その日、私はドッペルゲンガーに会った
その日の空は、どこか重苦しくて、胸の奥がざわつくような気配をまとっていた。
それでも、放課後の空気は、いつもと変わらない穏やかさを装っていた。 友達と別れて駅に向かう途中、あたしは見覚えのある顔とすれ違う。
……いや、見覚えがあるなんてものじゃない。
あれは、完全に“あたしの顔”だった。
ここ数日、誰かに見られているような感覚があった。 ガラス越しに、自分とよく似た誰かを見たような気がしていたけれど、ただの錯覚だと自分に言い聞かせていた。
だけど、その日は違った。
黒いワンピースに編み上げのブーツ。制服じゃない。 髪の長さも、目の形も、口元までも私と同じなのに、その子の存在にはどこか現実味がない。
まるで、違う世界からそのまま抜け出してきたみたいだった。
その子はふと足を止めて、こちらをまっすぐに見つめてくる。
背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。
“ドッペルゲンガー”という言葉が、唐突に頭をよぎる。
「自分と同じ顔の人に出会うと死ぬ」
そんなことを聞いたことがある。 ただの迷信。根拠なんて、どこにもない。
それでも、気味の悪さは拭えなかった。
あたしは早足で駅へと向かう。 心臓の鼓動が、妙に大きく響いてくる。 背中には、じわりと冷たい汗がにじんでいた。
あたし、いま――なにを見たんだろう。
振り返ったときには、もうその子の姿はなかった。 残っていたのは、街のざわめきと、薄く濁った空気だけ。
*
数日後、夕方の帰り道。 あたしは、また“あの子”に出会った。
今度は校門の近く。すぐ横の歩道に立っていた。 ワンピースでも制服でもなく、薄いローブのような布をまとっていた。 手の甲には入れ墨のようなものがあって、街の風景にまるでなじんでいなかった。
立ち止まるあたしに気づくと、その子は口元に笑みを浮かべたような気がした。
怖いというより、嫌な感じだった。 体の奥がずんと重くなるような、あたしだけ空気が変わったみたいな、そんな感覚。
急いで家に帰って、シャワーを浴びても、心のざわつきは取れなかった。
“あの子は何?” “どうしてあたしと同じ顔をしてるの?”
いくら考えても、答えなんて出るはずもないのに。
*
そして――三度目は、もっとはっきりと現れた。
その日は、いつもより少し遅くなって、一人で住宅街の裏道を歩いていた。 通りに出る近くの角を曲がったときだった。
風が、止んだ。 いや、空気そのものが固まったみたいだった。
目の前に立っていたのは、まぎれもなく“あたしの顔をしたあの子”。 でも、これまでと違っていたのは――
その子が、右手をすっとこちらに向けた瞬間、空気がピンと張りつめた。
指先から小さな火花が弾けて、アスファルトの端に赤いきらめきが走った。
目の錯覚? そう思いたかった。
でも、風も、音も、その瞬間だけ消えていて、熱だけが残った。
そして、その子は口を開いた。
「本当に、同じ」
その声は、あたし自身の声にそっくりだった。 でも、言い回しや抑揚が微妙に違っていて、まるで別の国の言葉を話す誰かみたいだった。
あたしは一歩、後ずさった。 身体が冷えていく。 頭の奥で、どこかが叫んでいた――逃げなきゃって。
でも、足が動かなかった。 靴の裏が地面に張り付いたみたいに、膝が震えていた。
その子が、また一歩、近づいてきた。
そのときだった。
「下がれ」
低い声とともに、背後から風が吹いた。 誰かがあたしの前に立ちふさがった。
灰色のコート、鋭い横顔、淡々とした所作。 その人は、当然のように、ただ手を伸ばした。
その子がぴたりと動きを止めた。
「ここはお前の世界じゃない」
男の子の声は冷たく、静かだった。
その子――あたしの顔をした存在は、しばらく黙ってあたしを見つめたあと、ふっと笑って、そして霧のようにその場から消えた。
あたしは、何も言えなかった。 膝が震えて、その場にしゃがみこんでしまっていた。
男の子は、あたしを見下ろすようにして、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「……立てないなら置いていく」
言い返したかった。でも、喉が詰まって声が出なかった。 怖いとか、それ以前に、頭の中が真っ白で。 足も手も、どうやって動かすんだっけって、本気でわからなくなってた。 だけど、なんとか立ち上がる。
