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ぼっちな私のユリハー思案  作者: あこ
結城静編
5/19

初めての友人・過去


 これは桐生綾香が中学二年で春のことである。

 人との接し方もわからなければ、人と話し合える事自体が不思議でならなくて、なんていうか――コミュニケーションそのものを拒絶していた。

 その意思ももはやなくて、誰かに話かけようっていう意思もなくて。

 それは誰かから仕組まれた悪態ではない。生まれつきの悪態でしかない。

 私の世界は、現実ではなく幻想にしかなかったと思う。

 結城静という人に出会うまでは――。



          1


 子供の頃は桐生綾香の身体は弱かった。未熟乳児として生まれてきたせいもあって、体内の機能の作りも未熟で、様々な病気を引き起こす事も多く。特に、空気中のチリやほこりなどの雑物質を多量に吸い込んだ場合の気管炎症はよく見られた症状であった。

 その理由から、彼女は体育の授業の時、クラスには混じらず保健室での自習を一人行っていた。

 コミュニケーションは常に消極的なために都合はよかった。体育の授業を見学して、レポート提出する形式だったら、見学している綾香を面白がって興味本位で弄ってくること受け合いである。図らずとも、快適な室内で自習に注ぎ込めるのだから、担任の計らいには感謝しなくてはならない。言葉にはしないが。

 桐生綾香のクラスで体育がある時、毎回、保健室には先生はいない。保健室の先生の机上には、『先生に用がある人は美術室に呼びに来てね!』と三十路の女の先生とは思えない可愛らしい文字で書かれた札が置いてある。学校医のくせに、私情を挟むなんてかなり緩い中学だ。

 なんてことを、先生の机上を眺めてみては、部屋中央にあるテーブルの上に持ってきた勉強道具を広げてそこで自習するのが、学校生活の中でもっとも安心する時間だった。

 そんなある日、体育の授業はいつも通り保健室に向かい自習をする。この時間も、一年経ち中学二年の秋である。クラスでは、相変わらずの寡黙っぷりと無愛想ぶりが際立って馴染めずにいた。もちろん、彼女はそれを気にするゆえもない。

 今日も、保健の先生は札を置いて美術室へ行っている。今日も勉強道具を広げ、いつも通り安心する時間が過ぎると思っていた――保健室の戸は乱暴に開かれた。

「先生。風邪でーす」

 随分元気な声で病気を宣言する女生徒が入ってきた。彼女の顔を見るやいなや、綾香は学校では寡黙かつ無愛想でいるが途端に驚いて顔を赤くさせた。

 入ってきた女生徒は保健室の先生の机を見るやいなや、先生の姿がいないとわかるに、顔は凛として淡白になった。先ほどは少しばかり病人を偽ったような顔つきをしていた割りに、酷い豹変だ。

 次に、見たのはびっくりしている綾香である。

「……あんた誰?」

  その質問にびくっとしてぽかんとする。彼女は数秒くらい綾香の返答を待ったが、面倒になったのかベッドの際のカーテンを引いて靴を脱ぐ。彼女は、ベッド上に転がった。

「誰でもいいけど、私の事チクらないでよね。私、寝るから……あ、先生着たら風邪で休んでいるって言ってよね」

 彼女はこちらに足を向けて寝転がっている。依然、とぽかんとしている綾香はどうにも状況を飲み込めずにいた。

 寝るといっているのだから、彼女に干渉するのは無粋である。しかし、明らかな仮病で保健室に来たのを注意したほうがよいのではないかと思う。コミュニケーションに消極的なくせに、妙な生真面目さが働いた。

 だがしかし、妹や親以外に人と話す経験は悪態のせいであまりに乏しく拙い。一体、どういった切り口から彼女を叱り付ければよいのか判然としない。

 わからないままに、生真面目な綾香はとりあえず席を立った。席を立つ音に彼女は気づいていない、どうやら本気で寝ているようである。なぜだが、彼女を起こすつもりなのに忍び足で彼女の寝ているベッドに近づいた。

 そして、小声でこうささやく。

「あ、あの……、け、仮病は……い、いけないと思います……」

 他人に聞こえるかどうかもわからない音声でいう。しかし、反応はない。音もない。

 これは本気で寝ている? と疑心になってはどうにか起こす手段を考える。さすがに、大声を叫ぶことは無理だし、第三者……主に先生を呼ぶ手段はコミュ力不足だから避けたい。ならば――、

