神託の巫女は愛を告げない——「あなたの運命の人は、私ではありません」と嘘をついた三年間の果てに
「王太子殿下の運命の相手は——」
私の声が、神殿の高い天井に響く。
何百という視線が私に注がれていた。王族、貴族、高位神官たち。この国の命運を握る者たちが、固唾を呑んで次の言葉を待っている。
その中心に、彼がいた。
アレクシス・ヴァン・エルドラージュ殿下。漆黒の髪、深い蒼穹の瞳。まるで神が自ら彫り上げたかのような美貌の王太子。
——あなたの運命の相手は、私です。
たった今、神が私に告げた名前。それは他でもない、私自身の名だった。
ユリア・フォン・ヴェルニカ。孤児として神殿に拾われ、神託の力だけで最高位の巫女となった、身寄りのない娘。
(……馬鹿げている)
私のような者が、王太子殿下の伴侶? そんなことが許されるはずがない。
殿下の蒼い瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。その瞳の奥に、期待のような光が見えた気がした。
——違う。そんなはずがない。
私は唇を噛んだ。震える手を、法衣の下で握りしめる。
「——カミラ・ド・ルーシェン嬢でございます」
嘘だった。神に仕える巫女が、神託を偽った。
「……そうか」
殿下の声が聞こえた。低く、静かな声。感情を押し殺したような、冷たい響き。
一瞬だけ見えた。殿下の表情が、かすかに——本当にかすかに——歪んだのを。
それは、苦痛の表情だった。
「神の御心のままに」
私は深く頭を下げた。銀の額冠が冷たく額に触れる。
この時、私はまだ知らなかった。神に愛された王族にもまた、神託が届くことを。そして——この嘘が、三年という長い苦しみの始まりだったことを。
* * *
三年後——
「ユリア様、また朝まで祈祷室にいたんですか!?」
リーンの声が、静寂な私室に響き渡った。亜麻色の髪をした見習い巫女が、両手を腰に当てて仁王立ちしている。
「おはよう、リーン。今日も元気ね」
「元気なのはいいですけど! ユリア様が元気じゃないでしょう!? ほら、目の下に隈ができてる!」
鏡に映る自分の顔を見た。確かに、薄い紫水晶色の瞳の下に、うっすらと影ができている。
昨夜も、眠れなかった。眠ろうとすると、あの日の光景が蘇る。
——殿下の婚約が、正式に発表される。
その知らせを聞いたのは、一週間前のことだった。カミラ嬢との婚約式。それが来月に迫っている。
「嘘ですね」
リーンが、じっと私を見つめた。
「ユリア様、泣いてたでしょう。また。夜中に祈祷室から声が聞こえるの。『ごめんなさい』って、何度も」
心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
「聞き間違いよ」
コンコン、とドアを叩く音がした。
「リーン? 早かったわね——」
ドアを開けて、息が止まった。
「久しぶりだな、巫女」
漆黒の髪。蒼穹の瞳。アレクシス殿下が、私の部屋の前に立っていた。
「で、殿下……!? なぜこちらに……」
「王太子が神殿を訪れてはいけないという法でもあるのか?」
殿下は、私の返事も待たずに部屋に入ってきた。
「三年だ。あの神託から、三年が経った」
心臓が、嫌な音を立てた。
「お前に聞きたいことがある。お前は俺に、何も告げることはないのか?」
その問いを、私は何度聞いただろう。三年間、殿下は定期的に神殿を訪れた。そして必ず、同じ問いを投げかけた。
「……いいえ、何もございません」
殿下の目が、すっと細くなった。
「ならばなぜ、お前はいつも泣いているんだ?」
息が、止まった。
「目の下の隈。こっそり赤くなる瞼。俺が来るたび、お前は何かを必死に隠している。——何を隠している、ユリア?」
名前を呼ばれた。「巫女」ではなく、「ユリア」と。
心臓が壊れそうなほど鳴り響く。
「……私のことは、お気になさらず。殿下にはカミラ嬢がいらっしゃいます。どうか、彼女を大切になさってください」
「俺は——」
「それが、神の御心です」
殿下は何も言わなかった。ただ、蒼穹の瞳に浮かんだ光が——まるで、何かを確信したかのように——鋭く輝いた。
「だが覚えておけ、ユリア。——俺は、お前が真実を告げるまで、待つのをやめない」
* * *
「ユリア様、少しお時間をいただけますか?」
神殿の回廊で、カミラ嬢に呼び止められたのは、その三日後のことだった。
「殿下は、私を見ていらっしゃらないの」
紅茶を前に、カミラ嬢は静かに告白した。
「三年間、ずっと分かっていました。殿下の視線が、いつも私を通り過ぎていくこと。誰か別の人を——ずっと、探していらっしゃること」
「カミラ嬢……」
「殿下がいつも探していらっしゃるのは——ユリア様、あなたなのでしょう?」
息が、止まった。
「正直に教えてください。殿下のこと、お好きなのでしょう?」
「私は——」
「嘘をつかないで。あなたの目を見れば分かります」
涙が、こぼれそうになった。
「……好きよ」
初めて、口にした。
「好き。ずっと、ずっと好きだった。でも——私なんかが殿下の隣に立てるはずがないって、そう思ったの。だから、嘘をついた」
「やっと分かったわ」
カミラ嬢が、私を抱きしめた。
「あなた、ずっと一人で抱え込んでいたのね」
「カミラ嬢……なぜ、私を責めないの?」
「私はね、最初から、殿下の運命の相手じゃなかったのよ。それは、分かっていた」
