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アリエノールは歴史のページをめくりたい

作者: 笠原夜子
掲載日:2026/07/28

家庭教師がわたくしに歴史というものを教えた時、わたくしの心は今までにないほど踊ったわ。ああ、なんて面白いのだろう。美しい因果の応報も、理不尽な暴力も、英雄の誕生も、すべてすべて魅力的だった。学ぶうちにわたくしは思ったわ。書物だけで学ぶのでは足りないと。王権の転覆も、征服も、新たな王の誕生も、わたくしは自分の目で見てみたかった。だから大好きなお父様に進言したの。愚かな王家は滅ぼしましょう、と。



 辺境伯領は王国の北部に位置している。北にある帝国は一年を通して凍らずにいる港を得るため幾度も我が国に侵攻を繰り返してきた。侵攻といっても大きな戦は最近はなく、国境を侵犯する少数の兵との小競り合いがわずかにあるだけだ。辺境伯領は広大であり、南部は気候もおだやかなことから作物も安定して育つ。現当主であるお父様の祖父が王都からの街道を整備したおかげで商人の行き来もあり、長い時間をかけて少しずつ、辺境伯は軍事力も経済力も王家を上回っていった。


「メアリーを殺したのはお前だろう!」


 わたくしの婚約者である王太子のエゼル様は、王宮の大広間で開かれた夜会でのエスコートの最中にたまらなくなってそう叫んだ。ざわめいていた会場がたったそれだけで静まり返る。

 ああ、なんて愚かなのだろう。どうしてこれほどまでに扱いやすいのだろう。王太子も王も王妃も、王族という立場を愛し、溺れている。民も貴族も当たり前のように自分たちの駒であり、この世のことはすべて自分たちの思うまま。書物で学んだ歴史のひとすくいと全く同じ!


 わたくしはそれが嬉しくて、これから起こる歴史の転換が待ち遠しくて、思わず微笑んでしまいそうな口元を扇でそっと隠した。


「殿下、落ち着いてくださいませ。本日は日中大層な日照りでしたからのぼせてしまったのかしら」


「ふざけるな!悪女め!人殺しが王太子妃になれるなどと思うな、婚約は破棄のうえ殺人罪で貴様を捕らえる!衛兵!今すぐアリエノールを捕らえよ!」


 アリエノール・クレア。素敵な名でしょう?お父様とお母様がくださった名前。クレア辺境伯の一人娘がわたくし。わたくしの役目は王家と辺境伯との間を取り持つ楔であること。それは目の前のエゼル様も同じなのだが、彼はどうにも役割というものをあまり深く理解していないらしい。

 エゼル様は憤慨して怒鳴り散らすが、会場にいる騎士たちは少しも動こうとはしない。当然だ。いくら王太子の命であろうと辺境伯令嬢を分かりやすい証拠もなしに捕らえるなど自らの立場が危うくなる。生まれて初めて自分の命令を無視されたエゼル様はそれにも憤慨し、それならばと自らわたくしを捕らえようとしたけれど、そんなことをわたくしの護衛騎士が許すはずもなく、容易に阻まれるだけであった。


 わたくしは本当に、心の底から困ったように首をかしげる。悲しくなんてなかったけれど、瞳には涙だって浮かべてさしあげたわ。


「殿下……メアリー・シーモア男爵令嬢が亡くなったのは、長引いたお風邪が原因だと伺っておりますわ。誠にいたましいことです。わたくしも胸が締め付けられる思いでございます」


 メアリー・シーモア男爵令嬢というのはエゼル様の真実の愛のお相手なのだそうだ。王都での商いがうまくいき、先代当主が爵位を賜った新興の貴族。辺境伯と比べるまでもない虫けらのような貴族。聞けばエゼル様は本日の夜会でメアリー様を皆に紹介し、難癖を付けてわたくしとの婚約を破棄する予定だったのだそうだ。不幸なことに先日そのメアリー様は風邪をこじらせて亡くなられてしまったようだけれど。


