一人目の友人
乙女の花園――通称女子高。
桐生綾香の勝手な妄想により、女子高は乙女の花園だと決め付けた。なぜなら、彼女は特に女の子が好きで恋愛相手として女の子を選ぶのだからそれはもちろん、彼女にとっては花園と呼称しても大仰ではない。
「今日から花園の一員に……」
門前で、他の入学者が校内に入っていく最中、彼女だけはそこで立ち止まり絢爛洋式のこれから高校生活でお世話になる学校を見上げて感嘆を漏らした。
度々そこにいると、上級生らしき人にお嬢様らしいご挨拶を賜り挙動がおかしなことになるが、小声で返すさまは彼女の人柄を表しこの先の不安も否めない。
息を吸って深呼吸。少し思慮を巡らせ小声でつぶやいた。
「大丈夫」
彼女はついに乙女の花園の門をくぐったのだ。
1
美樹女学院。それが乙女の花園の名前である。
ここいらの区内の中じゃ二番目くらいの成績の学校で、進学校とは呼べないがどちらかというと運動に優れた生徒が多い。
女子高のイメージは、芸を嗜む純朴で可憐なイメージを綾香は描いていたが、部活動説明を聞いた途端にそれは崩れた。
次に作法がすばらしいということだ。
女子高なのだから、きっとお嬢様っぽい人がたくさんいると思ったけど、それはごく一部のようで、クラスに入って聞く周囲のざわめきの声に『ですわ』なんてなかった。
でも、それは正直期待はしていても本意ではないのだ。
ここは綾香にとっちゃ花園だ。恋愛対象が常に女の子であるゆえに、花園で目指すべきは――
『ユリハー』である。
ユリハー。つまり百合のハーレム。別称はレズのハーレム。詳しく述べると、女性同士の恋愛を複数の人に囲まれることだ。
長年の夢である。敬愛され、慕われ、愛され……それが女の子ならどんなに美しく聡明なことか。
「ねえ、あの人顔にやけてない?」
「大丈夫かなあ」
綾香は気づかないままに周囲の人から奇異な目線でみられていた。女の子に囲まれる生活を妄想している内に顔がにやけてしまったのである。
じゅるり。唾液を吸って、綾香は周囲を見渡した、が先ほどの面容を見られているために誰も目線を合わせなかった。
目線を合わせられなくとも、自分から話しかけにいけばいいのだが……例えば、入学式どうだった? 先生どんな人だろうね? とか入学者ならば同様の話題はあるわけで単純なはずだ。
しかし、中学時代ぼっちな彼女にそんな方法は知らない。
目線が不自然に動いて、ただただ心臓をばくばくさせていた。彼女はまるっきり受身な体質であるのである。
隣、近所の生徒に話しかけないままに、先生は教室に入ってきた。
「はーい、席に座るようにー」
やる気のない声が教室に広がる。その声に習って、自分の席を離れていた生徒はすぐさま席に急いだ。
挙動不審な綾香は先生が言い終わって、しばらく彼女が黙って教室中を見渡している最中に、急に照れて押し黙って顔を俯けた。
「おー全員いるなー」
名簿も見ずに先生はそう言った。席が全部埋まっているのだから、見る必要もないが名前を確認しながら見るのも役目のように思える。
「今日は入学式で長い校長の式辞を聞いて少しタルいとは思うがー、パパッと紹介して終わるからなー」
先生のその発言に、綾香は言わずも顔を高揚させていた。
なぜなら、入学式の日限定で行われる自己紹介が始まるからだ。
人とコミュニケーションのとり方のわからない彼女にとっては絶好のチャンスである。自分が好印象の紹介をすれば自然とクラスと打ち解けられる。
脳内ではすでに設定が出来上がっている。
『桐生綾香です! 女の子ときゃっきゃうふふしたいです! 仲良くしてください!』
完璧だ……。彼女の欲望と切実な願いが込められた自己紹介、これ以上自分のことを述べるのに不必要なことはない。
「んじゃーさっそく」
きた――。
「私は一年三組を担当する佐倉有紀だ。よろしく。じゃ、ホームルーム終了ってことでー、明日から授業だぞー、ちゃんと確認するようにー」
そう言って、佐倉先生は教室を出て行ってしまった。
…………は?