翡翠の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「だからね、ユリア様。私は、この婚約を解消しようと思うの。殿下を、泣かせないでね。あの方——あなたを待って、ずっと苦しんでいらしたのだから」
* * *
婚約発表の前夜——神殿の大広間には、大勢の人々が集まっていた。
私は最高位の巫女として、壇上に立っていた。白い法衣に銀の額冠。三年間演じ続けてきた、完璧な巫女の姿。
「待たれよ」
冷たい声が、広間に響いた。
ヴィクトル・サヴァレス神官が、群衆の中から歩み出てきた。
「私は告発する。この女が、三年前の大神託において——神の御言葉を偽ったことを!」
広間が、どよめいた。
「証拠がある。神託は王太子殿下の運命の相手として、この女自身の名を告げていたのだ! しかしこの女は、己の名ではなくカミラ嬢の名を告げた。異端者だ!」
血の気が、引いていくのを感じた。
——終わりだ。すべてが、終わった。
「私は——」
「待て」
低い声が、広間に響いた。
アレクシス殿下が、真っ直ぐに壇上へ歩いてきた。
「黙れ。誰が発言を許した」
殿下が、壇上に上がってきた。私の前に立ち、群衆と私の間に壁を作るように。
「ユリア。三年前、お前が告げた名前——あれが嘘だということは、俺は最初から知っていた」
広間が、再びどよめいた。
「神に愛された王族にも、神託は届く。儀式の前夜、俺は夢の中で啓示を受けた。『お前の運命は、ユリア』——その名前を、はっきりと」
「……!」
「なのにお前は、別の名を告げた。三年間、俺はその理由を——お前に問い続けてきた」
『お前は俺に、何も告げることはないのか?』
あの問いの意味が、今ようやく分かった。殿下は——知っていたのだ。最初から、すべてを。
「なぜ……なぜ、今まで——」
「お前の口から聞きたかった。お前が自分の意志で、俺に真実を告げるのを——三年間、待っていた」
殿下の声に、押し殺した感情が滲んでいた。
「だが、もう待てない」
殿下が、私の手を掴んだ。
「ユリア。お前が俺の運命だと、俺はとっくに知っている。だからもう——逃げることは、許さない」
「殿下……私は……」
「なぜ関係ないカミラの名を告げた? 俺がどれほど苦しんだか、分かるか?」
激昂が、その声に滲んでいた。
「巫女は……愛されてはいけないのです」
声が震える。涙が、頬を伝った。
「神に仕える身が、人として愛されてはいけない。でも、私は殿下を——愛してしまった。だから、せめて——殿下には幸せになってほしかった」
「重荷? 俺の未来? ——ふざけるな」
殿下が、私を抱きしめた。広間中が、息を呑んだ。
「お前がいない未来など、俺には要らない」
その言葉が、三年間凍りついていた心を溶かしていく。
「お前が俺の傍にいてくれるなら——王座も、国も、何もいらない」
「そんな……そんなこと、言わないでください……」
「言う。何度でも言う。俺はお前を愛している。三年前から——いや、もしかしたら、それよりもっと前から」
蒼穹の瞳が、至近距離で私を見つめている。
「お前も、俺を——愛しているのだろう? もう嘘をつくな、ユリア」
逃げられない。もう、逃げ場所はなかった。
「……はい」
声が、かすれて出た。
「愛しています……殿下を。ずっと、ずっと——三年間、あなたのことだけを想っていました」
「殿下……アレク」
初めて、名前を呼んだ。
殿下の——アレクの瞳が、驚いたように見開かれ、そして——花が咲くように、笑った。
「ようやく——呼んでくれたな」
神殿の大広間で、三年越しの想いがようやく一つになった。
* * *
異端告発は、アレクの介入と真の神託の開示により退けられた。サヴァレス神官は、かねてより神託を操作しようとしていた証拠を大神官に突きつけられ、神殿から追放された。
翌日——婚約発表の場で、王の声が広間に響き渡った。
「王太子アレクシス・ヴァン・エルドラージュの婚約者として——ユリア・フォン・ヴェルニカの名を発表する」
拍手と歓声が、波のように押し寄せてくる。
隣に立つアレクが、私の手を握った。
「緊張しているか?」
「……少し」
「大丈夫だ。俺がいる」
群衆の中に、カミラの姿が見えた。こちらに手を振っている。その隣には、彼女が想いを寄せていた騎士の姿があった。
「カミラも、幸せになれそうですね」
「ああ。彼女には感謝している」
「ユリア様! おめでとうございます!」
リーンが、満面の笑みで手を振っている。
「約束ですよ! 全部聞かせてくださいね!」
「……ええ、約束よ」
広間に朝日が差し込んできた。ステンドグラスを通した七色の光が、私たちを包み込む。
「ユリア」
「はい?」
「もう二度と、嘘の神託は告げさせない」
「……はい」
「お前の言葉は、全て俺だけに向けろ。お前の想いは、全て俺だけに注げ」
「わがままですね」
「ああ、わがままだ。三年分の——」
「私もです」
遮るように、言った。
「私も——三年分のわがままを、言わせてください」
「好きなだけ言え」
「あなたの傍に、ずっといたい」
「当然だ」
「あなたに、愛されたい」
「もう愛している」
「あなたの——運命の相手で、いたい」
「お前以外の運命など、俺にはない」
アレクが、私の額に唇を落とした。
「もう何も隠すな。お前の全てを——俺に見せろ」
「……はい。もう何も、隠しません」
朝日の中で、三年越しの想いがようやく——本当の形を取り戻した。
偽りの神託を告げた巫女は、今日——運命の王太子の、真実の伴侶となる。
これは——神が紡いだ、本当の物語の、始まりだった。