「嘘をつくな!メアリーは健康そのものだった!お前が毒を盛ったのだろう!?」


「まあ、お恐ろしいことを。わたくしがそのような野蛮な真似をするはずがございませんでしょう?……司法卿も、メアリー様の主治医も、すべて『病死』と正式に書類を出しておりますのよ?」


 表向きはどこまで探っても「不運にもこじらせた風邪による病死」でしかない。真実が本当に辺境伯家による毒殺であったとしても、証拠は絶対に見つからない。見つかったとしても辺境伯が「これは証拠ではない」と言えばそうなるのだ。この国は既に"そう"なっている。エゼル様はそれをお判りになっていらっしゃらない。


「殿下があまりにも男爵令嬢を思っていらっしゃるようですから、こちらもお伝えいたしましょう。ここにいる方々も真実を知る権利がございます」


 ああ、すべてがうまくいく。わたくしはなんて幸福なのかしら。都合よく王家は腐り、都合よくそれを刈ることができる家柄がある。もうすぐ、もうすぐ書物の上だけではない"歴史"が見られるのだわ。

 控えていた侍女から一冊の帳簿を受け取る。エゼル様はそれを見て目を見開いた。ええ、ええ。よくご存じでしょう。あなたが文官に命じて作らせた偽の帳簿。これを証拠としてわたくしとの婚約を反故にし、辺境伯の力と財力を王家に取り戻すことを目論んだのでしょう。優秀な文官は本物と見間違うほどに整えられた帳簿を作成していた。エゼル様にとって予想外だったことはその文官がすでに辺境伯の手の内だったことだけでしょうね。


「シーモア男爵家には、国によって禁止されている奴隷売買を行った形跡があり、これらを記載した裏帳簿が見つかりましたの。本日付で男爵は爵位を剥奪、国家叛逆罪で裁判の後処刑となるでしょう。仮にメアリー様がご存命だったとしても、重罪人の一族として極刑は免れなかったでしょうね。……奴隷の売買などという人の道を外れた商売をしていた家の娘だったなんて、……ふふ、殿下のおっしゃる悪女は、どうやら別のところにいたようでございますわ」


 広間にざわめきが戻る。エゼル様はもごもごと「それは捏造で」「男爵家が奴隷売買など」と困惑していた。男爵家の商売が清いものか汚れているものかなど興味がなかった。けれど男爵家の者が辺境伯家を貶めようとするのならば叩き潰すだけである。

 わたくしは別に、メアリー・シーモア男爵令嬢のことはどうでもよかった。歴史の浅い貴族令嬢などたかが知れる。だから殿下にだって進言してさしあげたの「殿下が血の価値を誤らないのであれば、メアリー様を愛人にしたってかまいませんのよ」と。殿下は顔を真っ赤にして怒っていたけれど。「身分など関係ない!」とかおっしゃっていたかしら。滑稽だった。身分など関係ないのならば自らが王族という地位を降りればいいだけなのに。エゼル様は王族でもいたいし男爵令嬢との真実の愛も貫きたいらしい。最近庶民の間で流行している彼らをモデルにした小説やら戯曲が愚かなエゼル様を余計に愚かにしているのかしらね。ああ、そういえばその小説やらなんやらは男爵家による出版だったわ、不敬よね、彼らは物語の中でわたくしを嫉妬深く醜い令嬢にしていたわ。作家たちは数日前から行方不明だそうだから、わたくしが直接文句を言うこともできなくて残念。


「ね、殿下。わたくし、すべて許してさしあげてもよろしくてよ。あなた様が真実の愛に溺れて大事な書類をわたくしに押し付けたことも、王太子妃のための予算をメアリー様に使ったことも、わたくしの叔母が主催する夜会にメアリー様を伴って参加なされたことも、下級貴族のお茶会に参加して辺境伯家を中傷したことも、陛下に防衛費の予算削減を奏上したことも、辺境伯家を陥れるために偽の帳簿を文官に作らせたことも、ぜんぶ、許してさしあげてもよろしくてよ」


