第九話 覚悟と専属契約
透け感のある寝夜着に着替えたファビオラはベッドの縁に腰掛け神妙な面持ちで俯いていた。
ドアがノックされる音で、びくりと肩を揺らした。
意を決して振り返ったファビオラはスラリとした美男子の姿に唖然とする。
「レオン様…」
レオンは苦虫を噛み潰したような顔をして立っていた。
「あの、ラニエ卿は?」
「あいつは来ないよ」
「え…」
上司に可愛がられる部下だと思っていたが。あいつ、という言葉に上司との関係性が良いものではないのかと感じた。
「僕が、君を一晩買う権利を譲ってもらった」
ソファに座ると苛立たし気にクシャリと髪をかき上げた。
「従順な部下が上司に何を頼んでいるんだって感じだよねぇ。あー、完全に余計なことした」
横を向きブツブツと何か言っているようだが早口で聞き取れない。
ラニエ卿から相手がレオンに変わっただけのことだ。
自分はもう逃げないと決めた。怖気づく気持ちを払拭するようにレオンの前に立つと胸元のリボンを解いた。下着を着けていなかった胸元が露わになりそうになるのをレオンは慌てて止める。
「何をしている! 意外にも度胸良すぎじゃない? この前は、あんなに死にそうな顔していたくせに」
「もう、覚悟を決めました! 大丈夫です!」
「いやいやいやいやいやいや…ちょっと待って」
レオンはファビオラをソファに座らせると盛大な溜息をついた。
「いいかい? 僕は無理矢理女を抱く趣味はない。僕に好意を持っている女じゃないと抱かない。これ大前提ね」
「しないってことですか?」
「ああ、しないね」
あっさり言うと、今度は小さな溜息をつく。
「三時間くらい、ゆっくり寝ていたらいいよ。疲れているだろ?」
確かに、疲れてはいる。精神的な疲れというのが大きい。
「何もしないのに、どうして私を買ったのですか?」
ファビオラは、まさか…という顔でレオンを見た。
「あの、まさか…助けてくれたのですか?」
「…思いつめた君があいつを刺し殺しでもしないかと心配になっただけだよ。僕はそんな偽善者じゃない」
ファビオラは諦めず、そっぽを向いたレオンの前に回り込んだ。
「なら、何かさせてください! 大金を支払っているのでしょう? タダ働きなんて出来ません」
「この前の君は一体どこに行ったのか…あれ、幻だった? まぁ、野垂れ死ぬ気もなくなったなら良かったよ。弱虫に見えたのに意外に強いね、お嬢さん」
結局、ファビオラはレオンにマッサージをすることになったが、如何せん知識も何もない。
ファビオラのマッサージにレオンは苦痛の声を上げた。数分で身の危険を感じたレオンは、自分はソファでファビオラはベッドで仮眠することを提案し、さっさとソファに横になった。
「あの…」
「僕の睡眠の妨害をしないこと。それが君の仕事だ」
仕事と言われれば従うしかない。ファビオラはそれ以上何も言わずにベッドに一人横になった。
レオンは仮眠から目覚めると偽装工作と言って、フロックコートの内ポケットからナイフを取り出した。彼は小指の先を小さく切り血を数滴シーツに垂らした。そして、偽装工作の続きと言って面白がりながらファビオラの髪を乱し、悪戯っぽく笑うと部屋を出て行った。
それからというもの、レオンが娼館を訪れ部屋に入ると二人は互いに干渉せず各々の短い時間を有意義に使うようになっていた。
ファビオラはレオンと過ごす時間に刺繍の仕事をこなしていた。
レオンは、しかめっ面で書類に目を通している。暫くすると疲れたのか、彼は背伸びをしてポケットから可愛い紙に包まれたキャンディーを取り出しファビオラに渡した。
「ありがとうございます。いただきます」
キャンディーを口に入れ転がすと爽やかな檸檬の味が口の中に広がった。
「美味しい…」
ファビオラはカイトに貰った檸檬のドライフルーツを思い出し切なくなった。