 綾香は、彼女の背を人差し指でツンツン、とつついた。すると、その女子生徒は驚いて起き上がった。

「な、なにすんのよ!!」

 起きた女子生徒はすっかり怒った顔つきで、綾香を怖い顔で睨んだきた。

「ひっ……」

 予想以上の怖い面に驚怖する。すっかり怯えて、不意に涙が小さく零れた。

「ひくっ……ご、ごめんなさい……」

 綾香の弱弱しく萎縮した姿に、怒鳴った女生徒はなんだか罪悪感に苛まれて慌てて言葉を返した。

「そ、そんな顔しないでよ……。わ、悪かったわよ」

「え……」

 そうやって戸惑っている、とその女生徒はバツの悪そうにベッドから降りてから、保健室から出ようとした。

「じゃあね。弱虫――」

 彼女は捨て台詞を吐いて出て行った。

 綾香は唖然としてそれを見送っていた。

 彼女の言葉がやけに突き刺さった。たった一言の台詞。それは、あまりに桐生綾香を示しているようで心が痛くなる。

 綾香が泣いているだけのところを見ているはずならばきっと彼女は泣き虫と言ったと思う。けれど、きっと彼女はか細い声を聞いていた。だから――弱虫。

 綾香は心が苦しくて、残りの自習時間、手などつかなかった。


          2


――お母さん、今日もお仕事なの?

 母は困った顔をして綾香の頭を撫でた。

――……ごめんね。明日も帰ってこられないと思うから机の上にお金置いておくから、……それでご飯食べてね。

 母は忙しい人だった。たまに会う日といえば、こうやって学校に帰り着き玄関前で行うやり取りだけだった。

 父は物心付く前から単身赴任で、会う機会といえばお盆やお正月といった短い休みだけだったし、母は、妹の千夏が十分に育つと、仕事に戻ってこうして家にいることも少なくなるほどに執着していた。

 母も父も、仕事は遠方に行くことの多いもので一度遠いところに行くと、また別の遠い場所に行くから中々一つの場所に留まることがない。

 父は、子供のためにも、母だけには傍にいて欲しいといったが母はそれを拒絶し頑固として仕事に戻った。

 母は言葉も少ないし、表情も読めない人だ。怖いが、困ったような顔だけは得意なようで、それをごまかすように撫でるしぐさは不器用な母そのものである。

 綾香はそれに気が付かず、ただただ母を寂しがった。

 



 家に帰って気づく。今日はお弁当を買って帰るのを忘れた。

 お弁当を買って帰るのも、もはや日課といえるが、初めて親がいない日は、姉らしさを見せ付けるために料理を妹にしてあげようと思って夕食を作ろうとしたことがあった。

 結果は散々なもので、妹が健気にお世辞を言って食べてくれた光景にはつくづく心身を痛める。まだ小学三年の妹にはしては、大人びた対応であった。

 それ以降は、適当なお弁当を買って帰るのがライフワークである。一応、サラダとか野菜系も備えて買ってある。無論、添加物の塊に過ぎないが。

 姉としては、妹に身体の悪いものは食べさせたくないという僅かながらの姉心があるが、料理ができないんじゃ仕方がない。むしろ、料理して、余計な心配させるよりは、こっちのほうが妹のためになる。

