登校
愛想がよくなったのは何故かわからない。化けの皮を被り人と付き合うのは最悪だ。しかし、逃げられない。私も、大衆と同じ、個人ではなく一部だということがわかった。十歳くらいの自分は、女性の付き合いは大変だと、傍観していた気がするのに。ただの阿呆だった。
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春、桜。秒速何糎かで、空気を揺らさずに舞う花びらは、私のセンチメントに働きかける。見るもの全てが輝いているような心持ちは、前と変わらないままだった。走りながら表情を変えずに、たまに変えるとしても、角を曲がった先にある朝の鋭い日光に、眼をやられそうなときだけで、体から飛び出して別個体になった頭が無駄な解析をしていた。以前は違ったのに、随分とネガティビティを有している自分に驚きつつ、成長とは何か、この問の答えを一つ見出した気でいた。
坂を登る。
物欲、環境のためにもたらされる不満、矛先の知れない怒り、思春期の小難しくて心臓に食い込む刺刺しい不快、こういった感情の累積による津波が、堤防を破壊する寸前まで幾度も心を侵してきた。この訳のわからない感情を、感傷を、虚しさを私は青春と名付けている。恋愛とかいう酸性で揮発性の高い液が染み込みさえすれば、少しは楽に、少なくとも今よりは楽になるのだという、くだらない理想を恋の妄想に委ねている。
公園を過ぎた。
楽の何たるか、何をもって苦か、答えられるはずがない。思考の度に、よく辿り着くのは、本能から虚しさ(欲求不満)が取り除かれれば、理性が作り出す虚無、言うなれば能動的虚無は、全くその存在を確認できなくなる、ということである。これを私は知ってみたかった。けれどもそれが自分の感じている空虚を殆ど補えるものとは思わず、それ自体が作り出す苦悩の方が、千年も前から詠まれるほど、人の妨げになるであろうことは、訳無く想像できた。
角を曲がる。
違う。こんなことに興味を抱いているのではない、なぜだ、なぜなのだ、どうしてだ、わからない、教えて欲しい誰か、神やら仏やらいるなら早く答え給え。意味がない、とかいう陳腐な言葉を何度繰り返せばいいのか。誰が誰であっても何も変わらないと思った。
また曲がる。
変わらないわけないだろうと思う人もいるのだろうか。それは見ようとしていない、考えないまま本能的に生きている、ということではないか。そこにあるのは意味ではない、感情だ。そうに決まっている。一時的だ。一次的だ。だから、感情の浮き沈みの分だけ見え方も変わる。この変化も無論必要ない。しかし、影響を与える人はいる。彼らはかけがえのないものだ。違う。大衆の先頭は、川の流れの下流と等しい。先にあるのも水。流れ着いても海。後も先も似たようなのがどんどん流れている。水を区切って、その中で位置付けしているようだ。グローブが脳内にあり、人が一宇宙だとしたら、人は何十億人もあって、さらに一つの球中にいる。その球が列を成し、列が無数に集合してーー 。
マンホールから、下水のせせらぎが聞こえてきた。息が思ったより上がっていた。学校に着く。そうして、うねっていたのは、平生の心持ちへと戻るのであった。