定位喪失の恐怖
富豪ハワード・オルドリン・マクスウェル3世にとって、ブラックホールを破壊、厳密には爆発させて軌道を逸らす可能性は面白い話題ではあった。
しかし、それは物語として面白いのであり、富豪の彼ならではの楽しみとは違うものだ。
彼は「超光速航法研究チーム」の出資者である。
ここは誰か傑出した人材が引っ張るのではなく、同格の研究者・技術者がチームとして開発を行っていた。
ゆえにこのチームの代表は、強烈な意思で皆をリードするこの富豪になるだろう。
そこまでして彼が超光速航法に拘る理由。
それは単純な「違う恒星系に行ってみたい」という子供じみた野心からであった。
こういう富豪は時々現れる。
自分が空を飛びたいから、宇宙に行きたいから、月に行きたいからと、研究機関に出資したり企業を作ったりし、その個性で組織に影響を与える。
そんな彼からしたら、アーサー・チューリングの開いた会議は、興味深いものではあっても所詮は数千年後の話、実際に実現しつつある超光速航法こそが楽しみであった。
「いきなり1光年とは、厳しいのではないでしょうか?」
技術陣が不安な声を挙げる。
これまで超光速航法船は、木星の定点観測基地までで搭乗実験を行っていた。
地道なデータ収集の繰り返しだったが、それが正解である。
しかし、この富豪には次第に物足りなくなって来た。
「1光年というマイルストーン、これに到達する事が、我々の存在意義である」
として、一気に大台に達しようとしたのだ。
「もっと慎重にいきましょう。
土星や天王星と徐々に距離を延ばすのが良いでしょう」
と技術者は警告する。
しかし
「既に無人機はオールトの雲まで達した。
確かに我々の宇宙船の速度は、宇宙のスケールに比べて遅い。
一度の超光速航法は0.1光年がやっとだ。
72時間のチャージで0.1光年、片道1光年だと30日の飛行。
往復で60日。
確かに負担は大きい。
しかし、挑戦しなければ得られるものは無いのだ!」
と言って、無理を押し通す。
これは良い面も悪い面もある。
慎重に進め過ぎると、進歩の速度は亀の歩みとなってしまう。
野心的な挑戦があって、初めてブレークスルーを起こす場合もある。
しかし、これにはリスクが付き物だ。
「リスクを恐れていたら冒険は出来ない」
そう飛行士は言ってのけた。
マクスウェルも満足そうに頷く。
「我々は常にフロンティアを目指し、故郷を離れて歩んで来た。
宇宙時代になって、先人のように出来なかったら、それは人類の退化に過ぎない。
我々は常に進歩し続けねばならないのだ!」
強気である。
実にポジティブだ。
彼は北米宇宙機構で宇宙飛行士をした後で退官、マクスウェル率いるチームのテスト飛行士に転じた。
公的機関に属し続ける事が出来たのに、あえてチャレンジをして来た。
マクスウェルは彼を信頼している。
「まあ、飛行士と言っても名ばかりだな。
全てはコンピューターが制御して、私は乗っているだけだ。
大昔のマーキュリーカプセルに乗るようなものだ。
私は60日間の飛行中、孤独に耐えればそれで良い。
狭くて運動不足になるのがいただけないな。
飯を食って、排せつして、目的地では撮影でもして来ようか。
退屈な旅になるだろう」
そう言い残し、彼は地球を飛び立つ。
……そして、二度と戻って来なかった。
宇宙船は自動操縦で、確かに一光年先から地球に戻って来た。
そこに飛行士の姿は無い。
想像はつくが、何が起きたのかをフライトレコーダーから確認する。
そこに映っていたのは、人間が壊れていく様であった。
最初の10日は何事も無かった。
淡々と食事をし、読書をし、自分の様子を記録させて眠りにつく。
12日頃から、次第に歌を歌い、独り言を言う回数が増え始める。
無理もない。
ここは通信をしても、応答が相当に遅れる距離なのだ。
孤独に対応すべく、宇宙船のコンピュータは会話をして、楽しいレスポンスを返してくれる。
音声も調整し、友人の声や恋人の声で語る事も出来る。
そのAIに対し、15日目頃から当たりがキツくなって来た。
それを解析して見る。
>ここは地球からどれくらいだ?
AI:31620AUの空域です
>光年で言えよ、馬鹿!
AI:失礼しました、行程の丁度半分、0.5光年の空域です。
>本当にそこにいるのか? 嘘ついてねえか?
AI:嘘をついていません。
>間違った場所に行っていないのか?
AI:正確です。
>本当か? 証拠を示せ!
