第1話:異世界召喚
教室の鐘が鳴り響いた。
金属的で単調な音――いつもなら授業の終わりを告げるだけの音だった。
だが今日は違った。それはまるで、水面に落ちた小石のように、静かに波紋を広げていった。
けれど、その波はどこまでも届かない。
天音の胸の奥で、何かがゆっくりと沈んでいく感覚だけが残った。
誰も気づかない、小さな重さだった。
窓際のいつもの席に座る天音セイレン。
外から差し込む光は、なぜか彼女のもとには届かなかった。
黒板には何も書かれていないのに、彼女の視線はそこに固定されたままだった。
まるで、彼女の世界だけが止まってしまったかのように。
時計の針だけが、彼女を置き去りにして進み続けていた。
――事故から三ヶ月。
眠りは浅く、夜ごとに目が覚める。
彼と撮った写真を何度も何度もスクロールする。
それはもう、無意識の習慣になっていた。
親指だけが、止まらない。
目の下には薄い影が落ち、まばたきをするたびに痛みが走った。
周囲の生徒たちは彼女を避けるように見ていた。すれ違うたびに、空気がわずかに冷たくなる気がした。
小声で囁かれる噂。視線を逸らす者。
まるで「触れてはいけないもの」になってしまったかのようだった。
「普通にしてるつもりなのかな……」
「もっと気をつけてれば、あいつ、死ななかったのに」
冷たい囁きが背後から飛ぶ。
だが、それを遮るように、別の声が響いた。言葉を失ったのではなく、言葉を選ぶ力さえ残っていなかった。
「やめなよ。ユキが言ってたでしょ? あの日、彼女は何も悪くないって。」
――全部、聞こえていた。
でも、天音は何も言わなかった。
その沈黙は、誰も触れることができないほど深かった。心の中の灯りが、風に吹かれたろうそくのように揺れていた。
彼女の世界に残された色は三つだけ。
教室の天井の灰色。
窓の向こうの空の青。
そして、心の奥に沈む黒。
親友のユキは、不安げに天音を見つめていた。
彼女は知っていた――天音の悲しみの形を。
三人で笑い合っていた日々が、もう遠い過去のように思えた。
「……死人みたいね、あの子」
背後のその言葉に、ユキの拳が震えた。
「黙ってよッ!」
怒りが教室を貫いた。
一瞬で静寂が戻る。
「気にしないで、もう慣れてるから」
天音の声は小さく、壊れそうなほど淡かった。
――もしかして、私は本当に悪かったのかも。
――みんなが私を嫌うのも、当然なのかもしれない。
そう思うたびに、世界は少しずつ暗くなっていく。
ユキはただ、彼女の横顔を見つめながら小さく呟いた。
「……天音……もう、戻ってきてよ……」
授業の再開を告げるチャイム。
教師が「少し外す」とだけ言って教室を出た、その瞬間だった。
床に残ったチョークの粉の上から、光が滲み出した。
それは徐々に広がり、巨大な魔法陣を描く。
未知の文字が輝き、空気が震え、窓が軋む。
「な、なにこれ……!」
「やばい!死ぬ!?」
「ふざけんな、逃げろ!」
しかし誰一人、動けなかった。
目に見えない圧力が体を押さえつけ、息が苦しくなる。
天音だけが、静かに立っていた。
その光景が現実とも思えず、彼女はただ――ユキの口が何かを叫んでいるのを見つめていた。
声は、聞こえなかった。胸の鼓動が早まり、息が少しだけ震えた。
(……考えられない……頭が……ついていかない……)
その瞬間、光が弾け、全てを呑み込んだ。
音も、姿も、存在さえも消え去った。
――そして、世界は形を変えた。
紫色の空。
重力を持つかのように、ゆらめく雲。
遠くには巨大な城。
足元の草は魔力の残光に揺れていた。
「ど、どこだここは!?」
「……私たち、死んだの……?」
召喚陣の中央に、一人の女性が現れた。
銀色の長い髪、白いドレス。
手には魔法の杖。
「ようこそ、選ばれし者たち。」
その声は静かだったが、不思議と全員に届いた。
「あなたたちは〈エラリア王国〉に召喚されました。」
騒然とする教室――いや、もはや教室ではない場所。
恐怖と混乱、そしてわずかな興奮。
「あなたたちが呼ばれた理由――それは、魔王の復活を阻止するためです。
この世界を救えば、元の世界に帰ることができるでしょう。」
「は? 勝手に巻き込むなよ!」
「私たち、ただの高校生よ!」
疑念と怒りが広がる中、彼女――巫女は穏やかに言った。
「恐れるのは当然です。怒るのも、当然です。
でも、選択はあなたたちに委ねられています。
見て見ぬふりをすれば、この世界は闇に沈む。
それでも――希望を選ぶなら、私は共に戦いましょう。」
沈黙。
草原を渡る風。
生徒たちの間に、わずかな決意の光が灯った。
「……やってみるよ。」
「私も……信じてみたい。」
巫女は微笑み、頭を下げた。
「ありがとうございます。まずは、王都へ案内いたします。」
クラス全員が丘を下り始めた。
遠くに見える城。
街の方から漂う、焼きたてのパンの香り。
その中で――
天音だけが、静かに立ち止まっていた。
(みんなは動揺してる。でも私は……)
彼女の瞳には、まだ焦点がなかった。