 しかし、今はそのお弁当さえ忘れているわけだけど。

 忘れてしまっては夕食に困る。近所のコンビニで済まそう、と思ったらふと、鼻に良い匂いがくすぐった。

 これは家の奥から来ている匂いだ。母? と、玄関を見下ろすが母のヒールは見当たらない。妹の靴があるだけである。

 疑問は後回しにして、綾香はとりあえず上がってキッチンを確認することにした。

 そこにいたのは、淡々とした佇まいで料理をしている――母のような姿だった。

「お、お母さん?」

 その幼き子供のように母呼んだところで、気づく、キッチンに立っているのは、母ではなく、小柄な妹の千夏だ。

「お母さん? 今日はお仕事だよ?」

「え……、あ、うん……そうだよね」と、どうにも残念そうにした。

「もうすぐご飯できるから手を洗って着替えて待ってて」

「うん――って、千夏! 料理できたの?!」

 驚いて思った以上に声が出た。

「そう……だけど。言ってなかったっけ?」

 きょとんとしていう妹。

「聞いてないよ!」

 わめく姉。人見知り的悪態の姉は妹の前だけは自己を解放しきっていた。

 千夏は苦笑しては、おなべの蓋を閉じ火元を消してキッチンから出てきた。

「だって言ってないんだもん……、お姉ちゃん驚かせたかったし」

 一緒に暮らしてて料理を練習している仕草を一度も見かけなかった。それに、料理を影で練習しているという勲章が見当たらないけど――、

「いつから料理の練習を……?」

「え、家庭科で普通に料理できたから、家でもできるかなーって思ってお母さんの持ってた料理本を参考にして作ってみただけだけど……」

 姉より強い妹はいない、というのはガセであるようだ。妹は、姉より出来がいい。

「すごい……」

 なんて、妹を褒める。確かに、姉として誇らしい事に違いないが、その反面劣等感と自虐が助長する。今日――あの女の人に会ったのもあってなおのことである。

「お姉ちゃん?」

 呆然としている姉を心配して妹が声をかけた。

「あ……、着替えてくるね!」

 綾香は足早にリビングを出て、自室のある二階へと駆け上がった。

――じゃあね、弱虫。

 あの女の人の言葉がひたすら頭の中を反芻していた。




 今日も今日とて体育授業のある日は保健室で自習である。クラスが、男子女子分かれて着替えを行うのを横目に、するりと抜けて保健室を向かう姿は、さながら自由な猫である。しかし、最近の彼女の態度は少々人目を気にする猫になっていた。

 たった一言が、彼女をそうさせている。それでも、すぐに行動は変わらない。今までどおり、人と関わらずに過ごすばかりである。

 だが、もしもまた保健室で彼女に会えたのなら話してみたい。

 表面上では、それを嫌がるが、弱虫なりにも、彼女が気になっていたのである。

 もし彼女に会えるとしたら、自習の途中に来るのだろうか。

 自身のクラスには彼女姿はなかった。ほかのクラスの人から、もしかしたら学年も違う人かもしれない。それすら、確認しているわけではないから、本当にあえるかどうか判然としないことである。

