な言い様だ。
私はイラついて、ひとつ返事で渋々と了承した。
姉は随分嬉しそうに安堵を漏らして電話を終えた。
はあ……。憂鬱。
こんなあっつい真夏日和に、朝から行動せねばならないとは非常に体が重たく感じるものだ。
一度、布団の中に潜ってあっつい空気感を味わった後、一気にそれを振り払ってベッド上から起き上がった。
起きて一通りの支度を終えてから、姉の忘れ物を捜すことに。
面倒だけど、忘れ物を捜して持っていくことが姉からの頼みであるゆえにこの経緯は省かれない。
さて、姉の探し物だけど、名札らしい。
ただの名札じゃなくて、IDカードとしても機能する名札のようで、それがないと色々と困るそうである。
前の私なら迷わず無視するところだが、夏を迎えてからは良心が働く。面倒くさいと愚痴を零しながら、私は名札の在り処を捜すのだった。
まあ、在り処といっても姉の部屋以外あるのだろうか。そう思って、久しぶりに姉の部屋に入って捜すことにした。
久しぶりに入る姉の部屋。入った瞬間に、自分の家じゃない感覚を味わう。姉妹であるはずのに、どこか匂いが違った。ただそれは嫌な匂いではなかった。
「……汚い部屋」
独り言のように漏らした感想。姉の部屋は、特にベッド上に乱雑に置かれたパジャマなどの洋服があって、彼女の机の上には色んな医療書が山積みになって、とてもじゃないが綺麗とはいえなかった。読みかけだろう本はベッド近くに開かれたままおいてあるし――自分のことはまったくなってない。
まあ、日ごろ主に構っている相手が仕事か妹の私だから自分に手を回すことはしないのだろう。そう思うと、私は少し罪悪感というか姉の犠牲心を疎ましく思った。
もう少し自分の事をきにかけてもいいのに、こんな私のことなんて放っておいて男一人くらい見つければいいのに……なんて思う。思っているのに、私は甘えてしまっていた。
「はあ……」
ため息を吐いて名札を捜し始めることにした。
大事なもん忘れて仕事行くなよ。こんな面倒なことを……。捜していると、机の上に散乱した書籍の中に名札が埋もれて見つかった。
名札には、姉の顔写真と番号と所属などが記されている。背面には、名札についての注意事項的なものが記されている。分厚い名札で、長い首にかけられるストラップもついていて、姉はこれをかけて仕事をしているのだろう。ま、今日は忘れて行ってしまっているけど。
必要なものは見つかったので、早速支度したかばんに名札を入れ込んで姉の勤めている病院へと急いだ。
姉の勤めている大学病院までは電車を利用して向かう。
三駅くらい跨いで到着。夏の暑さを身にしみながら、徒歩で大学病院へと向かい、ものの数分ほどで大学病院エントランスへと入った。
「人……多っ」
さすがは大学病院といったところか。朝の時間帯も相まって、受付での受診や支払いの人たちで混雑していた。
私が目指すべきは外来棟の中を行き来するのではなく、病棟のほうである。夜間外来受付の方から入れば、直接病棟へと行けたのだけど、電車から降りて近いのは外来棟だ。外を通って病棟へ向かうよりは、中に入って涼んで病棟へ行くほうが得策である。
病棟のほうへ抜けると、さすがに人通りは減っている。道行く人は、白衣姿の医者や看護師、病衣を纏った患者が通っている。
日常では見かけない光景に、心労が窮屈になる。こうして、普通に歩いていても担架で運ばれている人や車椅子で動いている人がいて何だか不思議な気分になる。
そうして、光景を目にしながら病棟の上の階へと、エレベーターであがって行った。
姉の仕事場は……確か五階の小児科だっけな。浅い記憶だから、あんまり把握できていない。まあ、わからないときは聞けばいいか。
そう達観して、五階に到着した。
五階は何やら遊園地のような雰囲気をしていた
ところどころに、可愛げな顔をした動物のラミネートが張られていた。私に感性からしてみれば、子供っぽいというものだけど小児科だからこそこういった雰囲気を敢えて作っているのだろうか。
ここ病棟は、北棟、南棟とある。エントランスを出て、正面に患者と見舞い客との面会ルームを見て右左道が分かれているのだ。どっちだったか再び迷ったけど、姉の居場所自体が曖昧なため適当に北棟のほうへ足を運んだ。
さて、北棟受付前に来て再び迷う。そういや、ここも分かれ道だった。右が一病棟、左が二病棟となっていて、それぞれにナースステーションが存在する。病棟どんだけ分岐多いんだよ、と突っ込みを入れたくなるところである。
とりあえず、一病棟のほうへと行こうと踝を転換させたところで、突如純粋な声がかかった。
「おねえーちゃん、何しているのー」
「……ん?」
その声に反応して振り向くと、そこには小学生くらいの女の子が私のスカートを掴んでこちらをじっと見つめていた。
「えーと、知り合いに会いに」
姉に会いに行くとはいわなかった。
「しりあいー? それって妹さんですか、弟さんですかー?」
彼女は少し慣れない声色で話す。妹っていうのは、ここが小児科だからかな。
「違う、かなー」
彼女と同じような口調で返した。
「じゃあ、お姉さんですか、お兄さんですかー?」
「お姉さん、だねー」また同じような口調で返す。
