再会
プロローグ
三ヶ月の歳月と唐突なお泊り事件は長年凝り固まった悪癖さえ緩和させる……。人とは常に新鮮で無知なものに畏怖し、緊張させるものだ。それが、時を得れば日常と成り代わっていく。日常に顔を歪ませる人物などいるはずない。
が、どうやら夏休みを迎える前の日、悪癖を持ちあせた少女にどうやら定石は通用しないようだった。
「ねえ、綾香ちゃん。夏休みどっか行こう!」
人当たりの良い莉那は屈託のない笑顔で、終業式後のホームルームが終わるやいなや、教室中央に席に座る綾香の下にやってきてはそういった。
「う、うん、そ、そうだね」
綾香は相変わらずの返事をした。ここから何か会話を広げればいいものの、彼女の目線は常に惑い、清い莉那の瞳を見れずにいた。
相変わらずの綾香の態度は、莉那は理解している。彼女を何も知らないのならば、それは気味の悪い態度でしかないが、莉那の深い慈愛はほほえましく愛らしいものとして捉えていた。
視線がぎこちない綾香は不意に後方の席を見た。途端に、彼女の顔つきは神妙になった。
「水瀬さん、もう帰っちゃったのかな?」
後ろの席は水瀬の席だ。けれどもそこに、彼女はおらず鞄もすでにかかっていなかった。
「……帰ったんじゃないかな? 部活も忙しいみたいだし」
「そ、そうなんだ。確か、水泳部だっけ……でも、今日って部活あるんだっけ」
「あはは、水瀬ちゃんも急がしいんだよ」
彼女は素直に笑った。
少々疑問に思ったがしぶしぶ後方の水瀬の席から視線をはずした。
「ねえねえ、一緒にどっか行こうよ。綾香ちゃん家に久しぶりにお泊りしてさ」
「え……い、いいけど」彼女の突然の提案には、ぎこちのない会話をする綾香でさえ戸惑いを見せた。
「それじゃあ決まりね! 近くに可愛いアクセサリーショップがあるんだー、見に行こうよー」
「う、うん」
いつになく意気揚々とする莉那の態度に圧倒されながら、彼女の手に引かれ教室を出て行った。不意に水瀬の席を一瞥したのは彼女のことを少しばかり気になっていたからかもしれない。
1
水瀬朱里はいつにない強面な面容を掘り深くしていた。彼女を第一印象に見てみれば悪魔とでも揶揄しても間違いない印象であろうが、今の彼女はそれ以上に悪魔らしい顔つきをしていた。
さて、その理由はじつに三ヶ月前に遡るが、その実、あのコミュニケーションに難の見られる桐生綾香があの西条莉奈とお泊りをするというイベントがあった日である。
彼女らと別れた後、道なりに家に帰ってくると悪魔のような容貌の彼女をさらに増すことになったイベントが発生したのである。
「久しぶり――あかりん」
「卒業式以来ね」
そっけなく返事をする。目の前にいるのは中学時代友人だった子である。ただ制服は美樹女と違うもので、彼女は別の学校に進学しており彼女に会うのは久しぶりだった。
だがしかし、神妙な顔つきをする水瀬にはその友人に対して懐かしさを感じる欠片は一つもない。そこにあるのは緊張である。
「そっけないわね。親友でしょ」
「はいはい。たった二ヶ月しか馴れ初めない知り合いにそういわれるのも光栄というか――結城静の親友のラインは実に低いものなんだね」
「うるさいわね……」
結城はぶっきらぼうな顔つきで伏せながら文句をはいた。
奇妙な沈黙。水瀬は何かを感じては、何も言わずに過ぎ去ろうとしていた。が、結城静は次の言葉を紡いでいた。
「ねえ、あんた変なやつと帰っていたでしょ?」
「――っは?」
途端に振り返りそうになるが、驚いて出たのは呆気にとらえれた声である。だから、水瀬はこういった。
「私の価値観上変な友達はいないけどな、静を除けば」
「私のことはどうでもいいわ」