 いつになく感じる緊張。保健室の戸を前にして、すぐには戸を開くことはできなかった。

 それを開く決意には少々の時間を必要とした。頭の中身を必死に空にして、意を決して扉を開く。

 桐生綾香は扉の先を見て驚いた顔をした。そこにいたのは、退屈そうに、淡々とした目つきでスマホを弄っているあの女の子であった。

 彼女は、綾香がいつも自習するときに使う席に座っている。彼女の位置にも困惑したが、本意は彼女がいることである。

「ん? ああー私風邪で――って、この前の弱虫?」

「――ひっ」

 そう言われまた泣きそうになる。彼女の凛とした目つきが怖い。態度も大仰だし、格好も制服を着崩しており雰囲気も悪い。

 人と話すことが極端にない綾香にとっては、話かけようと意図しても敷居が高い。何せ、第一印象において彼女は悪態をついているのだから。

 だとしても、心の奥底では彼女は気になる存在である。曲がりなりにも。

 まあ、しかし、彼女を目の前にしてすぐに何か気の利いた事を言えるわけもなくてたじろいで涙目になるばかりである。

「また泣いてるし……、前にでも座ったら?」

 彼女に従い。怯えながらも、彼女の前の席、向かい合うように座った。

 持っている自習セットを広げようと思っても彼女の手前、安易に広げようとはしなかった。困惑したまなざしを、彼女のほうに向けていると、彼女が口を開いた。

「あんた名前何?」

 反射的に身体をびくつかせる。それに、彼女は少し苛立ったようで、荒げていった。

「それいい加減やめたら? うざいんだけど」高圧的にいわれ、また萎縮する。

 傷口に塩を塗られたようで、どうにも口を開きにくい。綾香はただただ目線を狼狽させていた。

 それに呆れた彼女は苛立ちを通り越していた。小さい息を吐いては、綾香の様子を、また机においてあるノートを見ていた。そこで、彼女は気づいた。

「ふーん……、桐生綾香ってんだ」と、何の気なしにつぶやいた。綾香は大げさに驚いた。

「な、なんで、わ、私の名前を……」

 彼女は不敵に笑うと、指先一本を立てて綾香の前に置いてあるノートの名前欄を指した。

「ここ」

「あ」

 小さい阿吽が出た。

「私、結城静。よろしくね、あーや!」

 屈託のない笑みで渾名らしきもので呼ばれる。

「あーや?」

「綾香だからあーや、いいでしょ」

 初めての気持ちを感じた。妹や母と話す感じではない。それとはまったく別で、初めての距離感。

 きっとこれが友達の始まりなんじゃないかって。

 まだまだ疑問でしかなかったが、本当に友達と思える日が近いんじゃないかと思った。


          3


『 単に魔が差した。どうにもうだつがあがらず俺は次の体育の授業をサボっていた。しかし、授業中の校内というのは静かなものだ。廊下を響くのは俺の足音だけだった。こうしているのもサボったのも手持ち無沙汰に終わると、これもまた魔が差して保健室へと赴いた。そこには、一人の少女が黙々と勉強に精を出す姿があった』

 綾香は自室で真剣に、ゲームに取り組んでいた。しているゲームは俗にギャルゲーと称するものであり、本来その内容から女子向けに作られたものではないが彼女は、ギャルゲーをするのが好きであった。

 現実で人とのコミュニュケーションが消極的なのが理由なのか、二次元に対しては非常にこうして積極的である。ここで、乙女ゲーではなく、攻略対象が女の子のギャルゲーを無意識に選んで好んでプレイしているところをみるに、本心では友達関係をリアルに求めているとも取れる。

 まあ、しかし、そんな意識などないから無意識であって好んでギャルゲーに勤しんでいるのである。

『 彼女を見つけたが集中しているようだ。どうしようか?』

『・話しかける

 ・保健室をそのまま出る。

 ・先生のお通りだ!』

「話しかける、っと」

『 俺は意を決して話しかけた。「お前保健室で勉強か?」「……え、あ、う、う、うん……べ、別にサボっている、わ、わけじゃ」挙動不審ながらも彼女は答えるが、彼女の目線の狼狽具合に不安を覚えるばかりか腹立たしくも思える』

「これは気持ち悪いわ」

 残念な攻略キャラを見てそう言った。

 急につまらなくなってセーブをして止めた。今日、妹は友達とお泊り会だという綾香に言わせれば無縁の会合であるが、妹のいない今どうにも手がつかない。それに今日――結城静という人と話らしい話を始めてした事があった。

「…………」

 ベッドに寝そべって白い天井を見上げた。このまま目を瞑れば、初めて友達らしき人物を会話をした実感を得ることができるだろうか。今日の過去の記憶にダイブして、それを再び想起することによって現実である事を確認できるのか。綾香はただただそれを噛み締める。

 虚空を見上げて呆然としていると、虚を突いてインターホンが鳴った。

 いつもなら妹が先んじて玄関へと急ぐが妹はいないし、綾香だけなら居留守を決め込むのだが――魔が差していたのだ。

 綾香はそれこそ怯えた足取りで玄関へと向かった。

「はーい……」

 小さな応答。綾香は玄関をあけてそっと覗き込んだ。そこには見知った顔が佇んでいた。そこにいる彼女はたどたどしく言う。

「……ただいま、綾香」

「お、お母さん……」

 物憂げそうで疲れた顔をした母がそこにはいた。いつも不気味な母だが、いつにも増して不気味に見える。

「鍵はどうしたの?」

「どっかに忘れてきちゃったみたいで……、困っていたの」

「そう、なんだ」

 なんだか疲れてそうだと思い母を素直に通した。彼女は、雨が降っていたのかびしょぬれだった。ここまで引いてきたキャリーバッグも雨で汚れていた。

「タオルもってきてくれる?」

 母にそう言われ、綾香は小さくうなずいて、トテトテとした足取りで風呂場へと向かって棚からタオルを取ってきた。渡すと、母は小さく笑ってそれを受け取り自分を少し拭いて、キャリーバッグを入念に拭き始めた。

「……千夏は?」

 ぼんやりと母を見ていると母はそう尋ねてきた。

「千夏はお泊りだって」端的に答える。

「そう」

 これで一区切り。

「……ご飯は食べた?」

「ううん」

「そう」

 これでまた一区切り。

 そうやって、安易な質問と応答が繰り返される。決して綾香から何かを投げかけることは滅多にない。何かを思わない限りは、母が何かを言って綾香が端的に答えるか首を振った。

