第一話:鉄の咆哮を夢見て
第1章13話を同時にアップします
一九一八年(大正七年)二月十一日。
肺の奥が、燃えるように熱い。
反射的に吸い込んだ空気が、不快なほど鮮烈に喉を通った。
俺は叫び声を上げたが、それが自分でも耳を疑うほど高く、か細い産声として響いたことに困惑した。
視界はただ白く、強い光に焼かれている。
さっきまでの記憶を懸命に手繰り寄せる。
俺が心血を注いで組み上げた、三・二リッター直列六気筒のフルチューンエンジン。そのインテークマニホールドが吸い込む、狂気じみた吸気音だ。
タコメーターが八千回転を超え、チタン製のバルブリテーナーが悲鳴を上げる極限の領域。
オイルの焼ける匂いと、高熱を持ったエキゾーストマニホールドの熱気。
雨の夜。
峠の急カーブ。
「あと一ミリ、スロットルを開ければ……」
その瞬間、足元から伝わったのは、路面を掴んでいたはずのハイグリップタイヤが、雨という名の鏡に拒絶された感触だった。
テールが流れ、制御を失った車体が闇に吸い込まれる。
あの衝撃と火花、そして全身を襲った凄まじい熱量。
「産まれました! 九条男爵家に、立派な跡取りの男の子ですよ!」
近くで響く、喜びに満ちた声。
俺は混乱した。
意識の底に焼き付いているのは、ターボチャージャーが吐き出す過給圧と、一分間に数千回往復するピストンの律動だ。それなのに、今の俺を包んでいるのは、誰かの温かな腕だった。
俺は懸命に状況を整理しようとしたが、思考がまとまる前に、強烈な眠気が意識を飲み込んでいった。
一九一八年(大正七年)八月二日。
数ヶ月が経ち、ようやく俺は自分の置かれた状況を、いくつかの仮説とともに検討できるようになった。
俺の日々の面倒を見る「お菊」という乳母との接触や、彼女が話しかけてくる内容から、俺は残酷な結論を突きつけられていた。
「芳信坊ちゃま。外はシベリアへの出兵とかで、兵隊さんたちが大騒ぎですよ。お国が勝つのは嬉しいですが、怖いですねえ」
お菊が、俺を抱きながら縁側の椅子に座り、独り言のように呟く。
シベリア出兵。大正七年。
二十一世紀の峠で命を散らしたはずの俺は、よりにもよって、内燃機関の黎明期へと放り出されたらしい。
俺は最初、深い絶望に陥った。
ここには、俺が愛したハイオクガソリンも、カーボンファイバーも、電子制御の燃料噴射装置もない。
今の俺に与えられているのは、お菊が運んでくる「おもゆ」と、いつ自分を壊すかもわからない未発達な赤ん坊の肉体だけだ。
だが、数日間泣き腫らした後(お菊には腹が減ったのだと思われていたようだが)、俺の思考は別の方向へと舵を切った。
……いや、待てよ。
何もないということは、すべてを俺の理想通りに作れるということじゃないか。
あの、環境規制やコストに縛られ、魂を抜かれたエコカーばかりが溢れていた未来とは違う。
この時代の鉄は、まだ鍛え方すら知らない。燃料は、ただの「燃える液体」に過ぎない。
「……なら、俺が教えてやる」
俺の「車バカ」としての魂が、静かに熱を持ち始めた。
まだ誰も知らない、高回転エンジンの官能。
路面に吸い付くようなサスペンションの剛性。
それらを、この未開の時代に俺が産み落としてやる。
その決意を固めた瞬間、目の前の景色が違って見え始めた。
俺の面倒を見るお菊の、おっとりとした声すら、将来の俺の工房を支える歯車の一部のように聞こえてくる。
俺は自分の小さな、頼りない手を見つめた。
この手が、いつか鋼を曲げ、ボルトを締め、世界を震撼させる咆哮を生み出す。
九条芳信としての、二度目の人生のレースが始まった。