冷淡な口調で話す彼女に先ほどの冗談で返す自信はない。水瀬は真面目に振り返って、自分とは違った意味で悪魔的な顔つきをした結城と面を合わせた。
「具体的に言ったら、人と話すとき目線を合わせないし、話すと毎回言葉が詰まるし、何より一人にしていると不気味な笑みを浮かべる子ね」
「そこまでいうなら名前でいえよ」
と、突っ込みを入れるがそこまで特徴を言われたら浮かぶ人物は一人しかいない。
――桐生綾香だ。
「……はいはい、そいつと一緒に帰っていたらどうなのよ。もう帰っていい? 早く帰って可愛い妹のためにご飯作ってあげたいんだけど」
多少苛立っていって見せた。感情的になっているのは、多分この先彼女が特別悪いこと言いそうな予感をしたからかもしれない。それはただの予感でしかなかったが、
「その子近づかないほうがいいわ」
予感は的中したようである。
「は? なんで?」
「だってその子――レズだもの」
「は?」
突飛なことを言い出すので水瀬は二度唖然とする。それとは対照的に、結城静は凛としていて淡白な顔つきで、無垢な双眸を向けていた。
「あんたの意見を聞かせて欲しいんだけどさ。気持ち悪いと思わない? 女の子同士でキスとかセックスとかさ……、そんなのおかしいでしょ? ねえ――気持ち悪いよね」
「……お前綾香と何かあったの?」
「ええ、あったわ。あかりんの中学に転校する前にその子と同じ中学でさー、私その子と知り合いだったの」
その話を聞いて、綾香の中学時代に友達がいたことが意外に思ってしまった。こんな変なやつ――気の合わなそうなやつとよく知り合いになれたものだ。まるっきり正反対である。
「何勘違いしたのか知らないけどさ。私そいつに告白されたのよ。好きですって――はっははは、私女なのにさー何かの間違いって言ったら本心っていうから私言ったの、気持ち悪いって」
気味悪く滑稽話のように話す彼女の様子とは裏腹に、水瀬の瞳は彼女をにらみつけていた。心中が、反吐のようなもので埋まっていく感覚、次の瞬間には笑う彼女の顔を叩いていた。
「お前やっぱ屑だわ」
「っいた……」
結城は右頬を抑えて俯いた。
「お前自分の気に食わないやつは影で悪口ばっかいって――つっても、ほとんどの子の悪口言っていたよな。お前そんな自分の価値観押し付けるような性格してるから親友なんかできねーんだよ。どう? 新しい学校で友達できた? できても別の友達にはその友達の悪口いってんだろ?!」
大いに責めて言ってやった。酷く腹立った。綾香のあの素振りが彼女のせいだと思ったらまた一段と腹が煮えくり返る。
「あんたにわかるもんか……」
彼女は小声でそう吐いた。
「ねえ、あんたにお願いあるんだけど」
「この流れでよく言えるわね」と、いいつつ水瀬は彼女の次の言葉を待った。
「桐生綾香に会わせてくれない?」
「今の流れをわかって言っているのかな? 私の左手がもう一度頬を叩く前に私の前から消えたら?」
そういいながらコブシを握り締める。
「はっははは、わかっているっての。別にあんたの手に頼らなくても会ってみせるわ――そして」
突如、甲高い電子音が鳴った。
「お前の携帯じゃない? 取ったら? そして、帰ったら?」
「まったく唯一の親友にも嫌われちゃったら流石に凹むわよ」そういいながら、かばんの中から携帯を取り出した。彼女は黒猫のストラップを揺らしながら電話を取った。
「はい。わかったよ、うん。じゃあね」
そっけない短い会話の末こちらに向き直っていう。
「私帰るね、あかりん」
「その名で呼ぶな」
「ああーまた嫌われちゃったなー」
「お前のせいだろ」
「そうね……私のせいだわ」
急に彼女は先ほどとはまったく違った表情を見せた。
彼女はくるぶしを返してこちらに背を向けた。夕日のほうへ歩き出す彼女は携帯を持った手を上げて後ろ向きのまま手を振った。