「……一緒にお風呂入ろうか?」

 その問いには、流石に驚きを浮かべたが、不意を突かれたようで途端に首を縦に振っていた。母は、疲れてはいたが優しい笑みを浮かべていた。

 いつもお風呂に入る時間にしては早い時間に入ることになる。今日、初めて母と一緒にお風呂を入る。物心のついていない時に入ったことあるかもしれないが、記憶として残せる時期に入るのは今回初。

 ドキドキしないわけじゃないが、自身の身体つきに自身がなくて母でさえ裸を見せるのは気恥ずかしいのであった。対する母は、特に表情を見せているわけでもなく、顔つきは綾香に似ているくせに身体つきはそれに反するものであった。

 それを綾香は見てはうなだれた。

「……綾香も大人になったらこうなるよ」

 そういわれパーッと顔を明るくさせた。

 風呂場ではお互いに身体を流した。母に身体を洗ってもらったり、と、今までしてもらったことないことをされてほっこりして暖かくなってなぜか涙が出た。

 母はきっと気づいている。だから、こんなにも積極的なのだ。普段は、親が子供にするような事はしない。何かと仕事に逃げている。そう思ってならない。でも、こうやって無理にでも積極的になって気づこうとしている仕草は――親だった。

 そんな久しぶりの親の態度に感涙しているのか、自分がそんな素敵な親を心配させるほどに惨めのが悔しいのか。判然としない。母の前で、ただただ脆弱に泣くばかりであった。

 背中を流す水音が止むと、暖かくやわらかい物が背に密着した。それは母の物であった。母は、背中から娘である綾香を包み込んで抱きしめた。

「お母さん明日の朝には家出なきゃいけないの……。次はいつ帰ってこれるかわからない」

 そういわれ洟をすすった。

「えとね……、さ、寂しかったり何か困ったりしたらすぐに電話をかけていいんだから……ね?」

「う、うん……」

 また洟をすすった。

 他愛のない親子の会話がしばらく続いた。内容は全部、ゲームのことだけど母は優しく聞いてくれた。そうやって話をしているうちに、親子の本来の関係を思い出して、ふと最後お風呂をあがる際にこういった。

「お母さん……と、友達ってどういうものなの?」

 母は驚いて見せた。難しそうな顔をしてはこう話した。

「あ、とね……。ご飯食べてから話そうか」そう静かにいった。

 綾香は怪訝には思ったが素直にうなずいた。今は、久しぶりの母の手料理を楽しむことに専念することにした。

 母は台所に立って、しばらく冷蔵庫を眺めた。

「……綾香、ご飯作っていたの?」

 リビングのソファに座って緊張している綾香は、母の突然の問いに驚きながら答えた。

「千夏が作っているんだ」

 昨日初めて知ったことだけど、なんだか誇らしげにいった。

「そう……でも、これなら買い物に行かなくてもつくれる」

 そういって、母はいろいろと材料を取り出して料理を始めた。

 母が料理をしている間、なんとも心持ならない気分だがしてあげることがなにもない。綾香が料理を手伝えば、余計な手間を増やすことこの上ないことを、自分自身一番理解している。手に触れないことこそが、最大の譲歩なために、ぼんやりと、久しぶりの母の姿を眺めているばかりでいた。

 しばらくぼんやりしているに、母は食卓に食事を並べた。流石に、その様子を見て、お皿を並べることはした。また、お茶碗を取り出して、今日の朝に炊いてあるお米を注いだ。

 食卓に並んだ食事は、ハンバーグとポテトサラダとコンソメスープだ。おいしそうな匂いがリビングに充満していた。それには、綾香もお腹がぐーっと音が鳴ってしまう。

 母は、食卓につく前に、別にしておいたその食事のセットをラップにかけた。いわずとも、それは千夏の分だと理解できた。その光景を見て、妹が帰ったら教えてあげなきゃと思っていた。

