第8話:ダンジョンの果て、青空の下で
「ブハ――ゴホッ、ゴホッ――ハハハハ!!!」
ねじれた笑い声がダンジョンの壁に反響した。
それは愉快の笑いではなく、絶望の笑いだった。
「どうして……どうしていつもこうなるの?」
そう呟いた彼女――天音は、ようやく笑うのをやめた。
彼女の足元には、巨大で無色の魔法陣が淡く輝いていた。
それは、ボスを倒したあとに現れたものと繋がっているようだった。
「このクソシステム、いまだに『転移』をスキルとして認識してくれないなんて……。
しかも靴まで忘れるとか。」
天音はため息をつき、石を拾って光る魔法陣に投げつけた。
――石は、まるで幻のようにそのまま通り抜けた。
苛立ちが空虚な回廊にこだました。
体を震わせながら、彼女が小さく呟いたその時――背後で何かが蠢いた。
闇の中からモンスターが飛びかかる。
だが、攻撃を仕掛ける前に、そいつは動きを止めた。
恐怖に目を見開き、さらに後ろに潜む“何か”の存在を感じ取ったのだ。
そこには、小柄なゴブリンが斧を構えて立っていた。
その目には、赤黒い光が宿っていた――悪魔的で、圧倒的な気配。
モンスターは武器を落とし、地面に潜り込むようにして姿を消した。
「ゴブリン……?」
天音は目を瞬かせる。
「こんなに弱いゴブリンが……? ってことは、出口が近いのかも。」
召喚される前に着ていた制服の埃を払い、天音は再び歩き出した。
少しずつ、彼女の中に自信が戻ってくる。
数分後。
入り組んだ通路を進むうちに、遠くから声が聞こえ始めた。
剣戟の音、人の叫び、戦いの気配。
「もしかして……助けが?」
彼女は小さく微笑んだ。
「運命もようやく味方してくれたってことね。」
彼女は静かに近づく。
――キィィン! ドシュッ! ドン!
「人間……! やっと!」
岩陰に隠れながら、天音は目を輝かせた。
五人の人間が、数十体のゴブリンと戦っていた。
動きは無駄がなく、熟練者のそれだった。
「シン、行け!」
盾を構えた男が叫ぶ。
「今だ、決めるぞ!」
隣の剣士が応じ、背後の少女が杖を掲げた。
「援護するわ!」
短い詠唱の後、シンの剣が紅く輝き、次々とゴブリンを斬り裂く。
もう一人の魔法使いが黒い火球を投げ放つ。
「背中は任せろ!」
数瞬後、戦いは終わった。
「はぁ……疲れた……」
一人が額の汗を拭う。
彼らは倒れたゴブリンの胸を切り開き、深い青色の結晶を取り出した。
天音が以前見た紫のものとは違うが、特に気にも留めなかった。
戦わなかった一人が、大きな荷物を背負っていた。
「で、今回は何日キャンプするんだ?」
「少なくとも第五層までは行く。日数は決まってない。」
盾の男が答える。
「ってことは、まだ先は長いな。」
男が笑うと、仲間たちも元気に声を上げた。
「よっしゃー!」 「行こうぜ!」 「モンスター全部ぶっ倒してやる!」
岩陰の天音は、つまらなそうに見つめていた。
「なんて退屈な戦い……もっと見応えあるかと思ったのに。」
彼らが去るのを見届けて、天音は立ち上がった。
「話しかけるだけ無駄ね。下手に喋ったら“威圧感”が出ちゃうし。」
やがて――扉が見えた。
胸にこみ上げる安堵。
今度こそ、本当の勝利かもしれない。
「自由の味……もうすぐ届きそう。」
彼女は駆け出した。
外の空気が頬を打つ。
冷たくて、生きている。
何日も閉ざされた空間にいた彼女にとって、その一息はまるで神聖だった。
広がる青空、降り注ぐ日差し、揺れる草原。
ダンジョンの入り口近くには、色とりどりの花が咲いていた。
「やっと……自由だ……。」
腕を伸ばし、深呼吸する。
だが、すぐに眉をひそめた。
「……待って、ダンジョンの前に警備がいない?」
周囲を見回し、不安がこみ上げる。
「やばい、こういう展開知ってる! 誰も助けてくれないパターンって……私、モブじゃん!?」
あまりの理不尽に彼女は叫んだ。
「うう……主人公だと思ってたのに……。」
肩を落とす天音。
その時――森の奥から黒衣の人物が現れた。
フードを深くかぶり、全身を闇に包んだ影。
天音は姿勢を正した。
「何者よ、私の前に立つとは。」
その人物は片膝をつき、まるで女王に仕える臣下のように頭を下げた。
「お会いできて光栄です――女神様。」
低く澄んだ女性の声だった。
フードが外れ、白い肌と真面目な表情が現れる。
栗色の髪に、額からは二本の角――まるで魔王のように。
「魔王様の命により、あなたをお助けするため参りました。」
「なるほど、あの魔王の遣いってわけね。
……でも、あの魔王、もう死んでるはずじゃ?」
天音は首を傾げる。
「もしかして、私の時と同じように干渉できるとか……。」
「いいわ、顔を上げなさい。」
腕を組みながら命じた。
「どうやってここに来たの? さっき人間たちを見かけたけど、ここは人間の領域でしょ?」
「私は“影操作”の能力を持っています。」
女は静かに答えた。
「影を通ってどこへでも移動できます。
ただ、それほど速くはありません――あなたがダンジョンにいたのは二日間です。」
「……二日間!? 絶対に数時間しか経ってないと思ってたのに……。」
天音は眉をひそめた。
「もしかして、私の時間の感覚が変わってるのかも……長寿のせい?」
「あなたの知る限りのことを全て話しなさい。」
少し間を置いて、彼女は尋ねた。
「そういえば、あなたの名前は?」
女は恭しく頭を下げた。
「私はエレノア。魔王に仕える五大将の一人です。これより、あなた様にお仕えいたします。」
「うわ……魔王、本当に抜かりないわね。」
天音は心の中で呟いた。
「私はアマネ・セイレン――究極の力を持つ半神よ!」
(あっ、また調子に乗っちゃった……)
エレノアは静かに手を叩き、感嘆の息を漏らす。
「うっ……これはちょっと気まずいわね……。」
天音は顔をそらした。
「それじゃ、あなたの力で私を魔界へ連れて行って。」
「承知しました。」
エレノアの影が地面を這い、広がり、闇のドームを作り出す。
そして――瞬きする間に、二人の姿は消えた。
まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。