「じゃあね。何かあったら連絡する」
「連絡してきても無視するわよ」
「あんたは律儀だからちゃんと答えてくれるわ、じゃあね、あかりん」
心の中で名前で呼ぶなと思いつつ彼女の背中が消えるまで見ていた。手を振った手中にある携帯の黒猫のストラップが夕日に混じって揺れたのが儚く消えていった。
2
三ヶ月前にそのような再会があってからというもの、綾香と結城を会わせないために常日頃から一緒に帰ったりと、さながらSPのような振る舞いをしていた。まあ、こう語っていくに綾香の素振りがいつもと変わらず挙動不審の容態であることを見るに、あの結城と遭遇していないようである。
しかし、あの結城との一件以来心配事が無駄に増えた。
「水瀬さん、何浮かれない顔をしているの?」
「え……な、なんでもない」
隣を歩く莉奈が心配そうに私の顔を下から覗き込んできた。やけに甘い香りが鼻をくすぐる。
「ふふふ、変な水瀬さん」
彼女は可愛げに笑みを零して前を歩いた。
「早く、綾香ちゃんに会いたいなあ。ほら、早く迎えにいこっ!」
足早に彼女はかけていく。
これは毎朝の光景である。彼女とは幼馴染なゆえ一緒に登校するのはもちろんのこと、綾香と知り合ってからというもの彼女の家まで迎えに行って学校に行くのももはや日常である。
そして――、
「はあ……、綾香ちゃん可愛い」
莉奈はスマホの画面の壁紙を見て悦を浮かべていた。彼女のスマホの壁紙は、綾香が授業中寝ているときの姿である。
――こいつもいるのにあの屑野郎まで気にかけないといけないのか……。
つくづくと、水瀬はうなだれる。莉奈の女好きは昔からのことゆえに、綾香のことに夢中になるのは予想できていたが無駄な一件のせいで心労が絶えない。
っていうか、綾香のことを気にしなければ心労は消失するのだが律儀な性格と世話焼き姉さんのような性格もあいまって、また綾香の小動物を連想させる容姿に擁護欲が沸いてこうやって頭を悩ましているのだ。
当の本人は何も知らないだろうけど……。
――しかし、莉奈はともかく人付き合いを苦手にさせた本人であろう結城に会わせるわけにはいかない。トラウマを呼び起こしてさらに挙動不審になってしまったらかわいそうだし、それに不登校になるかもしれない。
本人たちの間に一体何があったのか判然のつかないことであるが、この三ヶ月そもそも綾香の口から中学時代の話を本人の口から伺ったことがない。その意味が、思い出したくない出来事であることなんてわかりきったことである。
「…………」
――あんたにわかるもんか……。
水瀬は不意に結城の言葉を想起していた。
あの時は興奮して怒りの感情のままに罵り立てていたが、時が経ち冷静に考えてみればあの言葉には、彼女の言葉とは反対の意味があったのかもしれない。
本当は会わせてあげたほうかもしれない。しかし、綾香が自分の人間関係のことを自らの口で語らない以上それを追求するのはタブーだ。
水瀬は迷っていた。ずっと迷っていた。そう思うのは水瀬の良心のせいである。しかし、迷ってばかりでは何も好転しないのは目に見えている。結城が何事も行動を起こさないのならば、そのままであるのが平穏無事を並行できる。――莉奈も危なげな行動をしなければの話ではあるが。
「本当にどうしたの? 水瀬さん」
いつになく沈黙の多い水瀬を心配して莉奈が再び声をかける。水瀬は先ほどと同じような返答をしてはまた黙ってしまう。それを不審に思うものの莉奈は追求はしなかった。
今日はやけに不安がよぎって仕方ない水瀬だった。その不安は――どうやら間違っていなかった。
携帯の震えがそれを伝える。
3
『学校終わったらこの場所に来て』