 やっとのこと、綾香も、母も食卓についた。活気だった表情や仕草は、双方にないもののこの空間には嫌な雰囲気は一切ない。どこでにもある家庭の一シーンである。

 親子二人は、独特な食事の風景を終えると、お皿を片付けて――綾香にとっての本題がついに訪れた。

 母は、綾香にいう。

「……ついてきて」

 その一言を聞いて、綾香は母の後ろをついていった。

 母の向かった先は、家の二階――親の寝室だった。

 親の寝室は入った事はなかった。ここを立ち入り禁止にされているわけではなかったが、入ろうとする好奇心はなく今まで放置していた。

 母は扉を開いて中に入る。綾香も、戸惑いを見せながらも中へと入っていった。

 入った途端淡いミントの香りが鼻をくすぐった。

 おそらく、父の匂いではなく母だけの匂いだ。父は長らくここへは帰ってきていないし、定期的に、家に帰ってきている母だけのものがここに残っていた。

 母は真っ先に、タンスのほうへと向かい、そこから引き出して何かを取り出した。

「これ……お母さんの宝物」

 母は後ろに立つ綾香に振り返ってそれを見せた。

「猫?」

 それは猫のグッズであった。母の見せてきたのは、二枚のハンカチ。その二つともは一方の黒猫のハンカチは開封されているが、白猫のハンカチは包装されたままであった。

「これね……見てて」

 母は、黒猫のハンカチを下に、白猫のハンカチを綺麗に重なるよう重ねた。すると、白猫のハンカチが透けて下の黒猫のハンカチに縫われている猫が透けて見え、白猫のハンカチに縫われている猫の口元と合わさっていてまた尻尾の先がつながっているように見える。

「これね。二つで一つのセットのブランドなんだよ……。あんまり、有名ではないけれど可愛いデザインでしょ」

「うん……」

 思わず笑顔がほころびた。

「そこのタンスの上から二番目の引き出しに、このグッズが入っているの、見てみて」

 そういわれ、そちらを見てみるとそこには黒猫白猫のグッズがいっぱい入っていた。それらはほとんどが生活用品で、歯ブラシだったり、カップだったり、お皿だったり、軽いものでいえばバッジやストラップがある。

 どれも、母が最初に見せたハンカチと同じように、白猫と黒猫の絵があしらえておりそのセットはつながるようになっていた。

 母は知らぬ間にこんな趣味があったようで、こんなに集めていたようだ。

「……自分から何かを口にするのは難しいと思う。でもね、何かを話さなきゃやっぱり人は気づいてくれないの……、だから、これでね」

 母はそっと白猫黒猫ハンカチの片方、黒猫のほうを差し出した。

「こうやって相手にあげるの」

「い、いいの?」

 そう尋ねたのは、タンスの光景を見たからである。どれも大切に保存されていたものだ。だから、戸惑った。

「いいの。これはセットだけど、相手がいて初めて価値が出るんだから。綾香に託すわ」

 母は一息呑んでこう続けた。

「綾香が大切にしたい人にあげなさい……、そしたら私も嬉しいしこの猫も喜ぶから」

 綾香はその白猫黒猫のハンカチを受け取った。

 それだけでなく、タンスの引き出しに入ってある白猫黒猫グッズもすべて母から受け継いだ。

 嬉しくて小さな涙がこぼれる。

「これはあくまできっかけだからね? だから、ずっと仲良くできるように綾香が頑張らなきゃいけないからね」

 小さく小さくうなずく。

 母のためにも頑張ろうと思った。それを無駄にしてはいけないと思った。

 

       4


 母は朝起きるとすでに家を出ていた。リビングの食卓に、暖かい朝食だけがおかれていた。

 昨日は、母と一緒に寝た。中学生にもなって一緒に寝るなど少し子供っぽいが、離れているのも物寂しく思い一緒に寝たのだった。しかし、翌朝にはすでに朝食を用意し家を出てしまっているところを見るに、やはり物悲しいものがある。

 ふと、何気なしに触れることのない携帯を見るとメールが一着きていた。差出人は、母だった。

『がんばってね』

 といった短文に、猫の顔文字が書いてあった。

 綾香は口角を上げて嬉しく思う。同時に、積極的になるべく意志を強くさせた。

 母の用意してくれた朝食を食べ終わると、両親の部屋に行きそこのタンスにある白猫黒猫グッズの中から一つ選び取って学校へと向かった。



 二度ある事は三度ある。その諺を疑わないからこそ、二回、あの女の子に保健室であったからには三回目もあることを信じていた。それが、まさか裏切られるとは――保健室に結城静が訪れないことがそれを裏付けた。