反吐を吐くような声が思わず出てしまいそうだったが、どうにか喉元で抑えられた。
いやいやいや、オカシイ。
佐倉先生の号令と共に、あたりの生徒はかばんを持ってまばらに教室から出て行く。
「ねーどこ行く?」
「うちが通ってた中学の近くにさー」
たった数十分ほどの間に一体どのような発展があったのか、急にそこまで仲良くなれるものなのか。綾香の耳元に届く声を不審に思いながら、すぐには席を動けずにいた。
「あの人連れて行かないの?」
天使のような声が綾香の耳元に届く、ちょっとだけ口元が歪む。
「えー、なんか誘いにくい……、笑ってるし」
という、天使に反した悪魔の声によって綾香の下まで来ることはなかった。
ついに教室から綾香以外がいなくなる。
ポツン。
静かな教室に一人。これこそ、咳をしても一人(席だけに)。
教室の扉が再び開く。まさか、先ほどの天使が気を戻して誘いに来たのか、と期待をするが入ってきたのは佐倉先生だった。
「あらー何してんの? ここの教室締めるぞー、えーと」
佐倉先生は教卓にある名簿を手にとって捲った。
「あー、桐生綾香。早く帰りなー」
そう諭されて綾香は、「はい……」と随分か細い声で教室を後にしたのだった。
2
「なんでうまくいかないの……」
自分の部屋で綾香は愚痴りながらギャルゲーを嗜んでいた。
ギャルゲーは本来女子がやるものじゃないが、主人公を勝手に女子として妄想しゲームをしているのである。
『 教室でいつも一人の女がいる。名前も知らない。それほど地味だが、時折不自然に見せる口元の歪みが彼女を一人にさせる原因かもしれない。さて』
『・話しかける
・教室をそのまま出る
・わ、わ、忘れ物~』
「話しかける、っと」
『 俺は試しに話しかけてみた。「お前教室で一人何しているんだ?」「……え、あ、そ、そのだ、誰か話しかけてくれないかなって思って、べ、別に変なこと考えているわけじゃ」挙動不審の彼女は目線を狼狽させた。俺は不気味に思わずにいられなかった』
「これは気持ち悪いわ」
残念な攻略キャラを見てそう言った。
「お姉ちゃん! ご飯できたよ!」
献身的な妹の声が扉越しに聞こえる。
「はーい、すぐ行く!」
大きな声で返事して、挙動不審の立ち絵の状態である残念キャラの画面を消して綾香はリビングに向かった。
「今日はハンバーグ、だよ!」
可愛らしい声で言う妹。食卓には綺麗に並べられている。ハンバーグ、ポテトサラダ、お米、後付け合せなどなど。
「流石、自慢の妹だ」
そう褒めると妹は照れる。
われながら可愛い妹だ。しかし、彼女はまだ小学生、手を出すと犯罪になってしまう。後二年で中学にあがるからそれまで我慢だ。
綾香と妹の千夏が席についていただきますの挨拶をして一緒に頂く。
二階建ての一軒家に住んでいるけど、両親はいない。仕事でどこか遠い場所に行っているのである。
だから、食事は千夏と二人で食べている。食事は分担制で、日ごとに変えている。
綾香も料理ができないわけではないが、妹の手料理には負ける。妹ながら恐ろしい子。
「ねえお姉ちゃん、今日どうだった?」
妹の純粋な質問に箸がピタリと止まる。
「……ふ、普通だよ?」
「なんで小声なの……」
小声なのはぼっち特有の発声である。若干動揺しているところもあるけど、普通だ。……いや、綾香は妹に心配して欲しくなかったのだ。
「大丈夫だから」
しおれた声でそういった。
「……私心配だよ。だって――」
そこで妹の声は噤んだ。彼女は言わなかったのだ。それは、禁句だからだ。口に出さずとも、妹のしゅんとした顔つきがそれを表していた。
「大丈夫だよ……」
再び綾香は言った。二回目の激励はまさしく自分に言っているものだった。
「そう……」
会話はしばし止んだ。二人とも黙々とご飯を食べる中、ずっと綾香は思慮を巡らせていた。その思慮の中には一人ぼっちの自分の姿が浮かばれたのだった。
3
翌朝の綾香の様子は違っていた。
昨日の綾香は死んだ。今日の綾香は新生綾香なのだ、といきり立っては見たものの教室に入るのは緊張する。
去年までの私を捨てろ! 今年の私はおニューなはずなんだ! そうおまじないをかけるように厭らしい考えを排他し、変わることに専念するが教室の扉は開かない。