随分淡白なメール分と共に添付されていたのは地図だった。地図には赤い点があり、どうやらそこが彼女の示した待ち合わせ場所なのであろう。わざわざ地図を添付してくるとは随分律儀というか丁寧というか――差出人の結城静は何を考えているのかはっきりしないものだ。
このメールを貰って水瀬は誰にも相談はできずにすぐさま行動に走る。学校が終わって、脱兎の如く学校を出た。二人は不審に思うだろうが、仕方がない。莉奈はこれに乗じて綾香を誘ってどこかに出かけているだろう。
結城の指定した場所は学校から少しばかり離れていた。電車を使わなければいけない距離だ。ここと彼女の学校から近い場所を指定すればいいのにわざわざ遠いお店を指定するなんて、彼女は本当は綾香を避けているのだろうか。
様々な考えが頭を巡るがとかく今は行動あるのみ、と足を急がせた。
電車に乗り一駅先で降りた。
ここは電気街。あまりここへ自ら足を運ぶことはない。可愛い妹がここに用事があるとかいって付き添いに行くくらいで、それ以下だ。
「場所は………」
水瀬は場所を見定めた。妙な視線を気にもせず画面とにらめっこして辺りを闊歩することになる。この地図によればどこかの建物内を指しているようだが……。
地図を頼りに探していると1つのお店にたどり着く。ここはーー同人ショップだった。
見覚えはあった。なぜなら、妹がよくここに立ち寄っていたからである。どうしてここを?
そんな疑問は入ればわかると、騒々しい店内BGMを垂れ流している中へと意を決して入った。
やけに広い店内を散策するが、結城静は見当たらない。
段々苛立ってきて、結城の名を叫んで同人誌コーナーに踏みいったところで彼女は思いもよらぬものが視界に入った。
「たっはー……、うみみ×このかもいいけど、こどり×このかもありだなー」
「夏奈子?」
その名は妹のである。妹の夏奈子は同人誌二冊を手にとって、並々ならぬ表情で選別していた。
「え! な、なんで姉ちゃんが……」
「こっちの台詞! ていうか、また無駄な買い物してるだろ! こないだ一冊買っただろ!」
「そ、そんなの一冊じゃ足りないに決まってんじゃん! 百合分が足りないんだよー!」
「知るか!」
姉妹ケンカしている暇はない。今は結城静を探さなくては、とくるぶしを返してやったところで、妹から声がかかる。
「姉ちゃんなんでここに来たの? 目覚めた?」
「は? 私はクズ野郎を探しに」
「ああーあの女の人」
クズ野郎で伝わるとは流石愚痴を聞いているだけある。
「私、その人に朝登校した時にあったよ」
「マジ?」
「うん。あんたの好きな作家が同人誌委託だしてるってなんか言ってきた」
ーーそれって……。
もやもやした気持ちが広がっていった。
「釣られる私も私だけどさー、どこ探してもないんだよねー」
不安がただ積もった。可愛い妹の声もはっきりしなくなって、それは確実なものになる。
ーー嵌められたっ……。
急いでスマホの電話を起動して電話をかける。相手は結城静。数秒も待たずに彼女は電話に出た。
「お前、綾香に何もしてないよな?!」
真っ先にそう怒鳴った。
『なにもしてないわ。まだ』
冷静に彼女はそういい放った。
「……近くにいるんだな? 綾香の」
『すごーい、ええ、いるわ。といっても、変な女がいて近づけないんだけどね』
西条莉奈が一緒にいるのか。予想通りなんではあるが、彼女が別の意味で綾香を襲わないが若干危ういとこだ。
「お前さ綾香をどうすんだ?」
それは多分確信だったと思う。彼女を綾香に近づけないための時間稼ぎとしても、水瀬は知りたかった。そして、信じたかった。人当たりのいいはずの彼女のことを。
結城からすぐに返答はなかった。ただただ店内BGMの煩わしさに心中を窮屈にさせて緊張していた。そこに期待はあったかも、しれない。そうであってほしいと願っていたのかもしれない。