 いかに、諺があくまで絵空事であるものを知らされた出来事であった。

 一度、二度の展開を考えれば、授業が始まってものの数分くらいで保健室に来ていたが、結城静は三十分ほど経っても現れない。

 保健室には、もじもじと、広げていない勉強道具前にくすぶっている綾香が一人と、寂しげである。

 綾香は、勉強道具であるノートには筆箱と、あげるつもりでいる――白猫黒猫のストラップを挟んでいる。結城静にあげようとしている方は、黒猫のほうである。

 白猫のほうは、綾香のスマホにつけてある。あんまり使うことのないスマホに、装飾品をつけるのは初めてだったが、何気に色がついたようで心中は嬉しく思っている。

 この黒猫のほうも、結城静にあげることができてつけてくれたなら、嬉しさは二倍になるが、渡そうと思う相手がいない今、その感情は虚無である。

 所謂、誤算。そもそも、常識的に考えて、明らかサボって保健室に来ている彼女が平常時にサボるわけもなく普通に授業を受けているのが定石である。そんな、安直な事に気づかず、絵空事の諺を信じきって決意を固めるなど、残念極まりがないが……今日の桐生綾香はここでは留まらない。

 彼女は黒猫のストラップを挟んだ勉強道具を持って保健室を出た。その目的は結城静がどこのクラスかを探すものだ。

 クラスがわかれば放課後、見つける手間が省かれ遭遇しやすくなる。そのためにも、保健室に来なくとも、この方法で何とかするしかなかった。

 しかし、今は授業中である。保健室で自習することが体育の授業中に課せられた課題でありそれを抜け出す行為はサボりである。

 恐る恐る保健室を出て、教師に警戒をしながら廊下を静かに歩いて探し始めた。

 とても静かだ。あまりに当たり前のことだが、こんなに静かだとこの学校には自分しかいないんじゃないかと勘違いする。まあ、そんなわけもなく、校庭のほうを見遣れば、体育の授業で汗を流すクラスメートが目に入るのだから、ただそう感じるだけなのである。

 いつの間にか静寂なのが好きではなくなっていた。消極的で、保健室で一人でいるの何でもない時間を好んでいたはずなのに、それが何とも窮屈に思うようになっていて、落ち着きがなかった。

 桐生綾香は少しだけ変わったようだ。悪態は悪態に拗らせない様に、悪いものにならない様に変わっている。

 彼女自身自覚はないが、単なる軽い行動の一つ一つが良い方向に彼女を導いているのは紛いのない真実である。

 ……結城静が見当たらない。そっとした足取りで探しているが、どのクラスも見当たらない。彼女の着ていた制服を思い出すに、リボンの色からして綾香と同じ二年のはずだが、どこも彼女の淡白で凛とした顔を見ない。

 綾香と同じクラスならば、体育であるし学校内では探す手立てがない。まあ、そもそも同じクラスなら朝の時点で気づくはずなためにそれはありえない。

 もしかしてすれ違いか。そう思い始めた。

 思い過ごしだと決め付け、保健室へとくるぶしを返した。その途中で、ふと何か音を耳が拾った。

 この静寂の中である。教師が教鞭取る音でもペン先を走らせる音じゃない音――椅子を引きずったような音。その音は美術室から聞こえていた。

 以前の綾香なら気にも留めない雑音だが、この音の正体が結城静のものだったら、黒猫のストラップを渡さなきゃなんない。その音が気になる、というよりは使命感によるもので――彼女はそっと覗き込んだ。そこにある光景は思いも寄らぬものだった。

「――ッえ」

 吃音的な阿吽、彼女の手は咄嗟に口元を抑えていた。

 美術室では、白衣の女性が女生徒の制服を脱がして肌を触っていた。それだけでなく、その女性は口付けまで女生徒に求めているようで、それに女生徒も答えて口付けをしていた。

 この現場は、不純交遊である。男子と女子ならばわかるが、同性での不純な交遊。しかも、生徒と先生という立場での交遊は、桐生綾香には酷く衝撃的だった。

 胸元が苦しくなるほどではないもののそれなりに悪い感情は覚える。彼女たちが気づかぬうちに忍び足で美術室前を去った。

 なんだったんだろうか。ふと思い出す。保健室の先生は毎回いないけど、不純交遊のために美術室にいたのか……。用がある人は美術室に来て、なんてあったがあのような状況でどう声をかければいいのか。

 そういえば、あの女生徒は結城静ではなかった。美術室にいた女生徒は、結城静と違ってブロンドヘアーだったし、やわらかい目つきの人だった。あの人は、結城静と違う意味のサボりの人のようだ。

