カフェ・リーベ
「……お前の顔が気に入らない」
その一言のあと、テーブルの上に重たい沈黙が落ちた。
あたしは返す言葉も見つけられず、ただじっと彼を見つめた。そして、ようやく口を開く。
「……名前、まだ聞いてないんだけど」
彼は視線を横に逸らし、少しだけためらってから、短く名乗った。
「カイ・レーヴェンシュタイン」
「かい……れーぶぇんしゅたいん……?」
戸惑いながら繰り返すと、彼は小さくため息をつく。
そのとき、カウンターの奥にいたユリウスさんが、穏やかな声で口を挟んだ。
「もうちょっと愛想よくしたらどうだ、奏」
「“奏”って呼ぶな」
「こちらでは“黒瀬奏”だろ? 馴染まないといけないのは君のほうさ」
「……カイ? くろせかなめ?」
あたしが混乱気味に首をかしげると、ユリウスさんはくすっと笑った。
「こっちの世界では“黒瀬奏”として暮らしてるんだよ。もっとも、本人はあまり気に入ってないみたいだけどね」
「うるさいな」
「黒瀬くん、ってこと?」
確認するようにそう言うと、彼――黒瀬くんは仕方なさそうにうなずいた。
「好きに呼べばいい」
「……ふーん」
名前、二つあるんだ。
また一つ、わからないことが増えた。
その空気をやんわりと変えたのは、玲奈さんの笑顔だった。
「女の子にはもう少しやさしくしてあげるものよ」
やわらかな声に、不思議と場がなごむ。
「ごめんなさいね、葵ちゃん。この子、不器用なのよ」
「い、いえ……」
敬語になってしまうくらい、玲奈さんの雰囲気は落ち着いていて、それでいてやさしかった。
「初対面の相手に“顔が気に入らない”なんて言われたら、誰だってびっくりするわよね」
あたしは曖昧に笑うことしかできなかったけれど、その気遣いが少しだけ心をほどいた。
「……でも、それだけあなたが“特別”ってことでもあるのよ」
”特別”
また、その言葉。
あたしは思わず黒瀬くんの方を見た。
「特別って……どういう意味?」
彼はしばらく黙っていたけど、やがてぽつりと呟いた。
「”あれ”がここに来たってことは、世界の存在に気づかれたってことだ。だったら、知らないままでいられる時間も、もう長くない」
その言葉の意味を、あたしはすぐには理解できなかった。
玲奈さんは黙ってそれを聞いていた。
何も言わず、ただ静かに、あたしと黒瀬くんを交互に見つめていた。
その視線が、あたたかいはずなのに、ひどく居心地が悪く感じるのは、きっと自分が何も知らないせいだ。
「こっちでの名前が黒瀬奏で、向こうで“カイ”って呼ばれてたって言ったよね。だったら……あなたも、あの子と同じ世界の人なの?」
「いや、僕は――」
黒瀬くんは言いかけて、言葉を切った。
そのまま目をそらすように視線を落とす。
「あたしが見た、あの子。あの子は何者なの?」
今度はユリウスさんが、カウンターの奥からゆっくりと歩み寄った。
「彼女は、マギーヴェルト――魔法世界の存在だよ」
「……マギーヴェルト?」
聞き慣れない響きに、思わず復唱してしまった。
「ドイツ語さ。マギーは“魔法”、ヴェルトは“世界”。Magiewelt。魔法世界って意味だよ。」
「……え、ドイツ語? でも、なんでそんな言葉……」
「正式名称なんてそんなものさ」
ユリウスさんはそう言って、玲奈さんの隣に腰かけた。
「じゃあ……あの子は、その“魔法世界”の人間……?」
「間違いない」
その答えは、カイが出した。
腕を組み、あたしを見ずに言い切った。
「しかも、あの火の力。あれは完全にマギーヴェルト特有の術式。ヴィッセンシャフツヴェルトでは、あんな現象は理論的に不可能だ」
「ヴィ…?」
またもや耳にする聞きなれない言葉を口にする。機械的にも聞こえる不思議な単語にあたしは、すっと背筋が冷えるのを感じた。
「ヴィッセンシャフツヴェルトは科学世界のことだよ。カイはそこの人間だ」
ユリウスさんが説明してくれたけど、正直あたしは何も理解できていない。
「でも……それって、どうやってこっちに来たの?」
「それができるのは、“Key”が存在するときだけだ」
ユリウスさんが言葉を継いだ。
「Key……」
「世界をまたぐために必要な“鍵”のような存在。君が“Key”かどうかは、まだわからないけれど……少なくとも、君はもう、自分の“対”と出会ってしまった」
「対……?」
「君と同じ顔をした少女は、明らかにマギーヴェルトの存在。彼女がこちらに現れたということは、彼女がKeyになったということだ。そしてそれは、ヴィッセンシャフツヴェルトが最も恐れていたことでもある」
黒瀬くんは腕を組んだまま、目を閉じる。
その眉間には深いしわが寄っていた。
「……マギーヴェルトの存在が、現実に現れるなんて、普通じゃ考えられなかった」
「でも、現れたじゃない……!」
気がつけば、声が少し大きくなっていた。
「あたし、襲われた。燃えそうになった。現に、あのとき空気が止まって……!」
「落ち着いて、葵さん」
ユリウスさんのやさしい声が、遮るように割り込んだ。
「信じられないのは当然だ。だが、現にそれが起きてしまった以上、君はもう“こちら側”の常識では測れない場所に立っている」
あたしはぎゅっと拳を握った。
「それって……あたし、どうなっちゃうの……?」
ユリウスは何も言わない。
代わりに、カイが静かに口を開いた。
「……まだ決まってない。けど、これからどうするかは“アンタ”次第だ」
「あたし次第?」
「Keyの資質があるとすれば……ヴィッセンシャフツヴェルトが黙ってない」
その言葉の意味は、完全には理解できなかった。
でも、何かが、自分の手の届かない場所で動き始めている。
それだけは、はっきりと感じていた。
玲奈さんが、そっとカップを差し出してくれる。
「とりあえず、今日は温かいものを飲んで。混乱してるでしょう? 」
カップから立ち上る香りが、鼻腔をくすぐる。
「あ、ありがとう……ございます」
「マスターのコーヒー美味しいわよ」
玲奈さんの微笑みに、小さくうなずいた。
口にしたコーヒーはお砂糖もミルクも入っていないから、本当は苦かったけど、美味しいです、と言った。
それでも、頭の奥には“Key”という言葉が、焼きついたままだった。