「僕の弟、このキャンディーが好きでね。泣く度に口に入れてやったよ。すると多端に機嫌が直るんだ。子供の頃の話だけど…懐かしいな。そういえば、君は弟に少し似ているな」
「私って、そんなに男顔ですか?」
ムスっとしてレオンを睨む。
「違うよ。なんていうか…純粋で素直なところかな」
あまり褒められた気はしなかったが、彼が懐かしそうに目を細める姿にほんの少し自分も温かな気持ちになった。
レオンとファビオラの間には妙な信頼関係が生まれつつあった。
◆
「まさか、ファビオラがレオン様の専属になるなんてね~」
「これって…やっぱり、そういうことですよね?」
どうやら、初めてファビオラが店に上がった後にレオンと女主の間で契約が結ばれたようだ。彼が上司と連れだって娼館を訪れる際には必ずファビオラが呼ばれた。
そして、レオンが来ない時には他の客を取らせないという契約までしているようだった。
「そりゃあ、そうよ。でも、良かったじゃない? レオン様は宰相補佐官付きの秘書でしょう。前途有望じゃない。このまま身請けまで持ち込めれば、この館で最短の記録を塗り替えるんじゃないかしら」
興奮気味の先輩娼婦に囲まれ困惑の表情を隠せない。
レオンが自分を身請けするなんてあり得ない。
レオンと自分は未だに清い関係なのだから。
自分が野垂れ死にたいなんて言った所為で同情してくれたのかもしれない。上司を切りつけられたら困るとか言っていたけれど彼なりの照れ隠しと優しさだろう。
そもそも、彼は女性と関係を持つ大前提は自分を好きな女性でなくてはならないと言っていた。まだカイトを想っている自分はそれにも該当しない。
未練がましいかもしれないが、娼館に来てから一か月がたった今でもカイトが自分を探してくれると思いたかった。
昨日、ファビオラはタンドル医師宛に手紙を出した。連れ去られた時に先生が怪我をしていないか、自分の現在の居場所と近況、そしてカイトが戻って診療所を訪ねることがあれば自分の居場所を伝えて欲しいこと。会いたがっていると伝えて欲しいと記していた。
返事はあるのだろうか。
あったとしても自分の知りたくない内容かもしれない。だとしても、もう全てを受け入れる覚悟はできていた。
その夜、レオンは一人で娼館にやって来た。
彼が一人で娼館を訪れるのは初めてだ。
「今日はお一人ですか?」
「ああ」
彼が娼館を訪れるのは上司である宰相補佐官ラニエの付き合いで仕方なくなのだろうと思っていた。正直、面食らった。しかも、今日のレオンは書類を持ち込みもしていない。一体どうしたというのだろう。
いつもは、どこか澄ました表情のレオンだが今日は無表情に近い。感情を押さえ込み隠しているような、相手に心を読ませない表情だ。
「ファビオラ、明日は何をしているの?」
「明日ですか? レオン様がいらっしゃらないなら細々とした雑用と、お姉様達のお手伝いとかですね」
「そうか…」
少し考え込むようにして肩までの濃紺の髪を耳に掛けた。
「明日は、夕方から夜にかけて絶対に外には出ないで館の中にいてくれるかな?」
変わった要望に首を傾げる。
「基本、出歩くことはないので館の中にいると思います。明日もいらっしゃるのですか?」
「いや、明日は来れない。大切な用事があってね。僕の代わりに友人がここに来るから彼の指示に従って欲しい」
「レオン様のご友人ですか。その方の指示にって…どのような? まさか…夜のお相手ですか?」
「違う! 夜の相手なんてしなくていい。そんなんじゃない。いいから、彼の指示に従うと約束してくれ」
レオンの切羽詰まった言葉に、ファビオラはそれ以上聞かず了承した。
「わかりました。レオン様のご友人の指示に従います」
ファビオラは玄関でレオンの乗った馬車を見送りながら妙な胸騒ぎを覚えた。