 それにしても、あの女生徒は綾香自身見た事ある……ような気がする。もしかして、同じクラスの子なのかもしれない。

 不純な私情はともかくとして、今は結城静を探さなきゃいけない。とかく、保健室へと戻ろうとしていたのだ。さっさと保健室へと戻る。

 と、保健室前で、スマホ片手にいる結城静にやっと遭遇した。

「あ……」

 すぐに言葉が出るわけでもなく驚いた声を出す。

「……? え、あーと、あーやだっけ? 何してんの?」

 不思議に思った。結城静はいつもと違いはっきりとしておらず、どこか浮いていた。

「え、えと……ど、どうかしたんですか?」

 質問を質問で返すのもどうかと思ったが、疑問が強かったために思わずそう聞いた。

「あー、わかる? さっき嫌な電話あったの。これがまたうっざい姉でね」

 そういいながら保健室への中に入っていく、それに綾香も小さく相槌を打ちながら彼女に続いた。

「……そうなんだ」

 自身が姉の立場なため萎縮してしまう。

「優柔不断ではっきりしないんだよね」

 彼女がきっぱりいうのは姉の影響なんだろうなあ、と綾香は密かに思った。

「妙に粘着質だし……」

 彼女の口ぶりには、確かな憎しみがあった。

 それを追求することは、この話題を広げる事になるが、流石の会話下手の綾香でも、この話題を言及するのは不味いとわかった。

 そんな話をしたせいで、ノートに挟まる決意の黒猫のストラップを渡すタイミングが掴めそうにない。

 うんうん、頷きながらお互い席について、彼女のいう言葉に首を振るばかりである。

「勉強しないの?」

「えっ」

 これは棚ぼたというやつである。ノートに黒猫のストラップが挟まっているゆえに、ノートを広げれば自然とそれはあらわになる。これを、彼女が目にすれば、この黒猫はなに? と尋ねてきて、あなたにあげるつもりなの! っていえば完璧である。この瞬間、僅か一秒未満。

「そ、そうだね。しないとね――」

「ああ、もう授業も終わるもんね。こうしているほうがいいかもね」

「あ、と……う、うん」

 完璧にタイミングを逃した。っていうか、逃された。

 まったく、決意はどこにいったのやら、折角結城静に出会えたのに、母から白猫黒猫のグッズを託されたのに無駄な労でまた終える。

 取り留めのない会話をぼんやりと聞いている中、その片手でスマホをいじっている結城をまねして、無意識にスマホをポッケから取り出して机上においていじろうとしたところで――、

「その白猫可愛いわね」

 まさに神の言葉、大げさにもそう思えてならない。

 それに驚いて、綾香はがたんと机を揺らしてしまい机上においてある勉強道具であるノートが床に落ちた。それもまた神風として、ノートは広がって、白猫のストラップとは対照的な黒猫のストラップが落ちた。

「何してんのよ……」

「ご、ごめんなさい」

 結城は大きなため息を吐いて立ち上がる、と綾香と一緒に床に散らばった筆箱とノート、そして黒猫のストラップを片付け始めた。その時に、彼女は偶然にも黒猫のストラップを手にしたのである。

「……これ、あんたのスマホについてんのと同じやつなの?」

 思ってもいなかったことを尋ねられる。

「う、うん」すかさず答える。

「ふーん、貰っていい?」

 と、いいながら彼女は袋を開けて自身のスマホにつけようとしていた。まだ承諾を貰ってもいないのに、自身の物にしようとは随分な度胸だが、あげるつもりだったしこれくらいの大仰さは、綾香によって救われる態度であった。

「うん……」

 ただ一言をそういった。

「ありがと……ん、出来た、ほら」

 綾香のスマホに、結城は自身のスマホを近づけた。空中では、二匹の白い猫と黒い猫がゆらゆら揺れている。そのどちらのストラップは、まだ目新しく、双方の猫は可愛げにスマホを彩っていた。

「……あ」びっくりして阿吽を漏らす。

 結城静は、とても嬉しそうに言った。

「これでお揃い」

 綾香も嬉しくなる。彼女にとっては些細なことかもしれないが、綾香にとっちゃ大きな事だ。

 きっとこの出来事は一生忘れない大切な出来事になる。

 そう思って疑いはしなかった。

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