「そうなんですかー」
「ええ……」
なんだこの不毛な会話。
「あ、いた……。駄目でしょ、病室を抜け出しちゃ」
と、二病棟のほうからめがねをかけたおっとりとした女性の看護師が小走りできた。
「だって……暇だもん。誰もこないし……」
ぼんやりとした女の子は少しぐずったように言った。
彼女を捜しにきた看護師の女性は、すっと座って彼女と同じ目線になると女の子の頭を優しくなでた。
「今日は午後から検査だから、お母さんもお友達も夕方来るって言ってたじゃない」
「でも、それまで暇だもん! みさきもお仕事でいないし」
「あはは……、ごめんね。部屋でテレビを見ているのはつまんないかな」
「……うん」
何やら、女の子のほうは暇をもてあましているようである。彼女が口にした『みさき』とは、めがねをかけた看護師のことをさすようである。看護師の女性が首にかけている名札を見ると、随分目の前にいる顔の形と違う顔をした顔写真をした名札に本庄見崎と記されていた。
にしても、入院生活というのは退屈そうだ。二十四時間、病棟に拘束されると考えれば娯楽というのは限られて、彼女のように見知らぬ人でも話かけたりするのだろう。
女の子はしばらく、黙っていると、何かを思ったのか、
「私……戻る……」
看護師の本庄の困った顔を見て、悟ったのかスタスタと本庄の横を過ぎて二病棟のほうへと向かっていた。子供のくせに、大人の顔色を見て判断するなんて、よっぽど何かを考える時間が多いんだな。
本庄はすっと立ち上がり、女の子の後姿を申し訳なく見送っては私のほうを見てお辞儀してきた。
「ごめんなさい。相手してもらって……」
「いえ……」
相手というほど相手をした覚えはない。ただ彼女の言う事をオウムのように返しただけだ。
ああ、そうだ。丁度いい。彼女に、姉の所在を聞くことにしよ。
「あの、結城杏子……さんってどこに勤めていらっしゃるかわかりますか? ここに勤めているって聞いているんですけど……」
自分の姉に、さんをつけるのを恥ずかしがりながら訊いた。
「結城さん? それなら、ここの二病棟ですよ。あ、もしかして結城さんの妹さん?」
「え、ああ、そうです」
普通に考えれば、姉が、妹が来ると言っているだろうからそう察せられるのは当然か。一瞬、驚いて動揺してしまった。
私は返事をすると、かばんの中を探り名札を取り出した。
「はい、これ……。姉に渡してください」
彼女は二病棟の人だし、そのまま渡すことにした。
「うん、預かったわ。ありがとう。これがないと入れない部屋とかあるからね」
やっぱり名札にはIDカードとしても機能しているようだ。病院ともなると、そういった部屋が多そうだな。
「えと、私帰ります」
「いいの? お姉さんを一目見なくて、短い会話くらいはできると思うよ」
姉と会って何を話すというのか。姉の働く姿を見たって――、
「それじゃあ、今から行きますよ」
姉の声が聞こえた。その声に振り向いて見るに、姉は面会ルームから車椅子を押して出てきていた。
車椅子に乗っているのは、何やら不安そうな少女だ。姉の後ろから、それを追ってでてきたのは少女の家族らしき人物が三人。見る限り、母と父と、姉だ。
「ぜーったい大丈夫だからねっ!」
そういうのは、少女の姉だった。
「う、うん……」
少女の顔からは不安は払拭されない。父も母も困っていた。
「大丈夫だよ、ヒナちゃん」
と、姉はヒナと呼ぶ少女の正面に来て腰をおろすとぎゅっと彼女の小さい手を握った。
「杏子さん……手術、怖いよ……」
ヒナは若干泣きそうになっていった。
「うん、怖いよね。大丈夫だよ。手術のときは、こうやってね、手を握っているから」
「離さないでよ……」
「うん、離さないよ」
ヒナは泣きじゃくった。
「……あ、あの! ヒナをよろしくお願いします!」
ヒナの姉は深深としたお辞儀をした。同時に、父と母もお辞儀をして、同様のことをいう。
「はい、ヒナちゃんはちゃんと戻ってきますから、待合室のほうで心労を掛けずお待ちくださいね」
姉はそういうと、ヒナの手をもう一度ぎゅっと握ると再び車椅子のもち手を持ってエントランスのほうではないエレベーターのほうへ家族と一緒に向かって降りて行った。
「あー、今から結城さんは手術場だったね」
本庄は残念そうに話した。
「……いえ、もういいです」
姉と話す必要はなかった。仕事場なんてみたくなかったけど、姉が自分を犠牲にしてまでそうする取り組みは私がどうこういうものではなかった。一般的な幸せを彼女にぶつけるのは不躾で、むしろ姉なりに誰かに奉仕する姿が立派なものだと――姉の笑みを見て気づいた。
「そう、じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい」
本庄との別れを済ますと私は少々足早に家に帰ることにした。
今日は、色んな料理を考えてみよう。姉の部屋を掃除しよう。後は、色々、そう色々……。
私は姉のために頑張ってみようと、初めて思った。
本編に関わりあるようでなさそうな短編二弾です!
今更ですけど、
総合評価100p突破ありがとうございます!
短編はまだ続くよ!