友達・過去
1
気づけば夜の帳が降りていた。
仰いでみれば薄い雲が覆っていて、その狭間から小さな星がちらつく。そんな天空から、粉雪が落ち行く姿に意図せず見とれていた。
もうすでに、雪は少し前から降っていた。駅から降りて、街の照明が一様に煌めいた光景が夜であることを気づかせた。こんなに街が明るいと、風情もない。冬の夜の凍るような寒さだけが象徴していた。
水瀬灯里は白い吐息を漏らして走り出した。
寒さゆえに、早いとこ帰宅したいという心情からではない。緊張から出る吐息と、興奮から来る足の働きだ。
灯里はただ《莉奈》に会わないといけないと思っているのだ。
焦燥も混じった駆け足は、先ほど香苗と――その友達、佐倉柊子がもたらしたものだ。彼女たちとの会話の中で、逡巡し戸惑っていた心は突き動かされた。
寒い夜中でさえ心の中は熱くて苦しかった。
「……はあ、はあ」
夢中で走ってきたところで、息が切れるのを感じた。体勢を低くして、息を整える。
もう莉奈の住むマンションの近くまで来た。大分距離があるものだと思っていたけど、夢中とは恐ろしいものだ。距離なんて瑣末な問題だった。
もうそろそろだと思うと、緊張はなお強くなる。体中をめぐる血液が熱を帯びて、四肢が異様に熱くなる。熱のせいか喉が渇いてしまう。それでも、灯里は前進する。
「水瀬さん……?」
「え?」
ふと声をかけられた。こんな人通りの少ない夜更け、その寒空の下、灯里を知っているであろう人物に声をかけられた。
寒さゆえの震えか、声はどこか怯んだように震えている。芯のある声質だが、弱々しい。
どこかで、その声を覚えている気がしながら振り向いた。途端に、灯里の瞳は見開いた。そして、その名を呟くように呼んだ。
「冬美……」
佐倉冬美。冬の名のように、透き通るくらい白く綺麗な肌で、その面も儚い面差しをしている。彼女の手足は特にその肌が際立って綺麗で映えていたが、今は冬のせいで厚着をしてその様子は見えない。
彼女はどこか憂くで瞳を惑わせて灯里の瞳をまっすぐ見てくれない。どうして良いのか分からないといったような様子だ。
冬美は言葉続けず、当惑を示している。灯里は呼び止められたものの、会話の続きに困ってしまう。だが、無下なことは言えない。
灯里は小さな笑みをこぼしていう。
「元気だったか?」
「……うん」
久しぶりにあった友人に声を掛けるにはこれくらいでいい。いきなり核心をついたところで、彼女にとっては……。
正直、逸る気持ちもある。だからといって、彼女の心緒を無視してはいけない。
「いきなり転校だって聞いたからビックリしたよ」
その理由を知らない振りしていう。きっと彼女は灯里がその理由を知っていることに気づいている。なにせ、その現場を見ているからだ。それでも、灯里は知らない振りして話す。
一瞬、冬美は驚いたような表情をした。が、すぐに憂いた眼差しをしていう。
「うん、ごめんね」
「……いや、いいさ」
単調な会話だ。彼女は、うん、としか答えない。
体調のことや、今の学校のことなど聞いたところで返答は変わらない。踏み込んだことを言ったところで、彼女を傷つけるだろう。
それに、灯里と冬美はあまり接点はない。冬美はもとより莉奈が連れてきた人物なのだから。
そろそろ引き際だと思って、灯里は踝を返す。最後に何を言おうかと考えていると、
「あのね、水瀬さん!」
突然、冬美から話を振られた。彼女の方を見ると、今度は苦悶を秘めた顔つきをしていた。
「莉奈ちゃんのことを嫌いにならないでっ!!」
それは不意を突いた言葉だった。思わず身体を返して、彼女の方に驚いた眼を向けた。
冬美は当惑と悲哀を織り交ぜた瞳をしている。きっと、彼女から莉奈の話しを口にするのは後ろめたいことだろう。そのような複雑さも秘めた上で彼女は声を上ずりながら言ってきた。
「変なこと言っているかもしれない。私があの子から……」
寒さも相まって彼女の頬は赤くなっていた。袖を伸ばして口に手をあてがう姿はどこか寂しく、あの過去を引きずっている。
「冬美は悪くない。あいつが……」
――莉奈がどうして?