「場所を変える」
男の子はあたしに背を向け、何の説明もなく歩き出した。
なんであたしがついて行くと思ってるんだろう。ついて行くとも言っていないのに、その背中は一度も振り返らなかった。 あたしの意思なんて関係ないみたいに、まっすぐ前だけを見ていた。
ほんの少しだけ、悔しい。 だけど、それより――自分と同じ顔をしたあの子の正体を、この人は知っている気がした。
*
たどり着いたのは、駅から少し外れた古びた通り沿いにある、一軒のカフェだった。
木の看板には《カフェ リーベ》と、洒落た書体で書かれている。
店の前で立ち止まると、男の子がようやく振り返った。
言葉はなかった。ただ、ちらりとこちらを見ただけで、彼は扉を開けて中へと入っていった。
あたしも、ためらいながらそのあとに続いた。 扉についた小さな鈴が、控えめな音を立てる。
中は思っていたよりもずっと落ち着いた空間だった。 古い木の床、壁際に並ぶ本棚、ほんのり漂うコーヒーの香り。 カウンターの奥に立っていた店主らしき男性が、こちらに気づいて顔を上げた。
無精ひげに、くたびれたシャツ。
一瞬、あたしと目が合った彼は、ふっと目を細めた。なぜだか懐かしそうな表情にみえた。
「いらっしゃい」
その声は穏やかで、けれど、どこかすべてを知っているような響きを含んでいた。
男の子は何も言わず、店の奥のテーブル席へ向かって歩いていく。 あたしはその場に一瞬立ち尽くしていたが、カウンターの奥にいたマスターが視線で促すように小さくうなずいた。
声をかけられたわけでもないのに、不思議と断れなかった。
店内は静かで、時計の針の音すら聞こえてきそうなほどだった。
外の喧騒が、まるで別世界のもののように遠ざかって感じられる。 壁にはクラシックのレコードジャケットが飾られ、カウンターの上には豆を挽く手動のミルが置かれていた。 どこか懐かしいというより、“時間が止まっている”ような場所だった。
男の子の前に立ち、ふとその顔を見た。
端正な顔だ、と思った。目元も鼻筋もきれいで、どこか中性的な雰囲気をまとっている。 こんな状況でそんなことを考えるなんて、自分でもバカみたいだと思う。 でも、思ってしまったものは仕方がない。
それなのに、その整った顔は終始無表情だ。
「……座れば?」
淡々と告げられ、反射的に椅子を引いてしまった自分に、ほんの少しだけ自己嫌悪を覚える。
あたしはそろそろと椅子を引き、彼の向かいに座った。
落ち着いた照明。古びてはいるけれど、手入れの行き届いた木の机。 映画の中に迷い込んだような静けさ。
――だけど、頭の中はまるで追いついていなかった。
自分と同じ顔の子に襲われて、知らない男の子に助けられて、今は見知らぬカフェの席に座っている。
ねえ、これ、本当に現実?
思わずテーブルの木目を指先でなぞった。
冷たくて、しっかりと硬い。 だからこそ、これが現実なんだと突きつけられている気がして、余計に怖くなる。
「――名前は?」
突然、男の子が口を開いた。
その声に、あたしはびくりと肩を揺らした。
「えっ……」
「名前」
ぶっきらぼうに繰り返されて、戸惑いながらも答えた。
「……瀬島、葵」
男の子はほんのわずかに目を細める。何かを確かめるような目だった。 でも、特に何も言わず、ただ水をひと口飲んだ。
「どういうことなのか、説明してくれる?」
そう口にした自分の声が、自分でも驚くほど小さく頼りなかった。 本当は、あなたも名乗りなさいよ、と言いたかったけれど、言葉にはできなかった。
それでも、黙っているわけにはいかなかった。
男の子はしばらく黙ったまま、窓の外に視線を向けていた。
「……お前が“あれ”に出会ったのは、偶然じゃない」
短くそう言ったきり、再び黙る。
「“あれ”って、あたしにそっくりな……あの子?」
「そっくり、じゃない。同じ、だ。 それがどういう意味か、そろそろ理解したほうがいい」
語気には苛立ちがにじんでいた。
「理解って言われても……こっちは何も知らないのに」
こみ上げてくる不安をなんとか押しとどめながら、言い返す。
男の子はため息をつき、ようやくこちらを見た。
「……あれに出会った時点で、もう“何も知らない”じゃ済まされない」
言葉に詰まる。 あの子と、あたし。顔は同じだったけど、それが何を意味するというの?