当然ながら、考えに集中しすぎて扉を開けることを忘れてしまっているのだ。
「あのー、ダイジョブですか?」
この声には聞き覚えがあった。天使である。悪魔の声さえなければ、綾香に声をかけてくれたであろう人である。
「あ、は、はい。だ、大丈夫です!」
急に声を上げたものだから、天使は驚いた。
「あ、そう? そこに立っていられるとみんな入りづらいんだけど……」
そう言われて我にかえる。後ろや横を見るに何人かの人が立ち止まっている。
「邪魔だよ」
悪魔の人の声だ。
一気に消沈して、綾香は教室にそそくさと入っていき自分の席ついて思いっきり不貞寝した。
やっちまったぁ……。何が新生綾香だ。まだ旧型の綾香じゃないか。これでは、百年戦争も撃ち勝てない。
これじゃあ――中学の時と何も変わらない。
「おー、みんな揃ってるかー。それじゃあ、朝のホームルームを始めるぞー」
暢気に入ってきた佐倉先生は適当に教室を見渡して号令をかける。
綾香は終始、不貞寝していた。
……気づけば放課後。何もなかった。
授業自体の記憶がなぜかない……。終始、綾香はそわそわした様子でご飯時も自身の席が動かず待ちの姿勢を構えていた。あまりの緊張と期待に自分以外のことに意識がなかった。
何もない、といっても挙動のせいでチャンスを見逃しているところがあった。そんなこと動転気味の綾香にはわからないことである。
彼女を取り巻く悲壮感。丁度真ん中の席にぽつりといる彼女だけの教室の風景が物悲しくあった。
「ああ……」
声はよくでなかった。かすれた声。机横に引っ掛けているかばんを、手を震わしながら取って肩をすくめている綾香はゆっくりと席を立った。
そうだ。周囲を見渡そう、と彼女は教室を後方から見渡す。
淡い希望ではあった。まだ教室に残っている同級生がいるかもしれない。もし、同級生が残っているのならば話かけよう、そう決める。
振る話題もかける言葉も混乱気味の綾香に用意されてはいない。決めるのは簡単だ。けれども、行動するというのはどんなに難しいことか。できることのなら、手記片手に話すものだが、それが異端であることは友人の付き合いのない彼女でもわかることだ。
「…………はあ」
誰もいなかった。決意があっても、行動に移せるかわからなくとも、何もなければ思うこともできない。
このまま帰るか……。妹にはまた心配させてしまう。綾香は姉として、千夏に自分のことで心配にさせてしまうのは心苦しいところがあった。
自分でよくわからない。妹に友人に作り方を聞けば、それは自然にできるものだという。その自然というものが彼女にはわからないのである。だから、変に妄想が働いてしまうのだ――ユリハーの願望はそういった妄想からきた独自の思案だった。
虚ろな目で、綾香はガタンと机を揺らしながら妙な足取りで教室を出ようとする。
と、廊下から二列目の席あたりで彼女は足を止めた。
黒目を床に下ろすと、学校指定のかばんが転がっていた。
さっき見渡した時に視界に入らなかったものだ。席を見ているから床など見えるわけもないけど。
かばんを手に取って、名札のところを見てみるが白紙で持ち主はわからなかった。かばんにくっつくようにある席が持ち主であると考えるが、当然ながら挙動のおかしい彼女が誰かの名前一人でも覚えているわけなかった。
とりあえず彼女はその席にかばんを置いて少し思案する。
かばんの側面に名前が書かれていないし、手提げのところに名札がかかっているわけでもなくかばんから持ち主の詮索は無理のようだ。
ただそれは外面からの話だ。机の中も見てみたが、何もない。これは、
「中、見てもいいかな……」
方法はそれしかなかった。
若干の罪悪感はあったが、かばんがないと持ち主も困るだろうと綾香自身思い、思い切ってかばんを開けた。
教科書とノート、かばんと一回り小さいクマのキャラクターの描かれたポーチ。あとは筆箱、綾香は一つ一つ手に取って名前が書かれていないか見ていくがノートにすら名前が書かれていなかった。
残ったのは財布である。財布にならば、学生証とか入っているだろうしこれなら確実に持ち主がわかる。綾香は財布のチャックをゆっくりと引いていく。
その時である。教室の扉が音を立てて開かれた。