突然、心中が疼く。莉奈が悪いとは口は言えなかった。悪いのは、あの歪んでしまった家族だ。莉奈の姉、香苗もそれを悔やんでいた。莉奈がそれ以上を求めてる故はそれを埋める行為に過ぎない。
これは水瀬灯里の勝手な解釈に過ぎない。それでも、安易に莉奈のせいで冬美が塞ぎ込む結果にしたのだと認めたくない。それは冬美もそう思ったからこそ、苦しみながら語ったのだろう。
「ううん」
冬美は苦しそうに顔を歪めて首を振った。
「違うの……、私は莉奈ちゃんの恋人だったのに……。気付けなかった……」
訥々と話をする彼女の瞳には小粒の涙を溜めていた。
「莉奈ちゃんが私を求めるときすごく怖かったの。肌を求める仕草が、私の名前を呼ぶ声が……、莉奈ちゃんの目が……。私ではない誰かを見ているような姿が……」
自分の腕を抱きしめるよう寒さではない別の衝動の震えが彼女をそうさせている。それは恐怖心に似た感情だろう。だが、そう話す彼女の姿は恐怖以上に後悔をにじませていた。
彼女の目にはその残影がある。彼女にとっては錯綜している残影が。
灯里は口を開こうとするが、掛ける声の行方を失う。
冬美の苦しみも、莉奈の過去も、灯里自身が追求すべき事ではない。たかだか友達風情がどうこうしようなんて傲慢極まりない。ゆえの逡巡も、振り払ったはずなのにまだどこかで足ふみしている。
同じことだ。同じことなら――灯里は不意に笑みを刻んだ。
「誰も悪くない、冬美も莉奈も」
「……ぐすっ」
(私ではない誰かを見ている、か……)
少しだけ莉奈に近づいた気がした。感情のままに涙を流す冬美の頭を撫でて慰める。
「いつか……、また一緒になれる」
自分に言い聞かせるようにいう。説得力なんてない。気休めだ。それでも――。
「もう家に帰りな。風邪引く。……そういえば、なんで冬美はこんな夜遅くに?」
冬美の家はこの辺じゃない。彼女に遭遇した時は意表を突かれたが、冷静になった心境が問う。
冬美は目尻を抑えて、とぎれとぎれに答える。
「ここは、莉奈ちゃんがいるところだから……」
「…………」
大方の想像通り、灯里は言葉を探った。
「初めはただの散歩だったんだ。お医者さんから言われたんだけどね。そうしたら夜の日課になっていて。日課もいつの間にか、ここまで足を運んでた」
彼女は冬の空を見上げて嘆くようにいった。
「まだ会うのは怖いはずなのに。どこかで偶然会って、なんとなく元通りになって欲しい。なんて思っているのかもしれない。とってもわがままだよね……」
声色は震えている。自分でも分からない行動、思念に戸惑いを隠せずにいる。
彼女にはまだ時間のかかる問題だ。莉奈のそばにいられる灯里ができることだ。
「莉奈は私に任せろ。話はそれからだ」
――その時は笑って……。
冬美は笑みとは言えない小さな綻びを見せた。
冬空の下、彼女と別れた。きっと今、彼女が莉奈と出会ったところで問題は複雑化するだろう。今まで遭わなくて良かったかもしれない。
白い吐息をこぼす。くるぶしを返して、莉奈の住むマンションへ向かう。その途中の公園で、灯里は目撃した。
「……ああ」
粉雪の中、空を仰いだ薄幸の少女。そう形容するほどに絵になる姿だった。
こんな季節に出歩く自分も冬美もそうだが、彼女もまた冬空の下出歩く心境だったらしい。
仰ぐ姿に小粒の涙を一滴頬に垂らす少女。その思いの行方をまだ灯里は知らない。訊いても、きっと彼女はいつもの愛想で躱して応えてはくれないだろう。そもそも、それを訊ける勇気を灯里は持ち合わせていないが。
それでも、この一日。誓ったことがある。
「莉奈……」
少女の名を呼ぶ。
少女は涙を隠すことなくこちらに顔を向けた。『いつもどおり』愛想があって、『いつもどおり』可愛げな素振りをする莉奈。初めて逢った時と同じだ。
「こんな季節はふと外に出たくなるよね」
「ああ、そうだな」
彼女の言葉に頷いて答える。泣いていた理由は何も行ってくれない。問わせてもくれない。
「そうだ。一緒に、おでん買いに行かない?」
「……ああ、そうだな」
彼女の偽りの笑顔に頷いて、誓う。
いつか本当に笑えるようしよう、と。それが友達だから。
久しぶりの投稿やで。。。
やっと過去編終わりやで。。。