 口元を扇で隠し耳打ちをした。エゼル様は大きく目を見開いた後に顔を歪ませ、みるみる赤くなった。王族にとって許しとは最も縁が遠いものだ。自分たちの許しとは神から与えられた王権のみ。それ以外に、ましてや臣下に"許してもらう"なんて、屈辱もいいところでしょうね。けれど、ここで自らを省みて許しを請うのなら、わたくしはわたくしの望みを捨てて何もなかったことにしてさしあげてもよかったのだ。けれど残念、エゼル様は怒りに身を任せてそのこぶしを振り上げた。


「殿下」


 低く、響き渡るような声がした。ああ、わたくしのお父様が来てくれた。強くて頭がよくて、誰よりも王の素質のあるお父様!


「……娘が大変な非礼を働いているようでございますな」


 エゼル様は息を呑みながらも、毅然とした態度を崩すまいと一歩踏み出した。


「クレア辺境伯……!なぜ今お前がここに……!?西部の防衛命令が王により下されていたはずだ!軍の配置を是正するための正式な王命だぞ!なぜ命に従わず王都へ戻っている!?」


「……ああ、クレア家の北部国境軍の解散および、私への西端僻地への異動命令でございますか。内容があまりに国防を軽視した代物でしたので、処理の途中で破棄いたしました」


「ふざけるな!王命の拒絶は謀反である!国の法を無視する貴様らに、これ以上好き勝手はさせん!」


 王族の権力に固執し、圧倒的な現実の戦力差を見落としているエゼル様の青臭さに、わたくしは心の底から悲しみを覚えた。

 王族が王族でいられるのは民あればこそだ。民が地を耕し国を富ませる。代わりに王族が彼らを守る。だからこの国は長年王国として存在していられたのだ。けれど一昨年の大飢饉であろうことか王族は民を守らず見捨てたのだった。国庫の扉は固く閉じ、民の不満は聞こえぬふり。自分たちは日夜宴にふけっていた。義務を果たすことはしないのに、権利だけは主張する。エゼル様がその愚かさを誰にも正されずに来たことが哀れだった。

 

 その時、騒ぎを聞きつけた国王が大広間へと姿を現した。

 豪華な王服に身を包んだ国王は、息子であるエゼル様の隣に立つと威厳を誇示するようにお父様を睨みつけた。


「クレア辺境伯……!貴様、何の権利があって兵を引き連れ、王宮の夜会を穢すか!衛兵!何をしている、この不遜な辺境伯とその兵を取り押さえよ!」


 国王の怒号が大広間に響き渡る。

 しかし、誰も動かない。それどころか、王宮を守るはずの騎士団長までもが、静かにお父様の後ろへと移動し、深々と頭を下げたのだ。


「なんなのだその態度は!騎士団長、王家を裏切るというのか!?」


「裏切りではございません、陛下」


 扇をゆっくりとゆらし、優雅に一歩前へと出た。もっと、もっとだ。腐った果実が周囲に悪臭を振りまくほど、それを刈り取る正当性ができる。


「王宮騎士の給与も、武器や鎧の維持費も、この数年間はすべて我が辺境伯家が立て替えて支払っておりましたのよ。王家が国庫を私財と勘違いして贅沢に溺れている間、彼らを養っていたのは誰か……陛下はまさか、ご存じでないなどとはおっしゃいませんわね?騎士団長を裏切者とおっしゃるのなら、彼らに正当な対価を与えることを怠った陛下こそが裏切者なのです」


「黙れ!どのような理由があろうと、我が王家こそがこの国の正統なる支配者だ!貴様らのような地方の武力勢力に、王家を裁く権限などあるものか!」


 なおも己の権威にしがみつき、激昂する国王。だが、その声は虚しく空回りするだけだった。

 そもそも、王家はこの数十年間、隣国からの侵略を甘く見ていた。大規模な侵攻などありはしない、小競り合いなど気にすることもないと。北部の辺境伯領に軍費も国防も丸投げし、自らは都で贅沢を貪ってきた。そんな折、一昨年の飢饉が起こる。王家は貴族や民たちに重税を課したのだ。飢えと重税に苦しむ貴族と民を救ったのは他ならぬクレア辺境伯の私財投じであった。