だが、彼女が口を開いたときそれは期待外れだと思い知らされる。
『虐めるの、ただそれだけ』
「クズ野郎……」
『知ってる。私自己チューだからさ』
「結城止めろーー」
電話は一方的に切られた。
再び電話をかけようと試みるが電話は繋がらない。次に電話をかけるのは本人である。止む終えないが仕方がない。
桐生綾香の番号を探して電話をかけた。数秒待って彼女はいつもの調子で出てきた。
『あ、えっと……は、初めてだね。で、電話してくれたの』
初めての彼氏彼女のやり取りをしている場合ではない。水瀬が彼女に電話をかけるのは初めてのため、綾香はそれを浮きだって捉えたのだろう。
「お、お前莉奈といるよな!」
少し荒げていった。
『へっ、な、なんで知っているの……。う、うん。水瀬さんがいなかったから莉奈ちゃんに誘われてアクセサリー見にいったの』
「そうか……」
誘われているのは感ずいていたが何を買ったかを予想できてしまう自分が怖い。
『でも、莉奈ちゃんはさっき帰ったよ。お姉ちゃんがどうとか言って』
――は、それって。
「お前、早く真っ直ぐ家帰れ今すぐ!!」
思った以上に声が出てそう叫んでいた。だが、次に聞こえた音は、
『ど、どうしたの。な、何を――ガシャ』
最後の音は地面に衝突したときの音だった。それが二回撥ねて鳴った。
「綾香!」
そう叫んで思案する。どこのアクセサリーショップか、ということだ。だが、その思案はすぐに無駄なことに気づく。
おそらくそのアクセサリーショップは美樹女の近くに違いない。ここから行くには一駅またぐ必要がある。
「どうしたの、姉ちゃん」
妹が心配していた。
姉の水瀬はただただ呆然として綾香をひたすらに心配した。
4
可愛いアクセサリーショップということで、可愛らしい店舗様を想像していたが思った以上に素敵な店内だった。こういったお店に入った事がないこともあって、綾香はかなり萎縮していた。
元々の性格のせいがあったかもしれないがそれでも彼女はここでは浮いていた。
それに引き換え、莉奈というと、目をキラキラさせて店内を物色していた。
「このリングかわいいねー」
と、嬉しそうにいう彼女とは違い、綾香は目元を暗くさせて、
「そ、そうだね……」と、そっけなく答えることしかできなかった。
ここには、綾香と莉奈のような美樹女の学生だけじゃなくて、他校の学生まで同じように見ていた。中には若い男女カップルが見定めている姿もあってなんだかこんな陰気な自分がいるのが酷くもったいなく感じる。
そのせいもあって、綾香は莉奈からずっと離れずにいてくっつきっぱなしであった。不意に、莉奈が気を利かせて手を握ってくれたのか少し嬉しかった。
「綾香ちゃん、このリングどうかな」
莉奈は一つのリングを指していった。
「こ、これって」
彼女の指したリングはペアリングというものだった。同じ形をしたリングが二つ。こういうのは、恋人がつけるのが相応しい。なのにどうして……。
――ま、まさか、私の事好きなのかな……。ど、どうしよ、嬉しい……。
なんて思い上がっていると、
「ほら、初めてお泊りした時にさ。黒猫のハンカチ貰ったからそのお返し。まだしていなかったからね」
「え、ああ……うん」
残念には思ったが嬉しかった。人から物を貰う行為そのものが初めてで嬉しかった。
しかし、これをチラッと見てみるに少々値がはる。これを貰っていいものかと、悩んでいる、と。
「値段は気にしなくていいからね」
彼女は綾香の心を読んだのかそういった。それを聞いて綾香は安心する。
「それじゃあ、買ってくるから」
と、言い残してレジのほうへと走っていった。