AI:背後に太陽が見えます。
>ディスプレイじゃ分かんねえ! グラフィックかもしれないだろ!
AI:信じてもらてないのは残念です。
こんな調子である。
そして往路は何とかなった。
復路で問題が起こる。
>私は本当に地球に戻っているのか?
AI:地球への帰路です。
>太陽系はどこだ? 見えないぞ。
AI:太陽は正面に見えていますが、惑星を視認するのはこの距離では困難です。
AI:最大望遠で投影しましょうか?
>どうせそれも合成された映像だろ!
AI:信じてもらいないのは残念です。
AI:正面に太陽が見えます。近づく毎に次第に光度を増し、帰還を実感するでしょう。
そして51日目。
超光速航法の為のエネルギーチャージをしている手持無沙汰な時に、それは起こった。
「もう我慢出来ない!
太陽を見せろ!
ディスプレイごしじゃなく、直接だ!」
コンピュータは否定する。
ハッチを開けろ、開けない、そんな問答を繰り返す。
そして彼は強硬手段に出た。
コントロールを手動に切り替え、緊急脱出モードとして宇宙船の外に出たのだ。
「太陽……」
それが彼の最後の言葉である。
船外の強力な放射線により、彼は自分も気づかぬ内に絶命していたようだ。
そして時間が来て宇宙船は超光速航法開始。
彼をその空域に残し、無人の船だけが戻って来たのである。
これは大きなスキャンダルとなり、人命軽視とマクスウェルは叩かれる。
しかし彼は立ち止まらない。
専門家を集めて、どうしてこういう事になったのかを調べさせた。
そこで出たのは「定位喪失」という事。
彼は宇宙船内に座り、ただ運ばれるに任せていた。
窓は有ったが、超光速航法時にはシャッターが下ろされる小窓に過ぎない。
彼は長期間の航法中、自分の位置が正しいのか疑心暗鬼に陥ってしまう。
彼は、自分の居る場所が実感として理解出来なくなっていた。
考えれば、彼が公的機関で宇宙飛行士をしていた時は、地球がすぐ傍に見えていた。
このグループに移籍してからも、遠くには強烈な輝きを放つ太陽が見え、到着地では覆いかぶさるような圧を放つ木星が在った。
そして何より、時差があろうが返って来る通信が出来ていた。
これらの感覚が1光年という距離では無くなってしまう。
帰路にあった筈だが、1ヶ月半も孤独な旅で、定位喪失を続けていた飛行士はついに神経症となった。
この目で太陽を見たい、自分がどこに居るのかを実感したい。
その一心に捉われ、強硬手段に出てしまったのだ。
「飛行士は慎重に選ばないとならないな……」
報告を聞いて、マクスウェルは呟く。
「宇宙飛行士の選抜で、何が重要か知っているか?」
秘書に語りかけるが、それは質問ではない。
独り言の類である。
ゆえに、返事を待たずにマクスウェルは続けた。
「それは生きようという強靭な意思だ。
選抜試験では、絶対絶命な状況をシミュレーターで作り出し、そこからどう最後まで生き抜こうとするか、それを確認する。
パニックを起こすような奴はダメだ。
すぐに諦める奴もダメだ。
彼はそれをクリアしたエリートだった。
それでもこんな事になってしまった。
選考方法を見直さないとならないな。
そして定位喪失への対策もな……」
そう呟き終えると、彼は秘書の淹れたコーヒーを口にする。
多少落ち着いて来て、彼はふとした人物を思い出した。
宇宙飛行士選考に来ていた男だが、問題があって落選とした。
絶対死ぬシミュレーターにおいて、彼は最低限の操作をすると、後は目を瞑って何もしなかった。
理由を聞くと
「所詮これはシミュレーター。
絶対死ぬとインプットされていたなら、確実に死ぬ。
だが、実際に死ぬわけではない。
本当に死ぬなら、それも面白い。
だが、実際に死なない以上、何もする価値がない。
つまらない」
などと言っていた。
(ああいうのはダメだ。
自分の生き死にを他人事のように語り、死ぬのを面白いなんて言っている。
他の技能は満点だったのに、ああいう諦めるのが早い奴は向いていないんだ。
諦めず、その上で強靭な心を持ち、問題解決に優れた者……。
軍隊にでも相談してみようか……)
自分自身と会話しながら、マクスウェルは次はどうするかを考え始めた。
頭に浮かんだ不適格者についても、その瞬間もう忘れてしまっている。
彼は前しか向いていないのだ。
……その不適格者と、妙な形で再会する事になるのだが、この時の彼はもうその存在を意識すらしなくなっていた。