男の子は指先で軽くテーブルを叩いた。
「あんたとあれは、ただ似てるだけじゃない。根本的に、同じ“何か”なんだ」
「……何かって?」
「今、話しても混乱するだけだろ」
男の子はそれだけ言うと、またうんざりしたようにため息をついた。
「どうせ言っても理解できないだろ。ユリウスさん、代わりに説明してよ」
ぶっきらぼうな口調でそう言い、彼はカップを持ったまま、あたしから視線を外した。
マスターは変わらず静かにコーヒーを淹れている。 その落ち着いた所作が、逆に不安を掻き立てる。
この空間で、あたしだけが何も知らない――そんな気がして仕方なかった。
ユリウスさんと呼ばれたマスターは、ゆっくりとカップを差し出してきた。外国人・・・には見えないけど、ユリウスさんなんだ。
「落ち着いたかい?」
その声は変わらず穏やかだったけれど、どこか観察するような響きを含んでいた。
「……いえ、まったく」
素直にそう答えると、ユリウスさんは微笑んで、向かいに腰を下ろした。
「まずは、きっと一番混乱しているだろうことから話そう。君が見た“自分と同じ顔をした子”についてだ」
背筋が自然と伸びた。思い出しただけで、胸の奥がざわつく。
「その子は、確かに君と同じ顔をしていただろう。でも、君じゃない。名前も、過去も、生きてきた時間も違う。 ……別人だ」
「じゃあ……なんで、顔が同じなの?」
ユリウスさんは少し考えるように間を置き、ゆっくりと言った。
「偶然じゃない、ということさ」
その穏やかな語り口に、かえって背筋が寒くなる。
「同じ顔、同じ声……偶然にしては、一致しすぎているだろう。 でも、それが核心というわけではない。焦らずに、順を追って話すよ」
この人たち、やばいことを言ってる気がする。
でも、冗談や芝居のような空気は、どこにもなかった。
「君の顔と同じ人物は、他にも存在している」
「……え?」
「普通なら、同じ人間が複数いるなんてありえない。 でも、そうじゃない場合もあるんだ」
その言葉が、妙に現実味をもって響いた。
「君が巻き込まれたのは、たまたまじゃない」
「じゃあ……あの子って、一体何者なの?」
ユリウスさんは答える前に少し沈黙し、それから静かに言った。
「簡単に言うなら、“君と対になる存在”だ」
「対……?」
「すべてのものには、バランスがある。光と影、表と裏。 君が“こちら側”にいるなら、彼女は“向こう側”にいる」
唇を噛んだ。 ふわっとした話に、ついていけるはずがない。
「なにそれ。意味わかんないし」
その言葉に、男の子が口を挟んだ。
「出会ったのは偶然じゃない。 あんたの存在が見つかったから、面倒なことになったんだ」
冷たい声だった。
「……つまり、あたしが狙われる理由があるってこと?」
「向こうにとって、あんたの存在は“好都合”なんだ」
それ以上は語るつもりがないのか、男の子は視線を逸らす。
その続きを、ユリウスさんが引き取った。
「安心してほしい。君が“普通”だから巻き込まれたわけじゃない。 むしろ、“特別”だからだよ」
「……はあ?」
思わず声が漏れた。
「特別って、なにが?」
その時、男の子が不機嫌そうに舌打ちをした。
「説明が回りくどいんだよ、ユリウスさん」
「葵さんが混乱しないように配慮しているつもりなんだけどね」
「配慮してるうちに手遅れになったら意味ないだろ」
明らかに苛立ちがこもった声だった。
「向こうが動き出した今、こっちも急がなきゃいけない」
「……たとえば?」
「世界は一つじゃない、ってことだ」
その一言で、思考が限界に達しそうだった。
何を言ってるの、この人たち――。
頭がざわついて、視界がぐらぐら揺れているような気がした。 現実の感覚が、するすると崩れていく。
その時、カラン、と扉についた鈴の音が店内に響いた。
反射的に顔を上げる。
現れたのは、ひとりの女性だった。
黒髪をすっきりとまとめ、落ち着いた色のスカートとブラウスを身に着けている。 知的で、気品のある雰囲気。 でも、一番印象に残ったのは、その目だった。
視線がぶつかった瞬間、彼女は一瞬だけ表情を止め、それからやわらかく笑った。
「こんにちは、マスター」
「こんにちは、玲奈さん」
ユリウスが穏やかに応じると、彼女は窓際の席へと向かう。 途中で立ち止まり、こちらを見て微笑んだ。
「……あんまり女の子をいじめちゃダメよ」
その一言に、ユリウスさんがくすりと笑い、男の子は面倒くさそうにため息をついた。
女性は軽やかに腰を下ろし、足を組んで優雅に微笑んだ。
「こんにちは。私は結城玲奈っていうの。……あなたは?」
「瀬島、葵です」
名前を口にした瞬間、彼女の顔にふわりとした笑みが浮かぶ。
綺麗な人だな、と思った。 知的で、大人っぽくて、余裕があって――見とれてしまいそうだった。
「ここ、落ち着くでしょ。マスターのコーヒー、美味しいのよ」
「あ、はい……」
曖昧に笑いながら返す。 それでも、さっきまで張り詰めていた心が、少しだけほどけた気がした。
言いかけたあたしの言葉を、男の子のため息が遮った。
「ねぇ……さっきからなんでそんなに嫌そうなの? あたし、あなたに何かした?」
その問いに、男の子は沈黙した。 しばらく伏せていた視線を、ゆっくりとあたしに向ける。
「……お前の顔が気に入らない」
その一言に、ユリウスさんと玲奈さんは顔を見合わせた。笑っていいのか、ダメなのか考えているような、微妙な表情で。
あたしだけが、何もわからないまま、その場に取り残されている気がした。