「忘れ物しちゃった……」
息を切らした声が教室に響いた。その主は一旦息を戻して、視線を上げていく。
綾香はというと、突飛な出来事に固まったままその主を見ていた。視線が合った瞬間に、彼女はその主が、彼女が勝手に名付けた天使であること理解し、その後に顔が青ざめていくのと同時に汗が首元伝っていくのを感じた。
「な、何しているの?」
顔をこわばらせて声のトーンも上がっている。もうこの場合は彼女のことは天使ではなく、悪魔のように感じる。
タイミングが悪すぎる。持ち主が来るとは想像できなかったが、来るとしても財布を見ている瞬間に来るのはどうにも間が悪すぎる。
綾香はすぐに弁明しようと思ったが、口がぱくぱく開閉するだけで発声はできずにいた。
「おーい、莉奈ー。かばん見つかったか?」
もう一つ声が聞こえる。廊下の向こう側からその声は聞こえ、綾香が勝手に名付けた悪魔の人であった。教室から、天使であった人に近づく悪魔の人の動向が廊下のステンレスガラスの窓から影で見える。
「水瀬さん……」
悪魔の人の名前をいう天使だった人。
悪魔の人にまでこの状況を見られればもはや汚名の受けることは承知である。だけど、動けなかった。
なんでこんなにうまくいかないんだろうか。無性に悲しくなる。
綾香の眼に涙が溜まった。
「……ちょっと今日先生に用事があるから一緒に帰れないや。水瀬さん先に帰ってていいよ」
「えー、そういうことは先に言えよなー」
一つの影が天使だった人から離れていなくなった。
奇跡が起こった。綾香はそう思って、まぶたを閉じて財布を閉じて、かばんから出した物をすばやく戻していった。
「そんなに慌てなくていいよ。名前を探していたんだよね?」
「えっ……」
彼女は怒る様子もなく、先ほどのこわばらせていた顔は安心する顔に変わっていた。
「ご、ごめんなさい……」
綾香はとりあえず謝った。もちろん意図はない。
「何謝ってるの」
くすっ、と彼女は笑う。
「むしろ、私がお礼を言わなきゃ。ありがとう」
眩しい笑顔のお礼。綾香は感極まって、溜まった涙がこぼれて、それに続いて次々と涙が溢れ出した。
「ちょ、ちょっと……」
拭っても拭っても涙が溢れた。さっきまであった冷や汗はとっくに消えてはいたが代わりにこんな自分に話しかけてくれる、という思いがあって感情を制御できずにいた。
「うぐっ……ぐすっ」
「だ、大丈夫?」
彼女は心配をかけてくれる。優しい人だ。やはり彼女は天使のような人だ。
「う、うん……大丈夫……」
阿吽をやっと止めて綾香の肩に手をおく彼女の手に自然と触れた。
「そっか。よかった」
彼女は綾香の手を握ってそういう。
「……あなたって素直? な人なのかな」
「素直……?」
洟をすすって彼女の言葉を待つ。
「それとも不器用なのかも。クラスからあなた怖く見られていたんだよ。目がキョロキョロしていると怖いよ」
「うっ……」
彼女の言ったことこそ、綾香の一番の欠点であった。
「雰囲気も怖いし、話かけるのはやっぱ難しいものがあるよ」
「そうなの……」
綾香は声を落として震わせていう。
「ふふ、でも、今あなたの素敵なところを見ちゃった」
彼女は綾香の両手を握って、綾香が何よりも心待ちにしていた言葉をいう。
「友達になろう? 私たち!」
輝いて見えた。この瞬間を何よりも待っていた。その心境は、実に簡単なものだ。嬉しいに尽きる。だから、綾香はまた涙を流した。
「う、嬉しい……」
「あはは、また泣いて」
彼女は笑う。
「でも、これくらいわかりやすいほうがいいかなって思って」
「うん、うん……」
頷いて答える。
「私の名前はね。西条莉奈っていうの、あなたの名前を聞かせて」
綾香は息を整える。鼓動を落ち着かせる。
簡単なこと。自分の名前をいうだけのこと。
顔を上げて西条莉奈の丸い瞳を見ながら口にする。
「わ、私の名前は!」
「うん」
彼女はちゃんと待ってくれている。手を握るぬくもりが安心させてくれている。
「桐生綾香……です」
そういうと、西条は笑って、
「うん! よろしくね。桐生さん!」
という。
綾香は嬉しくて笑った顔を作ったが、涙が入り混じって少しだけ変な顔になってしまったのであった。