これでは綾香自身一人になってしまった。あたりの空気に圧倒されそうだと萎縮するが、こういうときはスマホを使うことで空気感から離れることにしよう。とかばんから白猫のストラップがついたスマホを取り出して、可愛い猫を集めるゲームを起動した。
しばらく、ゲームの猫と戯れていると後ろから不意に莉奈から声をかけられる。
「あれ、それ猫?」
どうやらスマホの画面を覗かれていたようで驚いて手で覆い隠すように握った。
「う、うん。猫好きなんだ」
「へー、私も猫好きだなー」
なんだか浮いたように彼女は話す。
「あ、これリングね」
と、彼女はペアリングの片方を手渡してきた。
「あ、ありがとう」
「うん。さっそくつけてよね。私はもうつけちゃった」
彼女はつけた指を見せてきた。彼女がつけていたのは左手の薬指だった。
その意味がわからない綾香は、可愛いね、と感想を漏らして、貰ったリングをかばんに仕舞った。すぐにつけるのも恥ずかしいと思いそうした。
彼女は残念そうな顔はしたが、静かに笑ってはこう話した。
「そろそろ帰ろうかな。綾香ちゃんも帰る?」
「そ、そうだね」
相変わらずぎこちない調子で話す。いつまでもここにいるのも自分の気が持たない。彼女から言ってくれるのはありがたい。
お店から外に出て、莉奈は足早に去っていた。最後に、笑顔でこちらに向かって手を振っていたため、できる限り愛想よく振り返した。
今日は少し気恥ずかしい日だったな。綾香はそのように日を締めくくった。
これから家に帰って、妹のおいしいご飯を楽しみにしよう、なんて思っていると電話がかかってきた。
手に握っていたスマホからかかってきたため、振動が直に伝わった。驚いて、少し阿吽が出るが、気を持ってスマホの画面を見た。
『水瀬さん』
初めてかかってきた相手だ。学校で話すことはあってもこのように話すことはなかった。だから、ちょっと嬉しかった。
震えた手をしっかりして電話を取った。
「あ、えっと……は、初めてだね。で、電話してくれたの」
けなげな調子でそういった。
『お、お前莉奈といるよな!』
最初の言葉は声を荒げて言ったものだった。なんだか焦っている様子だ。
「へっ、な、なんで知っているの……。う、うん。水瀬さんがいなかったから莉奈ちゃんに誘われてアクセサリー見にいったの」
驚いて言って、詳細を話した。
『そうか……』
物憂げな口調。変な水瀬さんだ。
「でも、莉奈ちゃんはさっき帰ったよ。お姉ちゃんがどうとか言って」
と、補足した。
『お前、早く真っ直ぐ家帰れ今すぐ!!』
今から家に帰ろうとしているのに、そんな怒って言わなくてもいいのに、と慄く。こんな水瀬さんは初めてだ。もしかして、早く家に帰ったのが関係しているのかと、思案する。
「ど、どうしたの。な、何を――」
「久しぶりね」
その声に綾香は意図せずスマホは地へ落ちていった。
とても聞いてことある懐かしい声、それでいて一番聞きたくなかった声。
目は揺れていたと思う。身体はいつになく震えていたと思う。それでも、その条件反射は振り返った。
後ろには――中学時代友達だった、結城静が笑ってそこに立っていた。
「どうしたの? 嬉しくないの? 私のこと――好きなんでしょ」
彼女の長い髪が揺れる。口元も揺れている。その無垢な双眸が綾香を見下ろしているように見えてただただ怖くて、目が震える。
無意識に涙が出ていた。
結城はそれを気にすることもなく、びくびくとする綾香に近づいて耳にそっと囁いた。
「ホント、気持ち悪い」
その言葉を聞いた途端、一気に身体が熱くなって畏れた。かばんをぎゅっと抱きかかえては、くるぶしを返して逃げるように家へと急いだ。
忘れられたスマホについた白猫のストラップは、寂しげに揺れていた。