一九二一年(大正十年)十一月四日。
三歳になった俺は、九条家という男爵家の庭で、地面に這いつくばっていた。
手にしているのは、庭師から借りた小さなコテと、良質な粘土質の土だ。
「……カムの形状を維持するには、この土では粘り足りない。もっと、粒子が細かく熱に耐える素材が必要だ」
俺は独り言を呟きながら、単気筒エンジンのピストンと燃焼室の模型をいじっていた。
脳内には、前世で培ったあらゆる設計図が保存されている。
多気筒エンジンの緻密な点火タイミング、四輪駆動システムが路面に力を伝えるためのデフの構造、最高級サルーンを支えるフレームの剛性。
だが、今の俺の手にあるのは、ただの泥の塊だった。
「芳信坊ちゃん。こんな物騒な日にも、土遊びですか。何を作っておられるのですか?」
後ろから声をかけてきたのは、当主である父・九条正和の知人で、陸軍大尉の進藤だった。
俺は手を止めて、彼を見上げた。
「ぶっそう、って何ですか? 進藤さん」
三歳児らしい無垢な問いに、進藤は一瞬、言葉に詰まったような顔をした。
「……おっと、坊ちゃんには少し早かったかな。最近はね、政府のやり方に腹を立てている兵隊さんや、不穏な噂を流す連中が多くてね。東京の駅の方でも、何やら怪しい影が見えるという報告があるんだ。我々も気が気じゃなくてね」
進藤はため息をつき、腰の軍刀に手を置いた。
軍縮を強引に進める原首相への反発が、軍内部で沸点に達している。
その空気は、まだ幼い俺がいるこの屋敷の静寂を侵食するほどに濃いものらしい。
「それは大変ですね。……ところでこれ、世界を走らせるための心臓です」
俺が進藤を見上げて泥の塊を指すと、彼は眉をひそめて笑った。
「心臓? ははあ、なるほど。解剖学か。心臓を鍛えて、立派な軍馬にでも乗りたいのかい?」
「いいえ。僕が造るのは、馬よりも速く、牛よりも力強く、そして雲よりも静かな乗り物です」
「乗り物……ああ、機関車のことか。しかし坊ちゃん、あれは線路の上しか走れんよ。結局は逞しい馬と、兵隊の丈夫な靴に勝るものはないのですよ」
進藤はそう言って、俺の頭を軽く撫でて去っていった。
翌日、一九二一年十一月五日。
家の中が、昨夜よりも一層ざわついていた。
「坊ちゃま、大変なことになりましたよ。原首相が、昨日の夜に東京駅で襲われたそうです……世の中、どうなってしまうのでしょうね」
お菊が青い顔をして、朝一番にそんな話を教えてくれた。
原敬首相の暗殺。
歴史が、俺の知る通りに動いている。
ならば、この先には関東大震災が、そして、避けることのできない巨大な戦乱の足音が控えているはずだ。
「お菊、父様のところへ行こう。お願いしたいことがあったんだ」
俺はお菊の手を引き、三歳の短い足で、しかし確信に満ちていた。
「父様は滅多に書斎から出ないから、僕から行くよ。ドイツの工作機械の文献と、イギリスの冶金学の本を買ってもらうつもりだ」
俺の言葉に、お菊は「坊ちゃまは本当に神童でいらっしゃいますね」と微笑んだが、俺はただ真剣だった。
神童、天才、あるいは狂気。
周囲が俺をどう呼ぼうと構わない。
それが、俺の望む「最高の車を造るための権力と資金」に繋がるのなら、俺は喜んでその怪物になってやる。
俺は屋敷の廊下を歩きながら、窓の外に広がる大正の曇り空を睨んだ。
いつかこの大地に、俺が造るエンジンの咆哮を響かせてやる。
「待っていろ、二十世紀」
車バカの魂が、大正の空に静かな、しかし熱い火花を散らした。
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