 王家はすでに、権威も、民の心も、そして武力も失っていた。


「陛下」


 国王の言葉を遮るように、お父様が一歩踏み出した。ただそれだけの動作に、国王は思わず言葉を詰まらせ、喉を鳴らして後ずさる。


「北部の兵士が国境を守る中、王家は国費で遊興に耽り、飢饉の際には民を見捨てた。その挙句に軍の要職を私情で解任しようとする……。失礼ながら陛下、王家にはもはや、保つべき面目も権威も残っておりません」


 冷徹で圧倒的な正論。

 ああ、ここにいる貴族はどんな顔をしているのだろう。王族に対する失意?辺境伯への期待?なんでもいいわ。わたくしは歴史が変わる瞬間を余すことなく見たい。ドレスを翻して彼らを見渡した。ぞくぞくする、これが『歴史』!


「皆様。民を見捨て、国境を脅かし、奴隷売買などという人の道を外れた商売をしていた家の者を考えなしに寵愛する王家と……この国を守り、皆様の暮らしを支えてきた辺境伯家。どちらがこの国の未来にふさわしいか、すでにご理解いただいておりますわね?」


 その言葉が引き金となった。

 完全に空気が決したのを感じ取った会場の貴族たちが、一斉に声を上げた。


「辺境伯閣下とアリエノール様の仰る通りだ!」

「真実を見抜く目も、国を守る力もない愚かな王族に、これ以上忠義を尽くせはしない!」

「飢饉で我らを救い、国境を守り続けてくださったクレア辺境伯閣下こそ、この国を率いる新たな『王』に相応しい!」


 次々と巻き起こる推挙と王家糾弾の声。

 国王の顔からサッと血の気が引いていった。激昂していたはずの表情は絶望へと変わり、唇をわななかせた。


「お前たち……狂っているのか!?私が王だ!この国は我が一族のものだ!」


 国王の最後の叫びは、虚しく大広間の天井に消えた。

 お父様の合図一つで、これまで王家に忠誠を誓っていたはずの衛兵たちが静かに立ち回り、国王と王太子の身柄を拘束する。


「父上!?ふざけるな!衛兵、そいつらを斬り捨てろ!」


 現実を受け入れられず必死に叫ぶエゼル様だったが、冷ややかな視線を送る衛兵たちによって淡々と取り押さえられ、会場の外へと引きずられて行った。

 国王は息子の叫び声を聞きながら、膝から崩れ落ち、ただ黙って縄を打たれる屈辱に耐えるしかなかった。抵抗の術は最初からどこにも残されていなかったのだ。


 静まり返った会場の中心で、わたくしはお父様のもとへ歩み寄り、完璧な作法で一礼した。


「お見事でしたわ、お父様。たいした犠牲もなく王家を刈り取ることができましたわね」


「……お前が事前に近衛や主要貴族たちの根回しを完璧に整えてくれたおかげだよ、アリエノール、苦労をかけたな」


「ふふ、むしろ感謝したいくらいですわ。腐敗した王朝が終わりを迎え、新たな時代が幕を開ける……歴史が変わるその瞬間を特等席で拝見できましたもの。……お粗末な旧王家の方々には、良い引き立て役を務めていただきましたわね」


 わたくし、次は国境を脅かすあの愚かな国を手に入れるお父様が見たいですわ。と続ければお父様は困ったように笑った。

 王権の転覆を見たのだから次は征服がいいわ。お父様の兵の中には英雄となるのにぴったりな男もいるもの。ああ、わたくしって本当に運がいい!死ぬまで歴史というものを眺めつくしてやるわ。 


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